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霊的自由

NO. 9

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1855年2月18日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「主の御霊のあるところには自由があります」。――IIコリ3:17


 自由は万人の生得の権利である。たとい乞食として生まれようと、捨て子であろうと、親の血筋がまるで定かでなかろうと、自由は決して人から奪うことのできない生得権である。その人は、肌が黒いかもしれない。教育を受けたことがなく、目に一丁字もないまま暮らしているかもしれない。赤貧洗うがごとき貧乏かもしれない。自分のものと呼べる土地は猫の額ほどもないかもしれない。数枚のぼろ布のほか、身を覆う衣服の持ち合わせなどないかもしれない。だが、いかに貧しくはあれ、自然はその人を自由な者とすべく形づくった。――その人には自由になる権利があり、たとい自由を有していないとしても、自由はその人の生得の権利であり、それをかちとるまで、満足すべきではない。

 自由は、アダムのあらゆる息子たち娘たちの法定相続財産である。しかし、キリスト教信仰を伴わないような自由が、どこで見いだせるだろうか? 確かにあらゆる人には、自由になる権利があるが、それと等しく真実なこととして、その自由に出会える国は、主の御霊が見いだせる国だけしかない。「主の御霊のあるところには自由があります」。神に感謝すべきかな、この国は自由な国である。この国は、大気を胸に吸い込んでも、それが、ただのひとりの奴隷の呻きによっても汚されていないと云える国なのである。私は、胸深々とそれを吸い込むとき、その蒸気の中に、引き離されて売り飛ばされたわが子について流された、ただひとりの奴隷女性の涙も混じり合っていないことを知っている。この国は自由の故国である。しかし、なぜそうなのか? 思うにそれは、私たちの制度のためというよりは、主の御霊がここにおられるため――真の、心からなるキリスト教信仰精神があるためである。思い出すがいい、以前は英国にも、他の国々並みの自由しかない時代があった。人々は、自分の意見を自由に云えず、王たちは専制君主であり、議会は名ばかりの存在であった。だれが私たちのために自由をかちとってくれたのだろうか? だれが私たちの鎖をゆるめてくれたのだろうか? 私は云う。神の御手のもとにあって、キリスト教信仰を奉じていた人々である。――かの偉大で、栄誉あるクロムウェルのごとき人々、良心の自由を持たずんば死を選ぶような人々である。――奸知に長けた国王たちの心を動かすことができなかった場合、奴隷となるよりは、国王たちを打ち伏せようとした人々である。私たちは、自分の自由をキリスト教信仰を有する人々に負っている。――厳格な清教徒主義に立つ人々、――臆病者になることも、人から命ぜられるがままに自分の主義原則を譲り渡すことも肯んじなかった人々に負っている。そして、もし私たちが今後私たちの自由を保てるとしたら(それを神がお許しくださるとしたら)、それを英国で保つものは、キリスト教信仰の自由であり、――キリスト教信仰であろう。聖書は、わが英国諸島の大憲章である。その数々の真理、その数々の教理は、私たちの足枷を断ち割った。そして人々が、その心に神の御霊を有しつつ、表立ってその真理を語っている限り、そうした枷が再び私たちに鋲締めされることはありえない。聖書が縛られていない国以外のどこの国においても、――福音が宣べ伝えられている地域以外のどこの地域においても、自由を見いだすことはできない。他のあちこちの国々に行くと、人は口が重くなる。不安になる。自分が鉄の手の下にあることを感ずる。剣が頭上にある。自由ではないのである。なぜ? 人々が、偽りの宗教から生じた専制政治のもとにあるからである。そこには、自由なプロテスタント主義がなく、プロテスタント主義がやって来るまで、そこに自由はありえない。主の御霊があるところにこそ自由はあり、そこ以外にはない。人々は、自分が自由だと語る。種々の模範的な政治形態について述べる。プラトン的な共和国や、オーエン的な楽園について述べる。だが、彼らは夢を見ている理論家にすぎない。というのも、世界には、「主の御霊のあるところ」以外、どこにも自由はありえないからである。

 私が、のっけからこうした思想を述べたのは、世俗の人々に、こう告げるべきだと考えるからである。すなわち、たといキリスト教信仰があなたを救わないとしても、それはすでにあなたに大きな恩恵を及ぼしているのだ。――キリスト教信仰の影響力こそ、あなたのために自由をかちとったものなのだ、と。

