HOME | TOP | 目次

増上慢な者に対する警告

NO. 22

----

----

1855年5月13日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」。――Iコリ10:12


 1つの異様な、だが、それにもかかわらず、確実きわまりない事実は、悪徳というものが、美徳のまがいものだということである。神が天上の貨幣鋳造所から、価値ある純良な金属の貨幣を1つお送りになると、常にサタンはその刻印を模造し、一文にもならない無価値なものを偽造し、流通させようとする。神は愛を与えられる。それは神のご性質であり、神の本質である。サタンも彼が愛と呼ぶものを作り出すが、それは情欲である。神は勇気を授けられる。私たちが人々に真っ向から立ち向かい、いかなる人も恐れずに自らの義務を果たすのは良いことである。サタンは無鉄砲さを吹き込み、それを勇気と称しては、「はかない名声」のため人に命じて大砲の口に飛び込ませたりする。神は人間のうちに聖なる恐れを生じさせられる。サタンは人間に不信仰を与え、私たちはしばしばその2つを混同してしまう。それと同じことが、あらゆる美徳の最上のもの、救いに至る信仰という恵みについても云える。それは、完成に至ると円熟した信頼になる。この世の何ものにもまして慰めに満ちたもの、キリスト者にとって望ましいものは、信仰の完全な確信である。こういうわけで私たちは、サタンがこの純良な貨幣を見るや、ただちに底知れぬ穴の金属を取っては、確信という天的な肖像と銘を模造し、増上慢という悪徳を私たちにつかませるのを見るのである。

 私たちは、カルヴァン主義に立つキリスト者として、パウロがこう云っていることに唖然とさせられるかもしれない。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」。だが唖然とする必要はない。というのも、確かに私たちは、神の力によって立っていると考える限り、自分が立っていると信ずる大きな権利がありはしても、――また、確かに《いと高き方》の力に信頼を置きすぎるということはありえないとしても、――そこには真の信頼に非常に近いものでありながら、細心の識別力を働かせない限り、それと瓜2つに見えるようなものが1つあるのである。聖ならざる増上慢――このことについて、私は今朝、語りたいと思っている。誤解しないでほしい。私は一言も強靭な信仰に対して反対するつもりはない。私は、あらゆる薄信者たちが強信者になってほしいと思うし、あらゆる恐怖者たちが真勇者たちになり、足なえ者たちがアサエルのように足の早い者になってほしいと思う[IIサム2:18]。それは、彼らがみな自分の《主人》の務めに精を出すようになるためである。私は強い信仰や完全な確信に反対して語るものではない。神がそれを私たちに与えられる。それはキリスト者が有しうる最も聖く、最も幸いなものであり、こう云える状態ほど望ましいものはない。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを……守ってくださることができると確信している」[IIテモ1:12]。そうしたことに私は反対しているのではない。だが私があなたに警告しているのは、かの悪しきもの、偽りの信頼と増上慢である。それがキリスト者に忍び寄るしかたは、山頂における凍死の眠りにも似て、もし神によって目覚めることがなければ、その結果、死に至らざるをえないのである。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」。

 今朝、私が行ないたいのは、第一に人物を割り出すこと、第二に危険を示すこと、第三に助言を与えることである。人物とは、自分は立っていると思っている人のことであり、危険とは、その人が倒れるかもしれないということであり、助言とは、「気をつけなさい」、ということである。

 I. 私の第一の務めは、増上慢な人、立っていると思う者ということで意味されている、《人物を割り出す》ことである。この広い世間を探し回れば、そのような人をおびただしく見つけ出すことができよう。実業界には、いくらでも傲慢で厚かましい人々がおり、ある投機に成功したからといって、この争い絶えざる人生の荒海のはるか沖まで乗り出しては、自分のすべてを賭けて、――すべてを失ってしまう。また、自分の健康に絶大な自信を持つ他の人々について言及することもできよう。そうした人々は、自分の骨を鉄であるとし、自分の神経を鋼であるとし、「われひとりのみ不死身ならん」と思っているため、その歳月を罪に費やし、その人生を不義に費やす。誘惑のただ中に身をさらす人々について語ることもできよう。そうした人々は自慢の力に信頼し、自己満足してこう叫んでいる。「あなたは私が罪に対してそれほど弱いと思うのか? おゝ! 否。私は立ち続ける。いくら酒を飲んでも、私は酔いどれにはならない。いくら歌を歌っても、夜中に放歌高吟したりしない。私はたしなみをもって飲み、杯を置くことができる」。こうした人々が、増上慢な人である。しかし、私はそうした場所で彼らを見つけようとは思わない。今朝の私の務めは、神の教会に関わっている。箕によって床を掃ききよめ出さなくてはならず、麦をあおぎ分けなくてはならない。そのように、私たちは今朝、教会をあおぎ分けて、増上慢な者を発見すべきである。別に遠くまで行かなくとも、そうした人々を見いだすことはできる。いかなるキリスト教会にも、立っていると思う人々がいる。自分の空想上の強さと力を豪語する人々、綺麗に着飾った、生まれながらの子らではあるが、生ける神の生きた子どもたちではない人々がいる。そうした人々は、へりくだっておらず、魂が砕かれてもいない。あるいは、そうした経験をしたことがあったとしても、肉的な安心感を養い育てて巨人のようにしてしまい、謙遜という甘美な花をその足で踏みにじらせてしまったのである。そうした人々は、自分が立っていると思っている。だが私がいま語っているのは、真のキリスト者であるにもかかわらず、増上慢になり、肉の安心感にふけっている人々のことである。願わくは、この説教において私がこの問題の核心と根源に突き進んで行く間に、私の《主人》がそうした人々を目覚めさせてくださるように。しばらく私は、キリスト者における増上慢の、ありがちな原因について詳しく説いてみよう。

