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御民にご自分を現わすキリスト

NO. 29

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1855年6月10日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「イスカリオテでないユダがイエスに言った。『主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。』」。――ヨハ14:22


 イエス・キリストは、いかにほむべき《師》であられたことか! 主はその弟子たちに、いかに遠慮も気兼ねもなく、ご自分に接することを許しておられたことか! 主は、ナザレの人であると同時に、いのちと栄光の主であり、大いなる偉大なお方であられたが、見よ。いかに主が、その貧しい弟子たち、漁師たちと語り合っておられることか。あたかもご自分も、彼らと同じ階級、同じ階層にあられたかのようである! 主は、決して自分の高い地位を誇る聖職者連中のようではなかった。――決して、あの、やたらと勿体をつけたがり、他人を自分より劣った者であるかのように見下して歩く高位聖職者たちのようではなかった。むしろ主は、父親がわが子に語るのと全く同じように弟子たちに語られた。――それは、師が弟子に語るよりもずっと優しい口のきき方であった。主は弟子たちが、いかに単純な質問をすることも許し、その馴れ馴れしさを叱責するかわりに、彼らが好き放題に問いかけることすべてに、身を低めて答えてくださった。ピリポは、イエスとこれほど長く過ごしていた者として、分別のある人間なら決して主を煩わせることなどできないと思われる言葉を口にした。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」。馬鹿げた考えである! イエス・キリストが御父を見せることができる、すなわち、神をピリポに見せることができるとでも云うのだろうか! だがイエスは優しく答えられた。――「ピリポ。こんなに長い間わたしといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですかわたしを見た者は、父を見たのです」*[ヨハ14:9-10]。次に口を開いたのが、イスカリオテでないユダであった。彼もまた、非常に単純で、素朴な質問をした。――尋ねる必要もない質問であった。だがイエス・キリストは、彼を叱るかわりに、単に別の主題に移り、この上もなく賢明に、この問いに答えることを控えられた。なぜなら、主は彼を、説明によって教えられることを越えて、沈黙によって教えようと願われたからである。

 私たちがここでやはり注意したいのは、いかに非常に几帳面に聖霊は、善人が悪人と混同されないようにしておられるか、ということである。御霊は、「イスカリオテでないユダが」、と云われる。ユダという名を持つ者はふたりいた。ひとりは私たちの主を裏切った男、もうひとりはユダの手紙を書いた者である。私たちの中のある人々は、ユダの名を読むなり、云ったであろう。「あゝ! この質問をしたのは、あの裏切り者イスカリオテ・ユダなのだ」、と。しかし聖霊は、こうした間違いが犯されないようにしようとなさった。私たちがここからも教えられるように、私たちが自分の名前を子々孫々に伝えたいと思うのは、むだな願いではない。私たちはみな、非の打ち所のない人格を持ちたいと願うべきである。この約束の成就を望むべきである。「正しい者の呼び名はほめたたえられ……る」[箴10:7]。私は、自分の名前が、どこかの縛り首にされた犯罪人と取り違えられてほしいとは思わない。間違いであってすら、自分の名が重罪犯人一覧に載せられてほしくはない。だが、いま私がどれほどいわれなき悪名を着せられようと、私が自分の《主人》の栄光のため誠実に努力していたことは、いつの日か明らかにされるであろう。そして、神は、「イスカリオテでないユダが」、と云われるであろう。この人物は、結局は決して裏切り者ではなかったのである。

 しかし、いま私たちはユダのことは全く捨てて、本日の聖句を眺めていくことにしよう。ここには2つのことが含まれている。第一に、1つの重要な事実である。第二に、1つの興味深い問いかけである。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか」。ここには事実があり、その事実に関する問いかけがある。

 I. まず第一に、ここには《1つの大いなる事実》がある。すなわち、イエス・キリストは、実際にご自分をその民に現わしてくださるが、世に対してはそうなさらないのである。この事実は、この質問の中に暗示されている。そして、たとい聖書がこのことを真理であると宣言していなかったとしても、私たちの中の多くの人々は、心の中に1つの聖書――経験という聖書――が記されており、それが私たちに、それが真実であると教えている。キリスト者の人々に尋ねてみるがいい。果たして彼らが、彼らの主なる《救い主》イエス・キリストの現われを有しているかどうかを。また、それが、かつて未回心の状態にあった彼らには決して感じられなかったほどの独特で、素晴らしい現われ方でないかどうかを。卓越した聖徒たちの伝記に目を向けると、あることが何度となく記録されているのがわかるであろう。それは、イエスが非常に際立ったしかたで彼らの魂に語りかけてくださり、ご自分の人格の素晴らしさを打ち開き、ご自分の職務の比類ない栄光を彼らが識別できるようにしてくださった、ということである。しかり。彼らは、その魂が至福に没入させられたあまり、自分が天国にいると思ったほどであった。むろんそうではなかったが、それでも彼らは、ほとんど天国のとば口に立っていたのである。――というのも、イエスがご自分を御民に現わされるとき、それは地上における天国の幼生であり、パラダイスの萌芽であり、栄化された者たちの至福の始めだからである。しかり。そして、その至福の極致こそ、イエス・キリストが、御民すべての賞賛のまなざしの前で完璧にご自分を顕示なさり、彼らが主と似た者となり、主のありのままの姿を見るとき[Iヨハ3:2]にほかならない。