 しかし、この聖句でいう自由は、決してそのような自由ではない。それよりも無限に偉大で、すぐれたものである。市民的自由や、信教の自由は偉大なものではあろうが、本日の聖句の自由はそれらをはるかに凌駕している。愛する方々。この世には、キリスト者だけが享受することのできる自由がある。というのも、英国諸島においてすら、自由の甘やかな大気を味わっていない人々がいるからである。一部の人々は、人を恐れ、男らしく語ることができない。だれに対しても卑屈な態度をとり、へつらい、ぺこぺこし、小腰を屈めざるをえない。自分の意志は何もなく、何の筋を通すことも、何の意見も、何の勇気もなく、自覚的に自立してまっすぐ立つことができない。しかし、真理によって自由にされている人こそ自由な人である。心に恵みを有する人、その人はだれをもはばからない。正義はその人の側にある。その人の内側には神がおられる。――聖霊なる霊の内住である。その人は天の王族に連なる王子である。貴族として、高貴の生まれの真の特徴を有している。神の選びの民のひとりであり、卓越した選ばれた子らのひとりであり、人に屈服したり、へらへら屈従する者ではない。否!――その人は、節を曲げるくらいなら、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴとともに燃える炉の中を歩こうとするであろう。――ダニエルとともに獅子の穴に投げ込まれることを選ぶであろう。その人は自由人である。「主の御霊のあるところには自由があります」。それは、最も完全で、最も高く、最も広い意味における自由である。愛する方々。神はあなたに「主の御霊」を有させてくださる。というのも、御霊がなくては、自由国にあっても、あなたがたは今なお奴隷でありえるからである。そして、たとい肉体的に農奴がいないところでも、魂において奴隷となることはありえる。この聖句は《霊的な》自由について語っている。そして今、私は神の子どもたちに語りかけている。兄弟たち。もし自分のうちに「主の御霊」を有しているとしたら、あなたや私は、霊的自由を享受することができる。これは何を意味しているか。それが意味しているのは、私たちが、《霊的》自由を有していないときがあった――私たちが奴隷だったときがあった――ということである。ほんのしばらく前まで、いまキリスト・イエスにあって自由である私たちはみな、悪魔の奴隷であった。私たちは、悪魔の云うなりの捕虜として引き連れられていた。私たちは自由意志について語っていたが、自由意志とは一個の奴隷である。私たちは、自分は思い通りにふるまえると豪語していた。だが、おゝ! 何と奴隷のような、おぼろな自由しか持っていなかったことか。それは架空の自由であった。私たちは、自分の情欲や情動の奴隷であった。――罪の奴隷であった。だが今、私たちは罪から自由にされている。私たちの暴君から解放されている。もっと強い者が、武装していた強い人を追い出し、私たちは自由になったのである[ルカ11:21-22]。

 さて今から、私たちの自由が何に存しているかを、もう少し詳しく吟味してみよう。

 1. まず最初に、愛する方々。「主の御霊のあるところには」、罪の束縛からの「自由があります」。あゝ! 私は、罪の束縛について語るとき、あなたがたの中のある人々に対して思いやり深く語るべきであると承知している。あなたは、そのみじめさがどういうことか知っている。この世のあらゆる束縛や隷属の中で、何よりもすさまじいのは罪の束縛である。エジプトで、わらも支給されずに割り当て通りのれんがを作らなくてはならなかったイスラエルについて語ってみるがいい。無慈悲な監督から鞭打ちを受けている黒人について語ってみるがいい。そうした束縛を受けるのが恐ろしいものであることを私は認める。だが、それよりはるかに悪い束縛が1つある。――自分の咎の重荷を感じさせられ、罪を確信させられた罪人の束縛である。人が、疲れ果てた雄鹿に群がる猟犬のように、いったん自分のもろもろの罪から吠え立てられるようになったときの束縛である。罪の重荷がずっしりと肩にのしかかるときの束縛である。――自分の魂には耐えきれないほどの重荷――それから逃れない限り、永遠の苦悶という深みへと自分を永劫に沈み込ませてしまうであろう重荷にのしかかられている束縛である。私はそうした人を目にしていると思う。その人は決して微笑みを浮かべない。その眉根には暗雲がたれこめている。重々しく、深刻なようすをしている。そして、その人が最も幸せそうに見えるのは、悲嘆の熱いしずくが燃える雨となり、その頬のあぜ溝を熱くすすぐときにほかならない。その人に、あなたは何者ですか、と尋ねると、その人は、「破滅した人間の屑です」、と告げる。どんな具合ですか、と尋ねると、「みじめさのきわみです」、と告白する。いずれ、あなたはどうなります、と尋ねると、「自分は、永遠に炎の中に失われます。何の希望もありません」、と云う。ひとり引き籠もっているときのその人を見てみるがいい。頭を自分の枕にもたせても、ぎょっとして飛び上がる。夜には永遠の苦悶のことを夢に見、昼間には自分が夢見たことを感じとらんばかりとなる。このような者が、束縛のもとにある、あわれな、罪を確信した罪人である。私も、かつてはこのような者であったし、あなたも、愛する方々。かつてはそうであった。私は、それを理解できる人々に語るものである。あなたは、あの陰鬱な《落胆の沼》をくぐり抜けてきた。悔悟という、あの暗い谷間を通ってきた。悔い改めという苦い杯を飲まされた。そして私は、ありとあらゆる束縛の中でも、これこそ――律法の束縛、腐敗の束縛こそ――最も悲痛なものであると宣言するとき、あなたが、「アーメン」、と云うであろうことを知っている。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれが」それから「私を救い出してくれるのでしょうか」[ロマ7:24]。しかし、キリスト者は自由である。以前は泣いていたが、今は微笑むことができる。嘆いていたが、今は喜ぶことができる。キリスト者は云う。「今や私の良心には何の罪ものしかかっておらず、私の胸には何の悪ものしかかっていない。私は、影という影におびえながら歩く必要も、自分の出会うあらゆる人を恐れる必要もない。罪が洗い流されているからである。私の霊は、もはや罪に定められてはいない。それはきよい。聖である。神の渋面はもはや私の上にとどまってはいない。むしろ、私の御父が微笑んでおられる。私には、その御目が見てとれる。――それは愛のまなざしである。その御声が聞こえる。――それは甘やかさに満ちている。私は赦されている、私は赦されている、私は赦されている! 万歳! 枷の破壊者、栄えあるイエスよ! あゝ! その束縛が失せ去った最初の瞬間よ! 私は今もそれを思い出せる気がする。私は、目の前に十字架にかけられたイエスを見た。イエスについた考えた。そして、その死と苦しみを思い巡らすにつれて、イエスが私の方を見ているかのように思った。そして、イエスが私を見つめているとき、私はイエスを見て、云った。

