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赦 し

NO. 24

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1855年5月20日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」。――イザ43:25


 聖なる書の中には、他のどの箇所にもまさって、魂の回心にとって大いに祝福されてきた箇所がいくつかある。それらは、救いの聖句と呼ばれることができよう。そのわけや理由は、私たちには突きとめられないかもしれない。だが、確かにこのことは事実である。精選された特定の節は、みことばの他のどの節にもまさって、人々をキリストの十字架のもとに至らせるために、神によって用いられてきたのである。それらが、一段と高く霊感されているわけでないことは確かであろう。だが、それらは、その場所によって目につきやすく、その独特の言葉遣いによって読み手の目を引きつけるのに適しており、世に行き渡っている霊的状態にふさわしいのである。天空の星々はみな非常に明るく輝いているが、ほんの数個の星しか水夫たちの目を引きつけて、その航路の指針となるものはない。その理由はこうである。そうした数個の星々は、その独特の配置によって、ひときわ判別しやすく、目につきやすいのである。神のことばのこうした箇所も、それと同じだと思う。これらは特に注意を引いて、罪人をキリストの十字架に向かわせる。本日の箇所は、そうした箇所の中でもことのほか力あるものの1つである。経験上、私は、この聖句がひときわ有益な箇所であることを見いだしてきた。というのも、私のもとへ来て自分の回心と経験を物語った何百人もの人々のうち、非常に大きな割合の人々が、自分の心にもたらされた天来の変化の起こりは、この主権のあわれみの尊い宣言を聞かされ、それが魂に力強く適用されたことにあったと云ったからである。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」。こういうわけで私は今朝、このような聖句を学べることをいささか嬉しく思う。なぜなら私は、私の《主人》が多くの魂を私に与えてくださると期待しているからである。また私は同じように、不完全な取扱いをして、この箇所をだいなしにしてしまわないかと、いささか恐れてもいる。それゆえ私は、御霊の助けに絶対的により頼み、私のあらゆる言葉が御霊によって示唆されたものとなり、御霊の語るあらゆることを私が語るようになり、私自身の思想が可能な限り取り除かれてほしいと思う。

 私たちが今朝、第一に見てとるのは、このあわれみの受け手たち――主がここでお語りになっている人々である。第二に、このあわれみの行為――「わたし、このわたしは、あなたのそむきの罪をぬぐい去り」、である。第三に、このあわれみの理由――「わたし自身のために」、である。そして第四に、このあわれみの約束――「もうあなたの罪を思い出さない」、である。

 I. まず私たちが見てとりたいのは、《このあわれみの受け手たち》である。そして私は、あなたがた全員が耳を澄ませて聞いてほしい。ひょっとして、この場に、まさに罪人のかしらたる人々が足を踏み入れてはいないかと思うからである。光と知識に背いて罪を犯してきた人々、目一杯罪に没頭してきた人々、それゆえに自分を責め、自分にはあわれみも赦しもないのだと恐れながらここにやって来た人がいないかと思うからである。私が今からあなたに語りたいのは、私たちの栄光に富むエホバの御恵みについてである。そして、願わくはあなたがたの中のある人々が、これから私があなたに語り聞かせるような種類の人物たちの中に、自分自身の状態を読みとるよう導かれるように。

 もしあなたが聖書に目を向けるとしたら、いかなる人々がここで語られているかがわかるであろう。例えば、本日の聖句がとられた章の22節を眺めると、こう見てとれる。第一に、この人々は、祈りのない人々であった。「ヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった」。では、今朝、この場には何人か、祈りのない人々が座ったり、立ったりしてはいないだろうか? あるいは、私が座席の間を回って、ひとりひとりに指をつきつけて、「あなたは祈っていますか?」、と尋ねてみてもよいではないだろうか? あるいは、この演壇の上で自分の手をひとりひとりの方に差し伸ばし、こう云ってもよいではないだろうか? 「あなたは密室で神とともに過ごすようなことがなく、心の会話を神と交わしていませんね」、と。こうした祈りのない人々は、祈りのお題目は何度となく繰り返したことがあるかもしれないが、息づく願望や、生きた言葉がその口から出てきたことはない。罪人よ。あなたは今の今まで、真摯な祈りをすることなく生きてきた。たとい、突然の恐れに捕えられたあまり、一度くらいは叫びをふりしぼったことがあったとしても、――たとい、病床の苦しみの中で死の苦しみにつかまれたために、1つの叫びが出てきたことがあったとしても、――もし祈ることがあなたの習慣でなかったとしたら、こうした試練の時期の種々の印象は、たちまち忘れ去られてしまったのである。話をお聞きの方々。祈りはあなたが常に行なっている習慣だろうか? いま私が前にしている――左様、後ろにもしている――あなたがたの中の何人が、こう告白せざるをえないことであろう。自分は祈ったことがなく、神との交わりを持つことは自分の習慣ではない、と。祈りのない魂は、キリストから離れた魂である。というのも、キリストとの真の交わりを持ち、御父との交わりを少しでも持つためには、その贖罪蓋に近づき、そこにしばしばとどまるしかないからである。だがしかし、もしあなたが自分を罪に定めており、これが自分の状態であることを嘆いているとしたら、絶望することはない。というのも、このあわれみはあなたのためのものだからである。「ヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった」。だが、。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去(る)」。