 1. まず最初に、非常によくある原因は、この世的な繁栄が引き続くことである。モアブは葡萄酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたことがなかった[エレ48:11]。ある人に富を与えてみるがいい。その人の船団に、絶えず高価な貨物を持ち来たらさせ、風と波には、あたかもその人のしもべであるかのようにふるまわせ、その人の幾多の船舶をして大海の底を悠々と横切らせ、その人の土地には豊饒な実りを生じさせ、天候をその人の収穫にとって好都合なものとし、天にはその人の事業に暖かな微笑みを投げかけさせ、オリオン座の綱がその人のために解けるようにし、すばる座の鎖がその人のために降りてくるようにし、不断の成功がその人に伴うようにし、その人が、成功した商人として王侯然たる富者となり、莫大な財産を積み上げる、また常に富み栄える人物として人々の間に立つようにさせてみるがいい。あるいは、その人には何の病気にもかからせず、気力を横溢させ、目を輝かせ、この世を意気揚々と歩ませ、幸せに生活させ、楽天的な精神を持たせ、絶えざる歌が口に上るようにさせ、常にその目が喜びに輝くようにさせるがいい。――この幸せな幸せな人物は、心労を笑い飛ばし、こう叫ぶ。「消え失せろ。鬱陶しい心配なんか消え失せろ」、と。私は云う。こうした状態が人にもたらす結果は、たといその人がいまだかつて地上に生を受けた最良のキリスト者であったとしても、増上慢であろう、と。そして、その人は、「私は立っている」、と云うであろう。ダビデはこう云っている。「私が栄えたときに、私はこう言った。『私は決してゆるがされない』」[詩30:6]。そして私たちは、ダビデよりも大してまさってはいない。否、ダビデの半分も善良ではないのである。もし神が私たちを常に繁栄の揺りかごで揺らされるとしたら、――もし私たちが常に幸運の膝であやされるとしたら、――もし私たちがこの大理石の柱に全く汚点を有していないとしたら、――もし空には雲1つなく、私たちの陽光に何のしみもないとしたら、――もし私たちがこの人生という葡萄酒に何の苦い雫も有していなかったとしたら、私たちは快楽に酔いしれ、「われわれは立っている」、と夢見るであろう。だがそれは、立つには立っていても、尖塔の上で立っているのと同じである。立ってはいるかもしれないが、帆柱のてっぺんで寝ているのと変わらず、一瞬ごとに危機に陥るであろう。ならば私たちは、自分の種々の患難ゆえに神をほめたたえるものである。私たちは、私たちの霊の抑鬱ゆえに神に感謝する。私たちの富の損失ゆえに神の御名をほめたたえる。というのも、私たちは、自分にそのようなことが降りかからなければ、――神が私たちを毎朝懲らしめ、毎晩悩ましてくださらなければ、自分が安逸に陥りすぎてしまうと感ずるからである。この世的な繁栄が引き続くことは、火の試練である。もしあなたがたの中にそのような人がいるとしたら、この箴言を自分の状態にあてはめるがいい。「るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる」[箴27:21]。

 2. また、罪を軽く考えることによっても増上慢は生まれる。私たちが最初に回心したとき、私たちの良心は非常に繊細で、いかに小さな罪をも恐れる。私は、回心したばかりの人々が、間違った方角に向かわないかと、足を一歩進めることさえこわがるほどであるのを知っている。そうした人々は、自分の教役者の助言を求め、道徳的な難問に直面するたびに私たちのもとにやって来ては、答えに窮するような質問をする。そうした人々には、神を怒らせたくないという聖なる臆病さ、敬虔な恐れがある。しかし、悲しいかな。たちまちのうちに、こうした最初に熟した実の上の小さな花は、周囲の世界の荒々しい扱いによって取り除かれてしまう。幼い敬虔さという繊細な植物は、後には、あまりにも融通のきく、あまりにも容易に妥協する柳の木となってしまう。悲しくも真実なことだが、キリスト者でさえ次第に感覚が鈍磨してしまい、かつては自分を唖然とさせ、ぞっとさせたような罪にも、全く何の恐れも引き起こされなくなるのである。私は、初めて神の御名を用いた悪態を聞いたときには肝を潰し、穴があったら入りたいような気がした。だが今の私は、神に対する呪いや冒涜を聞いても、確かにぞっとする気持ちを感じはするものの、そうした悪の言葉を最初に聞いたとき感じたほど厳粛な感覚や、強烈な苦悩はそこにはない。次第次第に私たちは、罪に慣れ親しんでいく。大砲の轟音が鳴り響いている耳には、かすかな音が聞きとれない。大型汽船の中で働く人々は、その機関が打ちつけるすさまじい騒音が、絶えず耳の中にけたたましく入ってくるため、最初は眠ることができないが、だんだん馴染んでくるにつれて、それを何とも思わなくなる。罪もそれと同じである。最初は、ちょっとした罪も私たちをおののかせる。だがすぐに私たちは、ロトがツォアルについて云ったように、「あんなに小さいではありませんか」、と云うようになる[創19:20]。その後、別のもっと大きな罪がやって来て、さらにまた別の罪がやって来て、ついには私たちがだんだんそれを小さな悪だとみなし出すようになる。そして、そのとき、ご承知のように、聖ならざる増上慢がやって来て、私たちは自分が立っていると思うのである。「われわれは倒れていない」、と私たちは云う。「われわれは、ほんの小さなことをしただけだ。道を外れたわけではない。確かに、多少よろけはしたが、おおかたは真っ直ぐに立っていた。一言くらいは聖ならざる言葉を口にしたかもしれないが、ほとんどの場合われわれの会話はちゃんとしていた」。それで私たちは罪を云いつくろう。もっともらしい云い訳をして、それを糊塗しようとする。キリスト者よ。用心するがいい! 罪を軽く考えているとき、あなたは増上慢になっているのである。倒れないように気をつけるがいい。罪が小さなことだと! それは毒ではないか! その致命的な猛毒性をだれが知ろう? 小さな珊瑚虫は、軍艦をも引き裂く岩礁を作るではないだろうか? 小さな一打ち一打ちが、高い樫の木をも倒すではないだろうか? 不断にしたたる一滴一滴の水が、石をも穿つではないだろうか? 罪が小さなことだと! それは、今は栄光の冠を戴いているお方のかしらに茨を巻き付けたのである。罪が小さなことだと! それはあのお方に苦悶と、苦味と、災厄を耐え忍ばせたのである。その方をして、「受肉(ひと)なる神の 力限(かぎり)を」忍ばせ、「十全(また)きちからもて、そをふりしぼ」らせたのである。

