聖霊の力
NO. 30
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---- 1855年6月17日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂「聖霊の力」――ロマ15:13 力は、神の特別で、独特の大権であり、神だけのものである。「二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを」[詩62:11]。神は神であり、力は神のものである。たとい神が、その一部をご自分の被造物に依託しておられるとしても、それでもなお、それは神の力である。太陽は、「部屋から出て来る花婿のようで、勇士のように、その走路を喜び走る」*[詩19:5]が、神に指図された以外の、いかなる動きを行なう力もない。星々は、その軌道を疾駆し、何者にも押えられないが、その1つとして、神から日々注入されるもの以外の、いかなる勢威も力も有してはいない。神の御座近くの、丈高き御使いのかしらは、その光輝において彗星をもしのぎ、力あり、神のご命令の声に聞く者ではあるが[詩103:20]、それでも、自分の《造り主》から与えられたもの以外に、いかなる勢威も有していない。海を釜のように沸き立たせ、深い淵を白髪のように思わせるレビヤタン[ヨブ41:31-32]であれ、ヨルダン川を一飲みにし、河を鼻から吸い込めると誇る巨獣[ヨブ40:23]であれ、地上に見いだされる、こうした堂々たる生き物たちについて云えば、これらの強さの源は、これらの骨を鉄のようにし、これらの腱を青銅のように形造ったお方にある。そして、私たちが人間について考えるとき、たといその人に勢威や力があっても、それらはあまりにも小さく、取るに足らないものであるため、卑小でちっぽけだと呼んで何ら差し支えはない。しかり。それが、そのきわみに達しているとき――人が自分の王笏をふるうとき、幾多の軍勢を率いるとき、国々を支配するとき――でさえ、その力は神のものである。そして、まことに、「二度、私はそれを聞いた。力は、神のものである」。この神の独占的な大権は、ほむべき《三位一体》の三位格それぞれのうちに見いだされる。御父には力がある。というのも、そのことばによって天は造られ、天の万象もすべて[詩33:6]、御力によって万物は立っており、御父によってそれらは自らの宿命を果たしているからである。御子には力がある。というのも、その御父と同じく、御子は万物の《創造主》だからである。「造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」[ヨハ1:3]。また、「万物は御子にあって成り立っています」[コロ1:17]。そして、聖霊には力がある。この聖霊の力についてこそ、私は今朝、話したいと思う。願わくはあなたが、自分の心でこの属性の実際的な例証を受けることができるように。それは、この聖霊の影響が私の上に注がれ、生ける神のことばをあなたの魂に語りかけさせているのをあなたが感じるとき、また、そうした影響があなたに授けられ、あなた自身の霊でその効果を感じるときに、あなたのものとなるはずである。
私たちは聖霊の力を今朝、3つのしかたで眺めることにしたい。第一に、その外的で目に見える顕現。第二に、その内的で霊的な現われ。そして第三に、未来の、予期される働き。御霊の力は、このようにして、あなたの魂にとって明瞭に現実のものとなるであろう。
I. まず第一に、私たちが御霊の力を見たいのは、《その外的で目に見える顕現》においてである。御霊の力は休眠しているわけではない。それは活動してきた。すでに神の御霊によって多くのことがなされてきた。それは、《無限の、永遠の、全能のエホバ》以外のいかなる存在によって成し遂げられたものよりも大きなことである。そして、そのエホバの一位格が聖霊にほかならない。御霊の力の外的で明確なしるしには、4つの働きがある。創造の働き、復活の働き、立証の働き、恵みの働きである。それぞれの働きについて、私はごく手短に語っていきたいと思う。
1. 第一に、御霊がその御力の全能性を現わされたのは、その創造の働きにおいてである。というのも、さほば頻繁にではないが、聖書の中で創造は、御父と御子のみならず、時として聖霊にも帰されているからである。私たちの上に広がる天の被造物は、神の御霊のみわざであると云われている。このことは、聖なる書のヨブ記26章13節を参照すれば一目瞭然である。「御霊によって神は天を飾り、御手は曲がれる蛇を作り出した」 <英欽定訳>。天の星々すべては、御霊によって高く置かれたと云われ、「曲がれる蛇」と呼ばれる特定の星座が、特にその手のわざとして指し示されている。御霊はオリオン座の綱を解き、すばる座の鎖を結びつけ、牡牛座をその子の星とともに導く[ヨブ38:31-32]。御霊は天で輝くこうした星々のすべてを造った。天は御霊の御手で飾られ、御霊は曲がれる蛇をその御力で作り出した。それと同じことが、今なお世界でなされつつある継続的な創造の行為についても云える。例えば、人や動物が世に産み出される、彼らの誕生と発生である。