 次に、こうした人々は、信仰を軽蔑する者たちであった。というのも、同じ節の言葉遣いに注目してみるがいい。「イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった」。では私は、この場にいるある人々に向かってこう云ってよいではないだろうか?――あなたはキリスト教信仰を軽蔑している。あなたは神を憎んでいる。あなたは神のために労苦しておらず、神に奉仕することを愛していない。聖日について云えば、あなたがたの中のあまりにも多くの人々は、それを一週間の中で最も退屈な日と思っている。事実、あなたがたの中の多くの人々は、聖日の午後には自分の帳簿に目を通しているのではないだろうか? もし聖日に二度も礼拝所に出席させられたなら、あなたはそれを、自分に課せられうる最大最悪の苦行だと考えはしないだろうか? あなたは、何か世俗的な娯楽によって聖日の時間をつぶすことなしには、全く何の慰めを得ることもできない。それで、「会衆の決して散ることなき」を願い、聖日が永遠に続くことを願うどころか、それはあなたがたの中のある人々にとって一週間のうちで最も退屈な日なのではないだろうか? あなたはそれを大儀な日だと感じ、それが過ぎることを喜んでいる。あなたは、かの詩人によって云い表わされたような感情が理解できない。

   「甘きわざなり、わが神、王よ。
    御名をたたえて 感謝し、歌うは」。

あなたは、シオンの庭から追放される痛みを全く知らない。だが、そこに聖なる部族は寄り集まるのである。あなたがそこで全く神の交わりを持っていないときに彼らは、その神聖な場所がベテル――神の家――天の門となったことを喜んでいるのである[創28:17-19]。あなたは決してこう云うことがない。――

   「わが喜べる たましいは
    かく心根(こころね)に とどまりて
    座してみずから 歌いおらん
    永久(とわ)にぞ続く 幸いを」。

あゝ、否! キリスト教信仰は、あなたにとって、単に嫌なものであるばかりでなく、労苦なのである。しかし、もしあなたが今この罪を確信しており、それを悔い改めており、その力から解放されたいと願っているとしたら、神はあなたに今朝、語っておられ、こう云っておられるのである。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去ろう。偽りのない悔い改めをもって、わたしに帰るがいい。わたしはあなたをあわれもう」。

 さらに、こうした人物に注意するがいい。彼らは感謝のない人々であった。「あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず」[イザ43:23]。彼らは感謝することを知らなかった。彼らは、その牛や羊の群れが何倍にも増やされ、多くの家畜を増し加えられていたが、そのうちの羊一頭すらそのお返しとして神に携えて来なかった。あなたは、神に全焼のいけにえの子山羊を一頭もささげたことがない。むしろ、あなたのために地に食物をまき散らしている樫の木を、豚のように全く無視してきた。あなたは肉的な、世俗的な人間で、賜物を受けても、それが授けられるようにしてくださった《全能者》に決して感謝してこなかった。ひよこたちですら、流れの水を飲んだ後には、その頭を降り仰ぎ、その水を備えてくださった神に感謝するように見えるのに。あなたは日々、《全能者》の力によって養われている。だがしかし、自分の羊の群れの一頭すら、お返しに神に全焼のいけにえとしてささげたことが一度としてない。これは、私たちの祈りの家に集っている人々の中のある人々について真実である。そうした人々は、神の御国の進展のために、いかなる献金をささげることもめったにない。彼らは、以前だれかから話に聞いた、ある米国人のようである。その人は、自分にとってキリスト教信仰は非常に安上がりなもので、一年に数セントしかかからないと自慢していたという。それに対して、ある善良な人がこう云った。「主があなたの小さな、しみったれた魂をあわれんでくださるように」、と。もしもある人がそれしかキリスト教信仰を有していないとしたら、――もしもその人が、自分を気前よくならせるようなキリスト教信仰を有していないとしたら、その人はキリスト教信仰を全く有していないのである。私は、先週の木曜の夜に説教している間、この箇所について考えていた。「あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず」[イザ43:24]。神はあなたの手から何を受け取る必要もないが、小さな贈り物を好み、折に触れてあなたの真心を受け取ることを愛される。というのも、あなたも知るように、それは神の目には小さくとも、比較して云えば大きなものなのである。というのも、それは友から来たものだからである。しかし、あなたがたの中のある人々は、決して神に、身銭を切って菖蒲をささげたことがない。――決して神をたたえる賛美を歌ったことがない。あなたは、あらゆることを自分の幸運のせいだとしてきたし、自分が手にしているあらゆるものを自分が得たのは、自分の手の労苦によるものだと自慢してきた。そして、自分は自分の持ち物すべてについて、だれにも感謝する必要はない、とすら云い放ってきた。こうしたものが、あなたの思いであった。あなたは神に――天と地の神に――何の感謝もささげたことがない。あなたはこのお方に栄光を帰したことがなく、自分自身に栄光を帰していた。だがしかし、《いと高き方》は、あなたが偽りなく悔悟し、赦しを乞い求めさえするなら、このことにおけるあなたの罪を喜んで赦してくださる。というのも、やはり神はあなたに仰っておられるからである。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去(る)」、と。