 これは小さなことではない。方々。もしそれを永遠のはかりで量れたとしたら、あなたは蛇から飛びすさるようにそれから飛びすさり、いかに小さな悪の現われをも忌み嫌うであろう。しかし悲しいかな! 罪についての締まりのない考えはしばしば増上慢な精神を生み出し、私たちは自分が立っていると思うのである。

 3. 三番目の理由はしばしば、キリスト教信仰の価値に関する低い評価である。私たちは、いかにキリスト教信仰を高く評価しても十分ではない。いわゆる宗教的熱狂は、至る所で笑いものにされている。だが私は、宗教的熱狂などというものがあるとは信じていない。たといある人が、その熱心さのあまり自分のからだを火刑柱で焼かれるために引き渡し、自分の血の雫を注ぎ出して、その一滴一滴をいのちに変えて、それからそのいのちを次々と殉教の死によって虐殺させることができたとしても、その人が自分の神を愛しすぎたことにはならない。おゝ、否! 私たちが、この世が狭い空間にすぎないことを考えるとき、――時間がたちまち過ぎ去り、私たちが永遠の中に永劫にとどまることを考えるとき、――果てしない不死の状態における私たちが、地獄にいるか天国にいるかのどちらかでしかないことを考えるとき、方々。いかにして、愛しすぎることなどできようか? 不滅の魂を重んじすぎることなどできようか? 天国に高すぎる値段をつけることなどできようか? 私たちのもろもろの罪のためにご自分をお捨てになった神に仕えることにおいて、やりすぎることなど考えられるだろうか? あゝ! 否。だがしかし、愛する方々。私たちの中のほとんどの者は、キリスト教信仰の価値を十分に重んじていない。私たちはひとりとして、魂を正しく評価することができない。私たちには、それとくらべものになるものが何1つない。黄金はみすぼらしい塵であり、金剛石は空気の凝結したちっぽけな塊にすぎず、溶け去るにまかせてかまわない。私たちには、魂と比較できるようなものが何もない。それゆえ、私たちにはその価値が理解できない。私たちは、それがわからないからこそ増長するのである。吝嗇家は、自分の黄金を床にまき散らしておき、自分の召使いが盗めるようにしておくだろうか? むしろだれの目にも触れない、どこか秘密の場所に隠しておくではないだろうか? 毎日、毎晩、彼が自分の宝を数え上げるのは、それを愛しているからである。母親は自分の赤子を川辺に放ったらかしておくだろうか? むしろ眠っていてもわが子のことを考えはしないだろうか? また、それが病気になったとき、それを見殺しにしかねないような、貧乏な子守女に看病させて放っておくだろうか? おゝ! 否。私たちは、自分が愛するものを気まぐれに投げ捨てたりしない。自分が何にもまして尊ぶものについては、絶えずはらはらし、それを守ろうとするものである。そのように、もしキリスト者たちが自分の魂の価値を知っていたとしたら、――もし彼らがキリスト教信仰を、その掛け値なしの価で見積もっているとしたら、彼らは決して増長しはすまい。だが、キリストを低く評価し、神を低く評価し、自分の魂の永遠の状態を見下げること、――こうした事がらによって、私たちは無頓着な安逸にふけらされがちなのである。それゆえ、福音を低く評価することに気をつけるがいい。あなたがたが悪い者に圧倒されることがないように。

 4. しかし、さらにこの増上慢はしばしば、私たちがいかなる者か、またどこに立っているかについての無知から生ずる。多くのキリスト者は、自分がいかなる者かまだ学んでいない。確かに、神の最初の教えは、私たちに自分の状態を示すものではあるが、私たちは、イエス・キリストを知ってから何年も経たないと、それを徹底的に知ることはない。私たちの心の深淵の泉は、一度にそのすべてが決壊しはしない。私たちの魂の腐敗は、ひとときのうちに明らかになりはしない。「人の子よ」、とエゼキエル書の御使いは云う。「わたしはあなたにイスラエルの忌みきらうべきことを見せよう」。それから御使いが彼を1つの門の所に連れて行くと、そこで彼は忌むべきものを見て、唖然とさせられた。「人の子よ。わたしはあなたに、こうしたものよりも、なおまた、大きな忌みきらうべきことを見せるだろう」。それから御使いが彼を別の部屋に連れて行くと、エゼキエルはこう云う。「確かに、私は今や最悪のものを見たに違いない」。「否」、と御使いは云う。「わたしはあなたに、これらよりも、なおまた、大きな忌みきらうべきことを見せるだろう」[エゼ8:5-13参照]。そのように、私たちの一生を通じて聖霊は、私たちの心のぞっとするような忌まわしいものを明かし続けるのである。この場にいるある人々が、そのようなことについて何1つ考えていないことは私も重々承知している。――そうした人々の考えによると、自分たちは良い心をした被造物なのだという。良い心をあなたは持っていると? 良い心を! エレミヤはあなたよりも良い心を持っていたが、彼はこう云っていた。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」[エレ17:9]。否。黒い色は夜には学べない。神だけが心の悪をご存知である。そしてヤングは云っている。「神がご自分以外の目に見せないようにしておられる凄惨な眺め、――それは、人の心の有様である」。もし私たちにそれが見えさえするなら、私たちは肝を潰すはずである。よろしい。このことについての無知によってこそ、私たちは増長するのである。私たちは云う。「私には良い性質があり、良い気質がある。私には、ある人々のような激しやすく怒りっぽい情動はなく、平静にしていられる。私には、一瞬にして燃えつく火口のように乾いた心はない。私の情動は弱められている。悪に向かう私の力は、それなりに取り去られており、私は安全に立っていられよう」、と。あゝ! あなたがたは、自分がそのように語るときこそ、増長しているのだ、ということをほとんど知らない。おゝ、地べたを這いずる芋虫よ。あなたはまだ悪の性質から自由になってはいない。というのも、罪と腐敗は新生した者の心にすら残っているからである。そして、これは逆説のように思えながら不思議に真実なことだが、ラルフ・アースキンが云った通り、キリスト者は自分についてこう考えることがあるのである。