これらも聖霊に帰されている。もしあなたが詩篇104篇29節を見るなら、こう書かれているであろう。「あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、彼らの息を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。また、あなたは地の面を新しくされます」[29-30節]。そのように、あらゆる人の創造も御霊のみわざである。そして、この世のあらゆる生命と、あらゆる肉なる存在も、最初に天を飾ったことや、曲がれる蛇を作り出したことと全く同じように御霊の力に帰されている。しかし、もし創世記1章をのぞくなら、あなたは、聖霊によって発揮された力が、いかに独特の働きを宇宙に及ぼしていたかを、より詳しく読めるであろう。そのときあなたは、御霊の特別のみわざがいかなるものか悟るであろう。創世記1章2節には、こう記されている。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」。私たちは、この地球の創造の時期がいかに遠い昔であったかわからない。――確かに、アダムの時代より何百万年も前のことに違いない。私たちの惑星は、さまざまな存在の段階を経てきており、異なる種類の生き物たちがその表面で生き、そのすべてが神によって形成されてきた。しかし、人間がその第一の保有者かつ君主となる時代の前に、《創造主》は世界を混乱へと引き渡された。主は、内なる火が下から吹き上がり、あらゆる固体が溶解することをお許しになり、ありとあらゆる種類の物質が混じり合い、1つの無秩序の膨大な固まりになった。当時の世界を称することのできる唯一の名前、それは、物質の混沌たる塊、であった。それがいかなるものかは、推測することも定義することもできない。それは全く何の形もなく、何もなく、闇が大いなる深淵の上にあった。御霊がやって来られ、その幅広い翼を張り伸ばし、闇を追い散らし、その上をお動きになったとき、物質の各部分はみなその場所場所におさまり、それはもはや「形がなく、何もない」ものではなくなった。むしろ、その姉妹たる惑星群と同じように丸くなり、神への高き称賛を――以前奏でていたような不協和音ではなく、むしろ巨大な規模の独創的な偉大な調べとして――歌いながら動いた。ミルトンは、このような混乱の中から秩序をもたらす御霊のこのみわざを非常に美しく叙述している。そのとき、《栄光の王》は、その力強いことば[御子]と御霊によって、新しい諸世界を創造するためにやって来られた。――
「天つ大地に 彼らは立ちぬ。その岸辺より
のぞくは広漠(ひろ)き 無窮の淵にて
わたつみのごと 猛りて暗く すさみて荒び
怒れる疾風(かぜ)に 底からうねり
寄せくる波浪(なみ)は 山々のごと 天の高みを
めがけて襲い よろずの中心(なか)末端(すえ) ごった返せり。「黙れ、騒げる 怒濤(なみ)よ、深みよ、静まれよかし。
よろず創れる 《ことば》は語りぬ。 汝(な)が不和やめよ。
かくて、水なる 静謐(しずけ)さの上(え)に
抱(いだ)ける翼 神の御霊は 張り伸ばしつつ
生の効力、生の暖(ぬく)みを 注ぎ入れたり、
流れ動ける 塊の中 すべてにわたり」。ならば、ここにあなたは御霊の力を見ているのである。もし私たちが全地の混乱している姿を見られたとしたら、私たちは云ったことであろう。「だれが、この中から世界を造ることなどできるだろうか?」 その答えはこうであったろう。「御霊の力にはそれができる。その鳩のごとき翼を張り伸ばすだけで、万物を寄せ集めることがおできになる。これにより、混乱のほか何もなかった所の上には、秩序が生ずるのである」。また、これが御霊の力のすべてではない。私たちは創造におけるそのみわざの何がしかを見てきた。しかし、聖霊がより特別に関わられた、独特の創造の事例が1つあった。すなわち、私たちの主イエス・キリストのからだの形成である。私たちの主イエス・キリストは女から生まれ、罪深い肉と同じような形になられたが、それでも主を生み出した力は完全に聖霊なる神のうちにあった。――聖書がこう云い表わす通りである。「聖霊があなたの上に臨み……ます」[ルカ1:35]。主は、使徒信条が云う通りに、聖霊によって生まれた。「生まれる者は、聖なる者、いと高き方の子と呼ばれます」*[ルカ1:35]。主イエス・キリストの身体的な構造は、聖霊の傑作であった。私の考えでは、主のからだは、他のいかなるからだをも、美しさにおいてしのいでいた。最初の人のそれと同じようなからだであった。人体が、天国で、あらゆる栄光により輝き出るとき、いかなるものになるかという模範そのものであった。その構造は、そのあらゆる美と完成において、御霊によって形造られたのである。御霊は主を形成し、形作られた。ここにも、御霊の創造的な精力のもう1つの事例があるのである。
