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聖霊の人格性

NO. 4

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1855年1月21日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」。――ヨハ14:16、17


 あなたは驚くであろうが、今朝の私は、《助け主》としての聖霊については何も語るつもりはない。その点については、今晩の特別説教にとっておきたいと思う。今から行なう話で私が努めて説明し、強く主張したいと考えているのは、それ以外のいくつかの教理である。私は、それらが本日の聖句ではっきり教えられていると信ずるものであり、聖霊なる神が、それらを私たちの魂に有益なものとしてくださるように希望するものである。かつて老ジョン・ニュートンは、ある種の本を自分は読むことができないと語った。それらは悪い内容ではなく、十分に健全な書物ではあったが、彼の云うところ、「それらは、半ペニー銅貨の書物なのである。――それなりの価値を得るまでには、何冊も何冊も読まなくてはならない。他にも銀貨の書物や、金貨の書物があるが、私には一冊、銀行券の書物があるのである。そして、その一頁一頁は、莫大な価値を有する銀行券なのである」。私の見いだしたところ、本日の聖句も、それと全く異ならない。ここにある銀行券は、途方もなく高額であるため、そのすべてを今朝云い尽くすことはできないであろう。何時間も語り続けなくては、決してこの尊い約束――キリストがご自分の民に最後に与えられた約束の1つ――の真価をことごとく解き明かすことはできないであろう。

 私があなたの注意をこの箇所に向けたいのは、この中に4つの点についての教えを見いだせるからである。それは、第一に、聖霊の真の、正当な人格性について。第二に、私たちの救いのみわざにおける、栄光に富む《三位格》の一致したお働きについて。第三に私たちが見いだすのは、信仰者全員の魂における聖霊の内住という教理を立証するものである。そして第四に私たちが見いだすのは、肉の思いが聖霊を拒絶する理由である。

 I. まず第一に、ここには、正当な《聖霊の人格性》についての教えがそれなりに見いだされる。私たちは、聖霊の影響や、その聖いお働きと種々の恵みについて語ることに慣れすぎて、ともすると聖霊が真に、また、現実に、一個の人格であられること――1つの実存――1つの実体であられることを忘れがちである。あるいは、私たち三位一体論者が常々云うように、《神格》の本質における一位格であられることを忘れがちである。残念ながら私たちは、自分でも気づかないうちに、聖霊を御父と御子から放散される流出物とみなしてしまい、現実に一個の人格であられるお方とはみなさない習慣を身につけてしまってはいないだろうか。むろん私も、聖霊を人格として考えることが精神にとって容易でないことは承知している。御父を人格として考えることはできる。御父の行ないは、私の理解できるものだからである。私は、御父が世界を虚空に吊り下げておられる姿を思い浮かべることができる。生まれたばかりの海に暗闇の産着を着せておられる姿が目に浮かぶ。雹の粒を形づくり、星々をその群れごとに導き、そのすべてに名をつけておられるのを知っている[詩147:4]。そのお働きを見ているので、私は御父を人格として思い描けるのである。私は、《人の子》であるイエスを、現実の人格として実感することができる。彼は私の骨の骨、私の肉の肉だからである。さほど想像力をふりしぼらなくとも、私にはベツレヘムの幼子を思い描くことができ、「悲しみの人で病を知っていた」お方を見ることも、ピラトの公邸で迫害を受け、呪われた木で私たちの罪のために釘づけられている、殉教者たちの《王》たるお方を見ることもできる。また私は、時として、天にあるその御座に着いておられる私のイエスの人格を実感することも困難ではない。あるいは、雲を帯び、森羅万象の王冠を戴き、全地を審きに呼び出し、私たちを召還して、私たちの最終的判決を審理なさるイエスの人格を実感することも困難ではない。しかし聖霊を相手にするとき私たちは、そのお働きがあまりにも神秘的で、その行ないがあまりにもひそかで、その行為があまりにも感覚や肉体に関わるものからかけ離れているため、容易には聖霊が人格であられるという考え方を受け入れられないのである。だが、御霊は人格であられる。聖霊なる神は、御父から放散される影響力でも、流出物でも、何らかの流れでもない。子なる神、あるいは父なる神のいずれにも劣らず、現実の人格であられる。私は今朝、微力ながらも力を尽くしてこの教理を立証し、その真実さをあなたに示したいと思う。――聖霊なる神は現実に人格であられるのである。

