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弱々しい聖徒らへの甘やかな慰め

NO. 6

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1855年2月4日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは」。――マタ12:20


 名声とはお喋りなもので、常にだれかれのことをペチャクチャ語るのが大好きである。それは、ある人々の栄誉を吹聴し、その名誉を天より高くほめそやす。ある人々は名声のお気に入りであり、彼らの名前は大理石の上に刻まれ、あらゆる国、あらゆる地方で耳にされる。名声は公平な審判ではない。名声には、えこひいきする者たちがいる。ある人々を名声はほめそやし、ほとんど神格化する。他の人々は、はるかに大きな美徳と、より賞賛に値する性格を有していながら、名声は一顧もせずに無視し、その唇に指をあてる。一般に見いだされるところ、名声によって愛される人々は、青銅か鉄のような不屈の精神と、荒々しい性質をしている。名声はカエサルをちやほやする。なぜなら、彼は地上を鉄の杖で支配したからである。名声はルターを愛する。彼が大胆に、男らしくローマ教皇に戦いを挑み、眉をしかめては、ヴァチカンの雷を笑い飛ばしたからである。名声はノックスを賞賛する。彼が断固たる人物で、いかなる勇者よりも勇敢であることを示したからである。概して、名声が選び出すのは、情熱と気概があり、同胞たる人間の前で微塵も恐れなく立ち上がり、全身これ勇気からなり、大胆不敵さの塊で、決して臆病を知らなかった人々である。しかし、ご存じのように、人間の中にはそれと同じくらい美徳に満ち、同じくらい――ことによると、いやまさって――尊ばれるべきでありながら、名声から完全に忘れ去られている、別の種別の人々がいる。名声が、優しい気質であったメランヒトンのことを語るのは聞かれない。――名声は彼についてほとんど口にしない。――だが彼は、宗教改革において、ことによると、あの勇壮なルターにすら匹敵する大事業を行なったのである。名声が、親切で、清らかなラザフォードについて、また彼の口から放たれていた天的な言葉について語るのはほとんど聞かれない。あるいは、一生の間、癇癪を起こしたことがなかったと噂されたレイトン大主教についてはほとんど聞かれない。名声は、嵐雲をもものともしない、荒々しい花崗岩の山頂を愛する。谷間にあって、疲れた旅人が腰を下ろすような、ずっとつつましやかな石にはかまわない。大胆で、目につくものを求める。一般受けするようなもの、大向こうを唸らせるようなものを求める。物陰に引っ込んでいるような人々のことはかまわない。私の兄弟たち。こういうわけで、ほむべきイエスは、私たちの敬慕する《主人》は、名声を逸しているのである。イエスについては、その弟子たち以外、だれも大したことを語らない。彼の御名が、偉人や英雄たちと並んで記されることはない。真実を云えば彼は、いまだ生を受けた人々の中で最も偉大で、最も強く、最も聖く、最も高潔で、最もすぐれたお方であったが、彼が「いとも優しく おだやかなイエス」であられ、その国がはっきりこの世のものでないお方であったために、――粗雑なところを何1つ有しておらず、すべてが愛であられたために、――また、そのことばが乳酪よりも柔らかで、その話が油よりもなめらかに流れるものであったために、――また、このお方ほど優しく語った人がこれまでひとりもいなかったために、――それゆえにイエスは無視され、忘れ去られているのである。彼はその剣によって征服者となるためにやって来たのでも、その火を吐くような雄弁によって一個のマホメットになるためにやって来たのでもなく、「かすかな細い声」で語るためにやって来られたのである。彼は、その声によって岩のような心を溶かし、霊の打ち砕かれた者を包み、絶えずこう云っておられた。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」[マタ11:28-29]。イエス・キリストは、全く優しさに満ちておられた。そして、これこそ彼が、そうでなかった場合に予期されるほど人々の間でほめそやされていない理由なのである。愛する方々! 本日の聖句は優しさで満ちている。深く愛にひたり切っているように思われる。私は今、この聖句から語る中で、イエスの測り知れない思いやりと、底知れぬ優しさとを、少しでもあなたに示せたらいいと思う。ここで注目したいことは3つである! 第一に、人間のもろさ。第二に、神のあわれみ深さ。そして第三に、確実な勝利である。――「公義を勝利に導くまでは」。

 I. 第一に、私たちの前にあるのは、《人間のもろさ》――いたんだ葦と、くすぶる燈心――非常に示唆に富む、また非常に豊かな意味を有する2つの隠喩である。もし、これが空想を飛躍させすぎていないとしたら――たとい飛躍のさせすぎだとしても、あなたがたは私を許してくれると承知しているが――、私はこう云いたい。いたんだ葦とは、罪の確信の最初の段階にある罪人の象徴である、と。神の聖霊のみわざは、痛めることから始まる。救われるためには、未開墾の土地が耕されなくてはならず、かたくなな心が砕かれ、岩がばらばらに割られなくてはならない。昔のある神学者の言葉によれば、ハデスの門を厳しく通らない限り天国に行くことはかなわない。――大きな魂の試練と心の葛藤を経なくてはかなわない。それで私の解釈によると、いたんだ葦とは、神がそのお働きを魂に及ぼし始めた際のあわれな罪人の象徴である。その人はいたんだ葦である。ほぼ完全に折れ砕け、やつれ果て、身の裡にほとんど何の力もない。くすぶる燈心とは、信仰が後退しつつあるキリスト者であると思う。若い頃には燃えて輝くともしびであったが、恵みの手段をないがしろにし、神の御霊が身を引き、罪に陥ることによって、その人の光はほとんど消えんばかりになっている。――むろん完全に消え果ててはいない。――それが消え果てることは決してない。キリストが、「わたしはそれを消さない」、と云っておられるからである。だが、それは、油の切れかかった灯火のように――ほとんど役に立たないものに――なっている。――完全に消えてしまったわけではない。――くすぶっている。――かつては役に立つ灯火だったが、今ではくすぶる燈心のようになっている。それで私は、これらの隠喩は、ほぼ間違いなく、悔悟した罪人をいたんだ葦として、また信仰後退したキリスト者をくすぶる燈心として描き出していると思う。しかしながら、私はそのような区分を設けようとは思わない。むしろ、両方の隠喩を1つに合わせたい。そして、そこからいくつかの思想を引き出せたらよいと願っている。