 さて、私たちは今朝、イエス・キリストが御民に――御民だけに――賜る、この特別の現われについて、何がしかのことを語ろうと思う。私たちはここで、4つのことに言及するであろう。最初に言及したいのは、このように恵まれる人々についてである。――「世に」ではなく、「私たちには」。第二に、特別の時期についてである。――「ご自分を現わそうとしながら」。第三に、この素晴らしい顕現に関するいくつかの言及である。――「私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらない」。そして第四に、この現われが私たちの魂に生じさせることになる、いくつかの効果について少し語りたいと思う。

 1. まず最初に、イエス・キリストがご自分を現わされるという、この恵まれた人々とはだれだろうか? 「あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか」。この聖句からわかるように、イエス・キリストがこの素晴らしいしかたでご自分を現わされる人々は、この世に属してはいない。では、この人々とはだれだろうか? 確かに、あなたや私がそうした人々を発見するのは難しいに違いない。それゆえ今朝、私は、1つの想像を用いて、未知の世界から来た1つの霊に命じて、こうした顕著な人物たちを指摘するように命じよう。おゝ、霊よ! 私はお前に云いつけを与える。世の中には、この世ありながら、この世ものではないという者たち[ヨハ15:19; 17:14-16]がそれなりの数で存在している。行け。そうした人々を探し出してから、ここに戻ってきて、お前が見いだしたことを私に告げるがいい。私たちはこの霊に時間を与える。彼は世界中を飛び回って、戻って来る。「私は見てまいりました」、と彼は云う。「おびただしい数の人々がいました。その人たちはみな、同じ1つの道を、1つの目標を目指して突き進んでいました。互いに蹴散らし合い、踏みつけ合いながら、がむしゃらにそれを激しく追跡しているのを見ました。大慌てで何かを追いかけていて、我先にそれを自分のものにしようとしているのを見ました。ですが私は、この大勢の群れの真ん中に、それとは逆方向に歩いていく少数の人々を見ました。肘で押し分け、さんざんな反対を受けながら、流れとは正反対の方に向かっていくのです。群衆とともに進んでいく人々の額には、『自我』という言葉が記されているのが見えました。ですが、別の方向に進んでいる人々に目をとめてみると、何と、その人たちの額には『キリスト』と書かれているではありませんか。そして、私が彼らのひとりごとにしばしば耳を傾けますと、彼らがこう云っているのが聞こえました。『私たちにとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です』*[ピリ1:21]。私はこの人々に目をつけ、彼らが、いかにすごまれても、たゆみなく自分の道を追求し、いかに反抗を受けてもものともせずに歩み続けていくのを見ました。私は、彼らがどこに向かっているのだろうと思いました。そして私が見たのは、彼らの前に、1つの小さな門があるということでした。そして、その門の上には、『罪人のかしらのためのあわれみ』、と書かれていました。私は、彼らがそこに入っていくのを見ました。彼らが救いの壁に沿って走り、その壁を辿って目的地に向かうのに目をとめました。そして、とうとう死に臨んで彼らが両腕を組み、平静に目を閉じるのを見ました。その間、私は御使いたちが彼らの鎮魂歌を歌うのが聞こえ、1つの声がこう叫びました。『主にあって死ぬ死者は幸いである』[黙14:13]。確かに、こうした人々こそ、この世のものではない人々に違いありません」。お前の言葉は当たっている。おゝ、霊よ。この人々こそ、かの人物たちである。お前は彼らについていかなることを見たか? おゝ、霊よ。彼らは、ともに集い、集まっていたか、それとも他の人類と入り混じっていたか? 「左様」、と彼は云う。「私は彼らが、一週間に一度、『神の家』と彼らが呼ぶ場所に群れをなして集まっていたのを見ました。彼らの賛美の歌を聞きました。彼らが、その家の中だけでなく、密室の中でも、自分の膝を敬虔にかがめているのを見ました。彼らの呻きと、彼らの身もだえと、彼らの苦悶を目にしました。私は、彼らが祈りの人であり、神を愛する人であることがわかりました。彼らが、ひそかな集会に集まり、主が自分の魂のために何をしてくださったかを告げるのを見ました。彼らが悪人と同じ場所にいようとはしないことに私は目をとめました。私は、彼らが入ろうとしないある種の家があるのを見ました。通りの角に、一軒の家があり、多くの灯りで煌々と照らし出されていました。そして、その正面には、何か神秘的な、秘教めいたしるし、災いと不善の目印が掲げられていました。私は、悪人がそこにたむろして、あちらこちらへよろめき歩いているのを見ました。彼らが酔っぱらっているのを見ました。しかし、いかにキリスト者である人が、両目に手を当てて、その場所を通り過ぎたかを私は目にとめました。また私は、もう1つの地獄の根城も見ました。そこでは、目が見てはならない光景が演じられ、歓楽と浮かれ騒ぎの叫びが聞かれていながら、聖さの歌は全く聞かれませんでした。その劇場を見回しても、ひとりとして、こうした祝福された人々を見かけませんでした。彼らは、悪人の道を走ろうとも、あざける者の座に着こうとも、不義な者のはかりごとに立とうともしていませんでした[詩1:1参照」。私は、『類は友を呼ぶ』と云われる通りに、彼らがその仲間を見つけて、そこに行くこと、――同じ木に彼らの巣を作り、同じ屋根の下に彼らの住まいを設けようとすることに目をとめました。そうです」、とこの霊は云う。「私は彼らのひとりが、こう叫ぶのを聞きました。『偽りを語る者は、私の目の前にとどまることができません』*[詩101:7]。私は、その人が偽り者を自分の家から追い出し、放蕩者に自分から離れるよう命ずるのを見ました。私は彼らに目をとめました。彼らは、えり抜きの、分け離れた人々で、私は云いました。確かに、彼らこそこう書かれている人に違いない。『この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない』[民23:9]、と」。よろしい、魂よ。お前が彼らについて述べたことは当たっている。私は、この場にそうした人々が何人いるだろうかと思う。神が、世には現わさないご自分を現わそうとしておられる人々が、ここに何人いるだろうか? そうした人々は、原理において、行動において、生活において、願望において、目標において、目的において、世的ではない。そうした人々こそ、この人々である。私は普遍の恩恵だの、普遍の現われだのについて、何も聞きたくはない。私は、そうする力のある間は、独特の人格の人々に対する無代価の恵みを宣言するであろう。「あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらない」、と書かれているのが見てとれる限り、そうするであろう。

