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不信仰の罪

NO. 3

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1855年1月14日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「侍従は神の人に答えて、『たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。』と言った。そこで、彼は、『確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。』と言った」。――II列7:19


 ひとりの知恵のある者は、町全体を救い出すことができる。ひとりの善良な人は、他の一千もの人々の安全を守る手段となりえる。聖なる人々は「地の塩」であり、悪人たちを保護する手段である。敬虔な人々が保存料となっていなければ、そうした人種は滅ぼし尽くされるであろう。サマリヤの町には、ひとりの義人がいた。――主のしもべ、エリシャである。その王は極悪の罪人であり、その不義はどぎつく、破廉恥であった。ヨラムは父アハブの道を歩み、自分のために偶像を造った。サマリヤの人々も、君主と同じく堕落していた。彼らはエホバを離れてさまよい出ていた。イスラエルの神を捨て去っていた。ヤコブの座右の銘である、「あなたの神である主は、唯一の神である」、を覚えていなかった。邪悪な偶像礼拝によって、異教徒の偶像を拝んでいた。それゆえ万軍の主は、彼らの敵たちが彼らを抑圧することを許し、エバルの呪い[申27:13]がサマリヤの通りで成就するようにされた。というのも、「優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が」、激しい飢えのため自分の子どもたちにも物惜しみをし、自分の産んだ子をもむさぼり喰うようになっていたからである(申28:56-58)。このすさまじい窮境にあって、ひとりの《聖なる》人が救いの仲立ちとなった。一粒の塩が町全体を守った。ひとりの神の戦士が、包囲されていた大群衆を解放する手段となった。エリシャのために主は約束を送られた。それまでどれほどの高値をつけても手に入らなかった食物が、翌日には、可能な限りの最安値で――しかも、それがサマリヤの門で――売られるようになる、と。予見者がこの予言を口にするや否や、いかに群衆が喜んだかは目に浮かぶようである。彼らは、彼が主の預言者であると知っていた。彼には天来の信任状があった。彼の過去の預言はみな成就していた。彼らは、彼が神から送られた、エホバの使信を述べる人であると知っていた。確かに君主の目は喜びに潤み、やせ衰えた群衆は、これほど早くききんから解放されると知って喜び踊ったであろう。「明日には」、と彼らは叫んだであろう。「明日には、すきっ腹とも縁が切れ、たらふく食べられるのだ」。

 しかしながら、侍従で、王が寄りかかっていた者は、自分の不信を云い表わした。庶民や平民がそうしたとは云われていない。ひとりの貴族がそうしたのである。奇妙なことだが、神はめったにこの世の有力者をお選びにならない。高い身分と、キリストを信ずる信仰とが相伴うことはまれである。この有力者は、「不可能だ!」、と云い、この預言者に向かって侮辱をこめて云い足した。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」。彼の罪は、エリシャの預言者職が何度となく証明された後でも、まだ、この神の代理である預言者が請け合った話を信じようとしなかったという事実にあった。疑いもなく彼は、モアブの驚異的な敗北を見ていたに違いない。――シュネムの女の息子の復活の噂に驚かされたことがあったに違いない。エリシャがベン・ハダテの数々の秘策をあばき、襲撃してきたその軍隊を打って盲目にしたことを知っていたに違いない。――その一団がサマリヤの真ん中までおびき寄せられてきたのを見たに違いない。また、おそらく彼は、器という器に油を満たして自分の子どもたちを贖い出した女の話も知っていたであろう。どう考えても、あのナアマンが癒された話は、宮廷中で持ちきりだったはずである。だがしかし、こうした数々の証拠を前にしても、――こうした、この預言者の使命に対するすべての信任状にもかかわらず、それでも彼は疑った。そしてエリシャを侮辱するかのように、天が開いて窓になるのでもない限り、その約束が成就するはずがない、と云った。その結果、神は、たった今その約束を宣言したばかりの人の口によって、彼の破滅を宣告なさった。「あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」。そして摂理は――刻印された活字を持ち来たる紙のように、常に預言を成就するものだが――、この人物を滅ぼした。サマリヤの通りで踏みつけられた彼は、その門のところで死んだ。大量の食糧を目にしながら、それを味わうことなく死んだ。ことによると彼は、威張りくさった態度をしていて、人々に対して横柄にふるまったのかもしれない。あるいは、押し寄せる人々を抑えようとしたのかもしれない。あるいは、彼が踏みつぶされて死んだのは、いわゆる「事故」にすぎなかったのかもしれない。こういうわけで彼は預言が成就するのは見たが、それを享受することは決してなかった。彼の場合、百聞は一見にしかなかったが、一見は、それを楽しむところまで行かなかった。

