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弓を射る者に攻められたるヨセフ

NO. 17

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1855年4月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による」。――創49:23、24


 しらが頭のヤコブが寝床の上に起き上がり、十二人の息子に別れの祝福を授けている姿は、壮観であったに違いない。それまでも彼は、その生涯の幾多の場面で気高い様子を示していた。――ベテルで眠りについていた際にも、ヤボクの渡しにおいても、ペヌエルでびっこをひいていた際にも。彼は、多くの誉れを得てきた老人であった。私たちが畏敬の念とともに首を垂れ、心から、「その当時は、巨人たちが地上にいた」、と云ったであろう類の老人であった[創6:4 <英欽定訳>]。しかし、その人生の終幕こそは最高の光景であった。思うに、もし彼が他のいかなる時にもまして光輝いていたときがあるとしたら、――もし彼の頭が、他のいかなる時期にもまして、栄光の光輪に包まれていたときがあるとしたら、――それは、彼がまさに死なんとするときであった。沈み行く太陽にも似て、彼の輝きはいや増し、その弱さの雲は、内なる恵みの栄光に照り栄えていた。底の底まで澄み切って、何の澱にも濁らされていない純良な葡萄酒のように、ヤコブはその死の時を迎えるまで、過去および未来における、愛と、あわれみと、いつくしみとの歌を歌い続けた。一生の間鳴くことのない白鳥が、その死の間際にただ一度、歌を歌うと(昔の作家たちが)いうように、この老族長も、歌い手としては長い年月の間沈黙を守ってきたが、その最後の憩いの寝床に身を横たえ、その寝台で体を起こすと、燃える目をひとりひとりに注ぎ、途切れ途切れの、しゃがれ声ではありながら、自分の子どもたちひとりひとりについて、1つの短詩を歌ったのである。それは、地上のいかなる霊感されざる詩人も真似しようのない歌であった。わが子ルベンを眺めるときには、一掬の涙が彼の目に宿っていた。その罪を思い起こしたからである。彼はシメオンとレビをも、かすかな叱責をこめて、通り過ぎた。その他の者らについては、各部族の未来の歴史を見てとるままに、賛美の詞を歌った。次第に声がかすれてきた、この善良な老人は、長い溜息をつき、目に天界の火をともし、心に天国をはち切れんばかりに宿し、その声を神に向かって上げては、こう云った。「主よ。私はあなたの救いを待ち望む」[創49:18]。しばし枕の上で休むと、彼はもう一度身を起こし、再びこの詩歌を語り出した。ひとりひとりについて名をあげて、短く歌い継いでいった。しかし、おゝ! 最後から二番目に年少の子、ヨセフの番になったとき、――彼がヨセフに目を向けたとき、私は、この老人の頬を涙が流れ落ちるのが目に見える気がする。そこに立っていたヨセフは、最愛の妻ラケルに生き写しの眼差しをしていた。――そこに立っていた彼は、その母親が、東方の妻としての熱心さをふりしぼって祈り求めた男児であった。二十年もの長きにわたって不妊の女のまま、何の所帯も持つことがなかった彼女は、そのとき喜びに満ちた母親となり、その息子を『増し加われ』と呼んだのである[創30:24]。おゝ! いかに彼女がその男児を愛したことか。そして、その母親のためにこそ、彼女が何年も前に埋葬され、冷たい土の下に隠されてしまった後でさえ、老ヤコブもその子を愛したのである。しかし、それに加えて彼は、ヨセフをその度重なる困苦のゆえに愛した。彼は父から引き離されてエジプトに売り飛ばされてしまった。父は、留置場や地下牢におけるヨセフの試練を思い起こし、そのエジプトのつかさとしての堂々たる尊厳を思い出した。そして今、さながら天上の調べが彼自身のそれと合わさったかに似て一気に激発した音楽とともに、――また、川が河口で海と出会い、上げ潮が流れ下ってきた河水と1つに融合し、広大な水面にみなぎりあふれるのと全く同じく、――天上の栄光が彼の地上的な感情の歓喜と相会い、そのことが彼の魂を吐露させ、彼はこう歌ったのである。「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように」[創49:22-26]。何と壮麗な結句であろう! 彼が与えることのできる祝福はあと1つしか残っていなかった[創49:27]。だが確かに、彼がヨセフに授けたこの祝福こそ、最も豊かなものであった。

 ヨセフは死んだが、主は今もそのヨセフたちを有しておられる。今なお、この箇所の意味するところを自らの経験を通して理解できる者たちがいる。――そして、経験による理解こそ最良の理解にほかならない。「弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手による」*。

 今朝、私たちは4つの事がらについて考えたいと思う。まず第一に、冷酷な攻撃である。――「弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました」。第二に、かくまわれた戦士である。――「彼の弓はたるむことなく」。第三に、彼の隠された力である。――「彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手による」。そして第四に、ヨセフとキリストとの間から引き出される、輝かしい相似である。――「それはイスラエルの岩なる牧者による」。