 私たちが次に言及したいのは、特別な時期についてである。このように、際立った恵みを受けている人々は、必ずしも同じようにイエス・キリストを見ているわけではない。こうした人々は、必ずしも常に主の御顔の陽光に呑み込まれているわけではない。神には、ご自分を御民に啓示してくださる特別な時がある。そして、こうした時期には通常、二種類ある。義務の時と、試練の時である。私は決して怠惰な、あるいは無関心なキリスト者がイエス・キリストの現われを得るのを見たことがない。私は決して全身全霊を傾けて商売に打ち込んでいる人が、霊的な現われについて多くを語るのを聞いたことがない。しかり。あわれな魂よ。その人は、自分を救うに足るだけのキリスト教信仰を有してはいるが、キリスト者としての霊的な、特別の祝福を悟るに足るだけのものを有してはいなかったのである。キリストのためにほとんど何も行なわない人々に対してキリストは、特別な恩顧という点にかけては、ほとんど何もしてくださらない。座り込んで腕組みをし、飲んで、食べて、満足している人々は、《いと高き方》の秘密の私室に入って、《全能者》の臨在を楽しむ者たちではない。だが、自分の《主人》のために最も熱心な人々は、その御恵みを最もよく見分け、主からの最も豊かな祝福を楽しむ。キリスト者に向かって、最も幸いな時がいつであるかを尋ねてみれば、その人は、自分が最も働いている時である、と云うであろう。私は、自分がそうであることを知っている。私はまだ静養がいかなるものか試してはいないし、疑いもなく、それを得たときには、それを静養だなどとは思わないであろう。私は、私の《主人》の名で説教することのない一日を過ごしたとき、自分がなしておくべきことをなさないでしまったように感じるし、講壇という四枚の板の内側に再び立つまで満足して安らぐことができない。私たちは、最も激しく働くときに、最も恵みを豊かに感じるし、最も深く掘るときに、最も甘やかな水を得るのである。最も労苦した者こそ、自分のパンを最も美味しく食べることができる。請け合ってもいいが、流した汗の滴こそ、渇いたパンをのみくださせる、幸いなものなのである。私たちは常に、キリストのために労すれば労するほど、純粋な幸福を得るのである。たくましいろばでありながら、二つの鞍袋の間に伏すイッサカル[創49:14]――ほとんど事を行なわない人――にとってと同じく、約束はこうである。「馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち」[箴26:3]。怠惰な者は懲らしめを受けなくてはならない。だが、自分の神に仕える者は喜ぶであろう。というのも、神はその人を滋味豊かに扱ってくださるからである。神はその人に、蜜と混ぜた分け前をお与えになるであろう。神はこう云われるであろう。「わたしは、あなたのパンを取って、わたしの皿に浸した。これを取って、食べるがいい。あなたは、わたしの葡萄畑で働いている者なのだから」。それは義務の時期であろう。あるいは、先に述べたように、試練の時期であろう。というのも、キリスト者が義務の任に堪えなくなったとき、その人が何もしていないと考えてはならないからである。あなたの病の時が、あなたにとって無駄な時間だと想像してはならない。あなたは、あなたの苦しみを忍耐強く忍ぶならば、それを単に自分自身の益としているだけでなく、現実に神に仕えているのである。あなたはこの聖句を知らないのだろうか?――「私たちは……キリストのからだのために、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです」*[コロ1:24]。あなたの意識するキリストの神秘的なからだは、かしらと、すべての肢体とから成り立っている。かしらには、苦しむべき一定の分量があった。――それはすべて完成した。だが、からだにも、忍ぶべき分担が正確に計られている。そして、あなたが苦しめば苦しむほど、他のだれかが苦しむ分が少なくなるのである。全教会が、天国に行き着く前に耐えなくてはならない、特定量の試練がある。というのも、イエス・キリストが苦しまれたのと全く同じように、その御民の全体もキリストの苦しみにあずからなくてはならないのである。混合物の満たされた杯が1つあるのであり、義人はそれを飲まなくてはならない。私たちはみな、そこからひと口飲まなくてはならない。だが、もし私たちのひとりが深いひと飲みをし、それを忍耐強く行なうならば、その分だけ、私たちの仲間の飲む分は少なくなるのである。ならば、私たちは不平を云わないようにしよう。というのも、困難の時にこそ私たちは最もイエスを見てとるからである。イスラエルがアマレクと戦う前に、神は彼らに岩からの水を与え、天からのマナを送られた[出16-17]。また、ヤコブかエサウに会う前に、神の御使いがヤボクの小川で彼と格闘し[創32:24]、神の使いたちがマハナイムで彼に現われた[創32:1]。試練に先立つとき、あなたは通常、喜びの時期があると期待してよい。また、その喜びの時期が終わるとき、あなたはこう云ってよい。「私たちは、いま何らかの危険を予期しなくてはならない。というのも、私たちはあまりにも大きな喜びを受けたからだ」、と。しかし、その試練がやって来るときには、そのとき、それとともに喜びを得ることもす期待するがいい。というのも、私たちの困難は通常、私たちの喜びと釣り合っており、私たちの喜びは普通、私たちの困難と釣り合っているからである。嘆きの器が苦ければ苦いほど、慰めの杯は甘やかになる。現世における試練の重みが重くなればなるほど、死後の栄光の冠は明るくなるのである。事実、ヘブル語では同じ言葉に「重み」と「栄光」という意味がある。困難の重みは、キリスト者にとって栄光である。それはその人にとって誉れだからである。また栄光は重みである。それはしばしばその人をひれ伏させ、自分の《主人》の足下低くで死なせるからである。私は、私の兄弟また姉妹たちに訴えたい。また、その方々に問いたい。その人々はいつイエスのことを最もはっきり見てとるだろうか?――その人々が喜びの庭を歩いているときだろうか? それとも、苦い薬がその人々の口にあるときだろうか? あなたが、より鮮やかなイエスの幻を得たのは、痛みでぎりぎりと苦しめられているときの方であって、何もかも順調で高揚させられたときではなかったではないだろうか? 納屋が満ち、油の大桶がはじけ、葡萄酒が流れ出している。そのときこそ、しばしば、神の聖所が捨てられて、神の御恵みがほとんどなおざりにされてきた。しかし、いちじくの木が花を咲かせず、牛が牛舎にいなくなるとき[ハバ3:17参照]、そのときこそ、神がしばしばご自分の子どもたちのもとにやって来られ、最もご自分を彼らに現わしてくださるのである。