2. 聖霊の力の二番目の現われは、主イエス・キリストの復活において見いだすことができる。もしあなたがこの主題を学んだことがあったとしたら、ことによると、やや困惑を覚えているかもしれない。時として、キリストの復活はキリストご自身に帰されている。主ご自身の力と《神格》は、死のきずなが主をとどめておくことを許さなかった。むしろ主は、自分からそのいのちを捨てたように、それをもう一度得る権威があった[ヨハ10:18]。聖書の別の箇所では、それが父なる神に帰されているのがわかる。「神がイエスを死者の中からよみがえらせ……た」[使13:34]。「父なる神は、このイエスを上げられました」*[使5:31]。そして、同様の意味をした、他の多くの箇所がある。しかし、さらに聖書の中で云われているのは、イエス・キリストが聖霊によってよみがえらされた、ということである。さて、こうしたすべてのことは真実である。主が御父によってよみがえらされたのは、御父がこう云われたからである。「囚人を解き放て。――彼を釈放せよ。正義は満足されている。わたしの律法は、これ以上の満足を要求しない。――復讐は相応の分を受けた。――彼を釈放せよ」、と。ここで御父は、イエスを墓から解放する、公的使信を発せられたのである。主がご自分の威光と力によってよみがえらされたのは、主には出てくる権利があり、ご自分にあると感じておられたからである。それゆえ主は、「死の縄目をはじき飛ばされた。もはやこの方が死につながれていることはできなかった」[使2:24参照]。しかし、主が御霊によってよみがえらされたのは、主の定命の体が受けた精力においてであった。その精力によって、主のからだは三日三晩横たえられていた後で墓からよみがえったのである。その証拠がほしければ、あなたの聖書をもう一度開かなくてはならない。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、御霊によって生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした」[Iペテ3:18 <英欽定訳>]。さらなる証拠はロマ8:11に見いだされる。――(私は、時には喜んで聖書本文につく説教をしたいと思う。というのも、私の信ずるところ、キリスト者たちの大きな間違いは、彼らが聖書を十分調べないことにあり、私は彼らがこの場にいるときには、たとい他のどこでもそうしないにせよ、聖書を調べさせようと思うからである)――「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」。
3. 聖霊の力をきわめて素晴らしく示す、第三のみわざは、立証の働きである。これは、――証しのみわざ、ということである。イエス・キリストがヨルダン川でバプテスマの流れの中に入られたとき、聖霊は鳩のように主の上に下り、主を神の愛する子であると宣告した。これこそ、私が立証の働きと呼ぶものであった。そして、その後イエス・キリストが死者をよみがえらせ、らい病人をいやし、種々の病に命じて逃げ去らせ、何千もの悪霊どもを、彼らにとりつかられていた人々から大慌てで失せ去らせたとき、それは御霊の力によってなされた。御霊はイエスのうちに無限に宿っておられ[ヨハ3:34]、その力によって、こうしたすべての奇蹟は行なわれたのである。これらは立証の働きであった。また、イエス・キリストが世を去られたとき、あなたが思い出すのは、御霊のあの著しい立証であろう。御霊は、集っていた使徒たちの上に、激しい風が吹いてくるようにやって来られ、分かれた舌が彼らの上にとどまった[使2:2-3]。そして、あなたは、いかに御霊が彼らの伝道活動を立証されたか思い出すであろう。御霊は彼らが口を開いたときに、異言で話す力をお与えになった。また、いかに奇跡的な行為が彼らによってなされたか、いかに彼らが教えたか、いかにペテロがドルカスをよみがえらせ、いかに御霊がユテコのいのちを吹き返させたか、いかに大いなるわざが使徒たちによって彼らの《主人》と同じようになされたか、――そして、いかに「しるしと不思議をなす力が、聖霊によってなされ、それにより多くの人々が信じた」[ロマ15:19参照]かを思い出すであろう。これらの後で、だれが聖霊の力を疑うだろうか? あゝ! 聖霊の存在と、その絶対的な人格性を否定するあのソッツィーニ主義者たち。創造と、復活と、立証の上に立ってそれらが得られるというとき、彼らは何をしようというのだろうか? 彼らは聖書に真っ向から歯向かっているに違いない。しかし、気をつけるがいい。それは1つの石であり、だれでも、この石の上に落ちれば傷つけられ、これに逆らえば、いずれ避けられないことだが、この石がその人の上に落ち、その人を粉みじんに飛ばしてしまうのである[マタ21:44参照]。聖霊には全能の力がある。すなわち、神の力である。
