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助け主

NO. 5

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1855年1月21日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」。――ヨハ14:26


 善良な老シメオンは、イエスをイスラエルの慰めと呼んだ[ルカ2:25]。そしてイエスはそのようなお方であられた。現実に現われる前のお名前は、「明けの明星」であった「IIペテ1:19」。それは暗闇に励ましを与え、昇り来る太陽の予兆となるものであった。孤独な城壁のやぐらに立つ夜番が、星々の中でも最も美しいこの星を見て、それを暁の先触れとして歓迎するとき心励まされるのと同じ希望をもって、人々は主に希望をかけていた。地上におられたときの主は、その同行者たる特権を与えられたすべての人々にとって慰めであったに違いない。私たちは想像できよう。いかに彼らが、いつなりとも喜んで主のもとに走って行き、自分たちの嘆きについて主に申し上げようとしたことか。いかに甘やかに主が、あの比類ない声音の抑揚をもって彼らにお語りになり、彼らの恐れを消し去らせたであろうことか。子どものように彼らは、主を自分たちの《父》と考えたであろう。また、いかなる窮状、いかなる呻き、いかなる悲しみ、いかなる苦悩が持ち上がっても、それはすぐ主の前に持ち出され、主は、賢い医者のように、いかなる傷をも和らげてくださったであろう。主は彼らのいかなる心労のためにも気付け薬を調合しておられた。また、彼らがいかなる困難によって熱を発しても、すぐれて効き目のある解熱剤を、いつでも喜んで調剤してくださった。おゝ! キリストとともに生活するのは甘やかであったに違いない。確かにそのときには、悲しみは喜びのかりそめの姿であった。なぜなら、それらはイエスのもとに行き、それを取り除いていただく機会となったからである。おゝ! 私たちの中のある人々は云うであろう。もし自分の疲れた頭をイエスの御胸にもたせることができたなら、どんなによいことか。また、「疲れている者は、わたしのところに来なさい」、と主が云われたときの、その優しい声を聞くことができ、その優しい顔つきを見ることのできる時代に生まれ合わせていたなら、どんなによかったことか、と。

 しかし、今や主はまさに死のうとしておられた。数々の大いなる預言がまさに成就しようとしており、数々の大いなる目的が果たされようとしていた。そして、それゆえイエスは行かなくてはならなかった。苦しみを受けなくてはならなかった。それは、私たちの罪のために、なだめの供え物となるためであった。主は、しばしの間、ちりの中で眠りにつかなくてはならなかった。それは、その墓の穴に香りを満たし、それを――

   「もはやかつての 無垢の名残を
    囲いて守る 墓所にはあらぬ」

ものとするためであった。主は復活しなくてはならなかった。それは、いつの日かキリストにあって死ぬはずの私たちが最初によみがえり、栄光に富むからだをもって地上に立つためであった。そして主は、いと高き所に昇らなくてはならなかった。それは、主が多くの捕虜を引き連れて、地獄の悪鬼どもを鎖につなぎ、ご自分の戦車の車輪に縛りつけ、高き天の丘まで引きずって行き、その右の御腕で天の頂きから地の底の深みへと叩き落として、二度の敗北を嘗めさせるためであった。「わたしがあなたがたを離れて行くのはよいことなのである」、とイエスは云われた。「わたしが離れて行かなければ、《助け主》がやって来ないからである」。わたしは行かなくてはならない。あなたがた弟子たちがいかに泣くとも。わたしは去らなくてはならない。《助け主》なしで残される、あなたがた哀れな者たちがいかに悲しむとも。しかし、いかに優しくイエスが語っておられるか聞くがいい。「わたしは、あなたがたを何の助けもなしに放り出しはしない。わたしは父に願う。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお遣わしになる。その助け主はあなたがたとともにおり、いつまでもあなたがたのうちに住むであろう」。主は、この数頭のあわれな羊たちを荒野に置き去りにしようとはなさらなかった。ご自分の子どもたちを見捨てて、みなしごにしようとはなさらなかった。その御心と御手とを一杯に占める大きな使命があったとはいえ、――私たちからすれば、その巨大な知性にとってすら荷が重すぎると思えるほど大きな務めを果たさなくてはならなかったとはいえ、――私たちからすれば、その魂の全体が思いを集中させていただろうと考えられるほど大きな苦しみが待ち受けていたとはいえ、――それでも、そうではなかった。主は、去って行く前に、心和らげる慰めの言葉をお与えになった。あの良きサマリヤ人のように主は、橄欖油と葡萄酒を注いでくださった。そして、こう約束しておられるのである。「わたしは、あなたがたに、もうひとりの助け主を遣わすであろう。――わたしが今までしてきたのと同じことを、しかり、それ以上のことをしてくださるお方である。この方は、あなたがたが悲しむときに慰め、あなたがたの疑いを取り除き、あなたがたが苦しむときに励まし、わたしの代理として地上に立ち、もしあなたがたととどまるとしたら、わたしがしたいと思っていたことを行なってくださるであろう」、と。