 2. 次に考えたいことは、この素晴らしい顕現そのものである。イエス・キリストはご自分を現わしてくださる。ご自分の子どもたちに対する神の現われは多々あるが、これは、すべての中で最も尊いものである。いくつかの現われを、私たちは二度と決して得たいとは願わない。私たちは、自分が最初に覚醒させられたときに、自分の罪深さについて得たような悟りを持ちたいとは思わない。むろん、それは神におゆだねするが、決して自分から祈り求めはしないであろう。しかし、ここには私たちが毎日受けたいような現われがある。「わたしは、わたし自身を彼に現わします」*[ヨハ14:21]。主はそれを異なるしかたで行なわれる。私は、長い間、ゲツセマネにおける主の苦しみの現われを得ていた。私は、何箇月もの間、主の苦悶について思いにふけっていた。私は、自分がそこに生える苦菜を食べ、暗黒のケデロン川から飲んだとすら感じた。私は時としてひとりで階段を上り、イエス・キリストがとっておられたのとまさに同じ姿勢をとり、自分がその苦しみにおける主のお気持ちに共鳴できるような気がした。私は、血の汗の雫が地に落ちたのを見たように思った。私は、苦悶のうちにある私の《救い主》の途方もなく甘やかな姿を見たあまり、いつしか自分が主に伴ってそれよりさらに先に行き、カルバリの上の主を見、その死の悲鳴、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」[マタ27:46]を聞くことができるだろうと希望している。あなたがたの中のある人々は、私も知るように、信仰の目によってイエスを見たことがあり、それは肉眼で見たかのように鮮明な眺めであった。あなたは、あなたの《救い主》が十字架にかかっているのを見ることができた。あなたは、主の頭にかぶせられた、あの茨の冠そのものや、主の御顔を流れ落ちる血の滴りも見たと思った。主の叫びを聞いた。血の流れるわき腹を見た。釘を眺め、そのうちに、行って、それを引き抜き、亜麻布と香料で主を包み、主のからだを運び、それを涙で洗い、高価な香油を塗ることができるようであった。それとは別のとき、あなたはキリストの現われをその種々の賜物のうちに有したことがあった。あなたは、主がおささげになった大いなる犠牲、天に立ちのぼっていくたきぎの煙、それとともにあなたのすべての罪が燃やされた光景を見た。主があなたにお着せになった、義と認めさせる義を明瞭に見てとった。そして、あなたが自分自身を見つめたとき、あなたは云った。――