 だがさらに、こうした人々は無益な人々であった。「あなたは……いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ……た」[イザ43:24]。いみじくも、人間の主たる目的は神の栄光を現わすことである、と云われる[ウェストミンスター小教理問答 問一]。それを目的として、神は、太陽や、月や、星々や、あらゆるご自分の手のわざをお造りになったのである。それは、それらが神をほめたたえるようになるためであった。だがしかし、いかに多くの人々が――ことによると今朝、私の話をここで聞いている人々の中にさえ――、その生き方において、一度も神をあがめることがなかったことか。自分にこう問うてみるがいい。自分は何をしてきたか、と。もしあなたが自分史を書くとしたら、それは、ベルツォーニの蛙が送った人生に毛が生えたようなものであろう。あなたは、岩の中に三千年存在していたというこの蛙と同じように生きてはいたが、何事も成し遂げなかった。いかなる魂を今まであなたは《救い主》にかちとってきただろうか? あなたによって主の御名はいかなるしかたでたたえられてきただろうか? あなたは今まで主に仕えたことがあるだろうか? 今まであなたは、いかなるしかたで主のために労してきただろうか? あなたは神のために何をしてきただろうか? あなたは、ただの場所ふさぎではなかっただろうか? 他のもっとましな木が育っていてしかるべき土地の滋味を丸取りしながら、かの大いなる農夫の手に何の実ももたらしてこなかったか、このお方に受け取っていただく価値もないような、みじめな酸い林檎をちらほらと結ぶだけが関の山だったではないだろうか? あなたの行なってきたあらゆることにもかかわらず、この世はあなたなどいてもいなくとも全く変わりないではないだろうか? あなたは、少なくとも旅人の足元を照らす役に立ってはくれる、蛍ほどの役にも立ってこなかったのではないだろうか? もしかすると、世はあなたがたの中のある人々を喜んでお払い箱にしたがるかもしれない。あなたがいなくなるのを喜ぶかもしれない。ことによるとあなたは、人生の中で自分と関わり合いになってきた人々の魂を滅ぼす手助けをしてきたかもしれない。あなたは思い出せるであろう。自分が、あの青年を初めて居酒屋に連れて行ったときのことを。あなたは覚えているであろう。自分が、神の御名を用いてこの上もなくぞっとするような悪態をついたときのことを。あなたの子どもはそれを耳にして、自分でも冒涜することを習い覚えたのである。あなたは眺めることができよう。自分の模範によって、今しも断罪へと向かい続けている何人かの魂を。そして、地獄の中にあなたは見てとることができよう。その鉄の寝台からいきなり起き上がり、その災厄の中で金切り声をあげる者たちを。「だれが私をここに至らせたのだ? だれが私の魂を滅びに導いたのだ?――お前が、私の断罪のきっかけになったのだ」。その告発は真実だろうか? あなたは、自分の数々の大いなるそむきの罪を、今なお悔い改めていないではないだろうか? だが、たといそうだとしたも、私の《主人》は、私にこう云う権威を授けておられる。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」。

 さらに、世には聖所の罪人たち――シオンの罪人たち[イザ33:14参照]――と呼ばれてよい者らがいる。これは、罪人の中でも最悪の罪人である。私は、ある求道者が敬虔な両親の子どもであるか否かを、普通は見分けることができる。それは、そうした人々が、大いなる咎の告白の後で、かつて自分がいかなる者であったかを思い出して言葉を詰まらせるからである。呻き、忍び泣き、頬に涙を流すことは、そうした人々の災厄を沈黙のうちに物語るものである。私は、これらを目にすると必ず、次にどんな言葉が出てくるか予想がつく。「私は敬虔な両親のもとに生まれました。私は、自分が最低最悪の罪人だと感じます。私はキリスト教を信ずるように育てられたのに、それを馬鹿にして、脇道にそれてしまったのですから」。おゝ、しかり。最悪の罪人とは、シオンの罪人たちである。なぜなら、彼らは光と知識に反抗して罪を犯しているからである。彼らは、ジョン・バニヤンが云うように、キリストの十字架を踏み越えて、しゃにむに地獄への道を突き進んでいるのである。そして、地獄に至る最悪の道は、十字架のそばを通ってそこへ至る道である。いま私の前にいる、あなたがたの中の多くの人々は、愛する母親によって神にささげられ、父親によって真理の聖書を読むこと、愛することを教えられてきた。あなたは、テモテのように育てられた。理論的には救いの道をよく理解している。だが、青年たち。ここに来たあなたは、あなたがたの中のある人々は、神の敵であり、キリストから離れており、そのことばを軽蔑しているのである。あなたがたの中のある人々は、キリスト教信仰をあざけってすらいる。あるいは、現実にあざけってはいなくとも、キリスト教信仰など自分にとって何ほどのことでもなく、あなたの行動によって――あなたの言葉によってではなくとも――イエスが死んだことなどあなたにとってどうでもよいことだと宣言している。あゝ! 私は、あなたに語っているとき、自分のことを忘れてはいない。もしも私が地獄で目覚める定めにあったとしたら、私はそこで最も恐ろしい断罪を受けるべき者らの間にいたであろう。というのも、私は、この上もなく敬虔な育てられ方をしていたからであり、聖所の罪人たちとともに位置を占めざるをえなかったはずである。そして、そのような者であるあなた、私がいま話しかけているあなたは、わななかないだろうか? いま自分に問うてみるがいい。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう」、と[イザ33:14]。あなたは身震いして、恐れおののき、悔いた心をもって赦しを願っているだろうか? もしそうなら、私はもう一度、私の《主人》の御名によって云う。――悔いた罪人たちには愛とあわれみのほか何もお語りにならなかったお方、「わたしもあなたを罪に定めない」[ヨハ8:11]、と云われたお方――エホバは今こう宣言しておられる。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」。