 《助け主》としての聖霊について話をする前に、私は「助け主」と訳された言葉の別の訳について、一言二言語っておかなくてはならない。ご存じのようにローマカトリック教会はリームズ訳を採用しているが、そこでは、この言葉が翻訳されておらず、「パラクレトス」となっている。「しかし、パラクレトス、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え……てくださいます」。これはギリシヤ語の原語であり、「助け主」という以外にもいくつか意味がある。時として、それは勧告者や教導者を意味する。「わたしは、あなたがたにもうひとりの勧告者、もうひとりの教師を遣わすであろう」。それはしばしば「弁護者」を意味する。だが、その言葉の最も一般的な意味は、ここに訳されているものである。「わたしは、あなたがたにもうひとりの助け主を遣わすであろう」。しかしながら、この2つの他の解釈について、何も云わずに通り過ぎるわけにはいかない。

 「わたしは、あなたがたにもうひとりの教師を遣わすであろう」。イエス・キリストは、地上におられたとき、ご自分の聖徒らの公式な教師をしてこられた。彼らは、キリスト以外のいかなる者も「先生」と呼ばなかった。他の何者の足下でも、自分たちの教理を学ばなかった。そうした教理は、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と云われたお方の唇から直接教えられた[ヨハ7:32]。「さて今」、と主は云われる。「わたしが去ったとき、あなたがたはどこに、偉大な無謬の教師を見いだすべきだろうか? わたしはあなたがたのためローマに教皇を立てて、あなたがたが行くことのできる、無謬の託宣者とすべきだろうか? あなたがたに教会会議を与えて、それを開けば、あらゆる難解な点を決裁できるようにすべきだろうか?」 キリストは、そうしたことに否と云われた。「わたしが無謬のパラクレトスすなわち教師なのである。そして、わたしが去ったときには、あなたがたにもうひとりの教師を遣わすであろう。その方が聖書を説明するはずである。神の権威的な託宣者となり、あらゆる難解な事がらを平易にし、種々の奥義を解きほぐし、その方の影響なしには悟れないことを理解させてくださるはずである」。そして、愛する方々。いかなる人も、御霊によって教えられない限り、何1つ正しく学ぶことはできない。あなたは選びを学ぶことができる。だが、聖霊から教えられない限り、あなたは、自分の得た知識によって罪に定められる羽目になるであろう。というのも、私の知っているある人々は、選びを学んだことによって魂の破滅に至らされたからである。そうした人々は選びを学んだために、自分は選民のひとりだと云い出した。だが、そこには何の目印も、何の証拠も、その人々の魂における何の聖霊のみわざもなかった。真理を学ぶにも、それをサタンの大学で学び、放縦によって保つしかたがある。だが、だとするとその真理は、あなたの魂にとって、あなたの血管にとっての毒のようなものとなり、あなたを永遠に破滅させるものとなろう。いかなる人も、神から教えられない限り、イエス・キリストを知ることはできない。聖書のいかなる教理といえども、それを安全に、徹底的に、真実に学ぶには、この唯一の権威ある教師のお働きによるしかない。あゝ! 私は種々の神学体系のことなど聞きたくない。種々の組織神学のことなど聞きたくない。無謬の注解者だの、だれよりも学識があり、だれよりも尊大な博士たちのことなど聞きたくない。むしろ、この《偉大な教師》について聞かせてほしい。私たち、神の子らを教え導き、賢くし、あらゆることを理解させるこのお方のことを聞かせてほしい。この方こそ《教師》である。あの人この人が何と云っているかなど問題でない。私は、いかなる人間の誇らしげな権威にも信を置かないし、あなたもそうであろう。あなたがたは、人の悪賢い策略や、言葉の悪巧みによって、足をすくわれるべきではない。この、ご自分の子らの心にとどまっておられる聖霊こそ、権威ある託宣者である。

 もう1つの訳語は弁護者である。あなたはこれまで、いかにして聖霊が弁護者と云われうるか考えたことがあるだろうか? ご存じの通り、イエス・キリストは霊妙なる議士[弁護士]、力ある神と呼ばれている[イザ9:6]。だが、いかにして聖霊が弁護者と云われうるのだろうか? それは、このような次第であると思う。御霊は、十字架の敵たちに対し、地上で弁論する弁護者なのである。パウロがあれほど見事にペリクスやアグリッパの前で弁論できたのはなぜだろうか? 使徒たちが、ひるむことなく役人たちの前に立ち、彼らの主を告白したのはいかなるわけだろうか? あらゆる時代において、神に仕える教役者たちが、獅子のごとく恐れを知らぬ者とされ、その額を青銅よりも硬く、その心を鋼鉄よりも頑丈にされ、その言葉を神の言葉のようにされたのは、いかにして起こったのだろうか? 理由は簡単。弁論していたのはその人ではなく、その人を通して弁論する聖霊なる神だったのである。あなたは、両手を掲げ、涙をしたたらせ、人の子らに嘆願しつつある熱心な教役者をひとりも見たことがないだろうか? 老ジョン・バニヤンの手になるその人物画を一度も賞賛したことがないだろうか? それは、おごそかな人物で、目を天に向け、手には最上の書物を持ち、唇には真理の律法が書かれ、背後にはこの世があり、人々を説きつけるかのように立ち、黄金の冠が頭の上にかかっていた。だれがこの教役者に、これほどほむべき挙措と、かくも立派な内容を与えたのだろうか? どこで彼はその腕前を身につけたのだろうか? 大学で学んだのだろうか? 神学校で学んだのだろうか? あゝ! 否。彼はそれをヤコブの神から学んだのである。聖霊から学んだのである。というのも、聖霊はいかにご自分の主義主張を正しく弁護すべきかを私たちに教えてくださる、偉大な弁護士だからである。