 I. まず第一に、《冷酷な攻撃》から始めよう。「弓を射る者は彼を激しく攻め」。ヨセフの敵たちは、弓を射る者であった。原語では、「矢の名手たち」となっている。すなわち、矢の扱いに熟達した者らということである。血に飢えた戦士なら、いかなる武器であれ文句はつけないであろうが、弓を射る者の攻撃には、剣士の攻撃よりも卑劣なものがあるように思われる。剣士は相手の間近に立って、生身をさらして戦い、相手は身を守ることも、反撃することもできる。だが弓を射る者は遠く離れて立ち、身を隠して待ち伏せる。そして、その矢が、何も気づいていない相手めがけて風を切って飛んで来ると、心臓を射抜くことすらあるのである。それと全く同じことをするのが、神の民の敵どもである。彼らが、生身をさらして私たちに立ち向かうことはめったにない。その素顔を私たちの前にさらそうとはしない。彼らは光を憎み、暗闇を愛する。彼らは、面と向かって公然と私たちを非難するようなことをしようとはしない。そうすると私たちにも答えが返せるからである。むしろ彼らは遠くから弓を射て、私たちが彼らに答えられないようにする。卑劣かつ卑怯なしかたで、彼らはその鏃を鍛え、狙いを定め、神の民の心臓めがけて、地獄の鳥の羽をつけた矢を放つ。こうした弓を射る者は、あわれなヨセフを激しく攻めた。だれがこれほど冷酷に彼を射たのか考えてみよう。第一に、そこにはねたみの弓を射る者がいた。第二に、誘惑の弓を射る者がいた。そして第三に、中傷と罪人呼ばわりの弓を射る者がいた。

 1. 第一に、ヨセフは、《ねたみ》の弓を射る者に耐えなくてはならなかった。彼が少年だった頃、彼の父は彼を愛した。この若者は容姿端麗で美しかった。人間として、彼は賞賛に値した。その上、彼は気宇広大で、透徹した知性を有していた。だが、何よりもすぐれたことに、彼のうちには生ける神の霊が宿っていた。彼は神と会話を交わしている者であった。敬虔さと、祈り深さに満ちた若者、地上の父親によって愛されている以上に、神から愛されていた者であった。おゝ! いかに彼の父が彼を愛したことか! というのも、彼を溺愛する父は、彼に王子のような、そでつきの長服を作ってやり、他の兄弟にまさる扱いをしていたからである。――これは、自分の愛情を示す自然な、しかし愚かなしかたであった。それゆえ、彼の兄弟たちは彼を憎んだ。若きヨセフが、ひとり引きこもって祈りに行くとき、彼らは散々に彼を嘲っていた。彼がその父の家から離れて兄たちとともにいるとき、彼は彼らの下僕であり、彼らの奴隷であった。そうした冷やかしや、嘲りは、彼の心をしばしば傷つけ、この年弱の子は、多くのひそかな悲しみに耐えていた。ある呪わしい日に、たまたま彼は、家から遠く離れて兄たちとともにいた。彼らは彼を殺そうとはかったが、ルベンの嘆願によって彼を穴に放り込み、摂理のはからいによって、そこへイシュマエル人たちが通りかかった。兄たちは彼を奴隷の値段で売り払い、その長服を脱がせ、裸で彼をいずことも知れぬ地へと送り出した。彼がどこへ行こうと兄たちの知ったことではなかった。二度と彼が顔を見せず、自分たちのねたみや怒りを引き起こしさえしなければよかった。おゝ! 何という苦悶を彼が感じたことか!――父から引き離され、兄たちを失い、ただひとりの友もなく、冷酷な人買いたちに引かれて行ったのである。おそらく手に枷をはめられ、駱駝に鎖で繋がれていたであろう。手枷、足枷をはめられたことのある人々、自分は自由人ではない、自分には自由がないと感じさせられたことのある人々であれば、弓を射る者が、そのねたみの矢で彼を射たとき、それがいかに激しく彼を攻めたかがわかるであろう。彼は奴隷とされ、自分の国から売り飛ばされ、自分の愛するすべてのものから無理矢理引き離された。暖かな家と、そのすべての楽しみよさらば。――父の微笑みと優しい気遣いよさらば。彼は奴隷とならなくてはならない。奴隷監督が命ずるところで苦しい仕事をしなくてはならない。彼は市場で売りに出されなくてはならない。通りで服を脱がされなくてはならない。殴られなくてはならない。鞭打たれなくてはならない。人間から動物へ、自由人から奴隷へと引き下げられなくてはならない。まことに弓を射る者は激しく彼を射た。そして、私の兄弟たち。もしあなたがたが主のヨセフたちだとしたら、あなたはねたみを免れることが望めるだろうか? 私は云う。否である。かの緑の目をした怪物――ねたみは、他の場所と同じくロンドンにも巣くっており、それどころか神の教会の中にすら忍び込んでいる。おゝ! 自分の兄弟たちからねたまれるのは、何にもまして辛いことである。たとい悪魔が私たちを憎むとしても、私たちはそれに耐えられる。たとい神の真理の敵が私たちの悪口を言っても、私たちは自分の武具を身につけて、こう云う。「去れ! 去れ! 剣にものを云わせるぞ」。しかし、家中の友たちが私たちを中傷するとき、――私たちを支えてくれるはずの兄弟たちが敵に変わるとき、――また、彼らが年若い弟たちを踏みにじろうとするとき、そのときは、方々。この箇所には何らかの意味があるのである。「弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました」。しかし、神の御名はほむべきかな。「彼の弓はたるむことなくある」*、と知らされるのは甘やかなことである。あなたがたの中のいかなる人も、ねたみを引き起こすようでなければ、決して神の民ではない。また、あなたがすぐれた者であればあるほど、憎まれるであろう。熟れきった果実こそ、鳥たちから最も嘴でつつかれ、どれよりも長く木についていた花々こそ、最も簡単に風で吹き倒されるものである。しかし恐れてはならない。あなたは、人があなたについて何と云うかなどとは何の関わりもない。もし神があなたを愛しておられるなら、人はあなたを憎むであろう。もし神があなたに誉れをお与えになるとしたら、人はあなたの誉れを奪うであろう。しかし、思い起こすがいい。もしあなたがたが、キリストのために鎖をかけられることがあるとしたら、あなたがたは、天国で黄金の鎖を身に帯びることになり、もしあなたがたが、焼ける鉄の輪を腰に巻き付けられることができるとしたら、あなたがたは、栄光において額に黄金の輪を締めることになるのである。というのも、キリストのために、ありもしないことで悪口雑言を云われるとき、あなたがたは幸いだからである。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されたのである[マタ5:11-12]。最初の弓を射る者は、ねたみの弓を射る者であった。

