HOME | TOP | 目次

イエスの墓

NO. 18

----

----

1855年4月8日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」。――マタ28:6


 キリストの生涯に関係するあらゆる状況は、キリスト者にとって強い関心を呼び起こすものである。私たちの《救い主》は、どこに見受けられようと、私たちの真剣な注意に値する。

   「主の十字架、飼い葉桶、冠ぞ
    なお知られざる 栄光に満つ」。

ベツレヘムの飼い葉桶から、カルバリの十字架に至る、そのすべての難儀な旅程は、私の目には栄光で敷き詰められているように思える。主が踏みしめられたあらゆる地点は、私たちの魂にとって、たちまち聖地となる。そこに、地の《救い主》であり、私たち自身の贖い主であるお方が、一度足を置かれたというだけの理由でそうなる。主がカルバリに赴かれるとき、その関心はいよいよ強くなる。そのとき私たちは、思いのたけを尽くして、十字架上の苦悶を耐えておられる主を一心に見つめる。私たちのいだく深い愛からして、私たちは主を離れることができない。たといその葛藤が終息し、主が息を引き取られたときですら、それは変わらない。主のからだは、十字架から取り降ろされるときにも、私たちの目にはなおも麗しい。――私たちは、動くことのないその肉体の回りに名残を惜しんでとどまる。信仰によって私たちは、アリマタヤのヨセフが、また、あの臆病なニコデモが、かの聖なる女性たちに助けられて、釘を引き抜き、切り苛まれたからだを取り降ろすのを認める。私たちは彼らが、主を清潔な白亜麻布でくるみ、手早く香料の帯を巻き付けるのを目にする。それから彼らが、主を墓に入れ、安息日の休みを取るためその場を去るのを目にする。今回、私たちは、週の初めの日の朝、マリヤが出かけた場所へ行くことにしたい。彼女は、夜明け前に自分の寝床で目覚めた。イエスの墳墓へ、朝まだきに行こうと起きたのである。できるものなら私たちも、神の御霊の助けによって、彼女とともに出かけたいと思う。――肉体においてではなく、霊によって――私たちはその墓の傍らに立つであろう。私たちはそれをしげしげと見つめ、そのとき、1つの真実を語る声が、その空虚な内部から発されるのを聞くであろう。その声によって慰められ、教え導かれた私たちは、イエスの墓を後にするとき、その墓についてこう云うであろう。「これこそ天の門にほかならない」*[創28:17参照]。――これは聖なる場所、深く厳粛な、また私たちの尊い《救い主》のほふられたからだによって聖別された場所にほかならない、と。

 I. 《なされるべき招き》 私は今朝の話の一番最初のこととして、すべてのキリスト者に向かって、私とともにイエスの墓に来るよう招こうと思う。「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」。私は、努めてこの場所を魅力的なものにしよう。優しくあなたの手を取って、そこへと導こう。願わくは、道々私たちが語り合う間、私たちの《主人》が、私たちの心をうちに燃やしてくださるように。

 失せるがいい。あなたがた、俗悪な人々。――あなたがた、人生を笑いと、愚行と、浮かれ騒ぎに費やしている人々! 失せるがいい。あなたがた、浅ましく肉的な精神をした人々。霊的な事がらを全く慕うことなく、天界の事がらに何の喜びも感じない人々。私たちは、あなたについて来てほしいなどとは頼まない。私たちが語りかけているのは神の愛する者、天の相続人たち、聖なるものとされた人々である。贖われた人々、心のきよい人々である。――そして私たちは、そうした人々に云っているのである。「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」、と。確かに、あなたがたには、この聖なる墳墓の方へと足を動かすための何の議論も必要あるまい。だが、それでも私たちは、あらん限りの力を尽くして、あなたの霊をそこへ引き寄せたいと思う。では、来るがいい。というのも、これは偉大な社だからである。これは、かのお方、私たちの種族の《回復者》、死とハデスの《征服者》の憩いの場である。人々は何百哩も旅をしては、ある詩人が呱々の声を上げた場所を見に行く。偉大な英雄の苔むした墓所や、高名な人物の墓をわざわざ訪れる。だが、イエスほど有名な人物の墓を探すとしたら、キリスト者たちはどこへ行けばよいだろうか? 史上最大の人物がだれであったか私に尋ねてみるがいい。――私は答えよう。《人間キリスト・イエス》こそ、「喜びの油をそのともがらにまして注がれた」者であった、と*[詩45:7]。もしあなたがたが、天才の憩いの場たる栄誉を与えられた一室を訪ね求めているとしたら、ここに立ち寄るがいい。もしあなたがたが聖なる墓で礼拝しようというなら、ここに来るがいい。かつて造られた中で最もすぐれた骨々がしばし安置された、尊ばれるべき場所を見たければ、私とともに来るがいい。キリスト者よ。エルサレムの城壁近くにある、かの静謐な園に来るがいい。