 その最初の証拠は、聖なるバプテスマの水槽から得られる。私は、あなたをも――他の人々をそうしたように――その水槽の中に連れて行きたいと思う。それは、今は覆い隠されているが、あなたの目の前には常に開かれていればよいと思うものである。この洗礼盤へと、ぜひあなたを連れて行かせてほしい。それは、信仰者が主イエス・キリストの御名を身にまとう場所である。そして、そこであなたは、私がこの厳粛な言葉を宣言するのを聞くであろう。「私はあなたに、父、子、聖霊の御名によって」――三者それぞれの名ではなく、1つの「御名によって」――「バプテスマを授ける」、と。聖書で規定された真の形式によってバプテスマを受けた人は、みな三位一体論者でなくてはならない。さもなければ、その人のバプテスマは茶番劇の嘘っぱちとなり、その人自身は神の御前で偽り者、偽善者ということになるであろう。御父が言及されているのと同じく、御子が言及されているのと同じく、聖霊も言及されているのである。また、その全体は、複数の名ではなく、1つの「御名」と云われることによって、一致した《三位一体》としてひとくくりにされているのである。その「御名」とは、栄光に富む御名、エホバの御名、「父と、子と、聖霊の」御名にほかならない。思い起こしてほしいが、これと同じことは、あなたがたがこの祈りの家から散会するたびに起こっているのである。あの厳粛な閉会の祝祷を宣言するとき、私があなたのため乞い求めているのは、イエス・キリストの愛と、御父の恵みと、聖霊の交わりである。このようにして私たちは、使徒的なしかた[IIコリ13:13]に従って、この三人格の間に明確な区別をつけつつも、御父を人格と信じ、御子を人格と信じ、聖霊を人格と信じていることを示しているのである。聖書に他の何の証拠もなかったとしても、こうしたことは、分別あるあらゆる人にとって十分であると思う。その人は、もし聖霊がただの影響力でしかなかったとしたら、私たちがみな現実に、また正当に人格であると告白するふたりのお方と並んで言及されはしないはずだと見てとるであろう。

 第二の議論のもととなるのは、現実に聖霊が、地上で異なる見かけをお取りになった、という事実にほかならない。大いなる御霊は、ご自分を人間に現わしてこられた。御霊は、定命の人間の目には見えないお方でありながら、何らかの形を取って、目に見えるような外観を身にまとい、その外観に限っていえば、目を向けるあらゆる人の目で見えるようになられたのである。あなたは、私たちの《救い主》イエス・キリストが見えるだろうか? そこにヨルダン川がある。ゆるやかに下る河岸で、よどんだ流れに柳がしだれている。神の御子イエス・キリストがその流れに身を浸し、聖なるバプテスマのヨハネが彼を波間に沈める。天の扉が開かれる。1つの奇蹟的な様相が現われ、空から明るい光が輝き出る。それは、そのあらゆる壮麗さにおいて太陽よりも明るく、鳩のように見える何かが、栄光をほとばしらせながら降りてくる。それはイエスの上にとどまる。――その聖なる頭の上に降り立つ。そして、古の画家たちがイエスの額の周囲に光輪を描いたのと同じく、聖霊は、この、すべての《正しいこと》を実行するために来られ、それゆえ、バプテスマの典礼を開始なさったお方の御顔の周囲に、燦然たる輝きを注ぎ出しなさった。聖霊が鳩のように見えたのは、そのきよさと、優しさを示すためであり、鳩のようになって天から来られたのは、天からのみ、ご自分が降りて来られることを示すためであった。また、これは聖霊が目に見える形で現わされた唯一の時というわけでもない。あなたの見てとるところ、弟子たちの一団は、ある屋上の間に集まり、約束されていた何らかの祝福を待ち受けていた。それは間もなくやって来るはずであった。聞くがいい! 激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。驚愕した彼らは、次に何が起こるのかと周囲を見回した。たちまち、明るい光が現われ、彼らひとりひとりの頭の上に輝いた。炎のような分かれた舌が、ひとりひとりの上にとどまった。こうした風や炎といった驚異的な顕現は、聖霊の正当なご人格を表示するものでなくて何だろうか? 私は云う。何かが顕現したという事実は、御霊がご人格に違いないことを明白にしている。ただの影響力が顕現することなどありえなかった。――ただの属性が顕現することなどありえなかった。私たちは種々の属性を見ることはできない。――種々の影響力を見ることはできない。ならば聖霊は、人格であられるに違いない。御霊は、定命の目によって見られ、定命の感覚で知覚できる領域のもとにやって来られたからである。

 もう1つの証拠は、聖書の中で、種々の人格的な特性が聖霊に帰されているという事実から出ている。まず読み上げさせてほしいのは、聖霊が理解力をお持ちのお方として語られている聖句である。コリント人への第一の手紙の第2章にはこう記されている。「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」[Iコリ2:9-11]。ここには理解力が見てとれる。――知力が聖霊に帰されている。さて、もしこの場にいる人々の中に、ある属性を別の属性に帰そうとしたり、ただの影響力も理解力を有するのだなどと語ろうとするような、馬鹿げた性格の精神の持ち主がいるとしたら、私はあらゆる議論をあきらめるものである。しかし、私の信ずるところ、道理をわきまえたあらゆる人はこう認めるであろう。すなわち、何物かが理解力を有していると語られている場合、それは1つの実在に違いない、と。――実際、それは一個の人格であるに違いない、と。同じ手紙の12章11節を見ると、聖霊に意志が帰されていることがわかる。「しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです」。こういうわけで、明らかに御霊には意志があるのである。御霊は、単に神のみこころのままに神からやって来るだけでなく、ご自分の意志があり、それは常に無限のエホバの意志と調和してはいるが、それにもかかわらず、はっきり明確に区別されたものなのである。それゆえ私は、御霊が人格であると云うものである。別の節では、力が聖霊に帰されており、力とは、ある実在にのみ帰されうるものである。ロマ書15:13には、こう書かれている。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」。このことを強調する必要はあるまい。理解力や、意志や、力を見いだすところには、常に、1つの実在を見いださざるをえないことは自明だからである。それは単なる属性ではありえない。比喩ではありえない。擬人化された影響力ではありえない。それは人格でなくてはならない。