 2. しかし、これよりもさらに厳しい試練が彼を襲うことになった。《誘惑》の弓を射る者が彼に射かけたのである。ここで私は、いかに語るべきかに窮するものである。私はここに、より一層、このヨセフの試みとヨセフの勝利の物語を語るにふさわしい者がだれかいてくれたらと思う。売られた先の主人からたちまちその真価を見いだされたヨセフは、一家の家令となり、家事全般を管理する者とされた。彼の淫奔な女主人は、その火遊びの相手として彼に目をつけ、絶えず彼女の前にいた彼は、毎日のように彼女から悪しき行ないへと誘われた。彼は常に拒絶した。彼女の誘いという、ゆっくり燃える火にあぶられつつ、殉教の苦しみになおも耐えていたのである。ある決定的な日に、彼女は彼を無理にも罪に押しやろうとして彼を捕まえた。だが彼は、真の英雄のように――事実、彼は英雄だったが――彼女に云った。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」[創39:9]。練達の戦士のように彼は、このような場合、三十六計逃ぐるにしかざることを知っていた。彼は、ある声を耳に聞いていたのである。「逃れよ、ヨセフ。逃れよ。逃げる以外、そこに勝利の道はない」、と。そして彼は逃げ出した。自分の上着を、その浮気な女主人のもとに残して逃げ出した。おゝ、私は云いたい。あらゆる英雄的行為の年代誌の中でも、これを上回るものは1つもない、と。知っての通り、人を犯罪者とするのは機会であり、彼にはありあまるほどの機会があった。だが、執拗な要求の前では、ほとんどの人が道を踏み外すものである。日に日に、この上もなく柔らかな類のしつこい勧誘につきまとわれること、――刻一刻と誘惑されること、――おゝ! 若者がこのように自分の道をきよく保ち、神のことばに従ってそれを守る[詩119:9]には、天使をも超えた力が必要である。人間以上の強さ、ただ神だけがお授けになれる力が必要である。彼は、自分に対して、こう理屈を云うこともできた。「もし私が屈して従えば、私の前には安逸と快楽の生活が待ち受けているのだ。私は権力を得るだろう。富を得るだろう。彼女は夫に説きつけて、私を栄誉で覆ってくれるだろう。だが、もし私が自分の節操を堅く保ったとしたら、私は監獄に叩き込まれるだろう。地下牢に投げ込まれるだろう。そこで私を待ち受けているのは恥辱と不名誉しかない」。おゝ! まことに、この彼の心の内側には1つの力があった。全く驚くべき力があった。それがあればこそ彼は、言葉に尽くすことのできない嫌悪感とともに、恐れおののいて身を退け、こう云ったのである。「どうしてそのようなことができようか? どうして私に――神のヨセフである私に――どうして、そのようなことができようか? 余人は知らず、どうして私に、そのような大きな悪事をして、神に罪を犯すことができるだろうか」。まことに、弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射た。だが、彼の弓はたるむことなくあったのである。