 しかし、それだけでなく、聖霊は人々の心の中の弁護者であられる。あゝ! 私は何度も、教理を拒絶していた人々が、聖霊によって光照らされ始めるや、抵抗をやめるのを見てきた。私たち真理の弁護者たる者らは、しばしば非常に貧弱な弁論人である。私たちは、自分の用いる言葉で自分の主義主張をだいなしにしてしまう。だが、あわれみなのは、この訴訟がひとりの特別弁論人の手にあることである。このお方は見事に弁論し、罪人の反論を封じてしまう。あなたは、この方が一度でも失敗するのを見たことがあるだろうか? 兄弟たち。私はあなたがたの魂に云いたい。かつて神は、あなたに罪を確信させてくださらなかっただろうか? それまでは、自分を義とする立場から、いかなる教役者によっても引きずり出されることがなかったあなたのもとに聖霊がやって来られ、自分には咎があると確信させてくださったのではないだろうか? 聖霊はキリストの義を弁護しなかっただろうか? 立ってあなたに、あなたの行ないは不潔な着物であると告げなかっただろうか? また、あなたがそれでもその助言を聞くのを拒否せんばかりになったとき、地獄の太鼓を呼び寄せては、あなたの耳のまわりで鳴り響かせ、来たるべき年月を見通させ、立てられている御座を見よ、と命じなかっただろうか? 据えられている御座と、開かれている数々の書物と、振りかざされた剣と、燃えている地獄と、吠えたける悪鬼どもと、永遠に悲鳴を上げている、そこに落ちた人々を見よ、と命じなかっただろうか? また、そのようにして、必ず来る審きをあなたに確信させなかっただろうか? 聖霊は、魂の中で――罪について、義について、来たるべき審きについて――弁論なさるとき、強力な弁護者となる。ほむべき弁護者よ! 私の心の中で弁論し給え。私の良心に懇願し給え。私が罪を犯すときには、私の良心を大胆にし、それを私に告げさせ給え。私が過ちを犯すとき、良心をすぐに語らせ給え。そして、私が曲がった道にそれるときには、義の云い分を弁護し、私に神の御前における自分の咎を知らせて、狼狽の中で腰を下ろすようにさせ給え。

 しかし、聖霊が弁護者であられる、もう1つの意味がある。そしてそれは、このお方が、私たちの主張をイエス・キリストに向かって、云いようもない深いうめきによって弁護してくださる、ということである[ロマ8:26]。おゝ、私の魂よ。お前は私の内側ではち切れんばかりになっている! おゝ、私の心よ。お前は悲しみにあふれている。私の情動は、熱い流れとなって、ほとんど私の血管の水路に溢れ出さんばかりである。私は切に語りたいと思うが、その願いそのものが私の舌を縛りつけてしまう。祈りたいと願うが、その感情の熱烈さによって言葉にくつわがかけられてしまう。そこには云いようもない深いうめきがある。あなたは、その深いうめきをだれが発することができるか、だれが理解できるか、だれがそれを天的な言葉に変えて発することができるか知っているだろうか? おゝ! しかり。聖霊なる神である。聖霊は私たちの主張をキリストに向かって弁護してくださり、キリストはそれを御父に向かって弁護してくださる。御霊は、云いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる弁護者なのである。

 このように教師と弁護者としての御霊の職務を説明したので、私たちはこれから、私たちの聖書の訳語――助け主――に至ることになる。そして、ここで私は3つの区分によって語ることにする。第一に、その助け主について。第二に、その助けについて。そして第三に、助けられる者について。

 I. まず第一に、《助け主》について。手短に、この栄光に富む《助け主》の特徴をざっとさらってみよう。このお方の助けに伴う属性のいくつかを告げさせてほしい。そうするとき、あなたは、このお方がいかにあなたの必要にうってつけのお方かわかるであろう。