4. さらにまた、もし私たちが御霊の力について、まだ別の外的で目に見えるしるしがほしければ、恵みのみわざに目をとめることができよう。ひとりの占い師が権力をにぎっていたある町を見るがいい。――その占い師は、自分を偉大な者だと話していた[使8:9]。そこへピリポなる者がやって来て、神のことばを宣べ伝えると、たちまちこの魔術師シモンなる男は権力を失い、自分にも御霊の力が与えられることを求めた。それが金で買えると思ったからである。見よ。現代でも、住民がみじめな幌小屋に住んでおり、爬虫類や、ぞっとするような食べ物で身を養っている国を見るがいい。彼らがその偶像の前でひれ伏し、そのにせの神々を拝み、そのようにして迷信に埋没し、そのように自らをおとしめ、卑しくし、魂の有無もわからぬ状態になっていることに注目するがいい。そこへモファットのごとき人物が神のことばを携えて行くのを見るがいい。彼が説教するときに、御霊が彼に語らせ、そのことばに力強く伴われるのを聞くがいい。彼らはその偶像を打ち捨てる。――自分たちの以前の情欲を憎み、忌み嫌う。自分たちの住む家を建てる。ちゃんとした衣服を身につけ、正気になる。矢を折り、槍を真っ二つにする。野蛮であった者たちが文明化される。粗野な蛮人が礼儀を身につける。何も知らなかった者が聖書を読み出す。このようにして神は、ホッテントット族の人々の口により、その力強い御霊の力を立証なさる。この町のある家族をとりあげてみるがいい。――また私たちは、そのような多くの家族のもとへあなたを連れて行けるであろう。――父親は酔いどれで、どうしようもなく絶望的な人物である。狂気にかられた彼を見れば、そのような者と会うくらいなら、鎖をはずされた虎と出会った方がましだと思えるであろう。その人は、自分を怒らせる人をずたずたに引き裂けるかのように見える。その妻を目にとめるがいい。彼女も性根の座った女で、夫に狼藉されれば、黙って引っ込んではいない。その家では、多くのわめき声が聞かれ、その近所はしばしばその家から立てられる騒音でかき乱されてきた。そのあわれな幼い子どもたちについて云えば、――襤褸服のほか裸でしかない、このあわれな、物を教えられることもない子たちを見るがいい。物を教えられることもない、――私はそう云っただろうか? 彼らは教えられている。非常によく教えられている。悪魔の学校で。そして滅びの世継ぎとなるべく育ちつつある。しかし、神がその御霊によって祝福しておられるだれかが、その家に導かれてやって来る。その人は、ことによると卑しい市内伝道者かもしれないが、そうした者に向かって語る。おゝ、とその人は云う。来て、神の声を聞くがいい。その人自身の働きかけによってであろうと、教役者の説教によってであろうと、みことばは生きていて、力があり[ヘブ4:12]、罪人の心を切り裂く。彼の頬を涙が伝い落ちる。――そうしたことは、これまで一度も見られなかったことである。彼はおののき、身震いする。強い者が頭を垂れる。――力ある者が震える。――そして、決しておののいたことのない膝ががくがくと打ち鳴らされ始める。決しておじけづいたことのない心が、今や御霊の力の前に震え始める。彼は、悔悟者たちとともに、粗末な長椅子に腰かける。その膝をかがめ、その口から子どものような祈りを唱える。だが、子どものような祈りとはいえ、神の子どもの祈りである。彼は一変した人格となっている。彼の家における改革を見るがいい! 彼のあの妻は、慎み深い夫人となる。あの子どもたちは一家の誇りとなり、そのうちに、彼の食卓を囲む橄欖の枝のように育ち[詩128:3]、磨き抜かれた宝石のように彼の家を飾ることになる。その家の前を通ってみるがいい。――何の騒音も、わめき声も聞こえず、ただシオンの歌だけが聞こえる。彼を見るがいい。――もはや飲んだくれての大騒ぎはない。もはや酒杯には指一本ふれない。そして、今や酒を断った彼は、神のもとに来て、神のしもべとなる。今や、真夜中のどんちゃん騒ぎの叫びは聞こえない。むしろ何か物音がするとしても、それは神をたたえる厳粛な賛美の響きであろう。さて、では、御霊の力というようなものがないと云えるだろうか? 否! こうした人々は、この力を目の当たりにし、見ているに違いない。私の知っているある村は、ことによると、英国一俗悪な村であった。――最悪の種類の泥酔と乱痴気騒ぎであふれかえっており、正直な旅行者が宿屋に立ち寄れば、冒涜で困惑させられずにいることは、ほとんどありえなかった。火付けや盗人で名高い場所だった。ところが、そうした一団の頭株であったある男が、神の声に耳を傾けた。その男の心は砕かれた。その一味の全体が、説教された福音を耳にし、そして彼らは座って、その説教者を人間ではなく神であるかのように敬うようになった。こうした男たちは変えられて、変革された。そして、その場所を知っているあらゆる人が確言するところ、このような変化をもたらしたのは、聖霊の力によるものでしかありえなかった。福音が宣べ伝えられ、御霊が注ぎ出されるならば、あなたはそこに、良心を変える力、行状を改善する力、品性下劣な者を引き上げる力、人類の邪悪さを懲らしめ抑制する力があるのを見て、それを誇りとせざるをえないであろう。私は云う。御霊の力のようなものはどこにもない。ただ、それがやって来さえすれば、事実、すべてが成し遂げられうるであろう。