   「善にも悪にも 傾きて
    悪魔でありつ 聖徒でもあり」。

キリスト者の中には途方もない腐敗があるため、実生活においては聖徒であり、キリストによって義と認められてはいても、時として、その想像においては悪魔のように思われ、その魂の願望や腐敗においては一個の悪鬼なのである。気をつけるがいい。キリスト者よ。あなたには物見の塔の上に立つべき必要がある。あなたには不信仰の心がある。それゆえ、夜となく昼となく警戒しているがいい。

 5. しかし、こうした増上慢な人の描写のしめくくりとして――高慢こそは、最も豊富に増上慢を生み出す原因である。その多種多様な形のすべてにおいて、高慢こそ肉的な安心感の源泉である。時として、それは才能の誇りである。神は人に様々な賜物を授けておられる。人は大群衆の前に立ったり、多くの人々を魅了する文章を著したりできる。人には明敏な精神があり、識別力、その他の才幹がある。そのとき、その人は云う。「無知な人間、何の才能もない人間であれば、倒れることもあろう。私の兄弟は気をつけるべきである。だが、私を見るがいい。いかに私が偉大さに包まれていることか!」 そして、このような自己満足とともに、その人は自分が立っていると考えるのである。あゝ! こうした人々こそ倒れるのである。キリスト教界の天空を彗星のように燃え輝いた、いかに多くの人々が、虚空に突進して行き、暗闇の中で消え失せてきたことか! いかに多くの人々が、ともがらの前で預言者のように立ち、そのうぬぼれを身にまとってこう叫ぼうとしたことか。「私が、私だけが生きているのだ。私が神の唯一の預言者なのだ」。だがしかし、その唯一の預言者は倒れてしまった。そのともしびは消され、その光は闇の中で吹き消された。いかに多くの人々がその力や威光を誇りとし、「私がこの大バビロンを建てたのだ」、と云ってきたことか[ダニ4:30参照]。だが、そのときの彼らは自分が立っていると思っていたが、たちまち倒れてしまった。最も誇るに足る種々の才能によって「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」。

 他の人々には恵みの誇りがある。これは奇妙な事実だが、世には恵みを誇りにするということがあるのである。ある人は云う。「私には大きな信仰があるから、私は倒れない。弱く小さな信仰なら倒れようとも、私は決して倒れない」。「私には熱烈な愛がある」、と別の人は云う。「私は立っていられる。私が道をそれる危険は何もない。あそこにいる私の兄弟は、云っては何だが非常に冷淡で活気に乏しいので、きっと倒れるだろうが」。さらに別の人は云う。「私には、明々と輝く天国の希望があり、その希望は勝利を得るであろう。それが私の魂から官能と罪をきよめて、主なるキリストのきよさと同じようにしてくれるだろう。私は安全だ」。恵みを誇る者には、少しは誇るに足る恵みがある。しかし、そうする人々の中には、自分たちの種々の恵みによって自分が守られると考えている人々がいる。そうした人々は知らないのである。川が絶えず水源から流れ出ていない限り、その河床はすぐに乾いてしまい、川底の砂利石が姿を現わすということを。もしも絶えず油の流れがともしびに流れ込んでいなければ、きょうは明るく輝いている灯火も、明日には煙りだし、その匂いは鼻をつくようなものとなるであろう。あなたは、自分の才能をも恵みをも誇らないように気をつけるがいい。

 多くの人々はなお悪い。そうした人々は、自分たちの特権ゆえに、倒れることがないと考える。「私は聖礼典を受けている。私は、神のことばに書かれている通り、正統的なしかたで洗礼を受けた。私は、何々先生の牧会を受けている。よく養われている。私の神の庭でみずみずしく、おい茂っている。もし私が、あの、偽りの福音を聞いている、飢えた連中のひとりであったとしたら、たぶん私も罪を犯すだろう。だが、おゝ、私たちの教役者は完璧さの鏡である。私たちは絶えず養われ、潤されている。確かに私たちは立っているに違いない」。このようにこうした人々は、自分の種々の特権に自己満足し、他の人々をこきおろしては、こう叫ぶのである。「私の山は堅く立っている。私は決して動かされることがない」。気をつけるがいい。増上慢よ。気をつけるがいい。高ぶりは倒れに先立ち、心の高慢は破滅の先触れである[箴16:18参照]。気をつけるがいい。自分の足どりに用心するがいい。というのも、高慢が忍び込んでくるところ、それは、とうごまの根にとりついた虫[ヨナ4:7]であり、それが全体をしなびさせ、枯らしてしまうのである。才能や、恵みや、特権ゆえに「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」。

 これまでのところで、ある程度のことについては触れたと思いたい。私は、この槍状刀が鋭利であったと信ずる。私は解剖刀を取った。そして、何事かをあばきだしたと期待する。おゝ、あなたがた、増上慢な人々。私はあなたに語っているのである。そして、やはりあなたに向けて、次のこと、すなわち、あなたの危険について警告しようとしているのである。

 II. この第二の点――《危険》――については、もっと手短に語ろうと思う。立っていると思う者には、倒れる危険がある。真のキリスト者が最終的に堕落し去ることは決してありえないが、非常に手ひどい転落を味わう余地は大いにある。キリスト者が、つまずいて自分のいのちを落とすことはないが、手足を折ることはありえる。確かに神はその御使いたちにキリスト者をゆだねて、そのすべての道でキリスト者を守るように命じてはおられるが、キリスト者が道をそれたときにまで守るよう命令されてはいない。そしてキリスト者は、道をそれたときに、非常な苦痛をもって自分を刺し通すことがありえる[Iテモ6:10参照]。