   『わが魂を 愛するイエスよ
    飛ばせ給え われを御胸に』。

イエスは、『来なさい』、と云われ、私はイエスのもとに飛んで行き、イエスを抱きしめた。そして、イエスが再び私を行かせたとき、私は自分の重荷はどこにあるのかと不思議に思った。それはなくなっていた! そこに、墳墓の中に、それは横たわっていた。そして、私は空気のように軽くなっていた。翼ある風の精のように、山なす困難をも、絶望をも、飛び越えることができた。そして、おゝ! いかなる自由と喜びを得たことか! 私は恍惚として飛び跳ねることができた。私は多くを赦され、今や罪から自由にされたのだ」。愛する方々。これこそ神の子どもたちの最初の自由である。「主の御霊のあるところには」、罪の束縛からの「自由があります」。

 2. 罪の罰からの自由。――これは何だろうか? 永遠の死――永劫の苦悶、――それが罪の悲しき罰である。もし自分がいま死んだら地獄にいるかもしれないという恐れは、甘やかでも何でもない。ここに立って、もし今、転がり落ちたなら、サタンの腕の中に落ち、サタンから苦悶させられるに違いないと考えるのは、全く楽しいことではない。というのも、方々。これこそ私を苛むであろう考えだからである。これこそ、私の存在の最も苦い呪いとなるであろう考えである。私は、こうした罰を受けるかもしれないと考えながら地上を歩くくらいなら、死んで墓の中で腐っている方を喜んで選ぶであろう。あなたがたの中には、これほど罪に満ちた自分が罰されないとしたら神は間違っている、と信ずるほどの状態に至らされている人がいるであろう。あなたは、ひそかな犯罪によって――そう、あえて云うが、ひそかな犯罪によって――、また、公然たるそむきの罪によって神に反逆してきたあまり、もし神が自分を罰さないとしたら、神は神であることをやめざるをえず、その王位を退かざるをえないと悟ったのではないだろうか? そして、そのときあなたは、罪の罰を恐れて震え、呻き、叫びをあげた。あなたは夢の中で、かの燃える池を見たと思った。その波は火であり、そのうねる大波は永遠に燃えさかる硫黄であった。そして、あなたが地上を歩む毎日は、もしや次の一歩で底知れぬ穴に落ちていくのではないかという恐れと恐怖と隣り合わせなのである。しかし、キリスト者よ、キリスト者よ。あなたは罪の罰から自由なのである。あなたはそれを知っているだろうか? その事実を認められるだろうか? あなたは、この瞬間、罪の罰から自由なのである。あなたは赦されているだけではない。あなたのもろもろの罪が、いかにはなはだしく、巨大なものであったとしても、そうした罪のゆえにあなたが罰されることは決してありえないのである。

   「罪人は 十字架につける 御神をば
    信じて頼る その瞬間(とき)に
    たちまち受くなり その赦し
    全き救い 御血(ち)によりて」

そして、その人が罪のゆえに罰を受けることは決してありえない。信仰者に下る罰! そのようなものはどこにもない。この定命の人生における種々の患難は、キリスト者にとっては、罪への罰ではない。私には何の地獄もない。いくらそれが煙を発して燃え上がっていようと、私が信仰者でありさえすれば、私が受けるべき分は、そこには全くない。私にとって、永遠の拷問だの苦悶だのは何1つない。というのも、義と認められている以上、私が罪に定められることはありえないからである。イエスは私にかわって罰を受けてくださった。それで、もし神が私をもう一度罰するとしたら、神は不正を働くことになるである。というのも、キリストは一度苦しみを受け、永遠に義を満足させたからである。良心が私に向かって、お前は罪人だ、と告げるとき、私は良心にこう告げる。私はキリストの立場に立っており、キリストが私の立場に立っているのだ。まことに私は罪人である。だがキリストは、罪人たちのために死なれたのだ。まことに私は罰を受けるに値する者である。だが、もし私の身代わりが死んだのなら、神はその負債の二重払いを求めるだろうか? 不可能である! 神はそれを棒引きにしてくださった。信仰者が地獄に落ちることなど、ひとりたりとも、これまでなかったし、今後も決してない。私たちは、罰から自由にされており、そのことのゆえに身震いする必要など全くない。その罰がいかに恐るべきものであるにせよ――もしそれが、私たちも知る通り永遠のものであるとしても――、私たちにとってそれは何でもない。というのも、私たちがそれを受けることは決してありえないからである。天国は、その真珠の門を開いて私たちを迎え入れるであろう。だが、地獄の鉄門は、いかなる信仰者の前にも永遠に閉ざされている。神の子らの何と輝かしい自由であろう!