 まず最初に、本日の聖句で差し出されている励ましは、弱い人々にあてはまる。この世で、いたんだ葦や、くすぶる燈心よりも弱いものがあるだろうか? 沼地や湿地に生えている葦は、野生の鴨がその上に舞い降りただけでポッキリ折れてしまう。人の足がかすっただけで、それはいたんで、傷ついてしまう。川を越え、うなりを立てて吹き過ぎる風という風が、それを前後左右に震えさせ、ほとんど根こぎにしそうになる。いたんだ葦ほどもろく、はかないものは考えられない。あるいは、いたんだ葦ほど、状況によってその存在を左右されるものは考えられない。では、くすぶる燈心を見てみるがいい。――これは何だろうか? その中には火花がある。それは確かである。だが、それはほとんど窒息しかかっている。幼子が息を吹きかけただけでそれを吹き消すことができよう。あるいは、少女の涙だけで、一瞬のうちに消えてしまうであろう。くすぶる燈心の中に隠された小さな火花ほど存在のあやふやなものはない。見ての通り、ここでは弱いものが述べられているのである。よろしい。キリストはそうしたものらについてこう云っておられる。「わたしはいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」。ここで私に、ひ弱な者らを探しに行かせてほしい。あゝ! 遠くまで行くことはない。今朝、この祈りの家の中にいる多くの人々は実に弱い。むろん、神の御名はほむべきかな、神の子らのある者らは、強い者とされて、神のために力強い働きを行なっている。神は、そこここに、そのサムソンたちを有しておられ、彼らはガザの門を引き抜くと、それを山の上まで運んで行くことができる。神は、そこここに、その力強いギデオンたちを有しておられ、彼らはミデヤン人の陣営に向かって行き、その軍勢を打ち負かすことができる。神は、力強い人々を有しておられ、彼らは冬の日にほら穴の中に入って行って雄獅子を打ち殺すことができる。しかし、神の民の大多数は、小心で弱い人種である。何が通りかかってもぎょっと驚く椋鳥のような、小さな、恐がりの群れである。もし誘惑がやって来ると、彼らはその前に倒れる。試練がやって来ると、それに圧倒される。彼らのきゃしゃな小舟はあらゆる波によって上へ下へと揺すぶられる。また風がやって来ると、大波の波頭に乗った海鳥のように漂い流されてしまう。弱いものたち、強さもなく、力もなく、逞しさもなく、活力もない。あゝ! 愛する方々。私は今、あなたがたの中のある人々の手を、また心をつかんでいることを承知している。あなたがたはこう云っているからである。「弱い! あゝ、それは私だ。全く何度となく私は云わずにはいられなかった。私は歌いたいのに歌えない。祈りたいのに祈れない。信じたいのに信じられない、と」。あなたは、自分には何1つできないと云っている。あなたの最上の決心も弱く、はかない。そして、「わが力よ、新しくなれ」、とあなたが叫ぶとき、あなたは前よりも弱くなったように感じる。あなたは弱い。そうではないだろうか? いたんだ葦、くすぶる燈心ではないだろうか? 神はほむべきかな、ならば、この聖句はあなたのためのものである。私は、あなたが「弱いもの」という名目で入って来ることができるのを喜んでいる。というのも、ここには、主が彼らを決して折ることも、消すこともなく、むしろ彼らを保ち、彼らを支えてくださるとの約束があるからである。この場に、何人かの非常に強い人々がいることは私も承知している。――強いというのは、その人たち自身の考えによれば、ということである。私はしばしば、いま云ったような弱みを全く口にしない人々に出会う。そうした人は強い精神の持ち主である。そうした人々は云う。「先生は、私たちが罪に陥るとお考えなのですか? 私たちの心が腐敗していると仰るのですか? そんなことは信じません。私たちは善良で、きよく、正しいのです。私たちには強さも、逞しさもあります」。私は今朝、あなたがたに説教しているのではない。あなたがたには何も云おうと思わない。だが、用心するがいい。――あなたの強さは空しく、あなたの力は錯覚であり、あなたの逞しさは嘘っぱちである。――というのも、いかにあなたが、自分には何ができると自慢しようと、あなたが死との最後の戦いに立ち至るときには、それは失せ去っているからである。あなたは、それと取っ組み合うだけの強さが自分にないことに気づくはずである。こうした強い誘惑の日々が1つやって来ても、それはあなたをつかむであろう。そして、道徳的な人よ。あなたは沈むであろう。また、あなたのきらびやかな道徳という装いは、どろどろに汚れ果て、いくら自分の手を雪水で洗い、これまでにないほど自分をきよめても、汚染のひどさのあまり、自分で自分の着物を忌み嫌うほどになるであろう。弱いということは幸いであると思う。弱いものは聖なるものである。聖霊がその人をそのようにしてくださっている。あなたは、「自分には何の力もない」、と云えるだろうか? ならば、この聖句はあなたのためのものである。