 だが、さらに再び、私たちがここに見るのは、神を煩わせた人々である。「あなたは……あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせた」[イザ43:24]。あなたが見ているこの人は、かつてはキリスト教信仰の信者で、二十年前には、とあるキリスト教会の会員であったことを思い出せる。その人は、主を恐れながら歩んでいるように見えたし、だれしもその人が真心から神の真理を受け入れたと思っていた。だが、その人は道をそれて、罪の小道に入っていった。時としてその人の唇は悪態で汚され、その人の魂は罪の奴隷となってきた。だが今でさえ、その人はしばしば神の家の中に姿を見せる。時としてその人は感動して涙し、自分の内側でこう云う。「確かに私は主のもとに戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから」、と[ホセ2:7]。自分を責めながら、その人は立ち上がり、心の苦々しさを覚えて涙する。そして、見るがいい。まさに今朝、その人はこの大きな集会の中に足を踏み入れているかもしれない。その人の膝はわななき、がくがくしている。だが、その人の善良さは、所詮、朝もやのように、朝早く消え去る露のようなものとなるかもしれない[ホセ6:4]。あるいは、転回点が今まさに到来しているかもしれない。「今がそのときだ。二度とはない」、とバクスターはよく云ったものである。いま神か悪魔か、いま受け入れられるか、罪に定められるかである。あわれな信仰後退者よ。主に立ち返るがいい。そうすれば主はあなたをあわれんでくださる。主は、あなたの罪をことごとく拭い去るであろう。それらが完璧に拭い去られるさまは、主が二度とあなたに対して、もはや永遠にそれらを思い出さないほどであろう。

 さて、こうした人々が、あわれみを受けとる人物である。あなたがたの中のある人々は云うかもしれない。「まるであなたは、われわれを駄目人間だと考えているようではないか」。――そして私はそう考えている。他の人々は大声をあげるであろう。「よくもそのようなことをわれわれに向かった云えたものだ。われわれは正直で、道徳的で、後ろ暗いところのない者なのだぞ」。もしそうだとしたら、私にはあなたに宣べ伝えるべき何の福音も有していない。そうしたければ、あなたはどこか余所に行けばいい。というのも、あなたは、望みさえすれば、おびただしい数の会堂で、道徳的な説教を聞けるからである。だが私は、私の《主人》の御名によって、罪人に対して宣べ伝えるために来ており、それで私はあなたがたパリサイ人たちに対しては、こう語る以外の言葉を持たないであろう。――あなたが自分を義人であり聖い者だと考えていればいるだけ、あなたは神の御前から最後には放逐されるであろう。あなたに対する判決は、神の御前からの永遠の追放であろう。その神は、あらゆる悔い改めている罪人に向かってこう云っておられるのである。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」。