 3. しかし、こうした事がらよりも、さらに驚くべきもう1つの事実がある。そして、あえて云うが、あなたがたの中のある人々は、それに意義を唱えるであろう。それにもかかわらず、これは神の真理であり、あなたがそれを好まないとしても、文句を云ってはならない! そこには罪の咎からの自由がある。これは驚異の中の驚異である。キリスト者は、信じた瞬間から、もはやはっきりと咎がないのである。さて、もし女王陛下が寛大にも、ある殺人者に恩赦を与えてお赦しになるとしたら、その男が罰を受けることはありえない。だが、それでもその男には咎がとどまり続けるであろう。陛下は何千回も特赦を与えることができるし、法律には何の手出しもできないが、それでもその男には咎があるであろう。その犯罪を行なったという責が常にあり、一生の間、殺人者の烙印が押されているであろう。しかし、キリスト者は束縛と罰から解放されているだけでなく、はっきり咎からも放免されているのである。さて、これはあなたが驚愕させられることであろう。あなたは云う。「何ですと? キリスト者はもう神の御前で罪人ではないというのですか?」 私は答える。キリスト者は、その人自身において考えられれば罪人である。だが、キリストというお方においては、もはや御使いガブリエルに劣らぬほど罪人ではない。というのも、いくら御使いの翼が純白で、いくら智天使の衣にしみ1つなくとも、御使いは、血潮で洗われた、あわれな罪人が雪より白くされたときほどきよくなることはできないからである。罪人の咎そのものが取り去られるとはいかなることか、あなたは理解しているだろうか? 今日ここで、私は咎のある、罪に定められた反逆者として立っている。そこにキリストが私を救うためにやって来られ、独房から出るよう私に命じてくださるのである。「わたしは、あなたの立場に立とう。わたしが、あなたの身代わりになろう。わたしが罪人になろう。あなたのすべての咎はわたしに転嫁されることになる。わたしは、そのために死のう。そのために苦しみを受けよう。あなたのもろもろの罪を引き受けよう」。それから、キリストはご自分の衣を脱ぐと、こう云われる。「さあ、それを着るがいい。あなたは、あたかもキリストであるかのようにみなされれるであろう。あなたは義なる者となるであろう。わたしはあなたの立場をとり、あなたはわたしの立場をとることになるのだ」。それから、キリストは私に完璧な義という輝かしい衣を着せかけてくださる。そして私は、それを眺めるときこう叫ぶ。「何たる不思議。わが魂よ。お前は、わが長兄の装いを身につけている」。イエス・キリストの冠が私の頭にあり、そのしみ1つない衣が私の腰の周りにあり、その黄金の靴が私の足の履き物となっている。そして今、何か罪があるだろうか? 罪はキリストの上にある。義は私の上にある。《正義》よ、罪人を呼び出すがいい! 《正義》は叫ぶがいい。「罪人を引き出せ!」 罪人が連れて来られる。だれを死刑執行人は引っ立ててくるだろうか? 受肉した神の御子である。確かに御子は罪を犯したことがなかった。何の過ちもなかった。だが、それは御子に転嫁されているのである。御子は罪人の立場に立っているのである。さて《正義》は叫ぶ。「義人を引き出すがいい! 完璧な義人を」。私はだれを見るだろうか? 見よ、《教会》が連れてこられる。信仰者ひとりひとりが連れてこられる。《正義》は云う。「この者どもは完璧に義であるか?」 「そうです。彼らは完璧に義です。キリストが行なったことは彼らのものであり、彼らが行なったことはキリストの上に置かれています。キリストの義は彼らのものであり、彼らのもろもろの罪はキリストのものです」。あなたがた、不敬虔な人たち。私はあなたに訴えたい。これは奇妙で驚くべきことに見えるではなかろうか。あなたはこれを超カルヴァン主義のせいだと云い、それを笑っている。好きに思うがいい。方々。神はそれをご自分の真理であると主張しておられる。転嫁されたイエス・キリストの義によって、私たちを義としておられる。さて今、もし私が真の信仰者だとしたら、ここで私はあらゆる罪から自由にされて立っているのである。神の書の中には、1つとして私を責める犯罪はない。それは永遠に消し去られている。帳消しにされている。そして、私は決して罰されることがあり得ないだけでなく、罰されるべきものを何1つ有していない。キリストが私のもろもろの罪を贖ってくださり、私はキリストの義を受けているのである。「主の御霊のあるところには自由があります」。