 第二に、本日の聖句で言及されているのは、単に弱いだけではなく、無価値なものである。私は、もったいないからといって、通りを歩くときに止め針を拾い集める人の話を聞いたことがある。だが、わざわざ立ち止まって、いたんだ葦を拾おうとする人の話など一度も聞いたことがない。そんなものを持っていても何の値打ちもない。だれがいたんだ葦などほしがるだろう?――地面に落ちている、つまらない草など。私たちはみな、それを無価値なものとして見下げる。また、くすぶる燈心だが、それに何の価値があるだろうか? それは不快で、煙たいものではあっても、その価値は無である。だれであれ、いたんだ葦や、くすぶる燈心などには、鼻もひっかけないであろう。よろしい。ならば、愛する方々。私たちの評価するところ、私たちの中の多くの人々は無価値なものである。この場にいる何人かの人々は、もしも自分を聖所の秤にかけることができたなら、また、自分の心を良心の天秤にかけることができたなら、それは何の良いところもない――無価値な――役立たずなものと見えるであろう。あなたが自分のことをこの世でまさに最上の人間であると考えた時もあった。――もしだれかから、あなたはそれほど大した人間ではないよ、と云われたとしたら、猛然と、「私は他のだれにも負けないくらい良い人間だと思いますよ」、と食ってかかった時があった。あなたは自分が素晴らしいものだと考えていた。――神の愛と好意をことのほか受けるに値する者だと思っていた。だが、今のあなたは自分が無価値だと感じている。時として、自分の居場所など、ほとんど神の関知するところではないのではないかと想像することもある。それほどあなたは見下げ果てた――無価値な――神がお考えになる値打ちのない存在なのである。神が一滴の水の中にいる極微動物を、あるいは陽光の中の埃一粒を、あるいは夏の夜の昆虫をごらんになれることは、あなたにも理解できる。だが、いかにして神が、あなたのことを考えられるものかは、到底わからない。あなたは、それほど無価値なもの――この世で全くの何ほどでもない、役立たずなものと思われる。あなたは云う。「私に何の値打ちがあるだろう? 私は何もしていない。福音の教役者なら、それなりの奉仕をしている。教会の執事なら、それなりの役に立っている。日曜学校の教師なら、それなりの善を施している。だが、私が何の奉仕をしているだろうか?」 しかし、あなたはここでも同じ問いかけをできよう。いたんだ葦が何の役に立つだろうか? 人はそれに寄り掛かれるだろうか? それによって力づけられることができるだろうか? それが私の家の柱になるだろうか? それを結び合わせてパーンの笛にし、いたんだ葦から音楽を鳴らすことができるだろうか? あゝ! 否。それは何の奉仕もしていない。また、くすぶる燈心が何の役に立つだろうか? 深夜の旅人が、それで道を照らすことはできない。学生がその炎で読むことはできない。それは何の役にも立たない。人はそれを火の中に投げ込んで焼いてしまう。あゝ! それは、あなたが自分について語るのと同じである。あなたは何の奉仕もしていないが、これらも同じである。しかしキリストは、あなたに何の価値もないからといって、あなたを投げ捨てはしない。あなたは自分が何の役に立てるかわからないし、イエス・キリストが結局なぜあなたを尊ばれるのかわからない。そこにひとりの善良な婦人がいる。もしかすると、子どもを持つ母親かもしれない。この人は云う。「でも、私はあまり外を出歩きません。――たいがいは子どもたちと一緒に家にいますし、自分が何の奉仕もしていないような気がします」。母親よ。そのように云ってはならない。あなたの立場は高く、立派な、責任あるものであり、子どもたちを主のために訓練することにおいて、あなたは、向こうにいる雄弁なアポロが、堂々とみことばを宣べ伝えるのと同じくらい、御名のために大きなことを行なっているのである。それから、貧しい男性であるあなたは、できることといえば朝から晩まで骨折り仕事で、毎日かつかつに生活できるだけのものを稼ぐしかない。あなたは献金など全くできない。また、日曜学校に行くと、読むくらいのことしかできず、大して教えることはできない。――よろしい。だが、少ししか与えられていない人からは、少ししか求められないのである。あなたは、通りの交差点を掃ききよめることによって神の栄光を現わすというようなことを知っているだろうか? もしふたりの御使いが地上に遣わされ、ひとりがある帝国を治めるように、もうひとりが通りを掃ききよめるようにさせられたとしたら、神が彼らに命令しておられる以上、彼らに選択の余地はないであろう。そのように神は、その摂理によって、あなたが日々の糧のため重労働をするようにお召しになっておられる。それを神の栄光のために行なうがいい。「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」[Iコリ10:31]。しかし、あゝ! この場のある人々が、教会にとって役立たずのように見えることを私は承知している。あなたは自分にできることをみな行なっている。だが、そうしても、それは何ほどのものでもない。あなたは教会を金銭でも、才能でも、時間でも助けることができない。それゆえあなたは、神があなたを放り投げてしまうに違いないと考える。もし自分がパウロやペテロのようであったなら、自分も安全だったろうと考える。あゝ! 愛する方々。そのように語ってはならない。イエス・キリストは、役立たずの燈心をも消さず、無価値ないたんだ葦をも折らないと云っておられる。主は役立たずなもの、無価値なものにも何か取り柄を見いだしておられる。しかし、注意するがいい。私がこう云うのは怠惰さを大目に見るためではない。――できるのに、しようとしない人々を勘弁するためではない。それは大違いである。ろばには鞭があり、怠け者には笞があり、彼らは時々それを受けなくてはならない。いま私が語っているのは、それができない人々についてなのである。たくましいろばで、2つの鞍袋の間に伏すが、それを負って立とうとしないほど怠惰なイッサカルについてではない[創49:14]。私は、冬には耕さない怠け者[箴20:4]のためには何も云うことはない。だが、心底から少しでも奉仕したいと感じていながら、いま以上のことはできない人々について語っているのである。そして、そのような人々に、この聖句の言葉はあてはまるのである。