   「わが魂(たま)奇しく 汝れ装われぬ、
    いともほむべき 《三一の神》に。
    たえなる歌で たたえつ認めん、
    我れの持ちたる 力のすべてで」。

このように、時としてあなたは、その賜物によって現わされた、イエス・キリストの気高さに大きな喜びを感じてきた。それから、さらにあなたは、主をその勝利において見るであろう。片足でサタンを踏みつけ、片足で死を踏みつけている、勝利の主において見るであろう。あなたは、主が、きらびやかな軍勢のすべてを後ろに引き連れて、空を行進するのを仰ぎ見ることができるであろう。そして、いずれ時が来れば、あなたは、自分の魂に主が現われるのを見るであろう。その主は、主の敵どもを主の足台とするまでは、御父の右の座に着いておられるであろう。[ヘブ1:13参照]。そして、信仰は時として時の翼を越えて高く飛翔し、それによって私たちは、現在に未来をもたらすことができ、大いなる壮麗な光景を見ることができよう。そのとき、大きな白い御座[黙20:11]に王は着座し、ご自分の王笏をつかんでいる。また、王の前に立つその聖徒たちは王をたたえて叫び声をあげている。もし私がそれよりもさらに越えて行くなら、私は狂信のそしりを受けるに違いないし、それは正しいかもしれない。だがしかし、私はこう信じたいと思うし、信じなくてはならない。時としてキリスト者には、天国の隣で生きる、そうした時期がある、と。もし私が、かの真珠の門の内側に1吋も入っていなかったとしたら、もし私が、時として栄化された者たちが焚く香炉の香をかいだことも、彼らの立琴の音楽を聞いたこともなかったとしたら、私は自分が生きている人ではないと思う。私には忘我の喜びを味わう時期があった。山々の高嶺に上り、御座からの甘やかな囁きをとらえた時期があった。あなたはそのような現われを得たことがあるだろうか? たといあなたが得ていなくても、私はあなたをとがめはしない。だが、私の信ずるところ、ほとんどのキリスト者はそうした現われを持っており、そしてもし彼らが大いに義務を果たし、大いに苦しみを受けているなら、彼らはそれらを得るであろう。すべての人がこの分け前を与えられることになってはいないが、ある人々には与えられており、そうした人々は、キリスト教信仰が何を意味しているかを知っている。私は、ほんの少し前に、テナント氏についての話を読んでいた。彼は、ある晩、説教をすることになっており、その前に少し散歩しようと考えた。森の中を歩いているうちに、彼はキリストの圧倒的な臨在を感じ、それが途方もない現われであったために、彼は膝まずき、説教するはずの時間になっても人々は彼を発見できなかった。彼はそこに数時間い続け、自分が肉体のうちにあるのか、肉体の外にあるのか全く感じとれなかった。そして、人々が彼をゆり起こしたとき、彼はイエスとともにいた人のように見え、その顔は輝いていた。彼は云っている。自分は死ぬ日まで、あの交わりの時を忘れることはないだろう。キリストを見ることはできなかったが、現実にキリストはそこにおられ、この上もなく甘やかなしかたで、心と心を合わせて、自分との交わりを保っておられたのだ、と。それは素晴らしい顕現であったに違いない。あなたは、そうしたことの多くではなくとも何がしかを知っているに違いない。さもなければ、あなたはあなたの霊的な道行きをさほど遠くまで行っていないのである。神があなたをもっと教えて、もっと深く導いてくださるように! 「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」[ホセ6:3]。