 3. さらに、別の一団の弓射る者が彼を襲った。これらは、《悪意ある罪人呼ばわり》の弓を射る者であった。彼が誘惑に屈そうとしないのを見てとり、彼の女主人は夫に彼を偽って告発した。そして妻の声を信じた彼の主人は、彼を監獄に叩き込んだ。主人が彼が殺さなかったのは驚くべき摂理であった。というのも、彼の主人ポティファルは、死刑執行人たちの長官だったからである。ひとり兵士を呼び出しさえすれば、その場で彼を切り殺すことができたはずであった。しかし、主人は彼を監獄に入れた。可哀想なヨセフはそこにいた。彼の評判は人の目にはだいなしになり、おそらくは獄舎の中でさえ軽蔑の目で見られていたであろう。卑劣な犯罪者たちは、彼の方が自分たちよりもよこしまな者であるかのように、彼から身を退いた。彼とくらべれば自分たちなど天使であるとでもいうかのようであった。おゝ! 自分の評判が形無しになり、自分が中傷されていること、自分について本当でもないことが云われていることを考えるのは、決して容易なことではない。このことによって、他の何ものによっても屈さなかった多くの人々の心も破れてきた。このように悪口を云われていたとき、弓を射る者は彼を激しく攻めていたのである。おゝ、神の子どもよ。あなたはこうした弓射る者らを免れると期待しているだろうか? 自分の熱心さに応じて悪口を云われること、それが神のしもべたちの運命である。かの高潔なホイットフィールドを思い出すがいい。いかに彼が半世代もの間、あらゆる嘲りやからかいの的となっていたことか。その間、彼は、非の打ち所のない生活で答えるしかなかったのである。

   「嘘をこしらえ 矢を放つ者
    兄弟(はらから)のごと その胸にあり」。

彼らは彼に罵詈雑言を浴びせ、ソドムですら決して知られなかったような罪状を彼に帰した。それと同じようなしかたで、神の真理を宣べ伝える人々、キリストに従うすべての人々は常に扱われるはずである。――そうした人々はみな、そうしたことを予期しなくてはならない。だが、神はほむべきかな。彼らは私たちの《主人》について云った以上に悪いことを私たちについて云ったことはない。彼らは私たちにいかなる非難を投げかけてきただろうか? 彼らは、「あれは酔いどれだ、大酒飲みだ」、と云ってはいるであろうが、「あれは悪霊につかれているのだ」、とまで云ってはいない[マタ11:18-19参照]。私たちを気が狂っていると非難してはいるが、それは、パウロについても云われたことである[使26:24; IIコリ5:13]。おゝ、聖なる没我よ、天的な激情よ。私たちが他の人々を噛んで、その人々も同じ狂気を持てるようになるとしたら、どんなによいことか。私たちが思うに、もし天国へ行くことが気違いになることだとしたら、私たちは賢くなることなど選ばないであろう。私たちは地獄の方を好むことのどこに知恵があるのかわからない。神の真理を軽蔑し、憎むことのどこに偉大な思慮があるのか全くわからない。もし神に仕えることが下品であるとするなら、私たちは一層下品になろうと思う。あゝ! 愛する方々。この場にいるある方々は、この節を暗記しているはずである。「弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました」。それを予期するがいい。それを思いがけないことのように考えてはならない。神の民はみな、そうした目に遭わなくてはならない。天国への王道はない。――その道は、試練と困苦の通り道である。弓を射る者は、あなたが大水のこちら側にいる限りは、あなたに射かけるであろう。

 II. 私たちは、こうした弓を射る者が、その矢の雨を浴びせるのを見てきた。さて、これから少し山を登って、1つの岩のかげに《かくまわれた戦士》に目をとめ、こうした弓を射る者が彼を激しく攻めている間も、いかに彼の勇気が保たれているかを見てとることにしよう。彼は何をしているだろうか? 「彼の弓はたるむことなくそこにある」 <英欽定訳>。神に気に入られている者を思い描いてみよう。弓を射る者は下の方にいる。彼の前には岩の胸墻が1つあり、時折、彼は、それ越しに弓を射る者が何をしているかを眺め見るが、普通はそのかげに身を置いている。天的な安全さの中で、彼は岩の上に立たされ、下にある何もかもに無頓着にしている。私たちは、野生の山羊が踏み固めた険路を辿り、この戦士が自分の砦の中で何をしているかを見てみよう。

 最初に私たちの目にとまるのは、彼が自分でも弓を持っているということである。「彼の弓はたるむことなく」、と記されているからである。望みさえすれば反撃できたはずだが、彼は非常に物静かで、彼らと戦いを交えようとはしない。望みさえすれば彼は、渾身の力を込めて自分の弓を引きしぼり、これまで彼らが自分に対してしてきたよりも、はるかに正確無比に彼らの心臓めがけてその武器を放つことができたであろう。しかし、この戦士の穏やかさに注目するがいい。ここに彼は、その強大な手足を伸ばして休んでいる。彼の弓はたるむことなくそこに安置してある。彼はこう云っているかに見える。「いきり立つがいい。左様。お前たちの矢をことごとく費やし、私めがけてお前たちの矢筒を空にするがいい。お前たちの弦を擦り切れさせ、その木切れが、絶えず曲げられることによって、へし折れるようにするがいい。ここに私はいる。ゆったり体を伸ばして休んでいる。私の弓はたるむこととなく安置されている。私はお前たちに矢を射かけること以外に、なすべき他の務めがあるのだ。私の矢は、彼方にいる神の外敵たち、《いと高き方》の敵たちに対するものだ。私はお前たちのような、ちっぽけな雀たちに向かって自分の矢を無駄にすることはできない。お前たちに向けて一本だって矢を無駄にするつもりはない」。このように彼は岩のかげにとどまり、彼らをみな軽蔑しているのである。彼の弓はたるむことなくそこにある。