 4. さらに、キリスト者は、罪の咎と罰から解放されているだけでなく、それと同じように、罪の支配からも解放されている。あらゆる生きた人間は、回心する前は、情欲の奴隷である。卑俗な人々は、自由な生き方と、自由な考え方を誇りとしている。彼らはこれを自由な生き方と呼ぶのである。――なみなみとつがれた杯、どんちゃん騒ぎの歓楽、大声をあげての浮かれ騒ぎ、不倫。――自由な生き方だ。方々! 奴隷にその足鎖を持ち上げさせ、私の耳元でジャラジャラ鳴らさせ、こう云わせるがいい。「これは音楽だ、私は自由だ」。そのような人間は、あわれな気違いである。ベスレヘム精神病院の独房に鎖でつながれた人間は、自分は王だと私に告げ、すさまじいニタニタ笑いを浮かべるがいい。私は云う。「あゝ、あわれでみじめな人間だ。私は、彼がなぜな自分を王だと云うかわかっている。彼は発狂しているのだ。狂人なのだ」。それと同じことが、自分は自由だという世の人々についてもあてはまる。自由だと! あなたは奴隷である。あなたは自分が幸せだと思っている。だが、夜あなたが寝床で横になるとき、幾度あなたは、まんじりともせず、心乱れたまま、輾転反側し、目覚めたときには、「あゝ! 昨日はひどかった――昨日はひどかった!」、と云ってきたことか。そして、あなたが、再び罪の一日に没入しても、その「昨日」は、地獄の犬のようにあなたに吠えつき、あなたのすぐ後を追い迫ってくる。あなたはそれがわかっている。――罪は束縛であり、隷属である。では、あなたはその隷属から免れようと試みたことが一度でもあるだろうか? 「ええ、あります」、とあなたは云う。しかし、私はあなたにその結末がいかなるものであったか告げるであろう。あなたがそう試みたとき、あなたは自分の枷をそれまでより堅く締めつけたのである。自分の鎖を鋲締めしてしまったのである。恵みを有さない罪人が自己改善しようとするのは、シーシュポスが大石を山に押し上げようとするようなもので、そのつど石はいやまさる力で下に転がり落ちるものである。恵みを有さずに自分を救おうと試みる人は、底の抜けた桶で巨大な器に水を汲み続けるダナオスの娘たちのように甲斐ない務めに携わっているのである。その人の弓に弦はなく、剣に刃はなく、銃に火薬は詰まっていない。その人には力が必要である。私も、その人がうつろな改善を生み出せることは認めよう。その人は、火山に土をかぶせ、噴火口の周りに花を植えつけることはできるであろう。だが、いったんそれが再び活動し始めれば、それはその土を吹き飛ばし、熱い溶岩がその人が植えた綺麗な花々の上を流れ落ち、その人の働きも、その人の義も、もろともに打ちのめすであろう。恵みを有さない罪人は奴隷である。自分の罪から自分を解放することができない。しかし、キリスト者はそうではない! キリスト者は自分の罪の奴隷だろうか? 神の生粋の相続人が奴隷だろうか? おゝ、否。その人は罪を犯さない。神から生まれているからである。汚れの中で生きはしない。不滅を受け継ぐべき相続人だからである。あなたがた、地の乞食どもは身を屈めて悪しき行ないに手を染めるのもよいが、天の血の王子たちは正しい行ないに携わらなくてはならない。あなたがた、あわれな世の人々、神の御前において卑しく、あわれむべき、みじめな者ども――あなたがたは不正直に、不義に生きてもかまわないが、天国の相続人はそうすることができない。その人は自分の主を愛している。罪の力から自由になっている。その人の行ないは義であり、その人の最後は永遠のいのちである。私たちは罪の支配から自由なのである。

 5. さらにまた、「主の御霊のあるところには」、あらゆる聖なる愛の行ないにおいて「自由があります」。――律法に対する奴隷的な恐怖からの自由がある。多くの人々が正直にふるまうのは、警官を恐れるからである。多くの人々が酒を飲まないのは、世間の目を恐れるからである。多くの人が一見キリスト教を信じているように見えるのは、その隣人たちのためである。世の中には、葡萄の果汁に似た美徳がごまんとある。――それは、搾られないと表に出てこない。何もしなくとも、たっぷりと流れ落ちる蜜蜂の巣の濃厚なしたたりとは違う。あえて云うが、人がもし神の恵みを欠いているなら、その人の行ないは奴隷行為でしかない。そこには強制される感じがつきまとっている。これは私の確かな経験である。神の子どもたちの自由に入れられるまでの私は、教会に行ったとしても、それは義務的に行かなければならないと考えたからであった。祈ったとしても、祈りを欠かしたらその日何か不幸なことが起こるかもしれないと恐れたからであった。神のあわれみに感謝することがあっても、感謝しなければ次の恵みが受けられないかもしれないと思ったからであった。正しい行ないをしたとしても、それはやがて神からの報いを受け、天国で栄冠を勝ちとれるだろうと望んでのことであった。私はみじめな奴隷にすぎず、たきぎを割り水を汲むギブオン人でしかなかった[ヨシ9:27]。そうしないですんだなら、私は喜んでしないですませたことであろう。自分の思い通りになったなら、決して教会になど通わず、信仰など気にもかけなかったであろう。もし好きなようにしてよいと云われたなら、私はこの世にひたって生き、サタンの道に従っていたことであろう。私は義については奴隷そのものであった。罪こそ私の自由であった。しかし、キリスト者よ。今は何があなたの自由だろうか? 何があなたを今日、神の家に来させているのだろうか?

   「愛こそ 汝が いとわぬ足を
    御旨に従い 迅(と)く歩ましむ」。

何があなたの足を祈りのために屈ませるのだろうか? それは、あなたが、隠れた所で見ておられるあなたの父と語り合うのを好んでいるからである。何があなたの財布を開いて、あなたにふんだんに献金させているのだろうか? それは、あなたが貧しい神の子らを愛しており、これほど多くのものが自分に与えられている以上、キリストに一部をお返しするのは特権であると感じているからである。何があなたを強いて、正直で、正しく、慎み深く生活させているのだろうか? 監獄への恐れだろうか? 否。たとい監獄が引き倒され、流刑地が消滅し、あらゆる足鎖が海に放り込まれたとしても、私たちは今あるのと全く同じくらい聖くしているはずである。ある人々は云う。「それでは、先生。あなたはキリスト者が好き放題に生きてよいと云っているのですか?」 私は、そうすることができたらよいと思う。もし私が自分の好む通りに生きることができたとしたら、私は常に聖く生きるであろう。もしあるキリスト者が自分の好む通りに生きることができたとしたら、その人は常にしかるべき生き方をするであろう。その人にとって、罪を犯すことは隷属であり、義はその人の楽しみである。おゝ! もし私が自分の欲する通りに生きられたとしたら、私はしかるべき生き方をしたいと思う。もし自分の望む通りに生きることができさえしたら、私は神がお命じになる通りに生きたいと思う。キリスト者の最大の幸福は、聖くなることである。それはキリスト者にとって何の隷属でもない。あなたの好きなところにキリスト者を置いてみるがいい。彼は罪を犯さないであろう。彼を何らかの誘惑にさらしてみるがいい。もし、悪の心がまだ残っていなかったとしたら、決して彼が罪を犯すところは見つけられないであろう。聖さこそ彼の喜びであり、罪は彼の隷属なのである。あゝ、あなたがた、ただの義務感から教会や会堂にやって来る、あわれな奴隷たち。あゝ! あなたがた、単に足枷ゆえに正直にし、牢屋があるがゆえに酒を飲まない、あわれな奴隷的道徳家たち。あゝ! あなたがた、あわれな奴隷たち! 私たちはそうではない。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にある。私たちを無律法主義者と呼びたければ呼ぶがいい。私たちは、その人聞きの悪い呼び名すら誇りとするであろう。私たちは律法から自由にされているが、その自由は、今までありえなかったほどそれに従えるようになるためなのである。神の生粋の子どもは、今までありえなかったほどその《主人》に仕える。古のアースキンが云っているように、