 しかし次の証拠は、ことによると、あなたにとって他の何にもまさって有効かもしれない。すなわち、聖霊には、行為や行ないが帰されているのである。それゆえ、御霊は人格であられるに違いない。創世記第1章を読むと、まだ、あらゆる無秩序と混乱の中にあった地の面を御霊が静かに抱きかかえておられたと記されている。この世界は、かつては混沌たる物質の塊であった。そこには何の秩序もなかった。それは、暗闇と、死の影の谷のようであった。聖霊なる神は、その上にご自分の翼を広げておられた。その中にいのちの種を蒔かれた。そこから万物が生じてくる胚芽が、御霊によって植えつけられた。御霊は地を受胎させ、いのちを生み出せるものとなさった。さて、混乱の中から秩序をもたらすことのできるものは、人格でなくてはならない。この世界の上をただよい動き、それを今あるようなものになさったお方は、1つの実在であるに違いない。しかし、聖書の中には、聖霊についてもっと多くのことが記されていないだろうか? しかり。「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」、と語られている[IIペテ1:21]。モーセが五書を書き記したとき、聖霊は彼の手を動かしておられた。ダビデがその詩篇を書き、その竪琴で甘美な音楽を奏でていたとき、聖霊こそ彼の指先にその熾天使のごとき動きを与えていたお方であった。ソロモンがその知恵の箴言の言葉を口にしていたとき、あるいはその雅歌を歌って賛美していたとき、聖霊こそ彼に知識の言葉と歓喜の賛美をお与えになったお方であった。あゝ! そして、かの雄弁なイザヤの唇に触れたのは、いかなる炎だったろうか? ダニエルの上に臨んだのは、いかなる手だったろうか? エレミヤをしてその悲嘆の中であれほど悲しみに沈ませたのはいかなる力だったろうか? あるいは、エゼキエルを飛ばせて、彼を鷲のようにし、いや高い神秘にまで飛翔させ、私たちの手の届かない、大いなる未知を見させたのは何だったろうか? 牧者アモスを預言者にしたのはどなただったろうか? 野人ハガイに、その雷のような宣告を宣言するように教えたのはどなただったろうか? ハバククに、海を踏みつけて行進するエホバの馬を示したのはどなただったろうか? あるいは、ナホムの燃えるような雄弁に火をつけたのはどなただったろうか? マラキに、呪いという言葉の鳴動でその書をしめくくらせたのは、どなただったろうか? こうした1つ1つの場合において、聖霊以外のどなたがそうなさっただろうか? そして、これら古代の証人たちにおいて、彼らを通してお語りになったのは、人格であったに違いないではないだろうか? 私たちはそう信じざるをえない。「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」ことを思い起こすとき、そう信じずにはいられない。

 また、聖霊は、いつ人々に影響力を及ぼすのをおやめになっただろうか? 私たちの見いだすところ、御霊は今なお、その教役者たちをも、その聖徒たちをも取り扱っておられる。『使徒の働き』に目を向けてみるがいい。そこには聖霊がこう語ったと記されている。「バルナバとサウロをわたしのために聖別して……任務につかせなさい」[使13:2]。私は、ただの影響力がそのようなことを語ったなどと聞いたことは一度もない。聖霊はペテロに云われた。「その百人隊長のところに行きなさい。わたしがきよめた物を、きよくないと言ってはならない」[使10:15、19-20参照]。聖霊はピリポがあの宦官にバプテスマを授けた後で、彼を連れ去り、別の場所にさらって行かれた。また、聖霊はパウロにこう云われた。「あの町に入ってはならない。別の町に入らなくてはならない」[使15:6参照]。また私たちが知るように、聖霊に対してアナニヤとサッピラは嘘をついたために、こう云われている。「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」[使5:4]。さらに、私たち宣教に召されている者が日々感じている力――私たちの唇をこれほど力強くしている、その驚くべき魔力――自分の魂に従来住んでいたのではなく、はるか彼方の土地から飛来した鳥のような思想を私たちに与えてくれる力――私が時として奇妙に感ずる影響力、私に詩才や雄弁を与えてくれはしなくとも、私が以前決して感じたことのなかったような精力を私に与え、私を同胞の人々の上に高く掲げる影響力――御霊がその教役者たちにまとわさせてくださる、あの尊厳、戦闘のただ中にあって彼らを、ヨブ記のあの軍馬のように大胆にいななかせ、海中のレビヤタンのごとく彼らを動かすもの――人々を左右する精力を私たちに与え、彼らを座席に釘づけにし、その耳を鎖で繋いだか、どこかの魔術師の杖で魔法にかけたかしたかのように話を聞かせるあの力――その力は、人格から来るものでしかありえない。聖霊から来るものでしかありえない。