 さらに、私とともに来るがいい。なぜなら、それはあなたの最良の友の墓だからである。ユダヤ人たちはマリヤについて、「彼の墓に泣きに行くのだろう」*、と云った[ヨハ11:31]。あなたがたの中のある人々は、友人を喪ったことがあるであろう。そうした人々の墓に花を供えたことがあるであろう。夕まぐれ、行って緑の草土の上に座り、草葉をあなたの涙でぬらしたことがあるであろう。というのも、そこにはあなたの母が横たわり、父が横たわり、妻が横たわっているからである。おゝ! 憂いに満ちた悲しみの中で、私たちの《救い主》が埋葬された、この暗い園に、私とともに来るがいい。あなたの最良の友――あなたの兄弟、しかり、「兄弟よりも親密な者」[箴18:24]――の墓に来るがいい。おゝ、キリスト者よ。あなたの最愛の親族の墓のもとに来るがいい。というのも、イエスはあなたの夫だからである。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主」[イザ54:5]。愛情があなたを引き寄せないだろうか? 愛の甘やかな唇が切々と訴えないだろうか? これほど最愛の者が眠った場所は、その眠りがつかの間のものだったにせよ、神聖なものとされていないだろうか? 確かにあなたがたには、いかなる雄弁も必要ないであろう。たといそれが必要だとしても、私にその持ち合わせはない。私にできることはただ1つ、単純な、だが真剣な口調で、この言葉を繰り返すことである。「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」。この復活祭の朝、主の墓に詣でるがいい。というのも、それはあなたの最良の友の墓だからである。

 しかり、それに加えて、私はさらにあなたをこの敬虔な巡礼へと駆り立てようと思う。来るがいい。というのも、御使いたちがあなたにそう命じているからである。御使いたちは云った。「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」。シリヤ語訳聖書にはこう記されている。「来て、私たちの主を納めてあった場所を見てごらんなさい」。しかり。御使いたちは、自分をこのあわれな女たちと同列に置き、1つの共通の代名詞――私たちの――を用いた。イエスは、人の主であるのと同じく、御使いたちの主でもあられる。あなたがた、かよわい女たち。――あなたがたは、このお方を主と呼んできた。このお方の御足を洗った。このお方の入り用に応じてきた。このお方の甘やかなことばをとらえようと、その御口を一心に見つめてきた。このお方の力強い雄弁さのもとで陶酔してきた。このお方を《先生》と呼び、主と呼んできた。それをよく行なってきた。「しかし」、とこの熾天使は云った。「このお方は私の主でもあるのだ」。会釈して甘やかに彼は云った。「来て、私たちの主を納めてあった場所を見てごらんなさい」。ならば、キリスト者よ。あなたはこの墓の中に踏み入ることを恐れるだろうか? そこに入ることを怖がっているだろうか? 御使いがその指で示し、こう云っているというのに。「来るがいい。私たちは、御使いと人とで連れ立って、王の寝室を見に行こう」。あなたがたも知る通り、御使いたちはすでに主の墓に入っていた。彼らは、主が置かれていた場所で、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに座って、聖なる瞑想にふけっていたからである[ヨハ20:12]。私の脳裡には、この輝かしい熾天使たちがそこに座って、互いに語り合っていた姿が思い浮かぶ。彼らのひとりはこう云った。「ここに主の御足が置かれていたのだ」。そして、もうひとりはこう答えた。「そして、そこに主の御手が、ここに主の御かしらが置かれたのだ」。そして、天上の言語で彼らは、神の深みについて語った。そのとき彼らは身をかがめ、岩の床に口づけした。この床は、御使いたち自身にとってすら聖なるものとされていたのである。彼らが贖われたからではなく、そこで彼らの《主人》であり彼らの《君主》であられるお方が、――その気高いご命令によって彼らを従わせているお方が、しばしの間、死の奴隷となり、滅びのとりことなっておられたからである。では、来るがいい、キリスト者よ。御使いたちがその扉の閂を外す門番なのだから。ひとりの熾天使が、あなたを死そのものの死に場所へと案内する使者なのだから。否。入口から飛びすさってはならない。暗闇に怯えてはならない。この納骨所は死の瘴気で湿ってはいないし、この空気には、いかなる毒も含まれてはいない。来るがいい。というのも、これは、きよく、健やかな場所だからである。この墓に入るのを恐れてはならない。私も、地下墓所は、喜びに満たされている私たちでさえ、好んで入って行きたい場所ではないと認める。そこには、納骨所には、陰鬱で、ぞっとさせられるものがある。そこには腐敗の不快な臭気がたちこめており、しばしば疫病は死体が納められた所から生ずる。だが、恐れてはならない。キリスト者よ。というのも、キリストは地獄に――ハデスに――置き去りにされてはおらず、主のからだは何の腐敗もこうむらなかったからである。来るがいい。そこには何の臭いもしない。しかり、むしろ香りがする。ここに足を踏み入れるがいい。たといあなたがセイロンの微風を吸い、アラビアの果樹園を吹き抜けてきた風を吸い込んだことがあったとしても、イエスのほむべきみからだが残した甘やかで聖なる芳香は、それらにはるかにまさるものであることに気づくであろう。主のみからだという雪花石膏の壺は、ひとたび神性を入れたことによって、甘美で尊いものとされたのである。そこに、あなたの感覚に障るものを見いだすと考えてはならない。決してイエスは腐敗をこうむらなかった。一匹の蛆虫たりとも、主の肉をむさぼり食わなかった。いかなる腐れも主の骨に入り込みはしなかった。主は何の腐敗もこうむらなかった。三日間、主は眠りについておられたが、腐るほど長くはなかった。主はたちまち起き上がった。そこに入られたときと同様に完璧に、また、その肢体がその眠りのために整えられたときと同様に何の損傷も受けないままに起き上がった。それでは、来るがいい。キリスト者よ。思いを集中させ、力を奮い起こすがいい。ここには、甘やかな招きがある。私にもう一押しさせてほしい。瞑想の手によってあなたを導かせてほしい。私の兄弟よ。あなたの空想の腕を取って、あなたにもう一度云わせてほしい。「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」、と。