 さてわたしは、もう1つ述べたいと思う。ここで言及されている2つのものは、不快なものである。いたんだ葦は不快である。というのも、私の信ずるところ、ここではパーンの笛が暗示されているからである。パーンの笛とは、みなご存じのように、寄り合わされた葦であって、口で吹くとある種の音楽を鳴らせるものである。これこそ、私の信ずるところ、ユバルが発明し[創4:21]、ダビデが言及している楽器である。というのも、私たちが用いているような楽器が当時用いられていなかったことは確実だからである。ならば、いたんだ葦は、あらゆる笛の旋律をだいなしにするはずであった。一本でもまともでない管があれば、いくら吹いても調子外れな音を出すか、何の音も出ないだけで、そんな笛は放り出して、新しい笛を手に入れたくなる思いにかられるであろう。また、くすぶっているような燈心や、蝋燭の芯や、そうした類のものついては、その煙が不快であることをわざわざ云う必要はないであろう。私にとって世界中のいかなる悪臭にもまして不快なものはくすぶる燈心である。しかし、ある人々は云う。「なぜあなたは、それほど卑屈な話し方をして平気なのか?」 私は、自分が当然そうできる以上に卑屈になってはいないし、あなたにできる以上に卑屈になってもいない。というのも、私は確信するが、もし聖霊なる神が本当にあなたをへりくだらせているとしたら、あなたは、神にとって不快であるのと全く同じくらい、自分で自分が不快になるであろうからである。それは、笛の間にあるいたんだ葦や、目や鼻にとってくすぶる燈心が不快であるのと変わらない。私はしばしば親愛な老ジョン・バニヤンがこう云ったときのことを考える。神が自分を蝦蟇か、蛙か、蛇か、人間以外の何かに造ってくださればよかったのに、と。彼は自分をそれほど不快に感じていたのである。おゝ、私は毒蛇の巣を思い描くことができる。それは不快なものだと思う。ありとあらゆる種類の気色の悪い生き物が、腐汁をしたたらせているたまり場を想像できる。だが、そうしたものが、まるで半分も厭わしく思えないほど忌まわしいのは人間の心である。神は、そのすさまじい光景――人間の心――を、ご自分以外の、あらゆる人の目から隠しておられる。だが、もしあなたや私が自分の心を一目でも見ることができたなら、私たちは発狂するであろう。それほどその光景は身の毛もよだつものであろう。あなたはそのように感じているだろうか? 自分が神の御目にとって不快であるに違いないと感じているだろうか?――自分が神に反逆してきたこと、神の戒めに背を向けてきたこと、それが確実に神を不快にさせて当然であることを感じているだろうか? もしそうなら、本日の聖句はあなたのためのものである。

 さて、私は今朝、ある女性がここに来ているものと想像できる。その女性は貞淑の道から離れており、そこの人混みの中に立っている間、あるいは座っている間、自分がこのように神聖な場所を足で踏みしめ、神の民の間に立つ資格など全くないと感じている。その女性は思う。神が、今この会堂を自分の頭上で打ち壊し、自分を滅ぼすとしても不思議ではない。自分はそれほど罪人なのだ、と。いたんだ葦とくすぶる燈心よ! 気に病んではならない。あなたが人々の蔑みの的であり、自分で自分が厭わしく思われても、それでもイエスはあなたに云っておられる。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」[ヨハ8:11; 5:14]。この場には、私には知られていない何かを心に秘めている男性がいる。――その人は、私が公の場では口にできないような、秘密の罪を犯してきているであろう。その人の罪は、蛭のようにその人に吸いつき、その人からあらゆる慰めを奪っている。さあ、ここにあなたはいる。青年よ。自分の犯した罪が高き天から暴露されるのではないかと震えおののいている。あなたは、葦のようにへし折られ、いたんでいる。燈心のようにくすぶっている。あゝ! 私にはあなたにも語る言葉がある。慰めよ! 慰めよ! 慰めよ! 絶望してはならない。イエスは、くすぶる燈心を消さず、いたんだ葦を折らないと云っておられるからである。