 4. それから、この霊的な現われの自然な効果は何だろうか? 第一の効果は、謙遜である。もし人が、「私は、これこれの霊的な交わりを得たので、私は偉大な人である」、などと云ったとしたら、その人はそのような交わりを決して何も有したことがないのである。というのも、「神は低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます」[詩138:6]。神は、そうした者を知ろうとして近くにやって来たいとは思わず、いかなる愛の訪れも彼らにお与えにならないであろう。これは、ある人に幸福を与えるであろう。というのも、神の近くに生きる者は幸いにならざるをえないからである。さらに、それはある人に聖潔をお与えになる。というのも、聖さを持っていない人は、決してこの現われを有したことがないからである。ある人々は口では大きなことを公言する。だが、いかなる人を信ずるのも、その人のふるまいが、その人の云っていることに相応するのを見てからにするがいい。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません」[ガラ6:7]。神は悪人にその恩顧をお授けにはならない。というのも、神は完璧な人を打ち捨てはしないが、悪者を顧みることもなさらないからである。このように、イエスの間近にあることには3つの効果があり、すべては h の文字から始まっている。謙遜(humility)、幸福(happiness)、聖潔(holiness)である。願わくは神がそれらを私たちに与えてくださるように!

 II. さて、第二の点は、《興味深い問いかけ》である。ユダは云った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか」。このような問いは、何によって引き起こされ、いかにして答えられただろうか?

 第一に、それを引き起こしたのは、無知であった。あわれなユダはこう思った。――「イエスが、私たちにはご自分を現わせるというのに、世には現わせないなどということがあるだろうか? 左様、もし彼が再び世に下るとしたら、世は私たちが彼を見るのと同じように彼を見るであろう。いかにして彼はそうできるだろうか? かりに彼が火の戦車に乗って現われるか、雲の柱の中に下られるとして、私たちが彼を見るとしたら、世も彼を見るに違いない」、と。それで、可哀想に、彼は非常に無知なことに、こう云ったのである。「主よ。なぜそのようなことがありえるでしょうか?」 ことによると、この質問は、彼の大きな親切心を理由に口にされたのかもしれない。「あゝ! 主よ」、と彼は云った。「あなたが、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないなどというのは、どうしてありえるのですか?」 彼は少しばかりアルミニウス主義者であった。彼はそれらすべてがすべての人々に与えられてほしいと思った。そして彼は云った。「あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか? おゝ、主よ!」、と彼は云った。「私は、それがあらゆる人のためのものであったらと願います。私はそれがそうあってほしいと願います。私の慈悲心が私にそう願うように命じています」。あゝ! 愛する方々。私たちは決して神よりも慈悲深くなる必要はない。ある人々は云う。「もしすべての罪人が救われるならば、それは神の栄光をもっと現わすであろう」、と。だが神は、いかに多くの罪人がご自分の栄光を現わすことになるか、私たちよりもよく知っておられるに違いない。そして私たちは、その数を神にゆだねなくてはならないし、自分が口出しする筋合いのないことに余計な節介を焼くべきではない。聖書には、こう云われている。「愚か者は……争いを引き起こす」[箴20:3]。そして、自分の知ったことではないことについて争おうという者は愚か者である。しかし、それにもかかわらず、ユダヤ人は云った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか?」 ことによると、さらに彼は、自分の師に対する愛によって、こう質問したのかもしれない。「おゝ、主よ。私は、あなたがやって来られたのは、全世界の王になるためだと思っていました。だのに、今あなたは、ほんの一握りの者らの王にしかなろうとしていないように見えます」。彼はキリストの支配があまねく及んでほしいと願った。あらゆる心が《救い主》の玉座となるのを見たいと望み、あらゆる人が主に膝をかがめることを望んだ。そして、これは非常に正しく、見上げた願いであった。そして、それで彼はキリストに尋ねたのである。「主よ。あなたがすべてを征服しようとなされないなどというのはどういうわけでしょうか?」 イエスは決してその問いに答えられなかった。そう尋ねるのは正しかった。だが私たちは、決してその解答を彼方に行くまで得ないであろう。ことによると、そこでも得られないかもしれない。だがさらにまた、ことによると、この質問が発されたのは、賞賛によってかもしれない。「おゝ!」、と彼は云った。「あなたが、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、何たることでしょうか」、と。左様、彼は自分自身についてこう云ったのかもしれない。「私は何者だろう? ここにいる私の兄弟ペテロは何者だろう? 一介の漁師にすぎない。ヨハネは何者だろう? 一介の漁師にすぎない。また、マタイについて云えば、取税人で、何百人もの人々から、かすめ取って来た。そしてザアカイは、いかに多くのやもめの家を食い物にしてきたことか! だがしかし、あなたは私たちには、あなたを現わすが、世には現わさない、と云っておられます。そこに罪人のマリヤが立っています。彼女が何をしたというので、あなたはご自分を彼女に現わしなさるのでしょうか? また、そこにマグダラのマリヤがいます。彼女には七つの悪霊がついていました。『主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか』」。これは私たちがしばしば自分の魂に問いかけなくてはならない質問ではないだろうか?