 最初に注目したいのは、聖霊なる神は非常に愛に満ちた《助け主》だということである。私は悩みの中にあり、慰めを欲している。通りがかりのだれかは、私の悲しみを聞きつけて、中に立ち寄り、腰をおろしては、励まそうとしてくれる。その人は、心和らげるような言葉を語る。だが私を愛してはいない。赤の他人である。私のことを全然知っていない。ただ立ち寄って、ありきたりのことを云っているにすぎない。では、どのような結果になるだろうか? その人の言葉は、大理石の板に流した油のように私の上を滑り落ちていく。――それは岩の上にぱらぱらと降る雨のようなものである。私の悲嘆を砕きはしない。私の悲嘆は堅固無比で揺らぎもしない。その人が私に何の愛もいだいていないからである。しかし、私を自分のいのちのように心底から愛しているだれかがやって来て、私に懇願するとき、そのときは、まことにその人の言葉は妙なる調べとなる。それは蜂蜜のように甘い。その人は、私の心を開く合い言葉を知っており、私の耳はその一言一言に釘づけになる。私はその言葉が発されるたびに、その音節ごとの抑揚を聞き分ける。それが天の竪琴による和音のように響くからである。おゝ! そこでは愛による声がする。その声は、借り物でない言葉を語っている。その言葉つきと訛りはだれにも真似できない。いかなる知恵も模倣できず、いかなる雄弁も達しえない。悲しみにくれる心は愛によってしか動かない。愛だけが、悲しみにくれる者の涙を拭える手巾である。そして、聖霊は愛に満ちた《助け主》ではないだろうか? あなたは知っていないだろうか? おゝ、聖徒よ。いかに聖霊があなたを大きく愛しておられることか。あなたに御霊の愛を測り知れるだろうか? あなたに対する御霊の衷心からの愛情がいかに大きなものか、あなたは知っているだろうか? 行って、あなたの張り綱で天を測ってみるがいい。行って、山々を秤で計ってみるがいい。行って、大海の水を手に取り、その水滴を数えてみるがいい。行って、広大な浜辺の砂を数えてみるがいい。それを成し遂げることができたなら、あなたは御霊がいかに大きくあなたを愛しておられるかわかるであろう。御霊はあなたを昔から愛してこられた。切に愛してこられた。常に愛しておられた。そして、これからもずっと愛してくださる。確かに、この方こそあなたを助けるお方である。あなたを愛しておられるからである。ならば、このお方をあなたの心に迎え入れるがいい。おゝ、キリスト者よ。願わくはこのお方が、苦悩のうちにあるあなたを助けてくださるように。

 しかし、次に御霊は忠実な《助け主》である。時として愛は忠実でなくなることがある。「おゝ! 蛇の牙よりも鋭きもの」、それは不忠実な友である! おゝ! 苦い胆汁よりもはるかに苦いもの、それは私が悩むときに離れ去る友である! おゝ! 何にもまして忌まわしいもの、それは私が富み栄えているときには私を愛していながら、私が苦難に遭う暗い日には私を捨てる者がいることである。これは実に悲しいことである。だが、神の御霊はそのようなお方ではあられない。御霊は常に愛してくださり、最後の最後まで愛してくださる。――忠実な《助け主》である。神の子どもよ。あなたは苦難の中にある。ほんの少し前に、あなたは御霊が甘やかで愛に満ちた《助け主》であることを見いだした。他の人々がこわれた水ためでしかないときに、御霊からの慰籍を得た。御霊はあなたを御胸にかくまい、御腕で運んでくださった。おゝ、だのにあなたは今この方を信頼しないというのだろうか? そのような恐れは振り捨てるがいい! というのも、御霊は忠実な《助け主》だからである。だがあなたは云う。「あゝ! しかし、私は自分が病気になって、御霊様の儀式を受けられなくなるのが恐ろしいのです」。それにもかかわらず、御霊はあなたを病床のもとに訪れ、あなたの傍らに座って慰めを与えてくださる。「あゝ! しかし、私には、あなたが考えもつかないほど大きな苦悩があるのです。波また波が、私の上を越えて行きつつあるのです。《永遠》の大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こしつつあるのです」。それにもかかわらず、御霊はその御約束に忠実であられるであろう。「あゝ! しかし、私は罪を犯しました」。そう、あなたは罪を犯した。だが、罪にあなたを御霊の愛から引き離すことはできない。御霊はそれでもあなたを愛しておられる。おゝ、あわれな、うなだれた、神の子どもよ。あなたの古い罪の傷跡があなたの美しさを損なっているからといって、御霊がその傷の分だけあなたを愛さなくなるなどと考えてはならない。おゝ、否! 御霊はあなたの罪を予知したときにも、あなたを愛しておられた。あなたの邪悪さの総計がいかほどになるかを知りながら、なおもあなたを愛しておられた。そして今、それだけ愛さなくなるなどということはない。信仰のありったけの大胆さをもって、御霊のもとに来るがいい。自分が御霊を悲しませたことを申し上げるがいい。そのとき、御霊はあなたのさまよいを忘れ、あなたを再び受け入れてくださるであろう。御霊の愛の口づけがあなたに授けられ、その恵みの御腕があなたをかきいだくであろう。御霊は忠実であられる。御霊を信頼するがいい。御霊は決してあなたを欺かない。御霊を信頼するがいい。御霊は決してあなたを離れることはない。