   「よし人が ともなるわが主をそしるとも、
    否、否。吾を主のものとせし愛 先立てり。
    とこしえの愛 よく支配せば
    人みなす、この慈悲に従わざるをえじと。
    人感ず、この贖いの愛に縛られたるを。
    罪なきアダムも つゆなきほどに」。

 6. しかし、しめくくりに、「主の御霊のあるところには」、死の恐れからの「自由があります」。おゝ、死よ! お前が、いかに多くの甘い杯を苦くしてきたことか。おゝ、死よ! お前が、いかに多くの歓楽を打ちのめしてきたことか。おゝ、死よ! お前が、いかに多くの大食漢の宴会を台無しにしてきたことか。おゝ、死よ! お前が、いかに多くの罪深い快楽を苦痛に転じてきたことか。愛する方々。今朝、遠眼鏡を手にとって、これからほんの数年間を見通しみるがいい。冷酷な死は、遠くでその大鎌をつかんでいる。彼は迫りつつあり、迫りつつあり、迫りつつある。そして、彼の後には何が続くだろうか? あゝ、それはあなた自身の人格にかかっている。もしあなたが神の子どもだとしたら、そこには棕櫚の枝がある。もしそうでなければ、あなたは死の後に何が続くか知っている。――地獄が彼の後に続くのである。おゝ、死よ! お前の亡霊は、罪がはびこっていたはずの多くの家にとりついている。おゝ、死よ! お前の冷え冷えとした手は、情欲にふくれあがった多くの心に触れて、それをその犯罪から恐れて飛びすさらせてきた。おゝ! いかに多くの人々が死の恐れの奴隷となっていることか。この世の半分の人々は、死ぬのを恐れている。一部の狂人は大砲の口の前へと行進することができ、一部の馬鹿者は手を血に染めたまま、自分の《造り主》の法廷へと突進していく。だが、ほとんどの人は死ぬのを恐れる。死ぬのを恐れない人間とは、いかなる人だろうか? 私が教えよう。それは信仰者となった人である。死ぬのを恐れる! 神に感謝すべきかな、私は死を恐れない。虎列剌は今度の夏にも再びやって来るかもしれない。――そうならないことを私は神に祈るものだが、たといそうなったとしても、私にとっては大したことではない。私は、自分が倒れるまで夜も昼も骨を折り、病んだ人を訪問するであろう。もしそれが私にとりつくとしたら、突然の死は突然の栄光である。それと同じことは、この建物の中で一番弱い聖徒についても云える。肉体が消滅することを見越しても、あなたはおののくことはない。時には恐れることもあるが、それよりもずっと喜ぶことが多い。あなたは静かに座って、死のことを考える。死とは何だろうか? それは、あなたが身を屈めて天国に入る、背の低い柱廊にほかならない。生とは何だろうか? それは、私たちを栄光から隔てる細い仕切りにほかならず、死はそれを取り除いてくれるのである。私は、ひとりの善良な老婦人の言葉を思い起こす。彼女は云った。「死ぬのがこわいかですって、先生! 私は、この五十年の間ずっと、朝ごはんの前には自分の足をヨルダン川にひたしてきたんですよ。それが、今になって死ぬのをこわがるとお思いですか?」 死ぬ! 愛する方々。なに私たちは何百回となく死ぬのである。私たちにとって「毎日が死の連続です」[Iコリ15:31]。私たちは毎朝死に、毎晩眠るときに死に、信仰によって死ぬ。そのようにして、死ぬことは、いざ本当にそうするときには、古なじみの行ないとなっているのである。私たちは云うはずである。「あゝ、死よ! お前と私は古いつきあいである。私は、お前を自分の寝室に毎晩迎え入れていた。お前と毎日話をかわしていた。化粧机の上にどくろを置き、しばしばお前のことを考えてきた。死よ! ついにお前はやって来たが、お前は喜ばしい訪問客だ。――お前は光の御使いであり、私の最高の友だ」、と。おや、ならば、あなたがいざ死ぬというとき、神があなたを離れ去る恐れなど何もないというのに、死を恐怖するというのか! ここで私はあなたに、ある善良なウェールズ人婦人の逸話を告げなくてはならない。彼女は、臨終の床についているときに、彼女の教役者の訪問を受けた。彼は彼女に云った。「姉妹よ、あなたは沈んではいませんか?」 彼女は彼に一言も答えなかったが、信じられないような目で彼を見つめた。彼はもう一度、「姉妹よ、あなたは沈んではいませんか?」、という問いを繰り返した。彼女は再び彼を見つめた。まるで、彼がそのような問いをするとは信じられないというかのようであった。とうとう彼女は、床の上で少し身を起こして云った。「沈んでいないかですって! 沈んでいないかですって! あなたは一度でも罪人が岩を通して沈んでいくのを見たことがあるのですか? もし私が砂の上に立っているとしたら、沈んでいくこともあるでしょう。でも、神に感謝します。私は《千歳の岩》の上に立っていて、そこでは全く沈むことはないのです」。死ぬのは何と栄光に富むことであろう! おゝ、御使いらよ、来よ! おゝ、万軍の主の軍隊よ、お前たちの広やかな翼を伸ばし、伸ばして、私たちを地上から持ち上げるがいい。おゝ、翼のある熾天使よ、下界のつまらぬ物事の手が届かない、はるかな高みへと私たちを持ち運ぶがいい。だが、お前たちが来るまで、私はこう歌っていよう。