   「とまれ、わが魂(たま)、 あがめ驚(きょう)せよ。
    問えや、なぜ汝れ かく吾(わ)を愛すか」。

そして、私たちに与えることのできる唯一の答えは、こうであった。

   「恵みぞ我れを 数に入れたり、
    救いのぬしの 家族の数に」

私のもとに来て、尋ねてみるがいい。「先生。なぜ私はキリスト者なのでしょうか? なぜ神は私を愛されるのでしょうか?」、と。私はこう答えるしかない。「それは、神があなたを愛してくださるからである」。「しかし、なぜ神は私を愛してくださるのでしょうか?」 私があなたに与えることのできる唯一の答えは、やはり、「それは、神があなたを愛そうと思われたからである」。というのも、こう書かれているからである。「神は自分のあわれむ者をあわれむ」*[ロマ9:15]。確かに私たちは、ここで賞賛に打たれて立ち、こう云ってよいであろう。「主よ。なぜですか。主よ。なぜあなたは、私たちにはご自分を現わしながら、世には現わさないのですか?」 「しかり」、とある人は云うであろう。「それは、あなたがたがこの世よりも善良だからである。それが理由である」。生まれながらに善良な性質をしている、と? 確かに素敵な境遇である! 生まれながらに世よりも善良であると? 左様、私たちの中のある人々は、もっと悪辣であった。この場にいるあなたがたの中のある人々は、かつては、あらゆる悪徳の形にふけっていた。あなたは、ここに立ち上がって、自分の犯してきたもろもろの罪について告げるのを恥じるであろう。しかし、神はあなたにご自分を現わし、世には現わしておられない。確かに私たちには、主権的な恵みのわざに驚くべき不断の理由があるであろう。

 しかし、その答えはいかなるものだろうか? なぜキリストはご自分を、世には現わさないようなしかたで、ある者たちには現わしてくださるのだろうか? その問いへの答えは与えられなかった。というのも、それは答えを出せないことだったからである。私たちの主は、続けてこう云われた。――「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」。主は、なぜご自分を彼らに現わし、世には現わさないのかという理由を彼に教えはしなかった。私はしばしば自分でも、この質問をされることがある。「あなたは、神がある人々にご自分を現わし、他の人々にはそうなさらないと云います。――それが、なぜか教えてくれませんか?」 よろしい。イエス・キリストはそうなさらなかった。では私が、キリスト以上にそうすることを期待してはならないであろう。しかし私はあなたに問うであろう。果たしてあなたはそれに何か反対があるだろうか、と。主がそうなさらなかった、ということだけで十分ではないだろうか? すでに主はこう宣言しておられる。主は、「同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持って」おり[ロマ9:21]、もしだれかがそれに文句を云うとしたら、「あなたは、いったい何ですか。人よ。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか」[ロマ9:20]。一体、いかなる人が自分の父親に向かって云うだろうか? 「お前はなぜ私を生んだのだ」、などと。「わたしは神ではないのか? わたしは、わたし自身のものを、わたしの望むようにしてはならないのか?」 「しかし」、と反対者が云う。「神がある者にはご自分を現わし、別の者には現わさないというのは不公平ではなかろうか?」 神はお答えになる。「お前はわたしに不正があると責めるのか? いかなる点においてか? わたしはお前に何か負債を負っているだろうか? その勘定書を持ってくるがいい。わたしはそれを支払おう。わたしはお前に恵みを与えなくてはならない義理があるだろうか? ならば、恵みは恵みにならない。債務となるであろう。もしわたしがお前に恵みを与えなくてはならない義理があるというなら、お前が必ずそれを受けるようにしてやろう」。「しかし、なぜ私の兄弟がそれを持たなくてはならないのですか? 彼も私と全く同じくらい悪人ではありませんか」。「確かに」、と王はお答えになる。「わたしは、自分の好きなように与えることができるはずだ」。お前の家の前に、ふたりの乞食がいるとする。お前には、そのひとりを追い払って、もうひとりに何かを与える権利があるではないだろうか? なのに、わたしには、わたしのものを好きなようにすることができないのだろうか? 「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、その者にあわれみを与える」。「よろしい」、と反対者は云う。「かりに私がそれを求め、それを嘆願したとして、私はそれを得られるでしょうか?」 「しかり。お前は得られる」、と神は云われる。というのも、こう約束されているからである。――「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」[マタ7:8]。「しかし、私は、私がそれを受けると記されていない限り、それを受けられないはずです」。「しかり。だが、もしお前が求めるならば、お前が求めることは記されているのである。そして、その手段は、その目的と同じくらいに定められているのである。お前は、わたしがお前にその気を起こさせない限り、求めることはできなかったであろう。さて、では、わたしが不正であると語ってはならない。わたしは、お前に求める。わたしのことばの中で、わたしが一度でも、恵みをだれにでも与えると約束したような箇所を見つけてみよ、と。よこしまな卑劣漢よ! お前はわたしに反逆してきたではないか? お前の運命は永遠に地獄で費やされることになるのだ。お前はそれに値してはいないか?」 「ええ」。「ならば、不正だとわたしを責めるお前は何者か? もしわたしに、絞首台の上で縛り首になるはずの人間が五十人いるとしたら、わたしには、自分の思い通りの者に特赦を与え、他の全員に刑罰を与える権利がないだろうか? お前はそれを認めないというのか?」 「ええ」、と反対者は云う。「わたしは決してそれを認めはしません」。「ならば、云っておくが、それを認めるまで、救われることを期待してはならない」。この場に、天来の主権に対して強情に反抗している人がだれかいるだろうか? これは、きわめて困難な教理である。そして、もし人がこれを受け入れないとしたら、それは、その人の高慢がその人の中から抜けていないことを示している。もし私たちが天来の主権しか宣べ伝えないとしたら、ある人々は云うであろう。「あの男は、無律法主義者で、興奮屋だ」、と。私たちはあなたの中傷など歯牙にもかけないし、あなたにこう申し上げたい。その非難は、あなたに向かって浴びせるのがずっと正しい、と。あなたこそ、天来の主権に向かって反逆するという点で、無律法主義者である。しかし、この主権の教理を受け入れる人は、御座のもとに云って、こう云うであろう。