 私がこの王の墳墓にあなたを訪れさせたい、もう1つの理由がある。――なぜなら、それは静謐な場所だからである。おゝ! 私は安息を切望してきた。というのも、私はこの世の噂話を長い間耳に入れてきたため、切に求めてきたからである。

   「広き荒野に 結びし庵、
    人里離れし 果てなき封土を」。

そこに私は永遠に身を隠したい。私はこの辛苦の人生に飽き飽きしている。私の身はくたくたに疲れ、私の魂はしばしの休息を求めて狂わんばかりである。私は、しばらくの間、美しい花々か、しだれる柳のほか、だれからも遠ざかって、どこか小石の多い小川の岸辺に身を横たえていられたらと思う。私は、責め苛まれた頭脳を癒す芳香を大気が運んでくる場所、夏の蜜蜂の羽音の唸りや、そよ風の囁きや、雲雀のさえずる歌のほか何も聞こえない場所で、じっと横たわっていられたらと思う。ほんの一時安らぐことができたらと願う。私は世間の垢にまみれてしまった。私の頭脳は引き絞られ、私の魂は疲れ切っている。おゝ! キリスト者よ。あなたは静けさを求めているだろうか? 商人よ。あなたは、自分の骨折り仕事からの安息を望んでいるだろうか? たまには安らぎたいと思うだろうか? ならば、ここに来るがいい。ここは、エルサレムの喧噪から遠く離れた、心地よい園である。取引のざわめきや、やかましさは、ここにいるあなたには届かないであろう。「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」。これは、甘やかな安らぎの場所である。あなたの魂にとっての休憩室である。そこであなたはあなたの衣から俗塵をはたき落とし、しばし平安のうちに思いを潜めることができるであろう。

 II. 《払うべき注意》 このように私は、あなたを強く招いてきた。いま私たちはこの墓に入りたいと思う。深い注意を払いつつ、これを吟味し、これに関わるすべての状況に目をとめていこう。

 まず最初に、これが豪華な墓であることに注目するがいい。それは、何の変哲もない墓ではなかった。野垂れ死にした乞食の惨めな、やせこけた遺骨を埋めるために踏み鍬で掘られた穴ぼこではなかった。王侯のような墓であった。大理石づくりの、丘の中腹に掘られたものであった。ここに立つがいい。信仰者よ。そして、なぜイエスがこのように豪華な墳墓を得たか尋ねてみるがいい。主は一枚も優雅な衣を持っていなかった。全く何の刺繍もほどこされていない、上から全部一つに織った、縫い目のない着物を着ていた[ヨハ19:23]。贅沢な宮殿など何も所有していなかった。枕する所もなかった[マタ8:20]。主の履き物は、黄金を散らしたものでも、飾り宝石をちりばめたものでもなかった。主は貧しかった。ならば、なぜ主は立派な墓に入ったのだろうか? 答えよう。その理由はこうである。キリストは、その苦難を受け終えるまで、誉れを与えられなかったのである。キリストのからだは、主がその偉大なみわざを成し遂げるまで侮辱と、辱めと、つばきと、打擲と、非難を忍ばれた。主は足で踏みつけにされ、「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]。だが、主がその務めを完了されるや否や、神は云われたのである。「もはやそのからだが辱められてはならない。それが眠りにつくのなら、高貴な墓で眠らせるがいい。それが休みを得るのなら、貴人たちにそれを葬らせるがいい。議員であるヨセフと、議会の一員のニコデモをその葬儀に列席させるがいい。そのからだには、高価な香料で防腐処置を施し、誉れを授けるがいい。それは十分に侮辱と、辱めと、非難と、打擲を受けてきた。今は、それが敬意をもって遇されるようにするがいい」。キリスト者よ。あなたはこの意味を認識しているだろうか? イエスは、その働きを成し遂げた後で、高価な墓に眠った。というのも、今やその御父は、イエスの働きが成し遂げられたため、イエスを愛し、誉れをお与えになったからである。