 私は今朝、2つのことにあなたがたの注意を引きたいと思う。――この人物の罪と、彼に対する罰である。事の顛末については詳しく語ってしまったので、この人物については僅かしか語らないかもしれない。だが私は、不信仰の罪について、またその罰についての話をしたいと思っている。

 I. まず最初に、《その罪》である。彼の罪は不信仰であった。彼は神の約束を疑った。この特定の場合、不信仰は、神の誠実さに対する疑い、あるいは神の御力に対する不信という形を取った。彼は、神が云われたことを本気で行なうつもりがあるかどうかを疑ったか、神にご自分の約束を果たすことが可能かどうかを疑った。不信仰には、月よりも多くの顔があり、変色蜥蜴よりも多彩な色合いがある。世間の人々は悪魔について、あるときには1つの形で、別のときには別の形で姿を現わすと云う。私は、このことがサタンの長子――不信仰――についても真実に違いないと思う。というのも、その形は千変万化だからである。あるときには不信仰は光の御使いのような変装をしている。それは自らを謙遜と自称し、こう云う。「私は思い上がったりしません。神が私を赦してくださるなんて大それたことは考えません。私は、あまりにも大罪人です」、と。人はそれを謙遜と呼び、自分の友がこのように良い状態にあることを神に感謝する。だが私は、このような迷妄を神に感謝しはしない。それは、光の御使いを装った悪魔である。――結局は不信仰である。別の折に私たちが不信仰を察知するのは、神の不変性に対する疑いという形でである。「神は私を愛してくださいましたが、明日になったら私をお捨てになるかもしれません。昨日は私を助けてくださいましたし、私もその御翼のかげに身を避けました。でも、もしかすると次の苦難が来たときには何の助けも得られないかもしれません。神は私をもう捨て去っておられるのかもしれません。ご自分の契約のことなど心にとめず、恵みを給うことなど忘れてしまわれるかもしれません」。時として、こうした不信は、神の力についての疑いという形を取る。私たちは、日々新たに窮地に陥り、困難の網に巻き込まれ、「確かに神も自分を救い出すことはできないに違いない」、と考える。自分の重荷を取り除こうと必死になり、自分にそれができないことがわかると、神の御腕も自分と同じくらい短いのだと考え、神の力も人間の力と同じくらい小さいのだと考える。1つの恐るべき不信仰の形は、人々をキリストのもとに行かせないようにしておく疑いである。それは罪人をして、自分を救うキリストの能力を怪しませ、これほど大きなそむきの罪を犯した者をイエスが喜んで受れ入れなさるかどうかを疑わせようとする。しかし、中でも最もぞっとさせられるのは、本性をむき出しにした反逆者が、神を冒涜し、気違いのように神の存在を否定する姿である。不信心、理神論、無神論は、この悪性の樹木の熟しきった果実にほかならない。それらは、不信仰という火山の、何よりも恐ろしい噴出物である。不信仰が完全に一人前になるとき、それは仮面をかなぐり捨て、かりそめの姿を脱ぎ捨て、神を涜しながら大手を振って歩き、「神はいない」、と大声で反逆の叫びを上げる。神格の御座を揺るがそうとして空しくあがき、その腕をエホバに向かって突き上げては、その傲慢さによって、

   「秤と杖とを 御手より奪い、
    自ら裁きをやり直し――神の神にならんとす」。

そのとき真に不信仰は、その全き完成に至り、そのときあなたは、その正体を見てとるのである。というのも、どれほど小さな不信仰も、その性質は、最大最悪の不信仰と同じだからである。