 II. 第二の点は、《このあわれみの行為》である。私たちは、神がいかなる人々にあわれみをお授けになるかはわかった。では、そのあわれみの行為はいかなるものだろうか? それは、赦しの行為であり、このことについて語るにあたり私は、それが、まず最初に、神による赦しであることについて語ろうと思う。――「わたし、このわたしは」。神による赦しこそ、唯一可能な赦しである。というのも、神おひとりのほか、いかなる者も罪を赦すことはできないからである。ローマカトリック教の司祭だの、他のどこかの司祭だのが、神の御名によって、「われは汝をそのそむきの罪から赦免せり」、と云おうが云うまいが関係ない。それは忌むべき冒涜である。もし人が私に罪を犯したなら、私はその人を赦すことができる。だが、もしその人が神に罪を犯したなら、私がその人を赦すことはできない。唯一可能な免責は、神による赦しである。だが、そのときそれは、唯一必要な赦しである。かりに私が罪を犯し、それが、王であれ女王であれ赦そうとせず、私の兄弟も赦そうとせず、私自身、自分を赦すことができないほどの罪だったとする。だが、神が私を赦免してくださるのであれば、それは、私の救いにとって必要とされる一切の無罪放免である。ことによると私は、国の法律によって有罪を宣告されるかもしれない。私は殺人者で、絞首台の上で死ななくてはならない。女王は恩赦を拒否し、ことによると、そのような拒否をして当然かもしれない。だが、私が天国に入るためには、女王の赦しがなくともよい。もし神が私を無罪放免にしてくださるとしたら、それで十分になる。かりに私が、万人から罵られ、消え失せろと願われるほどの無頼の徒であったとして、彼らが決して私の犯罪を赦すまいと私にはわかっていたとしても――私は自分の同胞たちの赦しを願い求めるべきではあるが――、それを有することは、私が天国に入るために必要ではないであろう。もし神が、わたしはお前を赦す、と仰るのなら、それで十分である。神だけが、満足の行くように赦すことがおできになるのである。なぜなら、いかなる人間の赦しも、悩める良心を楽にすることはできないからである。自分を義とするパリサイ人なら、得々として自らを司祭の手にゆだね、迷妄の揺りかごの中で眠り込まされることがあるかもしれないが、罪を確信させられたあわれな罪人が欲するのは、こうした司祭の傲慢な言明を越えた何かである。――そうした言明が一万もあろうと、彼らの目くらましの一切合切があろうと、その人は、エホバご自身がこう云ってくださらない限りすべてはむなしいと感ずるのである。「わたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去(る)」、と。

 また、これは驚くべき赦しである。というのも、この聖句は、あたかも神ご自身が、このような罪の赦されることを驚いておられるかのような語り方をしているからである。「わたし、このわたしは」。それは、あまりにも驚くべきものであるため、このようなしかたで繰り返され、私たちがだれひとり、それを疑わないようにされているのである。そして、それは、自分の罪と危険に最初に目覚めさせられたあわれな罪人にとって驚くばかりのものである。それは、あまりにも話が巧すぎるように思われ、その人は、「驚き、おぼゆ。こころ和(な)ぐほど」である[ジョン・ストッカー、1776]。差し出されたあわれみは、それほど途方もないのである。アレクサンドロスは、いかなる都市を攻撃する際にも、その門前に1つのともしびを置き、もしその住民が、ともしびの燃え尽きる前に降伏した場合は、彼らの命を助けてやったという。だが、もしそのたいまつが燃え尽きてしまうと、彼は住民は皆殺しにした。しかし、私たちの《主人》は、これよりもずっとあわれみ深いお方である。というのも、もし主が小さなともしびが燃え尽きるまでの間しか、恵みを明らかにされなかったとしたら、私たちはどこにいただろうか? この場にいるある人々は、七十歳か八十歳になっているが、神はあなたにも、まだあわれみを有しておられる。だが、そこには、あなたも知るように、1つのともしびがある。それがいったん消えてしまうと、いかなる赦しの希望も消し去ってしまう。――いのちのともしびである。では、見るがいい。白髪の人よ。あなたの蝋燭は、ほとんどその根元まで燃えてしまっている。――そこには、黒くなった燃え残りの芯しかない。七十年間あなたは罪のうちに地上で生きてきたが、まだあわれみはあなたを待っている。だが、あなたはまもなく世を去ることになる。そして、よく聞くがいい。そうなれば、あなたには何の希望もない。しかし、驚くべき恵みよ。あわれみの使信はまだこう宣告している。――

   「ともしび燃える ことやめぬ間(ま)は、
    いかに悪しかる 罪人(もの)も帰りえん」。

云いようのないあわれみよ! まだ地獄に入っていない罪人のうち、神が白くすることのできないほど暗黒の者はひとりもいない。かの穴に入っていない者のうち、神が赦せず、赦そうとも思わないほど重い咎を負った者はひとりもいない。というのも、神はこの驚愕すべき事実を宣言しておられるからである。――「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去(る)」。

 もうひとたび注目するがいい。これは現在における赦しである。これは、「わたしは、あなたのそむきの罪を、いつかはぬぐい去ろう」、とは云っていない。それをぬぐい去ると云っている。ある人々の考えるところ――あるいは、少なくとも想像しているように見受けられるところ――、私たちの罪が赦されているかどうかを現世で知ることはできないという。そうした考えによると、私たちは、最終的には、はかりが私たちの側に振れると希望することはできる。しかし、これでは、本当に赦しを求めつつあり、それを見つけ出すために必死になっているあわれな魂は満足しないであろう。それゆえ神はありがたくも私たちにこう告げられたのである。神は私たちの罪をぬぐい去ってくださる、と。罪人が信ずる瞬間にそれを行なってくださる、と。その人が、その十字架にかけられた神を信頼するや否や、その人のあらゆる罪は、過去のもの、現在のもの、将来のものを問わず、すべて赦されるのである。たといその人がまだその罪を犯していないとしても、そうしたものすら、みな赦されるのである。もし私が赦しを受けてから八十年生きるとしたら、疑いもなく私は多くの過ちに陥るであろう。だが、この一回の赦しは、そうした過ちについても、過去の過ちと同じように効果があるのである。イエス・キリストは私たちの罰を負ってくださった。そして神は決して、キリストが私に代わって引き受けてくださった律法の成就を、私の手から要求することをなさらないのである。というのも、そのようなことになれば、天には不正があることになるからである。そして、神が不正をなさることなど金輪際ありえない。赦された者が失われることなど、キリストが失われるのと同じくらいありえない。なぜなら、キリストは罪人の保証人だからである。エホバは決して私の負債を二度払いするよう要求なさらない。いかなる者も、全地の神[イザ54:5]に不正を帰してはならない。いかなる者も、神が1つの罪について二度、罰を科すなどと考えてはならない。たといあなたが罪人のかしらであったとしても、あなたは罪人のかしらの赦しを得ることができ、神はそれをいま授けることがおできになる。