 だがしかし、愛する方々。この点から次に移る前に、もう1つ考えなくてはならないことがある。こうしたものは2つとも、いかに無価値ではあっても、それでも何らかのためにはなりうる。神が、ある人に御手で触れられるとき、たといその人が、以前は無価値で役立たずであったとしても、神はその人を非常に有益なものとすることがおできになる。ご存じのように、ある品物の値段を左右するのは、原料の価値よりは、それに加えられた細工人の技量である。ここには、手始めとしては箸にも棒にもかからない原料がある。――いたんだ葦とくすぶる燈心である。だが、神の細工によって、どちらとも驚異的な価値を有するものとなるのである。あなたは、いたんだ葦は何のためにもならないと私に云うが、私はあなたに云う。キリストはそのいたんだ葦を取り上げて、それを治し、天国の笛に編み込んでくださるであろう、と。それから、その大楽団がその音楽を演奏するとき、――天空の楽器がその深い音色の音を鳴り響かせるとき、――私たちは尋ねるであろう。「他の音色と混じって聞こえる、あの甘やかな音色は何だろう?」 そのとき、ある者が云うであろう。「あれは、いたんだ葦だよ」。あゝ! 私が想像するに、天国においてマグダラのマリヤの声は、他のどの声よりも甘く、流麗に聞こえるであろう。また、「イエスさま。私を思い出してください」、と云った、あのあわれな強盗の声は、もしそれが深い低音をしているとしたら、他のどの声よりも円熟した、甘やかなものであろう。なぜなら、彼は多く赦されたので、よけいに愛したからである[ルカ7:47]。この葦は、まだ何かの役に立つ。自分は何の奉仕もできないなどと云ってはならない。あなたは、いずれ天国で歌声を上げるようになる。自分が無価値だなどと云ってはならない。最後にはあなたは、御座の前の血で洗われた集団の間に立ち、神への賛美を歌うことになる。しかり! また、くすぶる燈心に何の奉仕ができるだろうか? 私がすぐに教えよう。その燈心のどこかには火花がある。消えかかってはいるが、それでも火花が残っている。大草原が火と燃えるのを見るがいい! めらめらと炎の燃え広がるようすが見えるだろうか? 熱い火の波また波が原野にあふれ、陸地のすべてが焦土と化し、――ついには天が赤々と照り輝くのが見えるであろう。古馴染みの夜の黒い顔は火傷で傷つき、星々もこの大火災に恐れをなしているかに見える。いかにして、これほど大きなものに火がついたのだろうか? どこかの旅人によって落とされた、ほんのくすぶる燈心が、軽い微風にあおられて、大草原を燃え上がらせるまでとなったのである。そのように、ひとりのあわれで無知な人は、ひとりの弱い人は、否、ひとりの信仰後退しつつある人でさえもが、一国全体を回心させる手段となりえる。今は無でしかないあなたが、賜物や才能の多さからして、ずっと神の御前ですぐれた立場にあるように見える私たちのような者たちよりも、もっと大きく用いられることにならないとだれに云えよう? 神は火花1つをもってしても世界を火と燃やすことがおできになる。――ひとりのあわれな祈る魂という火花によって、一国全土に火をつけることがおできになる。あなたは、これから役に立つ者となりえる。それゆえ、心励まされるがいい。苔は墓石に生え、蔦は崩れ落ちつつある大建築物にからまり、宿り木は枯れた枝から育つ。それと全く同じく、恵みや、敬虔さや、美徳や、聖さや、善良さは、くすぶる燈心や、いたんだ葦から生ずるはずである。

 II. さてそれでは、私の愛する方々。ここまで私は、この聖句がいかなる人々について意味しているかを見いだそうと努め、人間のもろさについて何がしかのことをあなたに示してきたので、これからは一段上に上がって、《神のあわれみ深さ》について語りたい。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」。

 まず最初に、何が述べられているかに注目するがいい。それから、ここでイエス・キリストは、言葉以上のことを意図しておられると告げさせてほしい。まず最初に、主は何と云っておられるだろうか? 主は明白に、自分はいたんだ葦を折らない、と云っておられる。私の前には、一本のいたんだ葦がある。――深い罪の自覚のもとにある、ひとりのあわれな、神の子どもがいる。律法の鞭打ちは決してやまないかに思える。ビシッ、ビシッ、ビシッ、と打ち続けられる。そしてあなたが、「主よ。おやめください。ほんの少し休ませてください」、と云っても、それでも、その冷酷な革紐は打ち下ろされる。ビシッ、ビシッ、ビシッ。あなたは自分のもろもろの罪を感ずる。あゝ! 私は今朝、あなたが何と云っているか承知している。「もし神が、これ以上少しでもお続けになったら、私の魂は破れてしまう。私は絶望のうちに滅びるだろう。自分の罪のため、気が狂いそうだ。夜、横になっても眠ることはできない。まるで幽霊が――私の罪の幽霊が――部屋にいるかのように思える。また私は、深夜に目覚めるとき、真っ黒い死の形が自分を見つめて、こう云うのを見る。『お前はわしのえじきだ。わしはお前をわしのものにしてみせる』。その間、後ろでは地獄が燃えているように思える」。あゝ! あわれな、いたんだ葦よ。主があなたを折ることはない。罪の確信が強くなりすぎることはない。それはあなたを溶かし、あなたをイエスの足下に行かせるに足るだけ大きなものとはなるだろう。だが、それがあなたの心を全く砕き、あなたを死なせるまで強くなることはない。あなたは決して絶望に追いやられることはない。むしろ、あなたは解放される。あわれな、いたんだ葦よ。あなたは、火の中から出て来るであろう。あなたが折られることはない。

 それと同じく、今朝この場には、信仰の後退した人もいる。その人はくすぶる燈心のようである。今を去ること何年か前には、あなたは主の道に非常な幸福を覚えており、主に仕えることに非常な喜びを見いだしており、「ここに私は永遠にとどまりたい」、と云ったほどであった。

   「いかに安けき 時のありしか、
    その追憶の いかに甘きか!
    されど今 そは 悲痛な空虚、
    この世は決して そを満たしえじ」。

あなたはくすぶっており、神があなたを吹き消すだろうと考えている。もし私がアルミニウス主義者だったとしたら、神はそうなさる、とあなたに告げるであろう。だが、聖書を信ずる信仰者であり、それ以外の何者でもない私は、神があなたを消すことはない、と告げるものである。たといくすぶっていようと、あなたが死ぬことはない。あなたの犯した罪がいかなるものであろうと、主は云っておられる。「背信の人の子らよ。帰れ。わたしがあなたをあわれむからだ」。あわれなエフライムよ。主はあなたを捨てない。ただ、主のもとに立ち返るがいい。――主はあなたをさげすまない。たといあなたが自ら汚泥に飛び込んだとしても、たといあなたが頭の天辺から足の先まで汚穢で覆われていようと。立ち返るがいい。あわれな放蕩息子よ。立ち返るがいい。立ち返るがいい! あなたの父があなたを呼んでいる。聞くがいい。あわれな信仰後退者よ! 今すぐに主のもとに行くがいい。その御腕はいつでも喜んであなたを受け入れてくださる。