 しかし、高価な墓であったとはいえ、それは借り物の墓であった。私は、その墓の天辺に、こう書いてあるのが見える。「アリマタヤのヨセフ家 先祖代々の墓」。だが、イエスはそこで眠りにおつきになった。しかり。主は他人の墳墓に埋葬されたのである。ご自分の持ち家を1つも有しておらず、他の人々の住まいでお休みになったお方、――何の食卓も持たず、ご自分の弟子たちのもてなしによって生活しておられたお方、――説教するために小舟を借り、この広大な世界に無一物であられたお方は、他人のお情けで墓に入らざるをえなかったのである。おゝ! 貧しい人は勇気を持つべきではないだろうか? 彼らは隣人の負担で葬られることを恐れている。だが、もし彼らの貧困が避けがたいものだとしたら、何ゆえに赤面することがあろうか? イエス・キリストご自身が他人の墓に埋葬されたというのに。あゝ! 私にヨセフの墓があったとしたら、イエスを中に葬るべき墓を持っていたとしたら、どんなによいかと思う。善良なヨセフは、それを自分のために掘ったと思っていた。また、そこに自分の骨を納めるのだと思っていた。彼がそれを掘らせたのは、一族の墓所としてであった。だが見よ、《ダビデの子》がそれを王たちの墓の1つとしておられる。しかし、彼はそれを主に貸したことによって失いはしなかった。むしろ、貴重な利子をつけて取り戻した。彼はそれをたった三日間貸しただけで、その後キリストはそれを手放された。主はそれに損害を与えたりせず、むしろそれを香り高くし、聖め、はるかにいやまさって聖なるものとなさった。そのため、それ以後そこに葬られるのは栄誉となったであろう。それは借り物の墓であった。だがなぜ? それは、キリストの栄誉を取り去るためではなかったと思う。むしろ、主の罪が借り物の罪であったのと同じく、主の埋葬も借り物の墓においてであったことを示すためであったと思う。主は私たちの報いをご自分の頭の上にお受けになった。主は決して悪を行なわなかったが、私の罪をすべて、また――もしあなたが信仰者なら――あなたの罪をすべて、お引き受けになった。ご自分のすべての民について、主は確かに、木にかけられたご自分のからだによって、彼らの嘆きをにない、彼らの悲しみをかかえられた。それゆえ、それが他の人々の罪だったのと同じく、主は他の人の墓で憩われたのである。それらが転嫁された罪であったように、その墓も他の人から主へと負わされたものにすぎなかった。それは主の墳墓ではなかった。ヨセフの墓であった。

 私たちは、この敬虔な吟味を退屈に思ったりせず、この聖なる場所に関するすべてのことに、しかと目を注ぎ、注意しようではないか。私たちが注目するところ、この墓は岩を掘ったものであった。それはなぜだったか? 千歳の《岩》が岩の中に葬られた。――岩の中の岩である。しかし、なぜ? ほとんどの人々の示唆するところ、このように定められたのは、弟子たち、あるいは他の者たちが忍び込んで、そのからだを盗み出せる抜け道の全くなかったことを明らかに示すためであった。それが理由であったとは非常に考えられることである。だが、おゝ! わが魂よ。お前に霊的な理由は見いだせないだろうか? キリストの墳墓は岩の中に掘られていた。それは、もろい土に掘られてはいなかった。水によって削り取られたり、ぼろぼろに崩れて、朽ち果てたりするようなものではなかった。私の信ずるところ、その墳墓は今日に至るまで残っている。たといそれが物理的に残っていなくとも、霊的にはそうである。パウロのもろもろの罪を引き取ったのと同じ墳墓が、私の不義をその胸に抱きとめてくれる。というのも、もし私が自分の咎を失うことがあるとすれば、それは私の両肩から墳墓の中へと転がり落ちなくてはならないからである。それは岩の中に掘られていた。ならば、もしもある罪人が千年前に救われたとしたら、私も救い出されることができるのである。というのも、罪が葬られたのは岩の墳墓なのである。――私のもろもろの罪科が永遠に納められたのは、大理石の岩の墳墓だったのである。――そこに葬られて、二度と復活しないのである。

 さらにあなたが注目するであろうように、その墓は、他のいかなる人もまだ納められたことのないものであった。クリストファー・ネスは云う。「キリストは、お生まれになったときには処女の胎に納まり、死なれたときには、処女墓に納められた。彼は、以前に一度も人が眠りについたことがない所でお眠りになった」。その理由は、いかなる者も、よみがえったのは別人だと云うことのないためであった。というのも、そこには他のからだが全くなかったからである。このように人違いはありえなかった。また、だれか古の預言者がそこに葬られていて、キリストがよみがえったのは、その骨に触れたためだと云うこともできなかった。あなたも覚えている通り、エリシャが葬られた後、人々がある人を葬ろうとしていたちょうどその時、その人がこの預言者の骨に触れるや、その人はよみがえったのである[II列13:21]。だがキリストはいかなる預言者の骨にも触れなかった。というのも、そこにはいかなる者もかつて眠りについていなかったからである。それは真新しい部屋であり、そこで地の《君主》は三日三晩休んでおられたのである。

 さて私たちは、ほんの少し注意深く学んできたが、この墓を離れる前に、もう一度、身をかがめて、別のものにも注意してみよう。私たちは墓を見ているが、あなたはその死衣に注意しているだろうか? それは、みな巻かれたままに、元の場所に置かれており、布切れは離れた所に巻かれたままになっていた[ヨハ20:7]。何ゆえに、その布は巻かれていたのだろうか? ユダヤ人たちは、盗人がそのからだを抜き取ったのだと云った。だが、もしそうなら、彼らはその布も盗んでいったに違いない。彼らは絶対に、布を巻き戻して、それほど注意深く置いて行くなどということは考えなかったはずである。そのように考えるには、あまりにも気が急いていたであろう。ならば、なぜそうなっていたのだろうか? 私たちに対して、キリストは大慌てで出ていったのではないと明らかに示すためである。主は最後の瞬間まで眠っておられた。それから目を覚まされた。主は大急ぎで出て行ったのではない。彼らは大急ぎでやって来たのでも、尻に帆かけて逃げ出したのでもない。定められた瞬間に、主に仕える者らがやって来たのである。そのように、ちょうど正確な時、聖定された折に、イエス・キリストはゆったりと起き上がり、その死に装束を脱ぎ捨て、それをすべて後に残して行き、そのきよらかな、裸の無垢のまま出てこられた。ことによると、それは私たちにこう示すためであったかもしれない。すなわち、着物は罪の所産であるため、――罪がキリストによって贖われたとき、主はあらゆる衣服を後に残して行かれたのだ、――衣は咎の状態を示すものだからである。もし私たちが咎を犯さなければ、私たちは決して着物を必要とはしなかったはずである、と。