 さらに、御霊は倦むことなき《助け主》であられる。私は、試練に遭っている人々を慰めようとすることがある。すると時折、神経質な人の場合に出くわすのである。「何があなたを苦しめているのですか?」、と尋ねると、これこれのわけだと告げられる。そこで、できるものならそれを取り除こうと試みるが、その困難を砲撃しようとして私の砲兵隊を整えている間に、その困難の方位が移動してしまい、全く別の場所を占めていることに気づくのである。そこで議論を変えて、初めからやり直すことになる。だが、見よ、それはまたしてもいなくなっており、困惑させられてしまう。まるで、切っても切っても頭が生えてくるヒュドラと戦うヘラクレスのように感じられ、ついには絶望してその務めを投げ出してしまう。人は、慰めることが不可能な人々に出会うものである。そうしたときに思い起こされるのは、自分で自分に足枷をはめては、だれもその枷を開けないようにと、その鍵を投げ捨てたという男のことである。私は絶望という足枷をはめた人に何人か会ったことがある。彼らは云う。「おゝ、私は悩みに会った者。あなたがた、私の友よ。私をあわれめ、私をあわれめ」。そして、そうした人々を助けようとすればするほど、状態は悪化していく。それゆえ私たちは愛想を尽かして、彼らが自分の以前の喜びの墓場の間をさまようがままにする。しかし、聖霊は決してご自分が助けようと願われる人々に愛想を尽かしはしない。御霊が私たちを助けようと試みても、私たちはその甘やかな気付け薬から逃げ去る。御霊が私たちを癒す何らかの甘やかな飲み薬を与えても、私たちは飲もうとしない。御霊が私たちのあらゆる問題を魔法のように消し去る何らかの素晴らしい一服を与えても、私たちはそれから顔を背ける。それでも御霊は私たちを追い求めてくださる。そして、自分は助けられなどはしないと私たちが云い張っても、御霊は私たちを必ず助けてみせると云い、そう云われるとき御霊は、それを成し遂げてくださる。御霊は私たちのいかなる罪によっても、私たちのいかなるつぶやきによっても倦まされることがない。

 そして、おゝ聖霊は、いかに賢い《助け主》であろうか。ヨブに助け手たちはいたが、彼がこう云ったときには真実をついていたと私は思う。「あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ」[ヨブ16:2]。しかし、あえて云えば彼らは自分たちのことを賢いと思っていたであろう。そして、青年エリフが立ち上がって語り出したとき彼らは、厚かましいにもほどがあると考えたであろう。われわれは「重々しく、あがむべき年長者」ではないのか? われわれはヨブの悲嘆や悲しみを理解したのではないだろうか? もしわれわれが彼を助けられないとしたら、だれにできようか? しかし、彼らはその原因を発見できなかった。彼らはヨブが本当は神の子どもではないのだと考えた。自分を義としているのだと考えた。そして、彼に間違った薬を与えた。医者が病気を間違えて、誤った処方を与え、それで患者を殺してしまうかもしれないというのは、ひどいことである。時として私たちは、行って人々を訪ねるとき、相手の病気を間違えて、ある点で彼らを助けようとしたいのに、実は彼らはそのような助けを全く必要としておらず、私たちのような愚かな助け手から害されるよりは放っておかれたほうがましだった、ということがままある。しかし、おゝ! 聖霊はいかに賢くあられることか! 御霊は魂を取り上げると、診察台の上に乗せ、一瞬のうちに腑分けすると、問題の根源を突き止め、その患部を見抜いては、除去しなくてはならない部分に手術刀をあてるか、ただれた部分に膏剤を塗ってくださる。そして、決して間違いを犯すことがない。おゝ! いかに賢くあられることか! ほむべき聖霊よ! 私はあらゆる助け手に背を向け、彼らを捨て去ります。あなただけが、最も賢い慰めをお与えになるからです。