 また、彼の穏やかさに注目するがいい。彼の弓は「たるむことなくそこにある」*。それは唸りを立てても、絶えず活動してもいず、そこに安置されている。静かにそこにある。彼はそうした攻撃に何の注意も払っていない。弓を射る者は激しくヨセフを攻めたが、彼の弓は彼らに向けられず、たるむことなく置かれていた。彼は自分の弓を彼らに向けなかった。彼らが怒り狂っている間も休んでいた。月は、自分に吠え立てる犬に、いちいち立ち止まって小言を垂れるだろうか? 獅子は、自分に向かって吠える野良犬の方を向いて、いちいちそれを引き裂くだろうか? 星々は、その薄暗さを夜啼鳥が叱責するからといって、輝くのをやめたりするだろうか? 太陽は、図々しい雲がそれを覆うからといって、その道行きの途中で立ち止まったりするだろうか? あるいは、川は、柳がその葉を水面に浸すからといって、流れるのをやめたりするだろうか? あゝ! 否。神の宇宙は動き続ける。そして、たとい人々がそれに反対しようとしても、それは彼らに一顧だにしない。それは神がそうお造りになった通りのままである。それは、相働いて益となることを続けており、人から譴責されたからといって止まったり、称賛されたからといって動き出したりしない。私の兄弟たち。あなたの弓を安置しておくがいい。性急に自分の正しさを主張してはならない。神があなたの面倒をみてくださる。あなた自身のことは放っておくがいい。ただ、イスラエルの主なる神のためにのみ勇を奮うがいい。イエスの真理に堅く立つがいい。そうすれば、あなたの弓は安置されたままであろう。

 しかし、次の言葉を忘れてはならない。「彼の弓は《たるむことなく》」そこにある。彼の弓が唸りを上げていないとはいえ、それは、それが壊れているからではなかった。ヨセフの弓は、ウィリアム征服王の弓と同じく、ヨセフ自身のほかだれにも曲げることができなかった。それは「たるむことなく」そこにあった。私はこの戦士が自分の弓を曲げている姿が目に見える。――いかに彼がその強大な腕によってそれを引き下ろし、そこに弦を張って、いつでも使えるようにすることか。彼の弓はたるむことなく安置されていた。それは、ぽっきり折れたり、反り曲がったりしなかった。彼の純潔は彼の弓であり、彼はそれを失うことがなかった。彼の信仰は彼の弓であり、それは曲がることも、割れ裂けることもなかった。彼の勇気が彼の弓であり、それは彼を裏切ることがなかった。彼の品性、彼の正直さが彼の弓であった。彼もまた、それを投げ捨てはしなかった。ある人々は、自分の評判に神経質になりすぎている。彼らは考える。「われわれの評判は、いやでも、絶対、確実に、がた落ちになる違いない」、と。よろしい。よろしい。もし私たちが自分自身の過ちによって評判を落とすのでないとしたら、私たちは決して他のだれのことも気にする必要はない。あなたも知る通り、人々の間で傑出する人は、例外なく、世間のどこかの馬鹿者から、悪い噂を流されずにはすまないものである。噂を立てるのは、それをやめさせるよりもはるかに簡単なことである。もしあなたが真実を世に流布させたければ、それを牽引する急行列車を雇わなくてはならない。だが、もしあなたが嘘八百を世間に広めたければ、それは翼を駆って飛んで行くのである。それは羽根よりも軽く、一息で飛び回る。かの古い諺は至言である。「嘘は、真実が靴紐を結んでいる間に世界を一周して戻ってくる」。それにもかかわらず、それが私たちに害をなすことはない。というのも、たといそれが羽根のように軽やかに、また素早く駆け巡るとしても、その効果もまた、羽毛が城塞の壁面に吹きつけられたときと同じ程度の衝撃でしかないからである。それは、その軽さとちっぽけさのゆえに、いかなる損害も生み出さない。恐れてはならない。キリスト者よ。たとい中傷が空を飛び、ねたみがその毒舌を吐き、それがあなたを罵ろうとも、あなたの弓はたるむことなくそこにあるであろう。おゝ! かくまわれた戦士よ。穏やかにとどまっているがいい。いかなる悪も恐れてはならない。むしろ、そのはるかな高巣の中にいる鷲のように、平原にいる鳥狩人たちを見下ろすがいい。高みから彼らを睥睨し、云うがいい。「撃ってみるがいい。だが、お前たちの弾は、私が立っている頂の半分までも届くまい。そうしたければ、私めがけてお前たちの火薬を無駄に使うがいい。私はお前たちの手の届かないところにいるのだ」。そしてあなたの翼を打ち鳴らし、天に舞い昇り、そこで彼らをあざ笑うがいい。というのも、あなたは神をあなたの避け所としたからであり、何にもまして安全な住まいを見いだすからである。