II. さて、第二の点は、《聖霊の内的で霊的な力》である。私がすでに語ってきたところは、目で見ることができるであろう。だが、これから語ろうとしていることは、感じられなくてはならず、いかなる人もそれを感じない限りは、私の云うことが真実であるとは理解できないであろう。もう1つのことは、不信心者でさえそれを告白せざるをえない。もう1つのことは、いかに甚だしい冒涜者でさえ、真実が語られれば、否定できない。だが、このことは、人が熱狂主義であると笑いものにし、他の人々が、熱病めいた空想によるでっちあげだと云うであろうところのものである。しかしながら私たちは、彼らが語るいかなることよりも、さらに確かな証しのみことばを持っている。私たちは、これが真実であると知っており、この聖霊の内的で霊的な力について語ることを恐れはしない。私たちは二三の事がらに注意しよう。それらのうちに、この聖霊の内的で霊的な力は、非常に明らかに見てとられ、賞揚されるはずである。
1. 第一に、聖霊には人々の心に及ぼせる力がある。さて、人の心は非常に影響を及ぼすのが難しいものである。もしあなたが何か世俗的な目的のために人の心に達したければ、それは可能である。油断のならぬ世は人の心をかちとることができ、ほんの少しの黄金は人の心をかちとることができ、名声の喇叭は人の心をかちとることができ、ちょっとした喝采の騒ぎは人の心をかちとることができる。しかし、この世に息づいている教役者の中のひとりとして、自分の力で人の心をかちとれる者はいない。人の耳をかちとり、それを傾けさせることはできる。人の目をかちとり、そうした目を自分に釘付けにすることもできる。だが、そうした注意をかちとることはできても、心は非常にとらえどころのないものである。しかり。心は、それを捕えようとする、いかなる福音の漁師をも悩ませる。あなたはそれを、水の中からほとんど引き上げる直前まで行くこともあるが、それは鰻のようにぬるぬるしており、私たちの指からすり抜け、結局つかまえてはいなかったのである。多くの人は、自分が心を捕えたと思ったが、失望させられてきた。力ある狩人でなければ、山々の上のかもしかに追いつくことはできない。それは人間の足で近づくには駿足にすぎる。御霊だけが人の心に力を及ぼすことができる。あなたは、心に自分の力を及ぼそうとしたことがあるだろうか? もしだれかが教役者なら魂を回心させることができると思っているとしたら、試してみてほしいと思う。その人は、行って日曜学校の教師になるがいい。自分の組を受け持つがいい。手に入る限り最高の教本を用いるがいい。最上の規則を設けるがいい。自分の霊的なセヴァストポリ要塞の回りに城壁の線を引くがいい。自分の組の最も優秀な少年を取り上げるがいい。だが、もし一週間の間にその子が飽き飽きしないとしたら、私はとんでもない思い違いをしているのである。たとい四、五週間試みても、その人は云うであろう。「あの坊主は手に負えない」、と。別の子で試してみるがいい。だがその人は、別の子を試さざるをえないであろう。また別の子を、また別の子を試しても、その人はひとりも回心させることはできない。その人はじきに気づくであろう。「主を満足させるのは、権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって[ゼカ4:6]だ」、と。教役者に人を回心させられるだろうか? 心に触れられるだろうか? ダビデは云っている。「彼らの心は脂肪のように鈍感です」[詩119:70]。左様、それは全く真実である。そして、私たちがこれほど大量の脂肪を貫き通すことはできない。私たちの剣で心臓に達することはできない。それは分厚い脂肪に包まれており、下臼よりも硬い。多くの切れ味鋭い、由緒あるエルサレム刀が、固い心に打ちつけてはなまくらにされてきた。人よ。神がそのしもべたちの手に握らせておられる、多くの名刀の刃先は、罪人の心に切りつけることによって、まくれさせられてきた。私たちが魂に達することはできない。だが、聖霊にはそれがおできになる。「私の愛する方は戸の穴から手を差し入れることができます。私の心は、罪のために立ち騒ぐでしょう」*[雅5:4]。この方がお与えになる、血で赦しが買い取られたとの感覚は、石の心をも溶かすことができる。この方は、このようにすることがおできになる。――
「死人(しびと)目覚ます 声にて語り、
罪人起きよと 命じ給いて
咎ある良心(こころ)に 与え給えり、
死することなき 死の恐れをば」。御霊はシナイの雷鳴を聞こえさせることがおできになる。しかり。カルバリの甘やかな囁きをも耳に入らせることがおできになる。御霊には人の心に及ぼせる力がある。そして、御霊が心を支配できるということ、ここに御霊の全能性の輝かしい証拠があるのである。
2. しかし、心よりも頑強なものが1つあるとしたら、それは意志である。バニヤンがその『聖戦』の中で「わが主、我意卿」と呼んだものこそ、容易に屈服しないものである。意志、ことに、ある人々の意志は、非常に頑強であって、あらゆる人々の内側において、ひとたび意志が反抗心をかき立てられると、何物をもってしても太刀打ちできない。自由意志をある人は信じている。自由意志を多くの人々は夢見ている。自由意志! どこにそのようなものが見いだされるだろうか? かつての楽園には自由な意志があった。そしてそこで、取り返しのつかない大混乱を引き起こした。というのも、それは楽園全体を全くぶちこわしにし、アダムをその楽園から追い出させてしまったからである。