 それから、聖霊がいかに安全な《助け主》であられるか、注目するがいい。すべての助けが安全とは限らない。そこに注目するがいい。あちら側に、ひとりの非常に陰鬱な青年がいる。彼がなぜそうなったかはわかっている。彼は神の家に足を踏み入れ、力強い説教者の話を聞き、その言葉が祝福されて、彼に罪を確信させたのである。帰宅すると、父親や残りの家族は彼がどこか変わったことに気づく。彼らは云う。「おゝ、ジョンが変になった。気が狂ったんだ」。では、母親は何と云うだろうか? 「この子を田舎に連れていって散歩させましょう。舞踏会か劇場に連れていきましょうよ」。ジョン君! 君はそこで何か助けを見いだしたか? 「あゝ、いいえ。かえって悪くなるばかりでした。というのも、そこにいる間、ぼくは地獄が口を開いて、ぼくを呑み込むかもしれないと考えていたからです」。悲しいかな! これは、みじめな助けである。だが、これが、この世の子らの与える助けにほかならない。そして、あるキリスト者が苦悩に陥るとき、いかに多くの人々が、この治療薬、あるいは、あの治療薬を勧めるであろうか? 「行って、誰それ先生の説教を聞いてみなさい。何人か友人を家に招きなさい。これこれの心慰める書物を読んでみなさい」。そして、非常に多くの場合、これはこの世で最も安全ならざる助言である。悪魔は時として人々の魂のもとに、にせの助け手としてやって来て、魂にこう云うであろう。「悔い改めについて、ここまで大騒ぎをする必要がどこにあるのか? あなたは他の人たちより全然悪くないではないか」。そして彼は、ただの思い上がりでしかないものを、聖霊による真の確信であると信じ込ませようとするであろう。このようにして彼は多くの人々を偽りの助けで欺くのである。あゝ、これまでにも多くの人々は、甘味剤を与えられた幼子のように、眠り込まされては滅びに至らされてきた。多くの人々は、平安がありもしないのに、「平安だ。平安だ」、と叫ばれ、骨の髄まで飛び上がらされてしかるべきときに物静かな言葉を聞かされては破滅してきた。クレオパトラを自死させた埃及眼鏡蛇は花篭の中に入れられて持ってこられた。そして、人々の破滅はしばしば、美しく甘やかな弁舌の中に潜んでいるのである。しかし、聖霊の助けは安全であり、あなたはその上に安んじることができる。御霊に言葉を語らせるがいい。そこには真実がある。御霊に慰めの杯を与えさせるがいい。それは最後の一滴まで飲み干せる。というのも、その底には何の澱もなく、人を酔わせるもの、破滅させるものは何もなく、ことごとく安全だからである。

 さらに、聖霊は活動的な《助け主》であられる。聖霊は言葉によってではなく、行ないによって助けてくださる。ある人々の助けは、「暖かになり、十分に食べなさい、と云って何も与えない」*ことでしかない[ヤコ2:16]。しかし、聖霊は与える。イエスにとりなす。私たちに約束を与える。恵みを与える。そして、そのようにして私たちを助けてくださる。また、やはり注目するがいい。聖霊は常に失敗しない《助け主》であられる。決してご自分が成し遂げられもしないことを試みたりなさらない。

 それから、しめくくりに、聖霊は常にともにいる《助け主》であられる。それで、あなたは決して聖霊を呼びにやらなくてもよい。あなたの神は常にあなたの身近におられ、あなたが苦悩のうちにあって助けを必要とするときには、見よ、みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。聖霊は、苦しみのとき、常にそこにある助けであられる。こうした思想をもっと展開できる時間があればと思う。だが、そうしてはいられない。

 II. 第二のことは、《慰め》である。さて、ある人々は聖霊の影響力について大きな思い違いをしている。ひとりの愚かな人が、ある講壇で説教しようと思いついた。実のところ、そのような務めにあたれる力は全く持ち合わせていなかったが、その人は、教役者のもとを訪ねて、厳粛な面持ちでこう請け合ったという。自分は、あなたの講壇で説教すべきである、という聖霊による啓示を受けました、と。「よろしい」、と教役者は云った。「あなたの主張を疑ってはならないとは思いますが、私は、あなたに説教させるべきであるとの啓示を受けとっていませんので、そうなるまでは、引っ込んでいなさい」。聞くところ、多くの狂信的な人々は、聖霊があれこれのことを自分たちに啓示した、と云うものらしい。さて、それは非常によく知られたたわごとである。聖霊は、今では何事も新たには啓示なさらない。聖霊は、古い事がらを私たちに思い起こさせてくださる。「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」。啓示の正典は完結している。何もつけ加えるべきことはない。神は新たな啓示は与えないが、古い啓示を踏み固めてくださる。それが忘れられたとき、また、私たちの記憶の埃っぽい小部屋に積み込まれてしまったとき、それを引き出し、その絵の汚れを落としはするが、新しい絵を描くことはなさらない。新しい教理などというものは何1つないが、古い教理はしばしばよみがえらされる。私は云う。聖霊は、決して何らかの新しい啓示によって助けなさるのではない、と。その助けは、私たちに古い事がらを繰り返しお告げになることによってなされる。御霊は、新鮮な明かりをもたらし、聖書に隠された種々の宝を明らかにしてくださる。真理が長いこと納められていた頑丈な箪笥の鍵を開け、莫大な富で満たされた秘密の小部屋を指し示しなさる。だが、御霊はそれ以上のことはなさらない。すでに十分なされているからである。信仰者よ! 聖書の中には、あなたを永遠に養うに足るものがある。もしあなたがメトシェラの齢を越えたとしても、新たな啓示など全く必要にはならないであろう。もしあなたがキリストが地上に来られるまで生きていたとしても、一言もつけ加えられる必要はないであろう。たといあなたがヨナと同じくらい深みに降りようが、あるいはダビデが述べたように、よみの腹の中まで下ろうが、それでも聖書の中には、あなたを助けるものが十分にあり、一文たりとも補足する必要はないであろう。むしろキリストは云っておられる。「御霊はわたしのものを受けて、あなたがたに知らせる」、と[ヨハ16:15]。さて、聖霊が私たちに何を教えてくださるか、手短に告げさせてほしい。