 それから、頭を覆う布きれが離れた所に置かれていたことに注目するがいい。死衣は後に残されていた。世を去ったあらゆるキリスト者が身につけるためである。死の床には、イエスの衣服という敷布がきちんと敷かれていた。だが、布きれは離れた所に置かれていた。なぜなら、キリスト者が死ぬときには、それを必要としないからである。それは哀悼者たちによって、彼らだけによって用いられるものである。私たちはみな死衣を身に着るが、布きれを必要とすることはない。私たちの友人たちが死んだとき、布きれは私たちが用いるために取っておかれるが、天に上った兄弟や姉妹がそれを用いるだろうか? 否。主なる神は彼らの目からあらゆる涙をぬぐってくださる[黙7:17; 21:4]。私たちは、世を去った親しい者のなきがらの傍らに立ち、自分の涙で彼らの顔をぬらし、彼らの頭の上に嘆きの雨を降らせる。だが、彼らは泣くだろうか? おゝ、否。もし彼らが私たちに上つ空から語りかけることができるとしたら、こう云うはずである。「私のために泣かないでください。私は栄光を受けているのですから。私のために悲しまないでください。私は悪しき世界を後にして、はるかに良い世界に入ったのですから」、と。彼らはいかなる布きれも有していない。――彼らは泣くことがない。奇妙なことに、死を耐えた者の方は泣かずに、それらが死ぬのを見ていた者たちの方が泣くのである。子どもが生まれるとき、それは泣き声を上げるが、他の者らは微笑む(とアラブ人たちは云う)。また、それが死ぬとき、それは微笑むが、他の者らは泣く。キリスト者もそれと同じである。おゝ、ほむべきかな! その布きれは離れた所に置かれている。なぜなら、キリスト者たちは、自分が死ぬとき、それを決して用いないからである。

 III. 《かき立てるべき感情》 私たちはこのように、深い関心をもって、この墓を詳しく調べてきた。そして、望むらくは、何がしかの益を受けとってきた。しかし、それですべてではない。私の愛するキリスト教信仰は、その大きな部分において、感情から成り立っているのである。さて、もし私に力があるとしたら、琴の名手のように、あなたの心の琴線を奏でて、そこから厳粛な音楽の輝かしい調べを引き出したいと思う。というのも、これは深く厳粛な箇所だからである。そこに私はあなたを導いて行きたい。

 第一に、私があなたに命じたいのは、主が納められていた場所を、深い悲しみの感情とともに、立って眺めるということである。おゝ、来るがいい。私の愛する兄弟たち。あなたのイエスは一度そこに納められた。主は殺された側であった。わが魂よ。お前が殺した側なのである。

   「あゝ、汝れ、わが罪、わがむごき罪、
    主を苦しめし おもだてる者。
    わが咎は みな釘となり、
    わが不信こそ 槍となれり。
    あゝ! わが主 血を流せしや?
    かくわが君の 死に給いしや?」

私が殺害したのである。――この右の手がその心臓に短剣を突き立てたのである。私の行ないがキリストを殺害したのである。悲しいかな! 私が私の最も愛するお方を殺害したのである。私を永遠の愛で愛してくださったお方を殺したのである。目よ。お前は、イエスのからだが切り刻まれ、引き裂かれているのを見るとき、なぜ泣くのを拒むのか? おゝ! あなたの悲しみにはけ口を与えるがいい。キリスト者よ。あなたがたにはそうすべき理由が十分にあるのだから。ハートの言葉は至言であると思う。彼の経験したところ、彼はキリストに心を重ねたあまり、キリストの死について喜びよりも悲嘆の方を多く感じることもあるほどだったという。キリストが死ななくてはならなかったことが、彼には、それほど悲しく思われたのである。そして私にとって、イエス・キリストがご自身の血で芋虫どもを買い取るなどというのは、あまりにも大きな代償であるようにしばしば見受けられるのである。思うに、私はイエスを愛するあまり、もし主がこれから苦しもうとしているのを見ることがあったとしたら、ペテロと同じくらいぶしつけに、「そのようなことが、あなたにあってよいはずがありません」、と云ったと思う。だが、そのとき主は私に、「下がれ。サタン」、と云ったであろう[マタ16:22-23]。主は、ご自分を死から引きとめようとするような愛に賛成なさらないからである。「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」「ヨハ18:11」。しかし、私は思う。もし私がその十字架に向かおうとしておられる主を見たとしたら、私は主がそうしないように喜んで懇願できたであろう。そして云えたであろう。「おゝ! イエスよ。死なないでください。私には耐えられません。あなたが、それほど尊い代価を払って私のいのちを買い取ろうとなさるのですか?」 いのちと栄光の君であられるお方が、その美しい手足を苦悶のうちに苛まれ、あわれみを携えられた御手が、呪わしい釘に刺し貫かれ、常に愛をまとっておられたこめかみが、冷酷ないばらに突き刺されるなどというのは、あまりにも高価に過ぎるように思われる。それは、あまりのことと見受けられる。おゝ! 泣くがいい。キリスト者よ。そして、あなたの悲しみをきわめるがいい。その代価は、あまりにも大きすぎるものではないだろうか? あなたの《愛するお方》が、あなたのためにご自分をお捨てになるなどということは。おゝ! 私は考える。もしだれかが他人によって死から救われたとしたら、また、自分の解放者がそうしようとしたために自分のいのちを失ったとしたら、その人は常に深い嘆きを感じるであろう、と。私にはひとりの友人があった。その人は、凍りついた池の岸に立っていたとき、ひとりの男の子が池の中にはまりこんだのを見た。その人は、その子を救おうと氷上に飛び乗った。少年をしっかりと掴んだ後で、彼はその子を両手で持ち上げ、こう叫んだ。「この子はここだ! この子はここだ! 助けたぞ!」 しかし、人々がその男の子をつかんだまさにそのとき、彼自身は水面下に没し、そのからだはしばらく経つまで見つからなかった。見つかったとき彼は完全に死んでいた。おゝ! イエスも全くそれと同じである。私の魂は溺れかけていた。天国の高き表玄関から主は、私が地獄の深みに沈んで行くのを見た。主は飛び込まれた。