   「イエス、わがものなれば、われ恐れず脱がん、
    否、喜び捨てん、この土の衣をば。
    主にありて死ぬは 契約の祝福。
    イエスゆえに栄光あり。死が先達なれど」。

 さて今、愛する方々。私はあなたに、この自由の消極的な側面をできる限り手短に示してきた。私が、努めてあなたに告げようとしてきたのは――できる限りふさわしく簡潔に云い表わそうとしてきたのは――、私たちがいかなることから自由にされているか、ということであった。しかし、このような問題には2つの側面があるものである。私たちは、いくつかの栄光に富む物事へと自由にされているのである。私たちは、あらゆる意味において、律法から、また死の恐れから自由にされているだけではなく、何事かを受けるためにも自由にされているのである。長々と時間をとるつもりはないが、私たちが自由にされた目的たるいくつかの事がらを、小走りに眺めることにしよう。というのも、私の兄弟たるキリスト者たち。「主の御霊のあるところには自由があります」。そして、その自由は私たちに、ある特定の権利と特権の数々を与えているからである。

 第一のこととして、私たちは、天国の権利章典を受けるべく自由にされている。天国には権利の章典が――大憲章が――ある。聖書である。そして、私の兄弟よ。あなたはそれを受けるために自由にされているのである。ここには、えり抜きの箇所の1つがある。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、大水にも、あなたは押し流されない」*[イザ43:2]。あなたは、これを受けるために自由にされているのである。ここには、もう1つある。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移ら……ない」[イザ54:10]。あなたは、これを受けるために自由にされているのである。ここには、もう1つある。「自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」[ヨハ13:1]。あなたは、これを受けるために自由にされているのである。「主の御霊のあるところには自由があります」。ここには、選びに触れた章がある。あなたは、選びの民でありさえすれば、それを受けるべく自由にされているのである。ここには、もう1つ、義人が罪に定められることなく、彼らが義と認められることについて語られている。あなたは、それを受けるべく自由にされているのである。あなたは、聖書の中にあるすべてのことを受けるべく自由にされている。ここには、決してなくならない宝庫があり、そこには恵みの備えが無尽蔵に満ちている。それは、天国の銀行である。あなたはそこから、自分の好きなだけ、何の障害もなく引き出してよい。信仰のほか、何も持っていくことはない。自分にかき集められるだけの信仰を持って行けば、聖書の中にあるすべてをあなたは自由に使うことができる。その中のただの1つの約束も、ただの一言の言葉も、あなたのものでないものはない。患難の深みにおいて、それによって慰めを得るがいい。苦悩の波のただ中で、それによって励まされるがいい。悲しみがあなたを取り巻くとき、それによって助けられるがいい。ここには、あなたの父の愛のしるしがある。それが決してふさがれたり、ちりで覆われたりしないようにするがいい。あなたは、それを受けるべく自由にされているのである。――ならば、あなたの自由を用いるがいい。

 次に、あなたが恵みの御座に行けるように自由にされていることを思い起こすがいい。英国人の特権、それは、彼らが常に国会へ嘆願書を送ることができる、ということである。そして、信仰者の特権、それは、彼が常に神の御座に嘆願書を送れる、ということなのである。私は、神の御座に行けるように自由にされている。もし私が明日の朝、神に語りたければ、私はそうすることができる。もし今夜、私の《造り主》と会話を交わしたければ、私はこのお方のもとに行くことができる。その御座のもとに行く権利がある。私がこれまでいかに多く罪を犯してきたかは関係ない。私は行って、赦しを求めるだけである。私がいかに貧しいかなど何の意味も持たない。――私は行って、私のあらゆる必要を満たしてくださるとの御約束を申し立てる。私には、いついかなるときにも、その御座のもとに行く権利がある。――真夜中の最も闇が深い時刻にも、真昼の熱さの中でもかまわない。どこにいようと――たとい私が運命の赴くまま広大な地球の最果ての地にいようと――、それでも私は絶えず神の御座に行くことが許されている。その権利を用いるがいい。愛する方々。――その権利を用いるがいい。あなたがたの中に自分の特権を目一杯用いて生きている人は、ひとりもいない。多くの紳士たちは、自分の収入を越えた生活をし、手元に入ってくる以上の金銭を費やしている。だが、キリスト者の中には、ひとりたりとも、そうしている者はいない。――つまり、自分の霊的な収入の限度一杯に達するほど生きてはいない。おゝ、否! あなたには無限の収入がある。――種々の約束という収入がある。――恵みの収入がある。そして、いかなるキリスト者も、自分の収入を使い果たすほど生きてきたことはない。ある人々はいう。「もし私にもっとお金があったなら、もっと広い家や、馬や、馬車や、そうしたものが持てるでしょうに」、と。よろしい。全く結構。だが私は、キリスト者が同じことをしていたらどんなによいかと思う。私は彼らが、もっと広い家を構え、もっと大きなことを神のために行なうことを願う。もっと幸せなようすをし、その目から涙を取り去られてほしいと願う。