   「もしや主は 認め給わん わが訴えを、
    もしや聞かれん わが祈りを。
    されどよし我れ 滅ぶとも
    我れは祈りて、そこで滅びん」。

そして、愛する方々。今これに対してあなたは何と云うだろうか? 私は、ある人々が云うであろうことを承知している。そうした人々は云うであろう。「たわごとだ。われわれは、宗教が人々をおとなしくさせておくためには非常に良いものであると信じている。だが、こうした現われだの、こうした恍惚だのについては、われわれはそうしたものを信じはしない」。たいへんよろしい。愛する方よ。私はいま、この聖句の云っていることが真実であると証明した。主は、ご自分を世には現わしなさらない。そして、あなたはあなたが世のひとりであることを証明した。なぜなら、あなたは何の現われも有していないからである。しかし、この場には何人かのキリスト者たちがいて、こう云うのである。「私たちは、こうした現われについてあまりよく知りません」、と。しかり。私もあなたがそうであることは承知している。教会は、ここ数年の間、痩せて飢えた状態の中に陥りつつある。神は、こうした特別の事がらを推賞しようとする説教者をごく僅かしかお送りになっておらず、教会は、どんどん低いところへ低いところへと陥りつつある。そして、もし僅かな塩が取っておかれなかったとしたら、私たちがどうなるか、私には見当もつかない。だが神はそうした塩をまき散らしており、全体をきよめつつあられる。私たちの中のある人々は、高き所に立つことができるときに、低い土地の上で生きている。私たちは、カルメル山の頂上で生きていてもいいときに、涙の谷[詩84:6]にとどまっている。私は、自宅を快適な山の上に建てることができるとしたら、谷底に住もうなどとは思わないであろう。おゝ、キリスト者よ! 今朝、立ち上がるがいい! あなたの足に、もう一度、光を履かせるがいい。困難の野を、足取り軽く歩んでいくがいい。カルバリの山腹にやって来るがいい。その頂上に登るがいい。そして、カルバリから私はあなたに告げる。あなたは、ピスガの頂に達することができさえすれば、その野を越えて天国までもはるか見渡すことができ、あなたはこう歌うであろう。

   「大水(みず)の彼方の 甘き沃野よ
    新緑(みどり)の衣 まといて立ちぬ」。

そして、あなたの霊は、高貴な人の車に乗せられるであろう[雅6:12]。愛する方々。もし、あなたが一度もこのような霊的現われを得たことがないとしたら、それを求めるがいい。そして、もしあなたがたがそれを享受する特権を得ているとしたら、それをより多く求めるがいい。というのも、この世で、何にもまして確実に人生を幸福にし、何にもましてあなたを天へとふさわしくするものとして、こうしたイエス・キリストの啓示にまさるものがあるだろうか? おゝ! あなたがた、私たちが享受しているものを軽蔑している方々、私は魂の奥底からあなたを憐れむ。用心するがいい。あなたがキリストについて得る最初の啓示が、主が燃える火によって啓示なさるだろうもの、その仇に復讐するときに示すものとならないようにするがいい。というのも、もし主があわれみにおいて啓示されない場合、主は正義において啓示されることになるからである。願わくは神があなたに恵みを与え、あなたがシナイの上の主を見ることになる前に、カルバリの上の主を見ることができるように。生きている者と死んだ者との審き主[使10:42]としてあなたが主を見る前に、罪人の《救い主》として主を仰ぎ見ることができるように。あなたがたに神の祝福があるように。そして神があなたをこうした現われに絶えず連れ戻らせてくださるように! アーメン。

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御民にご自分を現わすキリスト[了]

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