 1. さて私があなたに示そうとしなくてはならないのは、なぜ自分が立っていると思う人が他の人々よりも倒れる危険にさらされているか、という理由である。最初に、そうした人は、誘惑のただ中にあるとき、多かれ少なかれ不用心になるに違いないからである。ある人に、その人が非常に強いと信じさせてみるがいい。その人は何をするだろうか? 戦いはその人の回りで苛烈をきわめつつあるが、その人は剣を鞘におさめたままである。「おゝ」、とその人は云う。「私の腕は敏捷で力強い。剣を抜いて、急所をつくのはたやすいことだ」。それで、ことによるとその人は戦場で大の字になるか、自分の天幕の中で無精に眠り込むかもしれない。「なぜって」、とその人は云う。「敵が押し寄せて来るのが聞こえたら、私のように非常な武勇と力がありさえすれば、何千人でもなぎ倒せるからだ。お前たち、歩哨どもは、弱虫たちを見張ってやるがいい。足なえ者たちや恐怖者たちのところへ行って、起こしてやるがいい。しかし私は巨人だ。この由緒あるトレドの業物を手にしさえすれば、肉を切り裂き骨を断つは自由自在。私はいつ敵と当たろうと、圧倒的な勝利者となるはずだ」。その人は戦闘において用心をしない。その人は、ゴリヤテがそうしたと云われているように、自分の兜のまびさしを上げる。ところがそのとき、一個の石が額に食い込むのである。その人は自分の盾を放り投げる。ところがそのとき、一本の矢が体に突き刺さるのである。その人は自分の剣を鞘におさめる。そのとき、敵によって打ちかかられ、抵抗するまもなく負かされてしまうのである。自分が強いと思う人は警戒を怠る。その人は、悪い者の攻撃をかわす備えがなく、毒が魂に入り込むのである。

 2. また、自分が立っていると思う人は、誘惑の道から用心して遠ざかっていようとしない。むしろ、そうした道に突き進んでいこうとする。私は、ひとりの人が世俗的な娯楽場に行こうとしているのを見たことを思い出す。――その人は信仰告白者であった。――そこで私はその人を呼んで云った。「エリヤよ。ここで何をしているのか」[I列19:9]。「なぜ、そんなことを訊くんです?」、とその人は云った。私は、「エリヤよ。ここで何をしているのか? あなたは、そこに入ろうとしているではないですか」。「ええ」、と答えたその人はやや顔を赤らめて、「でも私は何の害も受けませんよ」。「私は受けますよ」、と私は云った。「もし私がそこに行ったなら、自分が罪を犯すことはわかっています。私は人がそれについて何と云ったかなどかまいません。私はいつも自分のしたい通りにやるのです。それが正しいことと信ずる限りは。お喋りの方は、私について何だかんだ云いたい人たちにおまかせします。しかし、これは危険な場所であって、私はここで何の害も受けないなどということはありません」。「あゝ!」、とその人は云った。「私は大丈夫ですよ。私は前にも来たことがありますし、ここでなかなかいい気分になりましたとも。ここでは知性がのびのびさせられる気がしますよ。あなたは考え方が狭いですな。こんなに良いものを受け入れられないとは。これは本当に良いものですよ。請け合います。私があなたなら入ってみますね」。「いいえ」、と私は云った。「それは私にとって危険なことです。私の聞いたところ、ここではイエスの御名が汚されているし、私たちの信じている信仰とは正反対のことがたくさん語られているということです。ここに集っている人たちは、決して最上の人々ではありませんし、朱に交われば赤くなる、ときっと云われることになるでしょう」。「あゝ、そうですか」、とその人は答えて、「もしかすると、お若いあなたは離れていた方がいいかもしれませんな。私は一人前の男です。私なら入れますよ」。そういうと、その人はその娯楽場に入っていった。方々。その人は、ソドムの林檎[見かけ倒し]であった。その人は信仰告白者であった。その事実そのものからしても、何か腐ったものがその芯にはあったものと思われる。そして、経験から私はその通りであることを見いだした。というのも、その人は、そのときでさえ全くの官能主義者だったからである。その人は仮面をつけていた。偽善者であった。心の中に全く神の恵みを有していなかった。増上慢な人は、自分は罪の中に入って行ける、それほど道徳的な力に満ちているのだ、と云う。だが、あなたは、人が自分のことを非常に善良だと告げるときには、常にその言葉を裏返して受け取り、その人はこれ以上ないほど最低最悪な人間だと云っているものと理解するがいい。この自信に満ちた人は、倒れる危険にさらされている。なぜなら、その人は自分が強い、いつでも逃げ出せる、と自信満々で誘惑の中にすら踏み込んで行くであろうからである。

 3. もう1つの理由は、こうした強い人々は、時として恵みの手段を使おうとしない。そして、それゆえに、そうした人々は倒れてしまう。この場にいる一部の人々は、決して足繁く礼拝の場に集って来る人ではない。そうした人々は、キリスト教に興味があるなどと公言したりしない。だが、きっとそうした人々は、私がこう告げるとしたら驚くであろう。すなわち、私の知っている、キリスト教に傾倒していると公言する一部の人々は、いくつかの教会で真に神の子らであると受け入れられているにもかかわらず、神の家を休むのを習慣にしているのである。なぜなら、そうした人々は自分があまりにも進歩しているので、その必要がないと考えているからである。笑うべきである。そうした人々は、内側にそれほど深い経験を有しているのである。自宅には、甘やかな説教集があるが、それを手にとって読もうとはしない。神の家に行く必要もない。というのも、そうした人々はみずみずしく、おい茂っているからである。自分にうぬぼれて、自分たちは七年前に十分に食糧を受け取ったのだから、あと十年間はそれで保つと考えている。そうした人々は、古びた食料で今も自分の魂が養われるものと想像する。これは、まさに増上慢な人々である。そうした人々は、主の聖餐台のもとに集って、パンと葡萄酒という聖なる象徴によってキリストのからだを食べ、その血を飲むようなことをしない。あなたは、そうした人々が密室にいるところを見ないであろう。聖なる好奇心をもって聖書を調べているのを見いださないであろう。そうした人々は、自分が立っている――決して動かされない――と思っている。そうした手段は、もっと弱いキリスト者たちのためのものだと思い込んでいる。そして、こうした手段を放っておくため、倒れてしまう。そうした人々は、足に履く靴をほしがらないので、火打石で足を傷つける。武具をまとおうとしないので、敵から打ち傷を受ける。――時には、ほとんど死ぬような大怪我を負わされる。こうした、手段の軽視という深い泥沼に、多くの高ぶった信仰告白者たちが埋め込まれてしまっているのである。