   「主はその禍(まが)へ 沈みけり
    われを冠へ 上ぐるため。
    御手より受けし 賜物ぞ、みな
    主を呻かせし 代価にて来ぬ」。

あゝ! 私たちはまことに自分の罪を嘆いてよい。それがイエスを殺害したのだから。

 さて、キリスト者よ。一瞬あなたの様子を変えるがいい。喜びと楽しみとともに、「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」。主は今やそこに納められてはいない。あなたがたがキリストの墓を見るときには、泣くがいい。だが、それは空なのだから、喜ぶがいい。あなたの罪は主を切り殺したが、主の神性は主をよみがえらせた。あなたの咎は主を殺害したが、主の義は主を生き返らせた。おゝ! 主は死の縄目をはじき飛ばされた。墓の死衣の帯をゆるめ、圧倒的な勝利者として、死をその御足で踏み砕いて出て来られた。喜ぶがいい。おゝ、キリスト者よ。主はそこにはおられないのだから。――主はよみがえられた。「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」。

 もう1つの思想を語らせてほしい。私はこの墓から学べる教理のいくつかについて少し語りたいと思う。厳粛な畏怖の念とともに、「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」。というのも、あなたも私も、いつかそこに納められなくてはならないからである。

   「聞けや! 墓より 憂いの音を
    わが耳、聞けよ、その叫びをば。
    汝ら生者よ、その地 見るべし、
    やがて汝ら 横たわらん地を。

    王らよ、この泥 汝が寝台(とこ)ならん
    高きちからも 定めを変えず。
    気高く賢き 尊いかしらも
    われらと同じ 低きに伏さん」。

それは私たちが、あまり思いを致すことのない事実である。だが私たちはみな、じきに死なくてはならない。私は自分がちりから作られており、鉄でできてはいないことを知っている。私の骨は青銅ではなく、私の腱は鋼ではない。もうしばらくすれば、私のからだは、ぼろぼろに砕けて、本来の元素に還らざるをえない。しかし、あなたは自分が土に還るときのことを思い描いたことが一度でもあるだろうか? 愛する方々。あなたがたの中のある人々は、自分がいかに老いているか、いかに死に近づいているかをめったに悟っていない。自分の年齢を思い出す1つの方法は、それがどのくらい残っているかを思い出すことである。八十歳がいかに年老いているか考えてみるがいい。それから、あなたがその年になるまで、いかに僅かな年数しかないか見てみるがいい。私たちは自分のはかなさを思い出すべきである。時として私は、自分が旅立つ時のことを考えてみようとすることがある。私は、自分が事故などで突然死ぬかどうかはわからない。だが私は、突然死を神に願いたい気がする。というのも、突然の死は突然の栄光だからである。私は、ボーモント博士のようにほむべきしかたで死去し、自分の講壇上で死にたいと思う。自分のからだを自分の務めとともに下におろし、働くことと生きることを同時にやめるのである。しかし、それを選ぶのは私のすべきことではない。かりに私が床につき、何週間もの間、痛みと、嘆きと、苦悶の中で生死の境をさまようとしても、その瞬間が来たならば、――私の唇で語るにはあまりにも厳粛なその瞬間が来たならば、――霊がからだを離れるときが来たならば、――たとい医者がそのときが来るのを何週間も、あるいは何年も、私たちがよく云うように(実はそうではないのだが)引き延ばそうとしても、――その瞬間が来るときには、おゝ、お前たち、唇よ。おしとなるがいい。そして、その厳粛さを冒涜してはならない。死が来るとき、いかに強者が屈服してしまうことか。いかに強い者が倒れ伏すことか。彼らは、自分は死なないと云うかもしれない。だが、彼らには何の見込みもない。彼らは屈さざるをえない。矢は深々と突き刺さっている。私の知っているある人は、邪悪なごろつきであった。そして私は、その人が自分の寝室の床を行きつ戻りつしながら、こう云っていた姿を思い出すのである。「おゝ、神よ。俺は死なねええぞ。死んでたまるか」。私が寝床に横たわるようにいくら頼んでも、――というのも、その人は死にかかっていたからだが――その人は云った。自分が歩いていられる限り、自分は死なないのだ、と。そして、その人は死ぬまで歩いていようとしていたのである。あゝ! その人は、極度の苦しみの中で息を引き取った。ひっきりなしに、叫び声をあげながら。「おゝ、神よ。俺は死なねえ」。おゝ! その瞬間、その最期の瞬間よ。おゝ、いかにべったりと汗が額に貼りつくことか、いかに舌が渇き、いかに唇がひからびることか。人はその目を閉ざし、眠りにつく。それから、再び目を開く。そして、もしその人がキリスト者であるなら、私はその人がこう云うであろうことを思い描ける。