 III. 本日の聖句に見られる第三のことは、《隠された強さ》である。「彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手による」*。最初に、彼の強さに関して、それが真の強さであることに注意するがいい。「彼の手」だけではなく、「彼の手の腕」と記されている <英欽定訳>。知っての通り、ある人々はその手を用いて非常に大きなことを行なうことができるが、それはしばしば見せかけだけの力である。その腕には何の力もない。――何の筋肉もない。だが、ヨセフについてはこう云われている。「彼の手のは強くされている」 <英欽定訳>。それは本物の能力、真の筋肉、本物の腱、本物の神経であった。ただの手練の早わざではない。――その指を目にもとまらぬ速さで動かすだけのことではない。――むしろ、彼の手のが強くされているのである。さて、神がご自分のヨセフたちにお与えになる強さは、本物の強さである。空威張りではない。見せかけではない。口先だけのものでも、白日夢でも、絵に描いた餅でもない。本物の強さである。私は神のヨセフたちのひとりと戦うのは御免こうむりたいす。彼らの加える打撃は非常に重いはずである。私は他のいかなる人の一撃にもまさって、キリスト者の一撃を恐れる。彼には骨と腱があり、激しく打つからである。教会の外敵たちが、いのちの世継ぎを攻撃するとしたら、激しい格闘を予期するがいい。巨人たちよりも強大なのは、天の種族たる人々である。ひとたび彼らが奮い立って戦闘を始めたなら、彼らは槍をも鎖かたびらをも笑い飛ばせるであろう。しかし、彼らは忍耐強い一族であり、恨みに思うことなく悪に耐え、嘲る者を罵ることなく嘲りを忍ぶ。彼らの勝利が来るのは、彼らの敵たちが、受けてしかるべき復讐を受けるときである。そのとき、この「小さな群れ」[ルカ12:32]が高い地位の人々であったこと、また、この「あらゆるもののかす」[Iコリ4:13]が実は本物の強さと威厳の持ち主であったことが、集められた全世界によって、見てとられるはずである。

 たとい世がそれを悟っていないとしても、恵みを受けているヨセフには本物の力がある。その手だけでなく、その腕に、本物の力強さ、本物の力がある。おゝ、あなたがた。神の外敵たちよ。あなたがたは神の民のことを蔑まれるべき、無力な者らだと考えている。だが知るがいい。彼らには、その御父の全能さから出た真の強さ、ずっしりと重い、天来の力強さがあるのである。あなたの力は溶け去り、衰え、消え失せる。低い山の頂上に積もった雪が、太陽に照らされるとき、水となって溶けるのと同じである。だが、私たちの活力はアルプスの頂上にある雪のように、何万年経とうと減じることなく、いつまでもとどまり続ける。それが本物の強さである。

 それから、神のヨセフの強さが天来の強さであることに着目するがいい。彼の腕は神によって強められた。なぜ神に仕える教役者たちの中のある者は、力強く福音を宣べ伝えるのだろうか? 神がその人に力を添えておられるからである。なぜヨセフは誘惑に抗して立っているのだろうか? 神が彼を助けておられるからである。キリスト者の強さは天来の強さである。私の兄弟たち。私は毎日、いやまして確信しつつある。罪人には、上から与えられるものを除き、自分には何の力もない、と。私の知るところ、もし私が自分の足で天国の表玄関の黄金の敷居に立たねばならなかったとしたら、――たとい私がこの親指をその掛け金にかけることができたとしても、私にはその扉を開くことができなかったであろう。天国に行くことができた後でさえ、それでも私には、その瞬間に、超自然的な力を自分に伝えてもらわなくてはならないのである。もし私が、神からの助けなしに石を一個持ち上げなくては、自分の救いを達成できないとしたら、その石がいかに小さなものであろうとと、私は失われているに違いない。神の力なしに私に行なえることは何1つない。あらゆる真の強さは天来のものである。光が太陽から出て来るように、――雨が天から降るように、そのように霊的な強さも光の父から生ずるのである。その父に、移り変わりや、移り行く影はない[ヤコ1:17]。

 さらに、この聖句の中で私があなたに注意してほしいのは、いかにほむべきほど親しいしかたによって、神がこの強さをヨセフにお与えになったかである。こう云われている。「彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手による」*。このように、ここでは神が、ヨセフの手にご自分の手をかけてくださるお方、ヨセフの腕にご自分の腕を置いてくださるお方として表わされている。昔、あらゆる少年が弓術の訓練を受けなくてはならなかった時代には、その父親は、いやしくも父親の名に価するような者である限り、自分の手を息子の手にかけて、子どもにかわって弓を引き、こう云う姿が見られたはずである。「ほら、坊主。こういう具合に弓は引くのだ」。そのように、この聖句は神を、ご自分の手をヨセフの手にかけ、ご自分の分厚い御腕をご自分の選びの子どもの腕に添え、その子が強くされるようにしておられるお方として描き出している。父がその子どもたちを教えるように、主はご自分を恐れる者たちをお教えになる。主は御腕を彼らに置かれる。エリヤが自分の口をあの子どもの口の上に、自分の手を子どもの手の上に、自分の足を子どもの足の上に重ねたように[II列4:34]、神もご自分の口をその子らの口の上に、ご自分の御手を教役者たちの手の上に、ご自分の足を御民の足の上に重ねて、私たちを強めてくださるのである。何と驚くべきへりくだりであろう! あなたがた、栄光の星々よ。あなたがたはこのように身をかがめる愛を一度でも目撃したことがあるだろうか? 《全能の神》、《永遠者》、《全能者》が、その御座から身をかがめて、御手を子どもの手の上に置き、御腕を伸ばしてヨセフの腕に置き、彼が強くされるようにしてくださるのである!