自由な意志は、かつて天国にあったが、それはかの輝かしい御使いのかしらを放逐させ、天の星々の三分の一[黙12:4]を深淵に叩き込んだ。私は自由な意志などとは一切関わりたくない。だが私は、自分の内側に自由な意志を持ち合わせているか、1つ探ってみることにしよう。そして、私は自分にそれがあることに気づく。悪に対しては非常に自由な意志、だが、善なるものに対しては非常にお粗末な意志である。私が罪を犯すときには十分に自由な意志だが、善をしたいと願うときには、私に悪が宿っており、自分のしたい願いを実行することがないのである[ロマ7:21、18]。だが、ある人々は自由な意志を誇りとしている。果たしてそれを信ずる人々は、私が人の意志に対して有している以上の力を有しているだろうかと私は思う。私は、この古いことわざがまことに真実であると見いだしている。「ひとりでも馬を水辺に連れて行くことはできるが、百人がかりでも馬に水を飲ませることはできない」。私は、あなたがた全員を水辺に連れて行けるとわかっている。あなたがたをこの会堂の中に連れ込むだけでなく、さらに多くのことができるとわかっている。だが、あなたに飲ませることはできない。また、教役者が百人がかりでもあなたに飲ませることはできないと思う。私は古のロウランド・ヒルや、ホイットフィールドや、その他何人かの人々について読んで、彼らの行なったことを知ってきた。だが、あなたの意志を変える方式は発見できなかった。私はあなたを口車に乗せてどうこうさせることはできない。また、あなたも、いかなる手段であれ、屈服しないであろう。私は、いかなる人間もその同胞の意志の上に力を及ぼせるとは思わない。だが神の御霊にはそれがおできになる。「わたしは、わたしの力を示す日に、彼らにそう欲させよう」。御霊は、その気のない罪人に意欲を起こさせ、福音を猛烈に求めさせることがおできになる。意固地だった者が、今や息せき切って十字架のもとにやって来る。イエスを笑い飛ばしていた者が、今やイエスのあわれみにすがりつく。そして、信じようとしなかった者が、今や聖霊によって信じさせられ、単に喜んでそうするばかりか、熱心にそうしている。その人は信ずることを幸いと思い、それが嬉しくてたまらず、イエスの御名の響きを喜び、神の戒めの道を歓喜に満ちてひた走る。聖霊は意志の上に力を及ぼされる。
3. だがしかし、私が思うに、もう1つだけ意志よりもなお悪いものがある。何のことを云っているのかとあなたは思うであろう。意志は、心よりもある意味ずっと屈しにくいものだが、云うことを聞かないという点では意志をも上回るものが1つある。それは、想像力である。私は、自分の意志が《天来の恵み》によって制されているものと思っている。しかし、残念ながら私の想像力は時としてそうなっていないと思う。人並みに想像力を備えた人であれば、それがいかに御しがたいものであるか知っているはずである。あなたは、それを抑えられない。それは手綱を引きちぎる。あなたは決してそれを云いなりにできない。想像は、時として鷲の翼もかなわぬほどの力をもって神めがけて飛翔する。それは時として、麗しい王を、また、遠く広がった国[イザ33:17]を、ほとんど目の当たりにするほど力強いものとなることがある。私自身について云えば、私の想像力は時として私に、鉄の門を越えさせ、未知の無限を横切らせ、真珠の門そのものに至らせ、栄化されたほむべき人々を間近に感じさせるほどとなることがある。しかし、たといそれがある日有力であっても、別の日にはそうではない。というのも、私の想像力は、私をこの上もなく邪悪な巣穴と地下の暗渠に引き下ろしてきたからである。それが私に与えた思いは物凄すぎて、私は、それらを避けることができず、総毛立つほどの恐怖を感じた。こうした思いはやって来るものである。私が最も聖い心持ちを感じ、最も神に献身し、最も祈りに熱心なものを感じていたとき、しばしば起こったのは、まさにそうした時にこそ、最悪の疫病が噴き出すということであった。しかし、私は1つのことを喜び、考えている。すなわち、私は、こうした想像が思い浮かぶとき、叫び求めることができる。私はレビ記でこう云われているのを知っている。悪い行ないがなされるとき、おとめがそれに反抗して叫んだならば、彼女のいのちは奪われないのである[申22:27]。それと同じことがキリスト者についても云える。もし彼が叫ぶならば、望みはある。あなたは自分の想像力に鎖をかけられるだろうか? 否。だが、聖霊の力はそうできる。あゝ、聖霊はそうなさるであろう。最後にはそうなさるのである。地上においてすら、そうなさるであろう。
III. しかし、最後のことは、《未来の、望まれる効果》であった。――というのも、結局のところ聖霊は、これほど多くのことをなしてはいても、「完了した」、と仰ることはできないからである。イエス・キリストは、ご自分の労苦について、――「完了した」、と叫ぶことがおできになった[ヨハ19:30]。しかし、聖霊がそう云うことはできない。御霊にはまだなすべきことが残っている。そして、すべてのことが成就し、御子ご自身が御父に従われるとき[Iコリ15:28]まで、聖霊によって、「完了した」、と云われることはない。ならば、聖霊は何をなさなくてはならないだろうか?