 あゝ! 御霊は心にこう囁かないだろうか? 「聖徒よ。しっかりしなさい。あなたのために死なれたお方がいます。カルバリに目を向けなさい。そのお方の傷を見つめなさい。そのわき腹からほとばしり出た血潮を見なさい。そこに、あなたを買い取ったお方がいます。そして、あなたは安全なのです。この方は、永遠の愛をもってあなたを愛しておられます。また、この懲らしめは、あなたの益となるものなのです。一打ち一打ちが、あなたを癒すために働いています。その青あざによって、あなたの魂は向上するのです。『主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる』[ヘブ12:6]。あなたの患難ゆえに、主の恵みを疑ってはなりません。むしろ、順境のときと同じくらい逆境のときにも主があなたを愛しておられることを信じなさい」。それから、さらに御霊はこう云われる。「あなたの苦しみをすべて合わせても、あなたの主の苦しみにくらべれば、それが何でしょう。あるいは、イエスの苦悶と秤にかければ、あなたの苦悩のすべてが何でしょう」。そして、特に聖霊は、時として、天国の覆いをはずして、上つ世界の栄光を魂に見せてくださる! そのとき、聖徒はこう云えるのである。「おゝ、あなたは私にとって《助け主》です!」、と。

   「憂きや悩みの 氾濫(おおみず)来れど
    よし悲しみの あらし降るとも
    われは安けく 家路につかん。
    わが主、わが天、わがすべてへと」。

あなたがたのうちのある人々は、たとい私が天国の現われについて語っても、ついて来れるであろう。あなたがたもまた、日と月と星々とを足下に置き去り、その飛翔の間、のろまな雷よりはるかに速く進みつつ、御霊の翼に高々と運ばれ、真珠の門に入り、黄金の街路を踏みしめるかのように思ったであろう。しかし、ここで私は、自分をあてにするわけにはいかない。さもないと、幻想にふけるあまり、自分の主題を忘れてしまいかねないであろう。

 III. さて第三に、だれが《助けられる》人々なのか! ご存じの通り私は、自分の説教の最後では、好んで、「区別! 区別!」、と云い立てるものである。ここには二種類の人々がいる。――助けられる人々と、助けられていない他の人々である。――聖霊の慰めを受けている人々と、受けていない人々である。さて私は、あなたがたを試し、ふるい分けてみよう。そして、だれが殻で、だれが麦かを見てみよう。そして、願わくは神が今晩、殻である、ある人々を、ご自身の麦に変化させてくださるように。

 あなたは云うであろう。「いかにすれば私は、自分が聖霊の助けを受けている者かどうかがわかるのか?」 それは、1つの規則によってわかる。もしあなたが神からの祝福を1つ受けとっているとしたら、いずれ他のすべての祝福をも受けとるであろう。どういうことか説明させてほしい。もし私がここに競売人として来て、福音を切り売りすることができたとしたら、私はそのすべてを処分できるであろう。もし私が、さあ、キリストの血による義認だ、お代はいらない、無料で持っていくがいい、と云えたとしたら、多くの人は云うであろう。「私は義認をいただきましょう。それをください。私は義と認められ、赦されたいのです」、と。では、私が聖化を取り上げたらどうなるだろう。すべての罪を捨てること、徹底的に心を入れ替えること、酒に酔うのも悪態をつくのもやめることを取り上げたとしたら、多くの人々は云うであろう。「それはほしくありません。天国には行きたいですが、そんな聖さはいりません。最後には救われたいと思いますかが、まだ酒は飲んでいたいです。栄光には入りたいですが、その途中で1つや2つ悪態をつかなくてはやっていられません」。ふうむ。だが罪人よ。もしあなたがある祝福を受けたなら、すべてを受けとらねばならないのである。神は決して福音を切り分けはしない。ある人には義認を与え、別の人には聖化を与えるなどということはなさらない。否。それらはみな相伴うのである。神は、ご自分の召した人々を義と認め、義と認めた人々を聖化し、聖化した人々にさらに栄光をお与えになる[ロマ8:30]。おゝ、もし私が福音の助けだけしか主張しないとしたら、あなたがたは蜂蜜に蠅が群がるように殺到するであろう。あなたがたは病気になると、聖職者を呼びにやる。あゝ! あなたがたはみな、そのときには自分の教役者がやって来て、慰めの言葉をかけてほしいと思う。しかし、もしその教役者が正直な人間だとしたら、あなたがたの中のある人々には、これっぽっちも慰めを与えないであろう。切開刀の方がふさわしい場合に、油を注ぎ始めたりしないであろう。私は、まずその人に自分の罪を感じさせるのでなければ、一言もキリストについて告げようとは思わない。その人の魂に解剖刀を入れ、自分が失われていることを感じさせてから初めて、すでに買い取られている祝福について語りたいと思う。「さあ、ただキリストを信じなさい。それだけでよいのです」、と告げるのは、多くの人々を破滅させることである。もし彼らが、死なずに回復したとしたら、起きあがったときには、白粉を塗りたくった偽善者となっている。――それだけである。私は、ある市内伝道者について聞いたことがある。その人は、まさに臨終を迎えていると思われたが、命をとりとめた二千人の人々について記録をつけた。その人々は、もし死んでいたとしたら、回心したと書きとめられたはずの人々であった。では、その二千人のうち後々までキリスト者生活を送っていたのは何人いたと思うだろうか! ふたりといなかった! はっきり云えば、たったひとりしか、後々までも神を恐れて生きていた人物を見いださなかったのである。これは、ぞっとするようなことではないだろうか? 人々が死の間際になると、「お助けを、お助けを」、と叫び、そのため彼らの友人たちが、彼らは神の子らであると思い込むというのに、結局彼らは慰めを得る何の権利もなく、ほむべき神の閉ざされた地への闖入者である、というのは。おゝ、神よ! 願わくはこうした人々が、助けを受ける権利を得ていない間は、決してそうした助けに近づけなくなるように! あなたには他の祝福があるだろうか? 罪の確信があるだろうか? 神の前における自分の咎を感じたことがあるだろうか? あなたの魂はイエスの足下でへりくだらされているだろうか? そして、あなたはカルバリだけを――あなたの隠れ家として――見上げるようにされただろうか? そうでないなら、あなたには何の慰めを受ける権利もない。微塵もそれに手を出してはならない。御霊は、《助け主》である前に、《罪を確信させるお方》である。そしてあなたは、聖霊の他のお働きを受けるのでなくては、決してこのお働きから何事も引き出してはならない。