 ここでは、主は消さない、――主は折らない、と云われている。しかし、一目見ただけでは気づかないものが、さらに奥には隠されている。イエスは、折らないと云われるとき、それ以上のことを意図しておられる。「わたしは、そのあわれな、いたんだ葦を取り上げ、それを水の流れのそばにしっかりと植えつけ、それから(奇蹟中の奇蹟だが)それを一本の木に育てるであろう。その葉は枯れず、わたしが一瞬ごとにそれに水をやり、見守っていよう。そこには天の果実がなり、わたしはそれに猛禽を寄せつけない。むしろ天国の鳥たち、パラダイスの鳴鳥たちが、その枝々を住まいとするようにする」。主は、いたんだ葦を折らないと云われるとき、それ以上のことを意味しておられる。主は、それに肥料をやり、それを助け、強め、支え、美しくすること、――それに対するご自分の任務を実行し、それを永遠に栄光に富むものとすることを意図しておられる。そして、主が信仰後退者に向かって、彼を消さない、と云われるとき、主はそれ以上のことを意味しておられる。――主は、彼をあおいで炎にしようと意図しておられる。おそらく、あなたがたの中のある人々は、会堂から帰宅したとき、暖炉がほとんど消えかかっているのに気づくことがあるであろう。むろん、あなたがそれをどうするかはわかりきっている。あなたは、1つでも火花が残っていれば、それを優しく吹き起こす。そして、激しく吹きすぎないように、その前に指をかざして吹く。また、あなたがひとりきりだったり、一本しか燐寸を持っていなかったり、その火口に火花が1つしか残っていなかったとしたら、いかに優しく吹きかけることであろう。信仰後退者よ。それと同じように、イエス・キリストはあなたを扱われる。主はあなたを消すことなく、優しく息を吹きかけてくださる。主は、「わたしはあなたを消さない」、と云われる。すなわち、「わたしは、非常に丁寧にし、非常に用心し、非常に注意深くする」、と云っておられるのである。主は、乾いたものを上に置き、次第次第に小さな火花が1つの炎となり、天に向かって吹き上がるようにしてくださる。そこから発した火は非常に大きなものとなるであろう。

 さて、私は今朝、1つか2つのことを《信仰の小さな者たち》に云いたい。ここで、いたんだ葦、あるいはくすぶる燈心として言及されている、神の小さな子どもたちは、神の偉大な聖徒らと全く同じくらい安全である。私は、しばしの間この思想を繰り広げ、その後で、他の項目を仕上げたい。いたんだ葦やくすぶる燈心と呼ばれている神の聖徒らは、自分たちの《主人》のために大きな働きをしつつある大きな力を持った人々と、全く同じくらい安全である。いくつかの理由がある。まず第一に、小さな者たちも、大きな聖徒らとまさに同じくらい神の選民なのである。神は、ご自分の民を選んだとき、彼らを一度にまとめて選んだのであり、ある人を、他の人々と何の劣りもなくお選びになった。もし私が、ある特定の数の物事を選ぶとしたら、そのあるものは他のものより小さいかもしれないが、あるものが選ばれているということは、他の何とくらべても全く劣りはない。そのように、恐怖者夫人や、落胆嬢は、大勇者、あるいは、老正直翁と何ら劣りなく選ばれているのである。また、小さな者たちは、大きな者たちと全く等しく贖われている! 弱々しい聖徒らは、強い聖徒らと全く同程度の苦しみの代価をキリストに支払わせている。神の最もちびた子どもでさえ、イエスの尊い血以下のもので買い取られることはなかったし、神の最も丈高い子どもにも、それ以上の代価がかかったわけではない。パウロの代価は、ベニヤミンより一銭も高くはなかった。――それを私は確信している。――というのも、聖書には、「何の差別もありません」、と書かれているからである[ロマ3:22]。それだけでなく、古の人々が贖いの代金を払いにやって来たとき、彼らはみな1シェケルを持ってきた。貧者が1シェケル以下を持ってきたり、富者が1シェケル以上を持ってきたりはしなかった。ある者の代金は、他の者の代金と同じであった。だれもが、他の人と同じ代金を持ってきた。さて、では、神の小さな子どもよ。この思想をあなたの魂で受け入れるがいい。あなたは、ある人々がキリストの御国の進展のために非常に傑出した働きをしているのを目にしている。――また、そうした人々がそのようにしているのは非常に良いことである。――だが、そうした人々についてイエスがお支払いになった代金は、あなたのための代金より一銭も高くはない。主はあなたのためにも、そうした人々のためにも、同じ代金をお支払いになった。さらに思い起こすがいい。あなたは、最大の聖徒と何ら劣りなく神の子どもである。あなたがたの中のある人々には、五人か六人の子どもがいるであろう。ことによると、あなたの子どものひとりは、非常に背が高く、目鼻立ちも整い、それだけでなく、生まれつき高い知性を備えているかもしれない。また、あなたには別の子どももいるが、それは一家で一番背が低く、ことによるとほとんど知性や理解力がないかもしれない。しかし、どちらの方が、よりあなたの子どもだろうか? 「より、ですと!」、とあなたは云うであろう。「どちらも同じように、間違いなく私の子どもです。何の区別もありません」。愛する方々。そのようにあなたは、非常に僅かな学識しかなく、天来の事がらに関して非常に無知であるかもしれない。あなたは、「人が、木のように歩いているのが見える」だけかもしれない。だが、あなたは、キリスト・イエスにあって成人の身丈にまで育った人々に何ら劣らず、神の子どもらなのである。それから、覚えておくがいい。あわれな、試みられている聖徒よ。あなたは、神の他の子らと何ら劣りなく義と認められている。私は、自分が完全に義と認められていることを知っている。