1. 第一に、御霊は私たちを聖さにおいて完成させなくてはならない。キリスト者は二種類の完成を必要としている。――1つはイエスのご人格における義認の完成である。もう1つは自分の内側で聖霊によってもたらされる聖化の完成である。現在は、新生した人々の胸にすら腐敗がまだ居座っている。現在は、心は部分的に汚れている。現在は、まだ種々の情欲と悪い想像がある。しかし、おゝ! 私の魂が喜びとしているのは、来たるべき日に、神はご自分がお始めになった働きを完成してくださると知っていることである。そして神は私の魂を、キリストにあって完全なものであるばかりでなく、御霊にあって完全なものとし、しみや、傷や、そのようなものの何1つないものとして立たせてくださる。だが、このあわれな堕落した心が、神の心と同じくらい聖くなるなどということは真実だろうか? このあわれな霊、しばしば、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか!」[ロマ7:24]と叫ぶ霊から、罪と死が取り除かれることなどあるだろうか?――私から、自分の耳を悩ませる何の悪もなくなり、私の平安を乱す汚れた思いがなくなるようなことがあるだろうか? おゝ! 幸いな時よ! その日が早められるように! 私が死ぬ直前に、聖化は完成するであろうが、その瞬間まで、私は自分では完全を主張しないであろう。しかし、私が世を去るその瞬間、私の霊は聖霊の火による最後のバプテスマを受けるであろう。それは、るつぼに入れられ、炉での最後の試しを受ける。それから、一切の金滓から解き放たれて、純金の延べ棒のように美しくなり、これっぽっちの金滓も混合物もなしに神の御足のもとに立たせられるであろう。おゝ、輝かしい時よ! おゝ、ほむべき瞬間よ! 私は、何の天国もないとしたら、死ぬことを切望すると思う。もし私がこの最後のきよめを受けさえしたら、ヨルダン川の流れから、この上もなく白く洗われて上がることができさえしたら。おゝ! 白く洗われ、清浄にされ、きよめられ、完全になる! いかなる御使いも、私よりもきよくはなくなる。――しかり、神ご自身すら、私よりきよくはなくなる! そして私は、二重の意味でこう云えるようになる。「大いなる神よ。私はきよい。――イエスの血によって私はきよく、御霊のみわざによっても私はきよい!」 私たちは、このように私たちを、天におられる私たちの父の前に立つにふさわしいものとしてくださる聖霊の力を賞揚しなくてはならないではないだろうか?
2. まだ成し遂げられていない聖霊の、もう1つの大きなみわざは、後の日の栄光をもたらすことである。もう何年もすれば、――私はそれがいつか知らず、どのようにしてかは知らないが――聖霊は、現在とははるかに異なる様式で注ぎ出されるであろう。種々の働きには多様なあり方がある。そして、過去数年の間、その多様な働きとは基本的に、御霊がごく僅かしか注がれない、ということであった。教役者たちは、決まり切った務めを単調に繰り返すだけで、絶え間なく説教し、説教し、説教するだけで、ほとんど何の善も施されてこなかった。私は本当に希望している。ことによると、清新な時代が私たちの上に明け初めているのかもしれない、また、今でさえ、御霊がより大きく注ぎ出されているだろう、と。というのも、来たりつつあるその時は――今すでに来ているかもしれないが――、聖霊が素晴らしいしかたで再び注ぎ出され、多くの者が知識を増そうと探り回るようになるのである[ダニ12:4]。――御国が来て、みこころが天で行なわれるように地でも行なわれるようになるとき、主を知ることは、大いなる淵をおおう水のように、地を覆うのである[イザ11:9]。私たちは戦車の車輪をはずされたパロのように[出14:25]、永遠にあがき続けているはずがない。私は、おそらく自分が御霊のほとばしりを見ることになるだろうと思うと、心が喜び踊り、目が輝く。そのとき、「息子や娘は再び預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」*[使2:17]。ことによると、そのときには何の奇蹟的な賜物もないかもしれない。――それらは必要がないからである。だが、それでもそこには、きわめて奇蹟的な量の聖さ、異常なほど熱心な祈り、真実な神との交わり、大きな生きたキリスト教信仰、そして十字架の諸教理の広まりがあって、だれもが、御霊が水のように注ぎ出されていること、雨が天から降っていることを真実であると見てとるであろう。このことのために私たちは祈ろうではないか。たゆみなくそのことのために労し、そのことを神に求めようではないか。
3. さらにまた、特に御霊の力を現わすであろうその働きは、万人の復活である。私たちには聖書からこう信ずべき理由がある。すなわち、死者の復活は、神とそのことば(御子)の御声によってもたらされるであろう一方で、御霊によっても成し遂げられるのである。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせたのと同じ力が、あなたの定命のからだをも生き返らせるであろう。復活の力は、ことによると、御霊のみわざを最も見事に示す証拠の1つかもしれない。あゝ! 愛する方々。もしこの地上からその外被が引き剥がされさえしたら、もし緑の芝地を地から取り除けるとしたら、もし私たちが大地の内部を六呎深く見てとれるとしたら、それはいかなる世界に見えるであろう! 何を私たちは見るだろうか? 骨、屍体、腐乱、蛆虫、ただれである。そして、あなたは云うであろう。「これらの干からびた骨は生き返ることができようか?[エゼ37:3] これらは立ち上がるだろうか?」 「しかり! たちまち、一瞬のうちに、終わりのラッパとともにである。死者はよみがえるのである」[Iコリ15:52参照]。彼は語る。彼らは生きている! 見よ、それらはまき散らされているが、骨がその骨にくっついていく! 見よ、それらはむき出しのままだが、肉がその上についてくる! 見よ、それらはまだ生気がないが、「息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけよ!」 聖霊の風がやって来るとき、彼らは生き返り、自分の足で立ち上がる。それは、非常に多くの集団である[エゼ37:9-10]。
私は、このようにして御霊の力について語ってきたし、それをあなたに示してきたことと思う。私たちは今、ほんのしばし実際的な推測を語るときを持たなくてはならない。御霊は非常に力強いお方である。キリスト者よ! この事実から、あなたは何を推断するだろうか? 左様、あなたは決して、あなたを天国に連れて行く神の力を疑う必要はない。おゝ、いかにこの甘やかな一節が昨日、私の魂に迫ってきたことか!