 もう1つの思想を語って終わりにしよう。この強さは、契約の強さである。というのも、こう云われているからである。「彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手による」*。さて、聖書の中でヤコブの神について記されているところではどこでも、それは、ヤコブとの契約の神に関係していると思ってよい。あゝ! 私は喜んで神の永遠の契約について語りたいと思う。アルミニウス主義者の中のある人々は、それに耐えることができない。だが私は、救いの契約を愛している。――私の先祖たちによって結ばれた契約でもなく、私と神との間の契約でもなく、キリストと神との間の契約である。キリストは、1つの代価を支払う契約をお結びになり、神は御民を有するという契約をお結びになった。キリストはその代価をお支払いになり、その契約を批准なさった。それで私は、神がご自分の担当部分を履行し、選ばれたあわれみの器をすべてイエスの御手にお与えになると完全に確信しているのである。しかし、愛する方々。あらゆる力、あらゆる恵み、あらゆる祝福、あらゆるあわれみ、あらゆる慰め、私たちの有するあらゆるものは、この契約によって私たちのものとなっているのである。もし何の契約もなかったとしたら、――もし私たちに永遠の憲章を引き裂くことができたとしたら、――もし地獄の王がそれを、イスラエルの王がバラクの巻物にしたように[エレ36:23]、自分の短刀で切り裂くことができたとしたら、そのとき私たちは実際に弱り衰えるであろう。というのも、私たちには、その契約で約束されているもの以外に、何の強さもないからである。契約のあわれみ、契約の恵み、契約の約束、契約の祝福、契約の助け、契約のすべて――これをキリスト者は、天国に入りたければ持たなくてはならない。

 さて、キリスト者よ。弓を射る者はあなたを激しく攻めており、あなたを射て、あなたを傷つけてきた。だが、あなたの弓はたるむことなく、あなたの手の腕は強められている。しかし、おゝ、信仰者よ。あなたは知っているだろうか? あなたは、この点において、あなたの《主人》と似た者にされているのである。

 IV. それが私たちの第四の点――《輝かしい相似》である。「それはイスラエルの岩なる牧者による」。イエス・キリストも、それと全く同じように仕えられた。イスラエルの岩なる牧者は、同様の試練をくぐり抜けられた。主は、弓を射る者から射かけられた。攻められ、傷つけられた。だが主の弓はたるむことなく、主の御腕はヤコブの神によって強められた。そして今、あらゆる祝福は、「その兄弟たちから選び出された者の頭上にある」[創49:26]。私は長々とあなたを引きとめはしない。だが、ほんの少しあなたに告げたいことがある。まず牧者としてのキリストについて、続いて岩としてのキリストについてである。