   「聞けよ! 囁き、御使い云えり
    姉妹の霊よ、去れよかし。
    こは何ぞ? 我れを吸い込み――
    感覚奪い――、視力を閉ざし――、
    わが霊沈め――、わが息引くは?
    わが魂、答えよ、こは『死』ならんか?」

私たちはその人がいつ死んでいくかわからない。ただ一息、ため息をつく。すると霊は離れ去っている。私たちが「去(い)った」と云う云わずのうちに、贖(か)われた霊は御座の近くにその住居を得ている。では、キリストの墓のもとに来るがいい。というのも、この沈黙せる納骨所がじきにあなたの住まいとならざるをえないからである。キリストの墓所に来るがいい。というのも、あなたはそこで眠りにつかざるをえないからである。そして、あなたがた、罪人よ。あなたもまた、私たちの残りの者と同じように死ななくてはならない。あなたのもろもろの罪はあなたを死の顎から遠ざけることはできない。私は云う。罪人よ。私はあなたにも、キリストの墳墓を眺めてほしい。というのも、あなたが死ぬとき、それについて考えることは、あなたに非常な益をもたらすだろうからである。あなたはエリザベス女王が、あと一時間生きられるなら、一帝国を与えてもよい、と叫んだと聞いたことがあるであろう。あるいは、「北極号」が沈みつつあるとき、船上にいたある紳士の絶望的な叫びについて読んだことがあるだろうか? その人は端艇に向かってこう叫んだのである。「戻ってくれ! 私を乗せてくれたら、三万ポンドあげるから!」 あゝ! あわれな人よ! たとい三万もの世界を持っていたとしても、それでいのちを引き延ばせるとしたら安いものであろう。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです」[ヨブ2:4]。あなたがたの中のある人々は、今朝は笑っていられるし、この公会堂で愉快な時間を過ごそうとしてやって来たが、やがて、まもなく死のうとする時を迎えるであろう。そして、そのときあなたがたは、祈り、いのちを切望し、もう一回だけ安息日を持てたらと悲鳴を上げるであろう。おゝ! 自分がいかに安息日を無駄に費やしてきたかが、あなたの前を生ける亡霊となって歩いていくであろう! おゝ! いかにそれらが、その蛇のような髪の毛をあなたの目の中で降り動かすことか! いかにあなたがたが、自分が貴重な時をあだに過ごしてしまったからと、悲しみを感じさせられ、泣かされることか。そうした機会は、過ぎ去ってしまえば、はるか遠くに去ってしまい、永久に取り戻せないのである。願わくは神があなたを、こうした痛恨の激痛から救ってくださるように。

 IV. 《分け与えられるべき教え》 さて今、キリスト者の兄弟たち。いくつかの教理を学ぶために、「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい」。あなたが、「主を納めてあった場所」を訪れたとき、何を見ただろうか? 「ここにはおられません。よみがえられたからです!」*[マタ28:6] 主の空の墓の傍らに立つとき、あなたが最初に悟るのは、主の神性である。キリストにある死者は、復活の時、まず初めによみがえる[Iテサ4:16]。だが、最初によみがえられたお方――彼らの先達――は、それとは違うしかたでよみがえられた。彼らは、分け与えられる力によってよみがえる。このお方はご自分の力によってよみがえられた。主が墓の中で眠っていることができなかった。なぜなら、主は神であられたからである。死は、もはや主に支配を及ぼしていなかった。何にもましてキリストの神性を証明するもの、それはその驚くべき復活である。御父の栄光によって[ロマ6:4]、主が墓からよみがえられたことである。おゝ、キリスト者よ。あなたのイエスは神なのである。あなたを持ち上げる、その幅広い両肩は、まさに神のものなのである。そして、ここにあなたは、そのことの最良の証拠を有しているのである。――なぜなら、主は墓からよみがえられたからである。

 ここで教えられる第二の教理は、もし聖霊が力をもって適用してくださるとしたら、あなたを魅了してよいであろう。この空の墓を見るがいい。おゝ、真の信仰者よ。それは、あなたの無罪放免と、あなたの完全な釈放のしるしである。もしイエスがその負債を支払わなかったとしたら、主は決して墓からよみがえらなかったであろう。もし主が、永遠の復讐を満足させることによって、その負債を完全に棒引きにしなかったとしたら、主は今朝までそこに横たわっていたであろう。おゝ! 愛する方々。これは、圧倒されるような思想ではないだろうか?