 私が驚かされるのは、――また、あなたもこう云えば驚くに違いないだろうが――世の中には奇妙な人々がいて、不信仰が罪だと信じようとしない。これは奇妙な人々と呼ばざるをえない。なぜなら、彼らの信仰は、それ以外のあらゆる点で健全だからである。唯一彼らは、自分たちの信仰箇条を首尾一貫したものとするため(と想像して)、不信仰が罪深いものであることを否定するのである。私はひとりの若者のことを思い出す。彼が一団の友人たちや教役者たちの中に入っていったとき、彼らは、人々が福音を信じないのは罪かどうかを論じ合っていた。彼らが討論している最中に、彼は云った。「みなさん。私はキリスト者の方々を前にしているのでしょうか? あなたがたは聖書を信じているのでしょうか、信じていないのでしょうか?」 彼らは云った。「もちろん、われわれはキリスト者だとも」。「ならば、聖書はこう云っていないでしょうか? 『罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです』[ヨハ16:9]。そして、キリストを信じないことこそ、罪人たちを際立たせる罪ではないでしょうか?」 私は人々が、「罪人がキリストを信じないのは決して罪ではない」、などと主張するほど無茶苦茶なことを云えるとは思いもしなかった。いかに彼らが自分の意見を売り込みたがって躍起になっているにせよ、真理を弁護するために嘘をつこうとするなどとは思いもしなかった。だが私の意見では、これこそ、こうした人々が実は行なっていることなのである。真理は強固な塔であり、過誤の控え壁で支持される必要などない。神のことばは、いかなる人間の小細工にもびくともしない。私は決して、不敬虔な人が信じないのは罪ではない、などという詭弁をでっちあげようとは思わない。というのも、聖書から次のように教えられるとき、それは罪だと確信しているからである。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した」[ヨハ3:19]。また、こうも記されている。「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」[ヨハ3:18]。私は確言し、みことばは宣言する。不信仰は罪である、と。確かに道理のわかる、偏見を持たない人々にとって、そのことを証明するのに理屈はいるまい。一被造物がその《造り主》の言葉を疑うのは罪ではないだろうか? 私が、この原子が、この塵あくたの粒子が、あえてみことばを疑うなどというのは、《神格》に対する犯罪であり、侮辱ではないだろうか? アダムの子にとって、その傲慢さのきわみ、その高慢さの絶頂となるもの、それは、その心の中でさえ、こう云うことではないだろうか? 神よ、私はあなたの恵みを疑う。神よ、私はあなたの愛を疑う。神よ、私はあなたの力を疑う、と。おゝ! 方々。嘘ではない。ありとあらゆる罪をひとかたまりにすることができたとしても、――殺人と、冒涜と、情欲と、姦淫と、不品行と、ありとあらゆる邪悪さとを寄せ集めて、暗黒の腐敗からなる1つの巨大な球体にすることができたとしたも、それは不信仰の罪には及ばない。これは罪の王者であり、咎の精髄であり、あらゆる犯罪の毒液を混ぜ合わせたものである。ゴモラの葡萄酒の澱である。特級の罪であり、サタンの傑作であり、悪魔の代表作である。

 私は今朝しばらくの間、この不信仰の罪の極度に邪悪な性質について示したいと思う。

 1. まず第一に、不信仰の罪が極度に憎むべきものに見えるのは、それが、他のあらゆる不義の親であることを思い出すときであろう。不信仰が生み出さないような犯罪は1つもない。人間の堕落は、そのあらかたの原因がここにあると思う。悪魔がエバを誘惑したのは、この点においてであった。彼は彼女に云った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」[創3:1]。そう彼は囁き、1つの疑いをほのめかした。「神は、ほんとうに言われたのですか」。それは、こう云ったも同然であった。「あなたは、神がそう云われたと確信しているのですか?」 不信仰という手段によってこそ――その楔のこの部分によってこそ――、他の罪が入り込んだ。好奇心や、他のもろもろが続いた。彼女はその実に手を触れ、破滅がこの世に到来した。その時以来、不信仰はあらゆる咎を続々と生み出してきた。不信者は、かつて犯された中でも最も邪悪な犯罪を犯すことができる。不信仰! 方々。それはパロの心をかたくなにした。――ラブシャケの冒涜的な舌をほしいままに動かした。――しかり。それは神殺しとなり、イエスを殺した。不信仰!――それは、自滅の短刀を研ぎすましてきた! 多くの毒杯を混ぜ合わせてきた。おびただしい数の人々を絞首索へと至らせてきた。そして、自殺した多くの人々を恥辱の墓へと至らせてきた。彼らが血まみれの手をしたまま、《創造主》の法廷へと突進していったのは、不信仰のゆえであった! ここにひとりの不信者がいるとする。――その人が神のことばを疑っているとする。――神の約束も、神の脅かしも信用していないとする。そうした前提がある限り、私はこう結論するであろう。その人は、驚くばかりの抑制の力が及ぼされない限り、次第次第に、この世で最も不潔で、最も悪質な犯罪を犯すようになっていくはずだ、と。あゝ! これはベルゼブルの罪である。ベルゼブルのように、それはあらゆる悪霊どもものかしらなのである。ヤロブアムについて、彼は罪を犯し、イスラエルに罪を犯させたと云われている。そして、不信仰については、それは自ら罪を犯すばかりでなく、他の人々にも罪を犯させると云えよう。それはあらゆる犯罪の卵であり、あらゆる違反の種である。実際、邪悪で下劣なものはみな、この一言――不信仰――で云い尽くされているのである。