   「主の血と 主の義とは
    わが麗しき 栄えのころも」。

私は、他のいかなる衣もほしくはない。ただイエスの行ないと、イエスの転嫁された義をのみ欲する。

 神の最も大胆な子どもは、それ以上何も欲さない。そして、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな」者である私は、それ以下の何をもってしても満足できない。それ以下のものではがまんできない。おゝ、足なえ者よ。あなたは、パウロや、ペテロや、バプテスマのヨハネや、天国の最も高貴な聖徒と同じくらい義と認められている。その点にかけては何の差別もない。おゝ、私は勇気をもって喜ぼう。

 それから、もう1つのことがある。もしあなたが失われたら、神の栄誉は、最も大きなものが失われたときに何ら劣らず汚されることになる。かつて私は、ある古い本の中で奇抜な話を呼んだことがある。それは、神の子どもたちと、キリストの一部となっていて、キリストと結び合わされている人々とについての書物であった。その著者はこう云っていた。――「ある父親が自分の部屋に座っているところに、ひとりの見知らぬ人がやって来た。その見知らぬ人が、ひとりの子どもを膝の上に抱き上げると、その子は指に傷を作っていた。それで彼は云った。『坊や、指に傷があるね』。『うん!』 『よろしい。じゃあ、おじさんにそれを取らせておくれ。そしたら坊やに金の指をあげるよ!』 その子は彼を見つめると、こう云った。『ぼくはもう、おじさんのとこなんか行きたくないよ。だって、おじさんはぼくの指を取っちゃうって云うんだもん。ぼくは自分の指がいいんだ。代わりに金の指なんかほしくないやい』」。それと同じように聖徒は云うのである。「私はキリストの肢体の一部です。ですが、私は傷ついた指のようなものです。ですから、キリストは私を引っこ抜いて、金の指をおつけになるでしょう」。「否」、とキリストは云った。「否、否。わたしは、自分の肢体のどんな部分も取り去られることなどがまんできない。もしその指が傷ついているとしたら、わたしはそれに包帯を巻こう。それを強くしてやろう」。キリストは、自分の肢体を切り落とそうかなどと云々されることを許せない。もしキリストがその御民のひとりでも失うとしたら、もはや完全なキリストではなくなるであろう。もし子どもたちの最もつまらぬ者でも投げ捨てられることがあるとしたら、キリストはご自分の満ち満ちた豊かさの一部を失うことになるであろう。しかり。キリストはご自分の《教会》なしには、不完全になるであろう。よしんば、ご自分の子どもたちのひとりを失わなくてはならないとしても、最大の者を失う方が、小さな者を失うよりもましであろう。もし小さな者が失われたとしたら、サタンはこう云うであろう。「あゝ! お前は大きな者らは救う。なぜなら、彼らには強さがあり、自分で自分を助けられるからだ。だが何の強さもない小さな者を、お前は救うことができないのだ」。あなたも、サタンがいかに云い立てようとするか、わかるであろう。だが神は、こう宣言することによって、サタンの口をおふさぎになる。「彼らはみなここにいる。サタンよ。お前の悪意にもかかわらず、彼らはみなここにいる。あらゆる者が無事にしている。さあ、お前の穴に永遠に這いつくばり、永劫に鎖で縛られ、火の煙にいぶられるがいい!」 そのようにして悪魔は永遠の責め苦を味わうことになるが、神の子どもはひとりしてそのようになることはない。

 もう1つの思想だけ語って、この項目をしめくくりにしよう。偉大な聖徒たちの救いは、しばしば、小さい者たちの救いにかかっている。あなたは理解しているだろうか。ご存じのように、私の救いは、あるいは神のいかなる子どもの救いも、二次的な原因に目を向ければ、非常にしばしば、だれか他の人の回心に依存している。かりに、あなたの母親があなたの回心の手段であったとする。その場合、人間的な云い方をすれば、あなたの回心は母が回心していればこそ起こったことだ、と云えるであろう。というのも、彼女は、自分が回心していたからこそ、あなたを引き込む器とされたからである。かりに、誰それという教役者が、あなたの召しの手段であったとする。ならば、あなたの回心は、絶対的な意味ではないにせよ、ある意味で、その教役者の回心にかかっているのである。そのように、しばしば起こるのは、神の最も強大なしもべたちの救いは、小さな者たちの回心にかかっている、ということである。そこに、ひとりの貧しい母親がいる。だれも彼女のことなど何1つ知らない。彼女は神の家に通うが、彼女の名前が新聞に載ったり、他のどこかに載ったりすることはない。彼女は自分の子どもを教え、神への恐れの中でその子を育て上げる。彼女はその子のために祈る。彼女は神と格闘し、彼女の涙と祈りはこもごも混ざり合う。少年は成長する。いかなる人物になっているだろうか? 一個の宣教師である。――ウィリアム・ニブのような――モファットのような――ウィリアムズのような。しかし、その母親については何1つ聞かれない。あゝ! だが、もしこの母親が救われていなかったとしたら、その少年はどうなっていただろうか? こうしたことによって、小さい者らは心励まされるがいい。そして願わくは、たといあなたがいたんだ葦、くすぶる燈心のようであっても、主があなたを養い、いつくしんでくださることを喜ぶようになるように。