 キリストは牧者としてこの世に来られた。主が公に姿をお現わしになるや否や、律法学者やパリサイ人たちは云った。「あゝ! 今の今まで、われわれこそが牧者であったのに。今や、われわれは自分たちの栄誉の地位を追われてしまいかねない。われわれは、自分の威厳や、自分の権威をすべて失ってしまいかねない」。こういうわけで彼らは、常に主に矢を射かけたのである。民衆について云えば、彼らは移り気な群れであった。私の信ずるところ、疑いもなく大部分が主を憎んでいたとはいえ、民衆の中の多くの人々は、キリストを尊敬し、賞賛していた。というのも、主がどこへ行こうと、主は人気のある説教者であり、大群衆が常に主に群がり、主を取り巻いては、「ホサナ!」、と叫んでいたからである。私が思うに、もしあなたがあのカルバリの丘の頂上まで登って行き、「十字架だ。十字架につけろ」[ルカ23:21]、と叫んだ人々のひとりに、「あなたはなぜそのようなことを云うのですか? 彼は悪人なのですか?」、と尋ねたとしたら、「いいえ」、と相手は云ったであろう。「彼は、巡り歩いて良いわざをなしてしました」[使10:38]。「では、なぜあなたは十字架につけろと云うのですか?」 「なぜなら、ラビ・シメオンが私に1シェケルくれて、そう叫ぶように云ったからです」。そのように、群衆は祭司たちの金銭と影響力によって大方が鞍替えしたのである。しかし、彼らは結局においてキリストの話を喜んで聞いていた[マコ12:37]。牧者たちこそ、主を憎んだ者らである。なぜなら、主は彼らの商売を取り上げたからである。売り買いする者らを神殿から追い出し、彼らの威厳を減じさせ、彼らの勿体ぶりを無視したからである。それゆえ、彼らは主に我慢がならなかった。しかし《イスラエルの牧者》は、高く、いや高くお上りになった。この方はご自分の羊を引き寄せ、子羊をふところに抱かれた[イザ40:11]。そして今、この方は羊の《大牧者》と認められて立っている。この方こそ、彼らを引き寄せて1つの群れとし、天国へ導いて行かれるお方である。ロウランド・ヒルは、その『村の会話集』の中で、ある奇抜な話を語っている。ある所に、ティップラッシュ氏という、目から鼻に抜けるように知的な説教者がいたという。彼は、その雄弁のほとばしりの1つの中でこう云った。「おゝ、美徳よ。あなたは、何にもまして美しく、麗しい。もしあなたが地上に下って来たとしたら、万人があなたを愛するであろう」。これに加えて彼は、こうした類の美辞麗句を立て続けに並べ立てた。隣村の正直な説教者であるブラント氏が、その日の午後に説教するように依頼されていた。そこで彼は、このご立派な紳士の言葉に、こうつけ足した。「おゝ、美徳よ。あなたは、そのあらゆるきよさと麗しさを身に帯びて、地上にやって来られた。だが、愛され、賞賛されるかわりに、弓を射る者は激しくあなたに射かけ、あなたを攻めた。美徳よ。彼らはあなたを捕え、あなたのわななく肢体を十字架の上にかけた。あなたがそこにつけられて死にかけている間、彼らはあなたに罵りを浴びせかけ、あなたをあざ笑い、あなたを嘲った。あなたが水を欲していたとき、彼らは苦味を混ぜた酢を飲ませた。しかり。あなたが死んだとき、あなたは他人のお情けで墓に入れられ、その墓は憎悪と憎しみで封印された」。《イスラエルの牧者》は蔑まれた。受肉した美徳は憎まれ、忌み嫌われた。それゆえ、恐れてはならない。キリスト者たち。勇気を出すがいい。もしあなたの《主人》がそれをくぐり抜けたとしたら、確かにあなたもそうしなくてはならないからである。

 しめくくりに、この聖句はキリストをイスラエルの岩と呼んでいる。私は、ある物語を聞いたことがある。――本当にあったことかはわからないが、――ユダヤ教のラビたちのひとりがこう伝えている。それは、「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった」、という聖句に関する話である[詩118:22]。ソロモンの神殿が建てられていたとき、あらゆる石は、石切り場から切り整えられて運び込まれ、どの石材にも、それがはめこまれるべき場所が記されていたという。ところが、そうした石の中に、1つ非常に奇妙なものがあった。それは、何とも形容しがたい形をしているように思われ、その建物のいかなる部分にもはめこめないように見受けられた。人々はそれをこの壁で試してみたが、うまくはめこめなかった。別の壁で試してみたが、そこにも合わなかった。それで、腹を立てた彼らは、怒ってそれを投げ捨ててしまった。その神殿は長い年月をかけて建てられていたので、この石はすっかり苔で覆われ、その回りには草が伸び放題になった。通り過ぎるだれもがこの石のことを笑いものにした。彼らは云った。ソロモン様は賢いお方だ、他のどの石も間違いなく正しくできている、だが、この石材については、石切り場に送り返した方がいいだろう、と。それが何の役にも立たないと彼らは確信していたからである。何年も何年も経ったが、この可哀想な石はずっと軽蔑され続け、建てる者たちはそれを受け入れないままであった。やがて、神殿が完成し開所される重大な日がやってきた。その壮大な光景を見物しようと大群衆がつめかて来た。ところが、建てる者たちは云った。「冠石はどこにあるのだ? 頂につける石はどこにあるのだ?」 彼らは頂点につける大理石がどこにあるか、ほとんど考えもしていなかった。そのとき、ある者が云った。「もしかすると、建てる者たちが捨てたあの石は、冠石になるためのものだったかもしれない」。そこで彼らはその石を取り上げて、この宮の頂まで吊り上げた。そして、それが頂点に達したとき、彼らはそれがその場所にぴったりとはめこめることに気づいたのである。天を揺るがすようなホサナの大歓声が上がった。家を建てる者たちの捨てた石が、このようにかなめの石となったのである。キリスト・イエスについても、それと全く同じである。家を建てる者たちは主を捨て去った。主は下賎な庶民であった。出自の卑しい者であった。罪人たちと親しくし、貧しさと、みすぼらしさの中を歩んでいた。こういうわけで、世故にたけた人々は主を蔑んだ。しかし、神が、天にあるものも地にあるものも、一切のものを1つに集められるとき[エペ1:10]、そのときキリストは、万物を究極に完成させるお方として輝かれる。

   「天つキリスト、 かしらの石よ、
    ほまれぞ汝れに ふさわしき」。

主はほめたたえられ、誉れを与えられ、その御名は太陽のように不滅になり、すべての国々が主にあって祝福されるであろう。しかり。すべての民族が主をほめたたえるであろう[詩72:17]。

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弓を射る者に攻められたるヨセフ[了]
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