 また、ここで云わせてほしいのは、キリスト者のうちにある不信仰は、罪人のうちにある不信仰と全く同一の性質をしている、ということである。それは、その最終的結果において同じではない。キリスト者のうちにある不信仰は赦されるからである。しかり、それは赦される。それは古のアザゼルのためのやぎの頭の上に置かれた[レビ16:21]。拭い去られて、贖われた。だが、その罪深い性質は同じである。実際、もしも罪人の不信仰よりも憎むべき罪があるとしたら、それは聖徒の不信仰である。聖徒が神のことばを疑うこと、――聖徒が神から数え切れないほど愛のしるしを受けた後で、神のあわれみの幾万もの証拠を受けた後で、その神に不信をいだくこと、これほどひどいことはない。さらに、聖徒のうちにある不信仰は、他の種々の罪の根元となる。私は、信仰において完全であるとき、他のすべてのことにおいて完全であろう。もし私が常に約束を信じているとしたら、常に戒めを果たしているはずである。しかし、私の信仰が弱いからこそ、私は罪を犯すのである。たとい私が試練に陥ったとしても、腕組みしたまま、「アドナイ・イルエ。主は備えたもう」*[創22:14]、と云えるとしたら、そこから脱出しようとして間違った手段を用いるようなことはないであろう。しかし、私が地上的な災難や困難に陥ったとき、神に信頼を置けないとしたら、どうなるだろうか? ことによると私は、盗みをするかもしれない。債権者たちの手から免れるため、不正直な行為に手を染めるかもしれない。そうしたそむきの罪からは守られたにせよ、自分の心配に埋没し、呑み込まれてしまうかもしれない。ひとたび信仰が取り去られるや否や、手綱が引き裂けてしまう。では、手綱もくつわもなしに、乗り馴らされていない馬に乗れる者などいるだろうか? パエトーンを御者にした太陽の戦車と同然になるのが、信仰のない場合の私たちであろう。それゆえ私はこれを、悪疫を生じさせる悪――支配的な罪と云いたい。

 2. しかし第二に、不信仰は罪を生むだけでなく、罪を育てる。人々が、シナイ山の雷を轟かすような説教者のもとで、自分の罪をかかえこんでいられるのは、なぜだろうか? ボアネルゲ(雷の子)たちが講壇に立ち、神の恵みによって、「律法のあらゆる戒めを守らない者はみな呪われる」、と喝破するとき、――神の正義のすさまじい脅かしを罪人が聞くとき、いかにしてその人は、まだかたくななまま、自分の悪しき道を歩み続けるのだろうか? 私はあなたに告げよう。そうした脅かしに対する不信仰こそ、その人に何の効果も及ぼさせないようにしているのである。わが軍の工兵や採掘兵たちは、セヴァストポリ要塞の周囲で作戦を行なうために出撃したとき、相手の射撃をそらすものが何もなければ、その城壁の眼前で活動することはできなかった。それで彼らは土塁を築き、その背後で好きなことを行なうことができた。不敬虔な人もそれと全く同じである。悪魔はその人に不信仰を与える。これによりその人は土塁を築き、その背後に隠れ家を見いだす。あゝ! 罪人よ。ひとたび聖霊があなたの不信仰を打ち倒したならば、――ひとたび御霊がその御力と現われによって真理を心の奥底に突き通されたならば、律法は、あなたの魂にいかなる効果を及ぼすことであろう。人が、律法は聖いこと、その種々の命令が聖く、正しく、善であることを信じさえしたなら、いかにその人は地獄の口の上で揺さぶられることか。そのとき、神の家で居眠りするようなことはなくなるであろう。無頓着に話を聞く者はいなくなるであろう。教会から一歩外へ出れば、たちまち自分がいかなる種類の人間か忘れ果ててしまうようなことはなくなるであろう。おゝ! ひとたび不信仰が除かれたならば、律法という砲兵隊が撃つ砲弾はことごとく罪人の上に落ち、主に刺し殺される者は多いであろう[イザ66:16]。また、いかにして人々は、カルバリの十字架の懇願を聞きながら、キリストのもとに来ないでいられるのだろうか? 私たちがイエスの苦しみについて説教し、そのしめくくりに、「まだ余地はある」、と云うとき、――私たちが主の十字架と受難について事細かに物語るとき、いかにして人々は心砕かれずにいるのだろうか? こう云われている。