 私が注目せざるをえないのは、この赦しの完全さである。かりにあなたが自分の債権者のもとを訪ねて、こう云ったとする。「私には、一銭も支払うことができません」。「よろしい」、と相手は云うであろう。「ならば私は、動産差し押さえ状を出して、あんたを牢屋にぶちこみ、ずっとそこに入っていてもらいますよ」。それでもあなたが、自分には一銭も払えないと答えれば、相手は自分にできることをするしかない。だが、その人が、「では、あなたの借金を全部棒引きにしてやりましょう」、と云ったとしよう。あなたは口をぽかんとあけて云うであろう。「あなたが一千ポンドもの莫大な借金を帳消しにしてくださるなんてことが、ありえるでしょうか?」 その人は、「ええ、私はそうします」、と答える。「しかし、どうすれば私にそれがわかるでしょう?」 そこには債務証書があり、その人はそれを取り上げると、その全面に大きく×点を書き、それをあなたに手渡して云う。「それで完全に債務取り消しです。私はすべてを帳消しにしました」。それと同じように主は悔い改めた者たちを取り扱われる。主がお持ちの一冊の帳面には、あなたのあらゆる負債が記されている。だが、キリストの血によって主は、そこであなたの不利になるように手書きされた一切の布告に×点をなさる。その債務証書は破棄され、主は二度とその支払いを要求することはないであろう。悪魔は、時々それとは逆のことをほのめかすであろう。彼はマルチン・ルターに対してそうした。そこでルターは、「私の罪の目録を持ってこい」、と云った。それで悪魔は、どす黒く、分厚い巻物を持ってきた。「それで終わりか?」、とルターは云った。「いいや」、と悪魔は云って、もう一冊の巻物を持ってきた。「さて、それでは」、とこの神の英雄的な聖徒は云った。「その巻物の末尾にこう書くがいい。『神の御子イエス・キリストの血は、あらゆる罪からきよめる』、と。これで完全な債務取り消しになるのだ」。

 III. さて、ごく手短に第三のことを語ろう。――《このあわれみの理由》である。あるあわれな罪人は云う。「なぜ神は私を赦されるのですか? そんな義理がないことは確かです。私は神のあわれみに値するようなことを何1つ行なったことがないのですから」。神が何と云っておられるか聞くがいい。「わたしが、お前を赦そうとしているのは、お前自身のためではなく、私自身のためなのだ」。「しかし、主よ。私は十分に感謝に満ちた者ではありません」。「わたしが、お前を赦そうとしているのは、お前の感謝の念のためではなく、私の名前のためなのだ」。「しかし、主よ。たとい私が教会に入れられたとしても、今後の年月の間に、私は大したことをあなたの御国のために行なえないでしょう。私は自分の最良の日々を悪魔に仕えるために費やしてきたのですから。確かに私の人生の不潔な澱は、あなたにとって甘やかなものにはなるはずがありません。おゝ、神よ」。「わたしが、お前を赦す約束をするのは、お前自身のためではなく、わたし自身のためなのだ。わたしはお前を必要としてはいない」、と神は云われる。「お前などいなくとも、わたしは何も不自由をしない。千の丘の家畜らはわたしのものだ[詩50:10]。また、わたしは、望みさえすれば、わたしに仕えさせるために一民族をさえ創造することができるし、それを史上最強の帝王のように高名な者らか、最も雄弁な説教者とすることができよう。だが、わたしは、そうした者たちがいてもいなくても、同じようにすることができる。それで、わたしがお前を赦すのは、わたし自身のためなのだ」。ここには、この場にいる咎ある罪人にとって希望があるではないだろうか? いかなる者も、自分のもろもろの罪は赦されるには大きすぎると申し立てることはできない。というのも、神が罪人のためにではなく、ご自身のために赦されることを思えば、咎がどれくらいあるかは全く考慮の外に置かれるからである。あなたは、病床についている人を訪問した、ある医者の話を聞いたことが一度もないだろうか? そのあわれな男は云った。「先生に診ていただいても、私には何もお返しに差し上げられませんが」。「しかし」、と医者は云った。「私は何もくれとは云わなかったよ。私がお前さんを診てやるのは、純然たる仁愛からなのだ。その上さらに、私の技量を証明するためでもある。お前さんがこれからどれだけ長生きしようと、どうでもいいことだ。私は自分の技量を試すのが嬉しいのだ。そして世間に、私が病気を治せることを知らせてやりたいのだ。名を高めたいのだ」。そして、それと同じように神は云われるのである。わたしは、あわれみのゆえに名を高めたいのだ。だから、あなたが悪者であればあるほど、神はあなたを救うことによってより誉れを得られるのである。ではキリストのもとに行くがいい。あわれな罪人よ。裸で、汚れて、貧しく、惨めで、卑しく、失われて、死んでいる、ありのままのあなたで行くがいい。というのも、あなたのうちに要求されているものは、主を必要とすること以外に、何もないからである。