 さて、いま私は話を終えた。あなたは、このおしゃべりが何と云っているかを再び聞いた。それはどういうことだったろうか? 《助け主》に関することであった。しかし、あなたが家に帰る前に、1つ尋ねさせてほしい。あなたはその《助け主》について何を知っているだろうか? あなたがたひとりひとりは、この会堂の表階段を降りる前に、この厳粛な問いかけで自分の魂を震わせてほしい。――あなたはこの《助け主》について何を知っているだろうか? おゝ! あわれな魂よ。もしあなたが《助け主》を知っていないとしたら、私はあなたがいずれ知るであろうことを教えよう。――あなたは《審き主》を知ることになる! もしあなたが現世で《助け主》を知らなければ、来世で《断罪する主》を知ることになる。そのお方は大喝するであろう。「のろわれた者ども。ここから離れて、地獄の永遠の火にはいれ」。いみじくもホイットフィールドはこう叫んでいる。「おゝ、地よ、地よ、地よ、主のことばを聞くがいい!」 もし私たちが地上で永遠に生きられるとしたら、あなたも福音を軽んじてよかろう。もしあなたが自分の命の長さを定められるとしたら、《助け主》をさげすんでもよかろう。しかし、方々。あなたがたは死なくてはならない。こないだ私たちが一堂に会して以来、おそらく何人かはその永久にして終の住処へと行き着いたであろう。また、私たちが再びこの聖所で相会うまでに、この場にいる何人かは上で栄光にはいるか、下で罪に定められるかする人々となっているであろう。どちらになるだろうか? 自分の魂に答えさせるがいい。もし今晩あなたが、その会衆席で、あるいは桟敷の立ち席で死んで倒れたとしたら、あなたはどこにいることになるだろうか? 天国だろうか、地獄だろうか? あゝ! 自分を欺いてはならない。良心を存分に働かせるがいい。そしてもしあなたが、神の御前において、こう云わざるをえないとしたら、――「私は、自分の受ける分が不信者と同じではないかと震え、おののきます」、と云わざるをえないとしたら、もうしばし耳を傾けるがいい。それ以上あなたに云うことはない。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。倦み疲れた罪人よ。身の毛もよだつような罪人よ。あなたがた悪魔の屑、自堕落な者、放蕩無頼な者、売春婦、強盗、盗人、姦通者、密通者、酔いどれ、悪態をつく者、安息日破りの徒よ。――いざ聞け! 私はあなたがたにも、他の人々に対してと同じように云う。いかなる者も除外しない。「主イエス・キリストの御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。罪は何の障壁でもない。あなたの咎は何の障害でもない。だれでも――たといサタンのように暗黒な者であれ、悪鬼のように汚れ果てた者であれ――だれでも今晩信じるならば、一切の不義が拭い去られる。主イエス・キリストにあって救われ、安全に安泰に天国に立つ。それが栄光に富む福音である。神がそれをあなたの心に深く働かせ、イエスを信ずる信仰を与えてくださるように!

   「われらは聞きぬ かの説教者を――
    真理はいまや 彼が示せり。
    されどわれらは 切に要せり、
    永遠の御座より いでし教師を。
    心に働くはただ 神なれば」。

助け主[了]

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