 4. もう1つ、高ぶった人が恐ろしい危険を冒すというのは、神の御霊が常に高慢な者を捨て去るからである。恵みに満ちた御霊は、へりくだった所に住むのを喜ばれる。聖なる鳩はヨルダンに来られた。それが一度でもバシャンに宿ったとは書かれていない。あの白い馬に乗っていた人が立っていたのは、ミルトスの木の間であって、レバノンの杉の間ではなかった[ゼカ1:8参照]。ミルトスの木々は山の麓に生えるが、レバノンの杉はその山頂に生えるのである。神は謙遜さを愛される。恐れとおののきをもって歩む者、自分が道を外れるのではないかと恐れる者、そうした人をこそ御霊は愛される。だが、ひとたび高慢が忍び込み、その人が、「今や私には何1つ危険はない」、と宣言すると、この鳩はいなくなってしまう。天へ飛び去り、その人とは何の関わりも持ちたがらなくなる。高ぶった魂よ。あなたがたは御霊を消しているのである。あなたがた、傲慢な人々よ。あなたがたは聖霊を悲しませているのである[Iテサ5:19; エペ4:30]。御霊は、高慢が宿っているあらゆる心から離れて行かれる。明けの明星の悪しき霊を、御霊は忌み嫌われる。そうした霊とともにとどまっていようとはなさらない。あなたがた、高ぶった人々。ここにこそ、一層大きなあなたの危険があるのである。――すなわち、自分が全く御霊により頼んでいることを否定する者たちから、御霊は離れて行かれる、ということである。

 III. 第三の点は、《助言》である。私は、この聖句を解き明かしてきた。今からはそれを守らせたいと思う。私は、もし私の主がお許しになれば、あなたの魂を突き通すように語り、増上慢な人の危険を描き出したい。そのようにして、あなたがたすべてをして、どうか増長するくらいなら死なせ給え、と天に叫ばせるようにしたいのである。立っていると思い込んだがために倒れることになるくらいなら、キリストの足下にはいつくばって、一生の間震えていさせ給えと叫ばせたいのである。キリスト者たち。聖書の助言はこうである。――「気をつけなさい」。

 1. まず、なぜあなたが気をつけなくてはならないかというと、非常に多くの者たちが倒れてきたからである。私の兄弟よ。もし私があなたを、病み傷ついたキリスト者たちの横たわる病院の病棟に連れて行けるとしたら、きっとあなたは身震いするに違いない。私はあなたにひとりの人を示すであろう。それは、一再ならず自分を征服したある罪によって、手ひどく砕かれた人で、その人の人生には、連綿と悲惨な情景が続いている。別の人も示せるであろう。その人は、華々しい天才で、力を尽くして神に仕えていたが、今は――確かに悪魔の祭司ではないにせよ、きわめてそれに近くなり――自らの罪ゆえに、絶望の中に座り込んでいる。それとは別の人を指し示すこともできよう。その人は、かつては教会の中で敬虔な、裏表のない人として立っていたが、今は、まるで自分を恥じているかのように同じ神の家に来て、どこかの片隅に座り、もはやかつてのようにちやほやされることはなく、兄弟たちからさえ胡散くさげな目で見られている。なぜなら、その人は兄弟たちを大きく欺き、キリストの御国に大きな恥辱をもたらしたからである。おゝ! あなたがたは、このように倒れた人々が忍ぶ悲しい痛みを知っているだろうか? あなたがたにわかるだろうか? いかに多くの人々が倒れ伏し、(確かに滅びはしなかったものの)なおもその全生涯の間、悲惨さの中で足を引きずって歩いているかを。私は、あなたがたが気をつけるに違いないと思う。私とともに、増上慢という山の麓に来てみるがいい。そこで見るがいい。かつてはイカロスの翼をかって自己信頼という空中の領域を高々と飛翔していた多くの者たちが、骨という骨を砕かれ、その平安を台なしにされたまま横たわり、不具になり、もだえ苦しむ姿をさらしているのを。そこに伏しているのは、自らのうちに不滅のいのちを有していた者たちなのである。見るがいい。その人が、いかに痛みに満ちているように見えることか。その人は、何1つ手の施しようのない状態に見受けられる。確かにその人は生きてはいるが、虫の息でしかない。あなたがたは知らない。いかに、こうした人々の中のある者らが天国に入るときには、「火の中をくぐるようにして」救われるかを[Iコリ3:15]。ある人は歩いて天国に行く。その人は常に堅実に生きる。神はその人とともにおられ、その人は、自分の旅の全行程において幸福である。だが別の人は、「私は強い。私は倒れることがない」、と云う。道端に走り寄っては花を摘む。その途中に悪魔が置いていた何かを見る。ある罠にかかったかと思うと、次には別の落とし穴にひっかかる。そして、かの死の河に近づくとき、その人が自分の前に見いだすのは、死に行くキリスト者が飲むべき不老不死の酒ではなく、自分がくぐり抜けなくてはならない火が、その河の水面で赤々と燃えている光景である。その河が火と燃えており、そこに入るにつれて、その人は焼け焦がされ、大やけどを負うのである。神の御手が持ち上げられ、「来るがいい。来るがいい」、と云われる。だが、その人が自分の足をその流れに浸すと、火が自分の回りで燃え立つのがわかる。そして、御手がその人の髪の毛をつかんで、その中から引きずり出して、天国の川辺に立たせるとき、その人は叫ぶのである。「私は神のあわれみの記念碑です。私は火の中をくぐるようにして救われたのですから」。おゝ! キリスト者たち。あなたは火の中をくぐるようにして救われたいだろうか? むしろ、賛美の歌を歌いながら、天国に入りたくはないだろうか? あなたは地上で神の栄光を現わし、それから自分の最後の証しとして、「勝利、勝利、勝利こそ、私たちを愛してくださった方にあるように」、と云ってから地上で目を閉じ、天国でその目を開きたくはないだろうか? もしそうしたければ、増長してはならない。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」。