   「こは 主の汝れに 賜うものなり、
    こは主の御霊の 立ちし光なり」。

「わたし自身のために」、と神は云われる。「わたしはあなたを赦すであろう」。

 IV. さて、しめくくりに、――《あわれみの約束》である。「もうあなたの罪を思い出さない」。世には、神ですらできないことがいくつかある。神が《全能》のお方であることは真実だが、神にもできないことがいくつかある。神は嘘をつくことができない。――ご自分の民を捨てることができない。――ご自分の契約をなかったことにすることはできない。そして、このことも、神におできにならないと考えられて良いことの1つである。――すなわち、忘れることである。神にとって忘れることは不可能ではないだろうか? 私たち有限な被造物たちは、多くの事がらを抜け落とさせてしまうが、《全能者》に一体そのようなことができるだろうか? 星の数を数え、そのすべてに名をつける神が[詩147:4]、――いかに多くの極微動物が大海洋の中にいるかをご存知の神が、――夏の大気の中に浮かぶ塵の一粒一粒に目をとめておられ、森の葉っぱの一枚一枚さえ熟知しておられる神が、覚えておくことをやめることなどありえるだろうか? もしかすると私たちは、「否」、と答えるかもしれない。確かに、その行為を完全に忘却するという絶対的な事実はない。だが、この云い回しが完全に正確であるという、いくつかの意味もある。いかなる意味において、私たちは自分たちの罪を神が忘れてくださると理解すべきだろうか?

 まず第一に、神は私たちが最後に神の審きの前に出ることができたとき、そうした罪に罰を科さない。キリスト者には、彼を告発する多くの者らがいる。悪魔はやって来て、「この者は大罪人です」、と云う。「わたしはそれを思い出さない」、と神は云われる。「この者は、あなたに反逆しました。あなたを呪いました」、と告発者は云う。「わたしはそれを思い出さない」、と神は云われる。「というのも、わたしは彼の罪を思い出すことをしない、と云ってあるからだ」。良心は云う。「あゝ! でも主よ。それは本当のことです。わたしは本当にあなたに対して罪を犯しました。それも、この上もなく、はなはだしい罪を」。「わたしはそれを思い出さない」、と神は云われる。――「わたしは云ったのだ。もう彼の罪を思い出さない、と」。かの穴のすべての悪霊たちが神の耳にがなり立てようと、私たちのもろもろの罪を総ざらいして叫び立てようと、私たちは、かの大いなる日には大胆に立ち、こう云うことができよう。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」[ロマ8:33]。というのも、神は彼らの罪を思い出しもしないからである。《審き主》がそれを思い出さない、ではだれが罰を与えるだろうか? 私たちは不義であり、私たちは邪悪であった。だが神はそれらすべてを忘れてしまわれたのである。では、だれが神がお忘れになったことを思い出させることなどできるだろうか? 神は云われる。「わたしは、あなたのすべての罪を海の深みに投げ入れてしまう」、と[ミカ7:19参照]。再び引き揚げることのできるような浅瀬にではなく、サタンそのひとですら見つけだすことのできない海の深みにである。神の民を訴えるために記録されている罪などというものはない。キリストは彼らを運び去られ、罪はキリスト者たちにとって実在しないものとなっている。――それはすべて失せ去っており、イェスの血によって彼らはきよいのである。

 このことの第二の意味は、わたしは、あなたを疑うために、あなたの罪を思い出さない、ということである。ある父親がいる。その息子はわがままで、放蕩三昧の生活を起こるために家を飛び出して行ったが、しばらくしてから悔悟の状態で家に戻って来る。父親は云う。「お前を赦してやろう」。しかし、父親はその翌日に、その弟息子に云う。「明日は、遠い町でしなくてはならない仕事がある。ほら、これがそれをするための金だ」。彼は、戻ってきた放蕩息子に金をまかせることをしないのである。「以前は私もあれに金をまかせたことがある」、と父親は自分に向かって云う。「そうしたら、あれは私から盗みおった。だから私は、恐ろしくて、もう二度とあれを信頼できないのだ」、と。しかし、天におられる私たちの御父はこう云われる。「わたしは、もうあなたの罪を思い出さない」。神は過去を赦すだけでなく、尊いタラントをご自分の民におまかせになる。決して彼らを疑うことをなさらない。何の疑念をいだくこともなさらない。神は、彼らを、まるで彼らが一度も道を踏み外したことがないかのように愛される。彼らを用いてその福音を宣べ伝えさせる。彼らを日曜学校に入らせ、ご自分の御子のしもべとなさる。神はこう云われるからである。「わたしは、もうあなたの罪を思い出さない」、と。