   「完了せり! 完了せり!
    聞けよ、よみがえりし主の叫びを」

天的な牢番がやって来た。ひとりの輝く御使いが天国から小走りでやって来て、その石を転がしてどかした。だが彼は、キリストがすべてを成し遂げていなかったとしたら、そうはしなかったであろう。キリストをそこにとどめておいたであろう。こう云ったであろう。「否。否。あなたは今や罪人なのだ。あなたは、自分の選民全員のもろもろの罪を自分の肩に負っている。そして私は、あなたが最後の一コドラントを支払うまで、自由に出て来させはしない」、と。主が自由に出て行かれたことに、私は自分の釈放を見てとるのである。

   「わがイェスの血ぞ わが全き釈放なる」。

義と認められた者として、私は、神の書の中に私を責める罪を1つも有していない。もし私が神の永遠の書の頁をめくってみたとしたら、私のあらゆる負債が領収済みであり、棒引きにされているのを見てとるであろう。

   「こは古き そむきの罪の赦しなり。
    いかに黒きも 消されたり。
    わが魂、見るべし、驚きて。
    罪ある所に 赦しもあらば。
    汝が血にてわれ 解き放たれん、
    罪の呪いと 負い目より」。

 もう1つの教理を学んで、それで終わりとしよう。――復活の教理である。イエスはよみがえられた。私たちの《救い主》なる主はよみがえられた。それは、主に従う者たちがみな必ずよみがえるためである。私は死ななくてはならない。――このからだは、虫たちの謝肉祭とならざるをえない。それは、あの小さな人食いどもから食われざるをえない。ひょっとするとそれは、地上のある場所から別の場所にまき散らされるかもしれない。この私の肉体を構成する分子は、植物の中に入り、植物から動物の中に入り、このようにして、はるかに遠い土地まで運ばれていくかもしれない。だが、御使いのかしらが喇叭を一吹きするとともに、私のからだのばらばらになった原子の一個一個がその仲間を見いだすであろう。それは、あの幻の谷に横たわっていた骨のように[エゼ37:1]、互いにばらばらになってはいても、神がお語りになる瞬間に、かさこそと骨がその穴にもぐり込み、それからその上を肉が覆うであろう。風が四方から吹いて来て、息が戻るであろう。そのように、たとい私が死んでも、獣が私をむさぼり食っても、火がこのからだを気体と蒸気に変じても、そのあらゆる分子はやがて再び回復されるであろう。この、まさに同一の現実の肉体が、その墓から再び現われるであろう。それは、栄化され、キリストのからだに似たものとなっているが、それでも、同じからだであろう。神がそう云っておられるからである。キリストの同じからだがよみがえった。私のからだもそうなるであろう。おゝ、わが魂よ。お前はいま死ぬのを怖がっているだろうか? お前はしばらくの間、相棒のからだを失うであろう。だが、お前は再び天で結婚するであろう。魂とからだは再び神の御座の前で結び合わされるであろう。墓――それは何だろうか? それはキリスト者がそのからだという衣を入れて、洗いきよめるための浴槽である。死――それは何だろうか? 私たちが不滅のための衣を身にまとう待合室である。それは、エステルのように[エス2:12]、からだが香料に身を浸し、その主から抱擁されるにふさわしくされるための場所である。死は、いのちの門である。ならば、私は死ぬのを恐れないであろう。むしろ、こう云うであろう。

   「震えるなかれ、かの河 渡るを。
    汝が恐れをみな 彼にゆだねよ。――
    その死に給う 愛と力ぞ
    怒濤をしずめ、轟き抑えん。
    安けしは、広がりし波、
    優しきは、夏の宵のごと。
    その心配りを 受けし者らの
    ひとりだに、破船せざらじ」。

では、ここに来て、あらゆる尊い瞑想とともに、主が納められていたこの場所を見るがいい。私の愛する兄弟たち。この日の午後は、それについて瞑想して過ごすがいい。また、泣くにも喜ぶにも、足繁くキリストの墓のもとに行くがいい。あなたがた、小心な者たち。そこに近づくのを恐れてはならない。というのも、小心さこそ、キリストを葬ったものであることを思い起こすのは、決して無駄ではないからである。信仰は、主にいかなる葬儀もささげないであろう。信仰は主を地より高くささげ持ち、決して主を埋葬されたままにしておきはしないであろう。というのも、もし主がよみがえるとしたら、キリストを葬るなどというのは無益だと云ったであろうからである。むしろ恐れこそ、主を葬ったものであった。ニコデモ――あの夜の弟子――、そしてアリマタヤのヨセフが、ひそかに、ユダヤ人を恐れながらやって来て、主を葬ったのである。それゆえ、あなたがた小心な者たちよ。あなたがたもやって来てよいのである。足なえ者よ、あわれな気弱者よ、また、あなた、落胆夫人よ、心配子よ。これをあなたのお気に入りの通い先にするがいい。そこに1つの幕屋を立てるがいい。そこに住むがいい。そして、あなたが苦悩と悲しみの中にあるときには、自分の心に向かって、しばしば云うがいい。「来て、主の納めてあった場所を見てごらんなさい」、と。

----

イエスの墓[了]

HOME | TOP | 目次