 しかし、愛する方々。聖書ではこう云われていないだろうか? 私たちはこう感じていないだろうか? 聖霊こそ魂を新生させてくださるお方である、と。「罪過と罪との中に死んでいた私たちを神は生かしてくださいました」*[エペ2:4-6]。聖霊こそ、いのちの最初の胚芽を植えつけ、罪について、義について、来たるべき審きについて、私たちに確信させてくださるお方である[ヨハ16:8]。また聖霊は、この炎がともされた後で、なおもそれをご自分の息吹によってあおぎ立て、消えないようにしておられるお方ではないだろうか? この炎の創始者は、保持者でもあられる。おゝ! 聖霊こそ、人の魂の中で争い、聖霊こそ人をシナイの麓まで導き、その後でカルバリと呼ばれる甘やかな場所へと至らせてくださるというのに、――こうしたすべてのことを行なっておられるというのに、それでも聖霊は人格でないなどということを、だれが云えるだろうか? 云えはするかもしれないが、そう云う者は馬鹿である。賢い者であれば、こうした事がらが、一個の栄光に富むご人格――神的な実存――以外の何物かによってなされうるなどとは考えられないに違いない。

 もう1つだけ証拠をあげさせてほしい。それで終わりにしよう。聖霊には、いくつかの感情が帰されており、それは聖霊が現実に人格であると考えなければ絶対に理解できないようなものである。エペソ人への手紙の4章30節で、聖霊は悲しまされることがありえると云われている。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」。イザヤ63章5-10節では、聖霊は心を痛めることがありえると云われている。「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」[10節]。使徒7章51節では、聖霊に逆らうことがありえると記されている。「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです」。同じ書の5章9節では、聖霊が試されることがあるとわかる。そこで私たちは、ペテロがアナニヤとサッピラに向かってこう云っていることを知らされる。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか」。さて、こうした事がらは、何らかの特性だの、流出物だのに帰されうる情緒ではありえないであろう。それらは、一個の人格に関連したものと理解しなくてはならない。ただの影響力は悲しまされることがありえないであろう。悲しまされ、心を痛めさせられ、逆らわれることがあるのは、人格でしかありえない。

 さて今、愛する兄弟たち。私は聖霊の人格性という点を完全に立証したと思う。ここで、あなたに銘記してほしいことを真剣に勧めさせてほしい。《三位一体》という教理について健全な見解をいだくことは絶対に必要である。私の知っているある人は、今はイエス・キリストに仕える善良な教役者だが、以前は、私の信ずるところ、異端に走りかけていた。――その人は、私たちのほむべき主の栄光に富む神性を疑い始め、何年もの間、正統的でない教理を説教していた。だがある日たまたま、ひとりの非常に奇抜な老教役者が、次のような聖句から説教するのを聞いて変わったのである。「しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。……あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない」[イザ33:21、23]。その老教役者は云った。「さて、あなたが《三位一体》を捨て去るなら、あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができない。ひとたび三位格の教理を捨て去るなら、あなたの帆の綱はみな失われる。あなたの船を支えるべき帆柱はよろよろ、ぐらぐらしたものとなる」。《三位一体》を抜きにした福音!――それは、頂点を下にして建てられた金字塔である。《三位一体》を抜きにした福音!――それは、結んでおくことのできない砂の縄である。《三位一体》を抜きにした福音!――ならば実際、サタンはそれを転覆できるであろう。しかし、《三位一体》の伴った福音でありさえすれば、ハデスの力もそれに打ち勝つことはできない。いかなる人も転覆させることはできない。それは、あぶくで岩を割ろうとし、羽毛で山を断ち割ろうとするに等しい。三位格の思想をいだいていさえすれば、あなたは神学の精髄を得ているのである。ただ御父と、御子と、聖霊が《ひとりのお方》であることを知りさえすれば、あらゆる事がらは判然とするであろう。これは、自然の秘密を開く黄金の鍵である。神秘の迷宮を抜け出るための絹の道しるべである。これを理解している者は、定命の人間に知りうる限りの奥義をすぐに理解するようになるであろう。

 II. さて、第二の点は、――私たちの救いのみわざにおける、この三位格の《一致したお働き》である。この聖句を見るがいい。三位格すべてが言及されていることに気づくであろう。「わたしは」――これは御子である――「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」。そこには三位格が言及されている。そのすべてが私たちの救いのために何かを行なっておられる。「わたしは願う」、と御子は云われる。「わたしは与える」、と御父は云われる。「わたしは助ける」、と聖霊は云われる。さて、ここでしばしの間、この驚異に満ちた主題について話をさせてほしい。――すなわち、選民を救うという大目的に関する《三位格》の一致ということである。最初に神が人を造られたとき、神は云われた。「われわれに似るように」――わたしに似るように、ではなく――「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」。契約の《エロヒム[神]》は、互いに云い交わされた。「われわれは、一致して人の《創造主》となろう」。それと同じく、永遠におけるはるか昔の時代に、かれらは云われたのである。「われわれは、人を救おう」、と。「わたしは人を救おう」、と御父が云われたのではなく、三位格が、全くの同意とともに一緒に云われたのである。「われわれは、人を救おう」、と。こう考えることは、私にとって甘やかな慰めのもとである。私の救いに携わっておられるのは、《三位一体》の一位格ではない。単に《神格》の一位格だけが私を贖おうと誓っておられるのではない。三者が一致して宣言しておられるのである。「われわれは、人を救おう」、と。