「その頼もしき 全能(つよ)き御腕は、
掲げられたり、 汝れが守りに。
いずこの力ぞ 汝れに手をかけ、
御手より汝れを 取り去りえんや」。聖霊の力は、あなたの防壁であり、その全能性のすべてがあなたを守護している。あなたの敵どもは全能性に打ち勝てるだろうか? ならば彼らもあなたを征服できるであろう。彼らは《神格》と組討ちし、神を地に投げつけることができるだろうか? ならば彼らもあなたを征服できるであろう。というのも、御霊の力が私たちの力であり、御霊の力が私たちの強さだからである。
もう一度云う。キリスト者たち。もしこれが御霊の力だとするなら、なぜあなたに疑うべきことがあるだろうか? そこにあなたの息子がいる。そこにあなたの妻がいる。あなたは、これまでしばしば、彼らのために哀願してきた。御霊の力を疑ってはならない。「もしおそくなっても、彼を待て」*[ハバ2:3]。そこにあなたの夫がいる。おゝ、聖なる婦人よ! あなたは彼の魂のためにこれまで格闘してきた。そして、彼がこれまで非常にかたくなで、絶望的に惨めな卑劣漢で、あなたに狼藉してきたとしても、御霊には力がある。そして、おゝ、あなたがた、ほとんど葉っぱ一枚も木についていない不毛の教会からやって来た人々。あなたを引き起こす御霊の力を疑ってはならない。というのも、それが「羊の群れの牧場、野ろばの荒地」*[イザ32:14]、吹きさらしの、だが、さびれた場所となっているのは、御霊がいと高き所から注ぎ出される時までだからである。だがそのとき、焼けた地は沢とされ、潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる[イザ35:7]。そして、おゝ、あなたがた、パーク街の教会員たち! あなたがた、あなたの神があなたのために何をしてくださったかを覚えている人々は、決して御霊の力を疑ってはならない。あなたがたは、荒野がカルメルのように花を咲かせるのを見てきた。砂漠がサフランのように花を咲かせるのを見てきた。将来のことは御霊に信頼するがいい。それから、出て行って、こう確信しつつ労するがいい。聖霊の力は何事も行なうことができる、と。あなたの日曜学校に行くがいい。あなたの小冊子配布に行くがいい。あなたの宣教事業に行くがいい! あなたの部屋におけるあなたの説教に行くがいい。そして、そうするとき、御霊の力が私たちの大いなる助けであるとの確信をいだきつつそうするがいい。
そして今、最後に、あなたがた、罪人たちよ。――ここで、この御霊の力について、あなたに云うべきことがあるだろうか? 左様、私にとって、あなたがたの中のある人々にとって、ここには何がしかの希望がある。私は、あなたを救うことができない。あなたをつかみとることができない。私も時にはあなたを泣かせることができる。――だが、あなたが目をぬぐうと、それで終わりである。しかし私は、私の《主人》がそうできると知っている。これが私の慰めである。罪人のかしらたちよ。あなたにも希望はある! この力は、他のだれとも同じようにあなたを救うことができる。これは、あなたが鉄の心をしていても、それを砕くことができる。あなたの目が以前は岩のようであっても、涙を流させることができる。御霊の力は、もしみこころであれば、今朝、あなたの心を変えて、あなたの考えのすべての流れを転換して、即座にあなたを神の子とし、キリストにあってあなたを義と認めることがおできになる。聖霊のうちには十分な力がある。あなたがたは、御霊の中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのである[IIコリ6:12参照]。また御霊は、罪人たちをイエスのもとに連れてくることがおできになる。御霊は、その戦いの日に、あなたをして喜んでそうするようにされる[詩110:3]。あなたは今朝、喜んでそうしようとしているだろうか? 御霊は、あなたをしてご自分の名を慕い求めさせ、イエスを求めさせるようなことをしておられるだろうか? ならば、おゝ、罪人よ! 御霊があなたを引き寄せつつある間は、こう云うがいい。「引き寄せてください。私はあなたなしではみじめな者です」、と。御霊に従うがいい。御霊に従うがいい。そして、御霊がお導きになる間は、その足跡を辿り、御霊があなたの中で良い働きを始めてくださったことを喜ぶがいい。御霊がそれを最後まで続けてくださるという証拠があるからである。そして、おゝ、意気消沈している人よ! あなたの信頼を御霊の力に置くがいい。イエスの血に安らうがいい。そうすればあなたの魂は安全である。今ばかりでなく、とこしえまでもそうである。話を聞いている方々。あなたを神が祝福されんことを。アーメン。
----000 聖霊の力[了]
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