   「信仰の 目当てはついぞ われをして
    より少なき楽しみ 得さすにあらじ」。

神があなたに与えてくださるほどの蓄えを銀行に有し、それほど多くを手元に有しているあなたに、貧しくしている権利は全くない。立てよ! 喜べ! 喜べ! キリスト者は、その収入の限度一杯生きるべきである。それ以下で生きていてはならない。

 それから、もしあなたに「主の御霊」があるなら、愛する方々。あなたには、都に入る権利がある。あえて云うが、このロンドンの市中に多くの自由市民がおり、それは、まず間違いなく、大きな特権である。私自身はロンドンの自由市民ではないが、さらにすぐれた都の自由市民である。

   「救いのきみよ、もしわれシオンの
    ――恵みによりて――町びとなれば、
    よし世のあざみ さげすみあるとも、
    われは誇らん、ただ汝が御名を」。

あなたはシオンの都の自由を受ける権利があるのに、それを行使していない。私は、あなたがたの中のある人々と言葉をかわしたい。あなたは非常に善良なキリスト者だというのに、今まで一度も教会に加わったことがない。あなたは、信ずる者がバプテスマを受けるのはきわめて正しいことを知っている。だが、私が思うに、あなたは自分が溺れることを恐れて、決してやって来ようとしない。それで聖餐式が毎月一度開かれ、神の子どもであれば、だれしもそれにあずかれるというのに、あなたは決してそれに近づかないのである。それはなぜなのか? これは、あなたの晩餐会なのである。私は、もし自分が参事会員だったとしたら、市中晩餐会に出席しないことなどと考えないであろう。そして、キリスト者である私は、キリスト者の晩餐会に出席せずにはいられない。それは聖徒たちの晩餐会なのである。

   「天つ御使い つゆ味わざりき。
    贖いの恵み、死に給う愛を」。

あなたがたの中のある人々は、一度も聖餐式にやって来たことがない。あなたは主の定めをないがしろにしている。主は「わたしを覚えて、これを行ないなさい」、と云っておられる[Iコリ11:24]。あなたは都の自由を得ている。だが、それを手に取ろうとはしない。あなたには、門を通って都に入る権利がある。だが、城外に立っている。兄弟よ。中に入るがいい。私が手を貸そう。これ以上教会の外にとどまっていてはならない。あなたには中に入る権利があるのだから。

 それから、しめくくりに、あなたには、私たち全員の母なるエルサレムの自由がある。それこそ最高の賜物である。私たちは天国を受けるべく自由にされている。キリスト者が死ぬとき、その人は、天国の門を開くことのできる開け、胡麻を知っている。その門をするすると開け放てる合言葉を知っている。自分が贖われた者であることを証しし、検問所を通り抜けさせる白い石を持っている。エホバの領土に入ることのできる旅券を持っている。あなたがた、未回心の人々よ。私は、あなたがたが影の国で、自分の受ける分を探してあちこちさまよっているのが見えるような気がする。あなたがたは天国の張り出し門のもとにやって来る。雄大にそびえ立つ門である。その門の上には、「義人のみ入りうべし」、と記されている。あなたがたは、立ちながら、門衛を探している。たけ高い大天使が門の上に姿を見せるので、あなたがたは云う。「御使いよ、私を入らせてくれ」。「あなたの衣はどこにあるのか?」 あなたは探すが、何の衣も有していない。あなたにあるのはただ、自分で紡いだ数枚のぼろ布だけで、結婚式の礼服は一着もない。「私を入らせてくれ」、とあなたは云う。「悪鬼どもが、私を向こうの穴に引きずり込もうと追いかけてくるのだ。おゝ、私を入らせてくれ」。しかし、御使いは静かに見つめると、その指を上げて云う。「あれを読むがいい」。すると、そこには、「義人のほか、何者も入るべからず」、と記されている。そのとき、あなたはおののきを感じ、膝はがくがくと打ち、手は震え出す。あなたの骨が青銅であっても、それは溶けてしまい、あなたのあばら骨が鉄でできていても、それは液化してしまう。あゝ! そこにあなたは立ちつくし、身震いし、ぶるぶるとおののき、わなないている。だが、それも長くは続かない。ある大音声が響き渡り、あなたを恐怖させ、へたへたと崩れ折れさせるからである。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」[マタ25:41]。おゝ、話をお聞きの愛する方々。それがあなたの受ける分であろうか? あなたを愛する私は――今朝あなたを愛し、常にそうしていたいと希望する私は――云いたい。それが、あなたの運命だろうか? あなたは、都に入る自由を得たくないだろうか? 自由を与える御霊を求めたくないだろうか? あゝ! あなたがたが自力にまかされたら、その自由を得られないことは私も承知している。ことによると、あなたがたの中のある人々は、決してそれを得られないであろう。おゝ、神よ。願わくはそうした人々が少ないように。しかし、救われる人々の数が非常に多いものであるように!

   「返れよ、わが魂、汝が安きに。
    汝が大祭司による 贖い代は、
    捕われの身を 自由にするなり。
    霊験あらたかなる血に頼り、
    恐るな、神から追放さるるを。
    イエス汝がために 死にければ」。

霊的自由[了]

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