 さて、ここで注目するがいい。それぞれの位格は、別々の職務を遂行するものとして語られている。「わたしは願う」、と御子は云われる。――それは、とりなしである。「わたしは与える」、と御父は云われる。――それは、賜物を送ることである。「わたしは助ける」、と聖霊は云われる。――それは超自然的な影響を及ぼすことである。おゝ! もし私たちに《神格》の三位格を見ることが可能であったとしたら、私たちは、そのおひとりが御座の前に立ち、両手を伸ばして、昼も夜もこう叫んでおられるのを目にするはずである。「主よ。いつまでですか?」 ウリムとトンミム、またイスラエルの十二部族の名の記された宝石を身につけたお方を目にするはずである。その方が、ご自分の御父に向かって叫んでいるのを見るはずである。「あなたの御約束を忘れないでください。あなたの御契約を忘れないでください」。私たちはこの方が、私たちの悲しみの数々に言及し、私たちにかわって私たちの嘆きの数々を繰り述べているのを聞くはずである。この方は私たちのとりなし手だからである。そして、もし私たちに御父を見ることができたなら、私たちの目に映る御父は、御子のとりなしを大した熱意もなく、大儀そうに眺めているお方ではなく、イエスの一言一言に注意深く耳を傾け、そのあらゆる嘆願をかなえてくださるお方のはずである。その間ずっと、聖霊はどこにおられるのだろうか? なまけて寝そべっているのだろうか? おゝ、否。聖霊は、地の上を自由に動き回り、疲れ切った魂を見ると、こう云っておられる。「イエスのところに行きなさい。あなたを休ませてくださいますよ」、と。涙を一杯にためた目を見ると、その涙を拭ってくださり、悲しむその人に、十字架を見上げて慰めを受けるように命じておられる。嵐に翻弄されている信仰者を見ると、その人の魂の舵を握り、慰めの言葉をかけておられる。心の砕かれた人々を助け、彼らの傷に包帯を巻いておられる。そして常にそのあわれみの使命に邁進しておられる聖霊は、世界中を飛びかけて、同時にあらゆる所におられる。見るがいい。この三位格がいかに協同して働いておられるかを。ならば、「私は御子には感謝しています」、などと云ってはならない。――むろん感謝すべきではあるが、決して子なる神は、父なる神以上にあなたを救っておられるわけではない。父なる神が大いなる暴君で、子なる神は御父をあわれみ深くするために死ななくてはならなかったのだ、などと想像してはならない。御子の死は、御父の愛がご自分の民に向けて流れるようにするためではなかった。おゝ、否。どのお方も、他のお方に劣らず愛しておられる。三者は選民が罪に定められないように救い出すという大目的において手を携えておられるのである。

 しかし、本日の聖句ではもう1つのことも注意しなくてはならない。それは、三者のほむべき一致を示すものである。――ある位格が他の位格について約束をしておられる。御子は云っておられる。「わたしは父にお願いします」。弟子たちは云ったであろう。「わかりました。その点では先生を信頼できます」。「そうすれば、父はあなたがたにお与えになります」。見ての通り、ここでは御子が御父にかわって契約書に署名しておられる。「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」。聖霊のかわりにも署名しておられる。「その助け主は、いつまでもあなたがたとともにおられます」。ひとりのお方が、別のお方にかわって語っておられる。では、もしその方々の間に何か不一致があったとしたら、どうしてそのようなことがありえただろうか? もしおひとりが救いたいと願い、もうおひとりがそう願わなかったとしたら、別の方にかわって約束することなどできなかったはずである。しかし、御子が何と仰っても、御父はお聞きになり、御父が何と約束されても、聖霊はお働きになり、聖霊が何を魂にお吹き込みになっても、父なる神はそれを成就してくださる。それで、この三者は、ともに、他のお方にかわって互いに約束しておられるのである。そこにあるのは、三者のお名前が添えられた契約書である。――父、子、聖霊、と。変えることのできない3つの事がらによって――2つの事がらの場合と同様[ヘブ6:18]――キリスト者は、死と地獄の手が届かないところにいると保証されている。保証の《三位一体》である。なぜなら、そこには神の三位一体があるからである。

 III. 私の第三の点は、信仰者のうちにおける聖霊の《内住》である。さて、愛する方々。これまでの2つの事がらは純粋に教理上の問題であったが、これから語るのは経験に関することである。聖霊の内住は、あまりにも深淵で、あまりにも内なる人に関わる主題であるため、いかなる魂も、神に教えられていない限り、私の語ることを真に、また現実に理解することはできないであろう。聞いた話によると、ある老教役者が、ケンブリッジ大学のとある学寮に属する特別研究員に向かって、私はあなたが一生の間一度も学んだことのない言葉を理解できますよ、と告げたという。「私はギリシヤ語をかじったこともありませんし、ラテン語などちんぷんかんぷんです。しかし神に感謝すべきことに、私はカナンの言葉を話すことができますし、あなたよりもずっと上手にできるのですよ」。そのように、愛する方々。私はいま多少カナンの言葉を話さなくてはならない。あなたが私の云うことを理解できないとしたら、残念ながらそれは、あなたがイスラエルの家系に属しておらず、神の子どもでも、天国の相続人でもないためではないかと思う。