 III. さて、しめくくりとして、ここには《確実な勝利》がある。「公義を勝利に導くまでは」。

 勝利! その言葉には何か美しいものがある。半島戦争におけるサー・ジョン・ムアの死には、実に胸を打たれるものがある。彼は勝利の腕にいだかれて倒れた。彼の運命は悲しいものであったが、彼の目は勝利の叫び声による輝きを宿していたと私は確信する。それと同じように、かのウルフも、「私は死ぬが、幸いだ」、と云ったとき、真実を語っていたと思う。死の間際に彼は、「敵が敗走しています、敗走しています」、との叫びを聞いていたからである。私は、そういう悪い意味における勝利すら――というのも、私は地上的な勝利を、何ら価値あるものとはみなしていないからだが――、戦士を心励ますものであったことを承知している。しかし、おゝ! 聖徒が勝利をわがものにできると知るとき、それはその心を何と励ますことか! 私は一生の間、戦い続けるだろうが、私の盾には「vici」[我、勝てり]と記すであろう。「私を愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者と」*なるであろう[ロマ8:37]。いかなる弱々しい聖徒も、戦いに勝つはずである。松葉杖をつくいかなる者も、いかなる不具者も、いかなる欠陥や、悲しみや、病や、弱さに満ちた者も、勝利を得るはずである。「彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その中にはめしいも、不具者も、足なえも、妊婦も共にいる」*[イザ51:11; エレ31:8]。そのように聖書は云っている。ひとりたりとも除外されない。むしろ主は、「公義を勝利に導く」。勝利! 勝利! 勝利! それが、あらゆるキリスト者の運命である。その人は、自分の愛する《贖い主》の御名によって勝ちを得る。

 さて、この勝利について一言だけ語ろう。まず私は、年老いた人々に対して云いたい。愛する兄弟そして姉妹たち。あなたがたがしばしば、いたんだ葦に似ていることを私は承知している。来たるべき出来事は、すでにその影を落としている。また、死が老年という影をあなたがたの上に落としている。あなたは、いなごすら重荷に感じ、自分が弱さと衰えに満ちていると感じ、あなたの肉体はほとんどばらばらになりかけている。あゝ! あなたには、ここに特別の約束がある。「わたしは、いたんだ葦を折らない」。「わたしは、あなたを強める」。「あなたの心と、あなたの肉体が衰え果てるとき、わたしがあなたの心の強さとなり、永遠にあなたの受けるべき分となるであろう」。

   「わが民 老いても 受くるべし
    かしこく永遠なる わが愛を。
    かしらを白髪 飾るとも
    子羊のごと 抱き運ばれん」。

杖にすがってよろめき、背も曲がり、弱々しく、力なく、病弱であっても、最後の時を恐れてはならない。その最後の時は、あなたの最良の時となる。あなたの最後の日は、熱烈に願うべき完成のときとなる。いかにあなたが弱くとも、神はその試練をあなたの弱さに合わせて加減してくださる。あなたの強さが少なければ、あなたの痛みも少なくしてくださる。だが、あなたは天国で歌うはずである。「勝利! 勝利! 勝利!」、と。私たちの中には、あなたと立場を交換したいと願う人々すらいる。――天国にそれほど近づいている――それほど故郷の間際まで来ているあなたの立場と。あなたがいかに虚弱であろうと、あなたの白髪は、あなたの光栄の冠なのである。というのも、あなたは、義の道に立っているのと同じく、終わりに近づいてもいるからである[箴16:31]。

 この人生の激烈な嵐と戦いつつある、中年の人々にも一言語りたい。あなたはしばしばいたんだ葦である。あなたのキリスト教信仰は、あなたの世俗の職業によってあまりにも邪魔され、あまりにも日々の商売、商売、商売の喧噪によって覆われているため、あなたはくすぶる燈心のように見える。それは、あなたが神に仕えるためにできる精一杯のことなのである。あなたは、「勤勉で」はあるが、それと同じくらい「霊に燃え」ているとは云えない[ロマ12:11]。この世の商売で骨折り、苦闘している人よ。主は、あなたがくすぶる燈心のようであるとき、あなたを消しはしない。あなたがいたんだ葦のようであるとき、あなたを折りはしない。むしろ、あなたの困難からあなたを救い出してくださるであろう。あなたは人生の海を泳ぎ渡り、天国という幸いな岸辺に立ち、あなたを愛してくださったお方によって、「勝利」、と歌うはずである。

 あなたがた、青年と娘たち! 私はあなたがたに語りかけよう。私にはそうする権利がある。あなたがたと私は、神の御手が私たちの立派な希望をくじくとき、しばしばいたんだ葦の何たるかを知るものである。私たちは軽薄さと気まぐれさに満ちており、患難の鞭をもってしなければ、自分の中から愚かさを叩き出すことができない。というのも、私たちの内側にはそれがたっぷり詰まっているからである。すべりやすい小道、それが青年の小道であり、危険な道、それが若者の道である。だが神は、私たちを折ることも、滅ぼすこともなさらない。心配性のあまり人々は、倒れるといけないから一歩も歩むな、と私たちに命ずる。だが神は、私たちに行けと命じ、私たちの足を雌鹿のようにし、私たちに高い所を歩ませる[ハバ3:19]。年若いうちから神に仕えるがいい。あなたの心を神にささげるがいい。そのとき、神は決してあなたを捨てず、あなたを養い、いつくしんでくださる。

 終わりの前に、小さな子どもたちにも一言云わせてほしい。あなたはイエスのことを聞いてきた。イエスはあなたにこう云っておられる。「いたんだ葦をわたしは折らず、くすぶる燈心をわたしは消さない」、と。私は、多くの小さな子どもたちは、六歳にもなっていない幼児であっても、《救い主》を知っていると思う。私は決して幼児の敬虔さを馬鹿にしはしない。私はそれを愛している。私は、小さな子どもたちが、しらが頭の老人も知らないような奥義を語るのを聞いたことがある。あゝ! 日曜学校に連れて来られている、また《救い主》の御名を愛している小さな子どもたち。たとい他の人たちから、ませている、などと云われても、恐れてはならない。それでもキリストを愛するがいい。

   「柔和で温和な、優しきイエスは
    いまも子らを 見つめたもう。
    汝が幼さを あわれみなさり
    汝をみもとに 近づけなさる」。

キリストはあなたを捨てはしない。というのも、くすぶる燈心を主は消さず、いたんだ葦を主は折られないからである。

   弱々しい聖徒らへの甘やかな慰め[了]

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