 さらに、神は、報酬を支給することにおいて思い出すことをなさらない。地上の親も、放蕩息子の過失を思いやり深く見逃すだろうが、あなたも知るように、その父親が死の時を迎え、遺書を作成する段になり、弁護士をその傍らに座らせるときには、こう云うのである。「ウィリアムには、いくらいくらを与えよう。いつも真面目ないい子だったからな。もうひとりの息子には、いくらいくら受け取らせよう。それから、娘だが、娘にはいくらいくらにしよう。だが、あの放蕩息子だ。わしは、あれが若かったとき、たいへんなお金を持たせてやったが、受けたものを使い果たしてしもうた。あれには、もう一度目をかけてやることにしたし、今はまともに暮らしておるが、それでも、他の子たちとは少し差をつけねばならんと思う。公平にするとしたら――わしは、もうあれを赦してはおるが――他の子たちと全く同じ扱いをするわけにはいかんだろう」。それで弁護士は、その放蕩息子には数百ポンドと書きとめ、他の子どもたちには、ことによると何千ポンドの遺産が受け取れるようにする。しかし神は、あなたの罪をそのように思い出しはしない。神は相続財産のすべてを与えられる。神は、罪人のかしらにも、聖徒らのかしらに対するのと全く同じように天国を与えられる。神は、その相続分をお分けになるとき、マグダラのマリヤもペテロと同じくらい高くし、盗人もヨハネと同じくらい高くなさるであろう。しかり。十字架の上で死んだあの悪党も、神の御目においては、この世に生を受けた最も道徳的な人間と全く同じなのである。ここに、ほむべき忘却がある。あなたは何と云うのか? あわれな罪人よ。あなたの心は、神秘的な霊感によって、十字架の根元に引き寄せられているだろうか? ならば私は、私の《主人》に感謝する。というのも、私の生涯の一大目的は魂をキリストへとかちとることであり、もしそのことにおいて祝福されるとしたら、私の人生は幸いなものになると思うからである。それでも、あなたは云うだろうか。「私の罪は大きすぎて赦されません」、と。そうか。だが、おゝ、人よ。天が地よりも高いように、神のあわれみは、あなたのもろもろの罪よりも高く、神の恵みは、あなたの思いをはるかに越えたものなのである[イザ55:9参照]。おゝ、だがあなたは云う。「神は私など受け入れてくださいません」。ならば、この聖句はどういう意味なのか。――「キリストは……完全に救うことがおできになります」[ヘブ7:24-25]。あるいは、この聖句は。――「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。また、さらに、――「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」[黙22:17]。それでもあなたは云うだろうか。「その中に私は入っていません」、と。おゝ、それほど信じない者にはならないで、信じる者になるがいい[ヨハ20:27]。おゝ! もし私に力さえあれば、神も知るごとく、私はあなたの魂をかちとるために涙で自分を押し流すであろう。

   「されど我らが 情けは薄く、
    愛せる者に 涙すほかなし」。

私は、神の福音を宣べ伝える以外何もできない。だが、キリストが私を赦された瞬間から、その愛について語らずにはいられないのである。私は、主の福音から脇道にそれ、主の叱責を全く受けつけようとしなかった。主の御声も、そのみことばも聞き流した。このほむべき聖書も読まれることなく放り出されていた。この両膝は、祈りのためにかがもうとはせず、私の両目はむなしいものを眺めていた。それでも主は赦してくださっただろうか? しかり。ならば、たといこの舌が上顎にへばりつこうとも、私は無代価の恵みを宣言するのをやめはしない。人を選び、贖い、赦し、救いに至らせる、そのあわれみの素晴らしさを、ことごとく明らかにするのをやめはしない。おゝ! 私はいかに高らかに歌うべきだろうか? 私は地獄に入ることなく、罪に定められることから解放されているのである。では、もし私が地獄に入らずにいられるとしたら、なぜあなたもそうならないわけがあろうか? なぜ私が救われて、他の人がそうならないわけがあろうか? 思い出すがいい。罪人のためにこそイエスは来られたのである[マコ2:17; Iテモ1:15]。マグダラのマリヤ、タルソのサウロ、――まさに罪人のかしらたちが受け入れられたのである。では、なぜあなたは、愚かにも自分は捨てられているなどと決め込んでいるのか? おゝ、あわれな悔い改めた人よ。もしあなたが滅びるとしたら、あなたは、悔い改めて、なおかつ滅びたという《最初の》人間となるであろう。神は、ご自分の祝福をあなたに与えておられる。私の愛する方々。キリストのゆえに。アーメン。

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赦し[了]
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