 この聖句の告げるところ、イエスは《助け主》を遣わしてくださり、この方は聖徒たちといつまでもともにいることになるという。この方は彼らとともに住み、彼らのうちにおられるという。古の殉教者イグナティオスは、常々自分のことをテオフォロス、すなわち「神を運ぶ者」と呼んでいた。「なぜなら私は聖霊をこの身にかかえているのですから」、と彼は云う。そして、まことにあらゆるキリスト者は、「神を運ぶ者」にほかならない。あなたがたは、自分が聖霊の神殿であることを知らないのだろうか? というのも、御霊はあなたに宿っておられるからである。聖霊の内住を受けていないような人は決してキリスト者ではない。その人は弁が立ち、神学を理解し、健全なカルヴァン主義者かもしれない。だが、着飾った、天性の子ではあっても、生きた子どもではないであろう。深遠な知性と、巨大な魂と、広大な精神と、高遠な想像力を有しているために、自然界のあらゆる秘密に没入でき、鷲の目も見たことのない道を見抜き、定命の生物の限界を越えた深みに行き着けるかもしれない。だが、聖霊が自分に内住し、宿り、しかり、いつまでもともにいてくださるとはいかなることかを理解していない限り、その人は、そのすべての知識をもってしても、キリスト者ではない。そのすべての研究能力をもってしても、神の子どもではありえない。

 ある人々はこれを狂信と呼び、こう云う。「あんたはクエーカー教徒だ。なぜジョージ・フォックスに従わんのか?」 さて、私はそうしたことを大して気にかけようとは思わない。私は、聖霊に従っている人であればだれにでも従おうと思う。彼でさえ、疑いもなくその奇矯さは数多かったと思うが、多くの場合において、実際に聖霊の影響を受けていたのである。そして私は、神の御霊がとどまっておられる人を見いだすときには常に、私の中の御霊が、その人の中の御霊を聞いて躍り上がり、その人は私たちが1つであることを感ずるのである。あるキリスト者の魂のうちにおられる神の御霊は、他のキリスト者のうちにおられる御霊を認める。私は、ひとりの善良な人(であったと私は思う)との会話を思い出す。その人は、人間が自分の内側に聖霊を有しているかどうかを知るのは不可能だと強く主張していた。その人が今朝この場にいてほしかったと思う。きっと私は、この節をその人に読み上げたはずだからである。「しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」。あゝ! あなたは、自分が聖霊を有しているかどうかわからないと考えている。私は自分が生きているかいないかわかるだろうか? もし私に電流が触れたとしたら、私はそれがわかるだろうか、わからないだろうか? 私にはわかると思う。その衝撃の強さは、十分、私に自分がどこに立っているか悟らせるであろう。そのように、もし私が自分の内側に神を有しているとしたら、――《神性》が私の胸を幕屋にしておられるとしたら、――聖霊なる神が私の心にとどまり、私のからだを神殿にしておられるとしたら、それは私にわかるはずだとあなたは思わないだろうか? それを狂信と呼びたければ呼ぶがいい。だが私の信頼するところ、私たちのある人々は、聖霊の影響力のもとに常にあるとは、あるいは、大概の場合そのようにしているとはいかなることかを知っているのである。――私たちは、ある意味では常に、別の意味では大概の場合、聖霊の影響下にある。種々の困難があるとき、私たちは聖霊に指示を求める。聖書のある箇所が理解できないとき、聖霊なる神に光を照らしてくださるよう求める。落胆するとき、聖霊は私たちを慰めてくださる。聖霊の内住がいかに驚くべき力であるか告げることはできない。禁じられているものに聖徒が触れようとするとき、それがいかに彼の手を引き戻すことか。いかに彼を促して自分の目と契約を結ばせることか。すべりやすい道に陥らないように、いかに彼の足を縛り、いかに彼の心を押さえつけ、彼を誘惑から守られることか。おゝ、あなたがた、聖霊の内住について何も知らない人々。それをさげすんではならない。おゝ、聖霊をさげすんではならない。それは赦されえない罪だからである。「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」[マタ12:32]。そのように神のことばは語っている。それゆえ身震いするがいい。いかなることにおいても、聖霊の種々の影響をあなたがさげすまないようにと。