 2. さらにまた、私の兄弟よ。気をつけるがいい。なぜなら、倒れれば、キリストの御国の進展に多大な害をもたらすからである。いかなることにもまして倍以上も、否、千倍以上もキリスト教信仰が傷つけられるのは、神の民が倒れるときである。あゝ! 真の信仰者が罪を犯すとき、いかに世はそれを指弾することか。「あの男は執事だというのに、何と法外な請求をするのに長けていることか。あの男は信仰告白者だが、その隣人たち同様に人を騙すのがうまいではないか。あの男は教役者だが、罪の生活を送っているぞ」。おゝ! 堂々たる者が倒れるとき、――それは、「もみの木よ。喜べ。杉の木は倒れた」*[ゼカ11:2参照]、ということになる。――いかに世が欣喜雀躍することか。彼らは私たちの罪にほくそえみ、私たちの過ちを喜びとする。彼らは私たちの周囲を飛び回り、私たちの弱みとなる点が1つでも見つかると、いかにこう云うことか。「見よ。あの聖い者たちは、そうあるべきあり方を全然してはいないぞ」。ひとり偽善者がいるからといって、人々は他の全員も同然であると断ずる。私は少し前にある人がこう云うのを聞いたことがある。自分は本物のキリスト者が生きていることなど信じやしない、なぜなら、あまりにも多くの偽善者を見てきたからだ、と。その人は思い起こすべきである。もしひとりとして純粋な者がいなかったとしたら、偽善者などひとりもいないはずだ、と。純良な銀行券がなかったとしたら、だれもそれを偽造しようなどとはしないであろう。もしも本物のソヴリン金貨がなかったとしたら、だれも偽金を流通させようなどと考えないであろう。それと同じく、偽善者が何人もいるという事実は、どこかに純粋な人々がいるという証左である。しかし、純粋であるという人々は、気をつけるがいい。常に自分のふるまいにおいて、真の黄金の指輪をはめているがいい。あなたの生活がキリストの福音にふさわしいものとなるようにするがいい。さもないと、何かしらの形で敵は私たちの上手に立ち、キリストの御名を中傷するからである。

 そして特にこのことを義務として課せられているのは、私たちの教派の会員たちである。というのも、往々にして、私たちが信じている諸教理には人を罪に導く傾向があると云われているからである。私たちが愛し、かつ聖書の中に見いだしている諸教理は高踏的で放縦を招くものである、と断言されるのを私は聞いたことがある。だれにもまして聖い人々がこうした教理の信奉者であったことを考えるとき、よくも厚かましく、このような主張ができるものかと私は思う。私は、カルヴァン主義は放縦を招く信仰だなどとぬけぬけと云う人に問いたい。アウグスティヌスや、カルヴァンや、ホイットフィールドといった、連綿と続く時代時代において、恵みの体系を大いに主唱してきた人々の性格について、あなたはどう考えているか、と。あるいは、その人は、あの清教徒たちについて何と云うだろうか? 彼らの著作には、恵みの教理が満ちている。そうした時代に、ある人がアルミニウス主義者だったとしたら、その人はこの世に生を受けている最も邪悪な異端者であるとみなされたであろう。だが今は私たちが異端者であると思われており、彼らこそ正統派なのである。私たちは古い伝統から出ており、私たちは自分の家系を使徒たちまで辿ることができる。無代価の恵みというこの特質こそ、バプテスト派の説教という説教を通じて流れており、私たちを教派として救ってきたものである。それがなかったとしたら、私たちは今の自分たちの立場にいられなかったはずである。私たちは、ここから聖なる一連の偉大な先人たちを経て、イエス・キリストご自身まで黄金の鎖を引くことができる。彼らは全員が、こうした輝かしい諸真理を奉じていた。そして、私たちは人々に向かってこう云うことができる。これほど聖く、これほど善良な人々を、あなたは一体どこで見いだそうというのか? 私たちは自分たち自身についてこう云うことを恥じはしない。いかに私たちが激しくそしられ、中傷されようとも、だれにもまして神に近く生きていた人々であると見いだされるのは、自分の行ないではなく、無代価の恵みによってのみ救われたと信ずる人々である、と。しかし、おゝ! あなたがた、無代価の恵みを信ずる信仰者たち。注意するがいい。私たちの敵たちはこの教理を憎んでいる。そして、もしだれかが倒れると、彼らは云う。「あゝ、あれを見ろ。それが、お前たちの主義主張の傾向なのだ」。否。私たちはこう答えることができる。あなたがたの教理の傾向を見るがいい。私たちの主張にとって、例外は、この規則の真実さを証明している。すなわち、結局私たちの福音は聖さに導くということである。ありとあらゆる人々の中でも、最も私欲のない敬虔さと、最も崇高な敬神の思いと、最も熱烈な献身の念を有する人々は、自分が行ないではなく恵みのゆえに、信仰によって救われたのだ、それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物なのだ、と信ずる人々である[エペ2:8]。キリスト者よ。気をつけるがいい。さもないと、何かしらの形でキリストはもう一度十字架にかけられ、恥辱を与えられることになるであろう[ヘブ6:6]。