 しかし、この点をしめくくる前に、私を非常に喜ばせる小さな一言がある。それは、「いつまでも」である。すでにお見通しのように、私はこのことを云い落とすわけにはいかない。あなたも確信する通り、これについて何も述べずにおくわけにはいかない。「いつまでもあなたがたと、ともにおられる」。私は、ここにアルミニウス主義者を連れてきて、この説教の続きを語らせることができたら、どんなによいかと思う。私は想像する。彼がこの言葉、「いつまでも」を取り上げる姿が目に浮かぶ。彼は云うであろう。「い、いつまでも」。彼は口ごもり、どもらざるをえない。というのも、彼は決してこの言葉をよどみなく口にできないであろうからである。彼は立って、これをぞんざいに扱い、最後にはこう云わざるをえなくなるであろう。「この翻訳は間違っている」、と。そして思うに、それからこのあわれな人は、原典も間違っていることを証明せざるをえなくなるであろう。あゝ! だが、神はほむべきかな。私たちはそれを読むことができる。――この方は「いつまでもあなたがたと、ともにおられる」、と。ひとたび私に聖霊が与えられたならば、私は決してこの方を失うことがない。「いつまでも」が、途絶えない限り、――永遠がその永劫の回転を紡ぐのをやめない限り、そうである。

 IV. さて、しめくくりに私は、この世が聖霊を拒絶する理由について、手短に述べなくてはならない。こう云われている。「世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです」。あなたは「世」という言葉が、時として何を意味しているか知っているであろう。――神がご自分の民を選んだとき、その驚くべき主権によって、除外なさった人々のことである。選びに漏れた人々である。神がその驚くべき選びから漏らすことによって除外された人々である。――それは決して、何らかの恐ろしい聖定によって審かれ、罪に定められ、遺棄された人々ではなく、神がご自分の選民を選んだ際に除外された人々のことである。こうした人々は御霊を受けることができない。また、それは、肉的な状態にあるすべての人々が、この天来の影響力を獲得できないということも意味している。このように、「世はその方を受け入れることができません」、ということは真実なのである。

 罪人たちの、新生していない世は聖霊をさげすむ。なぜなら、「世はその方を見も」しないからである。しかり。私の信ずるところ、これこそ多くの人々が聖霊の実在という考えを笑い飛ばす大きな秘密である。――彼らはこの方を見ていないのである。かりにあなたが、この世の人にこう告げたとする。「私の内側には聖霊がおられます」。その人は云うであろう。「私にはそんなもの見えませんね」。その人は、それが形のあるものであることを望む。自分の五感で認識できるものであることを望む。あなたは聞いたことがあるだろうか? ひとりの善良な老キリスト者が、ある不信心な医者に対して用いた議論のことを。その医者は魂などないと云い、こう尋ねた。「あなたは魂を見たことがありますか?」 「いいえ」、とキリスト者は云った。「魂を聞いたことがありますか?」 「いいえ」。「魂を嗅いだことがありますか?」 「いいえ」。「魂を味わったことがありますか?」 「いいえ」。「魂を感じたことがありますか?」 「ええ」、と老キリスト者は云った。――「私は自分の中に魂があると感じています」。「よろしい。五感のうち4つが1つに反対しているわけです。あなたの味方は1つきりですよ」。「それは結構」、とキリスト者は云い、「あなたは痛みを見たことがありますか?」 「いいえ」。「痛みを聞いたことがありますか?」 「いいえ」。「痛みを嗅いだことがありますか?」 「いいえ」。「痛みを味わったことがありますか?」 「いいえ」。「痛みを感じたことがありますか?」 「ええ」。「ですが、わしが思うに、それだけでも痛みが存在することを証明するには全く十分ではありませんかな?」 「そうですね」。そのように世の人は、目に見えないから聖霊などいないと云う。よろしい。だが私たちはそれを感じているのである。あなたはそれは狂信だと云い、私たちが感じてなどいないのだと云う。だが、もしもあなたが私に蜂蜜は苦いと云ったとしたら、私は答えるであろう。「いいえ。あなたは蜂蜜を味わったことがないに違いありません。1つ味見してみなさい」、と。聖霊もそれと同じである。もしあなたがその影響を感じたことがありさえするなら、もはやあなたは、目に見えないから聖霊などいないとは云わないであろう。自然界にすら、私たちに見えない多くのものがあるではないだろうか? あなたは風を見たことがあるだろうか? 否。だが、暴風が波頭を蹴立て、人々の住まいを引き裂いているとき、あるいは、夕暮れの優しいそよぎが花々に口づけし、真珠の宝冠のような露の滴を薔薇のまわりに添えるとき、私たちには風があることがわかる。あなたは電気を見たことがあるだろうか? 否。だが、あなたにもそのようなものがあることはわかる。それは電線づたいに何万マイルも旅をして、私たちの使信を伝えるからである。それそのものを目にすることはできなくとも、そのようなものがあることはわかる。それと同じように、あなたは、私たちの中で働き、志を立てさせ、事を行なっておられる聖霊がおられることを信じなくてはならない。それが人間の感覚を越えていようと関係ない。

 しかし、世の人々が聖霊の教理を笑い飛ばす最終的な理由は、彼らがそれを知らないからである。もし彼らがそれを、心で感ずる経験によって知っていたとしたら、またもし彼らがそのお働きを魂で悟っていたとしたら、――もし彼らが一度でもそれによって触れられたことがあったとしたら、――もし彼らが罪意識のもとに置かれて震えさせられることがあったとしたら、――もし彼らが自分の心を溶かされたことがあったとしたら、彼らは決して聖霊の存在を疑いはしなかったであろう。

 さて、愛する方々。ここでは、「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」、と云われている。しめくくりに私たちは、この甘やかな真理を思い起こすことにしよう。――聖霊は、すべての信仰者のうちに住んでおられ、ずっと彼らとともにおられるのである。

 最後に一言ずつ、神の聖徒たちと罪人たちとに助言を告げて終わることにしたい。主の聖徒たち! あなたがたは今朝、聖霊なる神が一個の人格であられると聞いてきた。それがあなたの魂に対して証明されるのを聞いてきた。ここから何が云えるだろうか? むろん、そこから云えるのは、いかにあなたがたが、聖霊に向かって祈ると同様に、聖霊を求める祈りにおいて熱心になるべきか、ということである。これこそ引き出すべき結論であると云いたい。あなたは聖霊に向かって祈りをささげるべきである。聖霊に向かって熱心に叫ぶべきである。御霊は、あなたの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことがおできになるからである。この人の山を見るがいい。何がこれを回心させるだろうか? この群衆を見るがいい。だれが私の影響力をこの大集団に浸透させるだろうか? 知っての通り、この場所は今では大きな影響力を有しており、神が私たちを祝福してくだされば、この町のみならず、英国全体に対して影響を及ぼすであろう。というのも、いま私たちは、講壇のみならず印刷所も保有しているからである。そして確かに、今年が閉じるまでには、二十万部以上もの私の著作物が――私の唇によって発された言葉か、私の筆によって書かれた言葉が――全国津々浦々に行き渡るはずだと云えるからである。しかし、いかにして神は、こうした影響力を善に変えることがおできになるだろうか? いかにして神の栄光はそれによって押し進められるだろうか? ただ、たゆむことなく聖霊を求める祈りによってである。聖霊の影響力を絶えず私たちの上に呼び降ろそうとすることによってである。私たちは、印刷されるあらゆる頁の上に――口にされるあらゆる言葉の上に、御霊がとどまってくださることを願う。ならば私たちは、聖霊に懇願することにおいて、二重に熱心になろうではないか。御霊が私たちの務めに臨在してくださり、それをご自分のものと認めてくださるように。また、全地のすべての教会が、それによって信仰を復興させられ、私たちだけでなく全世界がその益にあずかれるように、と。

 それから、不敬虔な人々に対して、私はこのしめくくりの言葉を云わなくてはならない。あなたは、いついかなるときも、聖霊についていかに語るかに注意するがいい。私は、赦されえない罪がいかなるものか知らないし、それを理解している人がいるとも思わない。だが、それは次のようなものである。「聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても赦されません」*[マタ12:32]。私はこれがどういう意味かわからない。だが、慎重にふるまうがいい! そこには危険がある。私たちが無知によって砂で覆い隠してしまった穴がある。慎重深く足を運ぶがいい! 次の瞬間、あなたはそこに落ち込んでいるかもしれない。もしも今日、あなたの心の中に何らかの葛藤があるとしても、もしかするとあなたは居酒屋に出かけて、それを忘れてしまうかもしれない。もしかすると、あなたの魂に何か語りかける声がしていても、あなたはそれを押しのけるかもしれない。私はあなたが聖霊に逆らっており、赦されえない罪を犯しているのだと告げはしない。だが、そこには何かがある。慎重には慎重を期すがいい! おゝ! この世のいかなる犯罪にもまして暗黒な犯罪は、聖霊に逆らう罪である。あなたが御父を冒涜するならば、あなたが悔い改めない限り、それゆえに罪に定められるであろう。あなたは御子を冒涜するならば、あなたが赦されない限り、地獄があなたの受ける分であろう。だが、もし聖霊を冒涜するならば、主はこう云っておられる。「この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」。私はそれが何であるかあなたに告げることはできない。理解しているふりもしない。だが、そこにそれはある。それは危険信号である。止まれ! おい、止まれ! もしあなたが聖霊をさげすんできたなら、もしあなたがその啓示を笑い飛ばしてきたなら、また、教理者たちが御霊の影響と呼ぶものをさげすんできたなら、私はあなたに懇願する。止まれ! 今朝、真剣に熟慮するがいい。ことによると、あなたがたの中にある人々は、実際に赦されえない罪を犯してきたかもしれない。止まれ! 恐れによって止まるがいい。歩を止めるがいい。エフーよ! 今までのように闇雲に車を駆っていてはならない。おゝ! あなたの手綱をゆるめるがいい! かくもやたらめったらに罪を犯してきたあなたよ。かくも激しい言葉を《三位一体》に逆らって発してきたあなたよ。止まれ! あゝ、それは私たち全員を止まらせる。私たちすべてを停止させ、こう云わせる。「もしかすると、私は今までそうしてきたのではないだろうか?」 このことを考えようではないか。そして、いついかなるときも――言葉によってであれ行ないによってであれ――聖霊なる神をぞんざいに扱わないようにしようではないか。

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聖霊の人格性[了]
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