 さて今、これ以上何が私に云えるだろうか? おゝ、あなたがた、愛する方々。あなたがた、私の兄弟たち。自分が立っているとは考えないようにするがいい。倒れてはならないからである。おゝ、あなたがた、永遠のいのちと栄光をともに相続すべき方々。私たちは、連れだって、この物憂い巡礼をともに行進しつつある。そして私は、あなたがたに説教すべく神から召されている私は、あなたがた小さい者たちにいつくしみ深い目を注ぎ、こう云いたい。倒れないように気をつけるがいい。私の兄弟よ。つまずいてはならない。そこかしこに罠があり、落とし穴がある。私がやって来ているのは、路の小石を寄せ集め、つまずきの石を取り除くためである。しかし、私が何をしようと、しかるべき用心と注意をもって、あなたがた自身が気をつけて歩かなければ何にもならない。おゝ、私の兄弟たち。より祈りを積むがいい。真実な礼拝に、より時を費やすがいい。聖書をより熱心に、また、より規則正しく読むがいい。あなたの生活を、より注意深く見張るがいい。神に、より近く生きるがいい。自分のあり方として、最高の模範にならうがいい。自分の生活を、天国の香気のただようものとするがいい。それと同じく、人々があなたについて、あなたがイエスとともにいたのだとわかり、イエスについて知ることができるような生き方をするがいい。また、あなたの愛するお方が、「ここへ上ってきなさい」、と仰る幸いな日が来たときには、そのお方がこう云われるのを聞くことこそあなたの幸福となるようにするがいい。「来なさい。私の愛する者よ。あなたは勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終えました。そして、今からは、しぼむことのない義の栄冠があなたのために用意されているだけです」[IIテモ4:7-8; Iペテ5:4参照]。進むがいい。キリスト者よ。用心しつつ、注意しつつ! 進むがいい。聖なる恐れとおののきをもって! なおも進むがいい。信仰と確信をもって。というのも、あなたは倒れることがないからである。同じ章の次の節を読むがいい。「神は……あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」[Iコリ10:13]。

 しかし、この場にいるある人々は、ことによると、私の声を二度と決して聞くことがないかもしれない。そして私は、神の御助けがある限り、自分の会衆に向かって、救いの道を告げもしないまま去らせはしない。方々。あなたがたの中のある人々は、自分がキリストを信じてはいないことを知っている。もしあなたがたが、いま座っている所で死ぬとしたら、あなたがたには、至福の中で栄化された者らとともによみがえる希望が何1つない。この場のいかに多くの人々が、その心に口さえあれば、こう証言するに違いないことか。すなわち、自分は神なく、キリストから離れ、イスラエルの国から除外されている者である、と[エペ2:12]。おゝ、ならばあなたに、救われるには何をしなくてはならないかを告げさせてほしい。あなたの心臓は動悸を高鳴らせているだろうか? あなたは自分のもろもろの罪について嘆いているだろうか? 自分の不義について悔い改めているだろうか? 生ける神に立ち返りたいと願っているだろうか? もしそうなら、これが救いの道である。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。私は、自分の《主人》の順序を逆さにすることはできない。――主は、「信ぜよ」、と云ってから、「バプテスマを受けよ」、と云っておられる。また、主は私にこう告げておられる。「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。おゝ、話をお聞きの方々。あなたの行ないに、あなたを救うことはできない。確かに私はここまで、キリスト者たちに向かって、良い行ないに富むように生きよと語り、勧めてきたが、私はあなたにそうは語らない。私は、種も持っていない人に向かって、花を手に取れとは云わない。あなたがたが土台を据えてもいないうちから、屋根に上れとは命じない。主イエス・キリストの御名を信ずるがいい。そうすれば、あなたがたは救われる。この場にいるいかなる人であれ、いま罪ある虫けらとして這いつくばり、イエスに身をゆだねるならば、――だれであれその永遠の愛の御腕に身を投げかけるならば、その人は受け入れられるであろう。義と認められ、赦された者としてその戸口から出て行くであろう。その魂は、すでに天国にいるかのように安泰であり、決して失われる危険はないであろう。こうしたことすべては、キリストを信ずる信仰によってなるのである。

 確かにあなたがたには何の議論も必要あるまい。もしそうした必要があると思っていたなら、私はそれを用いていたであろう。私は、あなたがキリストのもとに来るまでここに立って泣いていたであろう。もし私がひとりでもイエスのもとにさらって行けるほど強いと思っていたとしたら、――もし私が道徳的説得によってあなたをかちとれると思っていたとしたら、私はあなたがたの座席1つ1つを回って、どうか神の御名によって悔い改めてくれるように乞い願っていたであろう。しかし、私にそのようなことができない以上、私は干からびた骨たちに向かって預言してしまえば自分の義務を終えているのである[エゼ37:4]。覚えておくがいい。私たちは再び会うことになる。私は雄弁や才知を誇りはしないし、なぜあなたがたがここに来たのかわかってもいない。ただ私は、真っ直ぐに語り、自分の感じていることをあなたに告げるだけである。だが、よく聞くがいい。私たちが神の法廷の前で会うとき、いかに私の話がつたないものであったとしても、私はこう云えるであろう。すなわち、私はあなたに向かって、「イエスの御名を信ずるがいい、そうすれば、あなたは救われる」、と告げておいた、と。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか[エゼ18:31]。地獄がそれほど甘やかだろうか? 永遠の苦悩がそれほど慕わしいだろうか? それらのゆえに、あなたがたが天国の栄光を、永遠の至福を取り落としてよいというのか? 人々よ。あなたは永遠に生きるだろうか? あるいは、獣のように死ぬのだろうか? 「生きる!」、とあなたは云う。よろしい。ならば、あなたは至福の状態の中で生きることを願わないだろうか? おゝ、願わくは神が、心の底からご自分に立ち返ることのできる恵みをあなたに与えてくださるように! 来るがいい。咎ある罪人よ。来るがいい! 神があなたを助けてくださるように。もしも、私の語ったいずれかの言葉で、ひとりでも多くの魂がイエスの目に見える囲いの中に加えられるとしたら、私は十分な報いを受けたことになるであろう。

----

増上慢な者に対する警告[了]

----

HOME | TOP | 目次