   「律法(おきて)も恐れも それのみにては
    人かたくなにする ほかあらず。
    されど血による 赦し悟れば
    石のこころも 溶け砕けん」。

カルバリの物語は、岩をも砕くに足ると思う。イエスが死ぬのを見たとき岩々は裂けた。ゴルゴタの悲劇は、火打ち石からも涙を吹き上がらせ、いかにかたくなな卑劣漢からも、悔い改めの愛の涙を滂沱と流させるに足ると思う。だが、やはり私はあなたに云う。何度でも繰り返して云う。だれが、そのことを思って泣くだろうか? だれが、そんなことに頓着するだろうか? 方々。あなたがたは、まるでそれが自分にとって大した意味を持たないかのように、無関心に座っている。おゝ、私が大声をあげても、あなたがたはみな通り過ぎていく。イエスが死んだことは、あなたにとって何の意味もないのだろうか? あなたがたは、「何の意味もない」、と云っているように見受けられる。その理由は何だろうか? あなたと十字架の間に不信仰があるからである。もしあなたと《救い主》の御目との間に、その分厚い顔覆いがかかっていなかったなら、その愛に満ちた御顔によって、あなたは溶かされていたであろう。しかし不信仰とは、福音の力が罪人の中で働かないようにする罪なのである。そして、聖霊がその不信仰を消し去らない限り、――聖い御霊がその不信の念を引き裂き、全く切り倒さない限り、罪人がやって来てイエスに信を置くのを見ることはできないであろう。

 3. しかし、第三の点がある。不信仰は、人にいかなる良い行ないもできないようにする。「信仰から出ていないことは、みな罪です」は、多くの意味において大きな真理である[ロマ14:23]。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」[ヘブ11:6]。私は一言も道徳に反対する言葉を口にするつもりはない。正直は良くないことであるとか、酒に酔わないのは良くないことであるとか一言も云うつもりはない。逆に、そうしたことは、ほめられてしかるべきだと云いたい。だが、私が後で云うであろうことを、今ここで告げておこう。――私が云いたいのは、それらはヒンドスタンの結婚持参金のようなものだ、ということである。それはインド人の間では通用するだろうが、英国では通用しない。数々の美徳は、この下界では通用するだろうが、天上では通用しない。もしあなたが、あなた自身の善良さにまさるものを有していないとしたら、決して天国に達することはないであろう。インド人の一部の部族は、金銭のかわりに小さな布きれを用いており、私も自分がそこに住んでいたとしたら、それに何のけちもつけようとは思わないであろう。だが、英国に来たら、布きれでは間に合わない。そのように、正直さや、酒に酔わないといった物事は、人々の間では非常に良いものであり、――そうしたものは、あればあるほど良いであろう。私はあなたに勧めたい。すべての愛すべきこと、すべての清いこと、すべての評判の良いことを身につけるがいい[ピリ4:8]。――だが天上では、それらでは間に合わない。こうした事がらをすべて合わせても、信仰がなければ神を喜ばせることはない。信仰なしの美徳は、白粉を塗った罪にすぎない。信仰なしの従順――そのようなものが可能であればだが――は、金箔を被せた不従順である。信じないことによって、すべてが無に帰してしまう。それは、香油の中の蝿であり、つぼの中の毒である。信仰がなければ、いかに純粋な美徳、いかに博愛に満ちた善行、いかに私欲を離れた親切な同情心、いかにすぐれた天賦の才質、いかに勇敢な愛国心、いかに筋の通った決断があろうと、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」。ではあなたは、不信仰が人々に良い行ないをできなくさせている以上、それがいかに悪いものか見てとらないだろうか? しかり。キリスト者たち自身においてすら、不信仰は彼らの力をそぐものである。1つ話をさせてほしい。――キリストの生涯における1つの物語である。ある人に、悪霊にとりつかれて、苦しんでいる息子がいた。イエスはタボル山に登っていて、姿を変貌させておられた。それで父親は、息子を弟子たちのもとに連れて行った。弟子たちは何をしただろうか? 彼らは云った。「わかりました、私たちが追い出しましょう」。彼らは自分たちの手を息子の上に置き、悪霊を追い出そうとした。だが、彼らは互いに囁き交わして云った。「私たちには追い出せないのではないだろうか」。しだいに病人は、口から泡を吹き始めた。泡を吹いては地面をひっかき、痙攣を起こしてばったり倒れた。悪鬼の霊は彼の内側でぴんぴんしていた。悪魔はまだそこにいた。彼らがいくら悪魔払いを繰り返しても無駄だった。悪い霊はねぐらにいる獅子のようにそこにとどまっていたし、彼らがいくら努力しても追い出せなかった。「去れ!」、と彼らが云っても、悪霊は去らなかった。「穴に入れ!」、と彼らが叫んでも、悪霊は小揺るぎもしなかった。《悪い者》が不信仰の唇にびくつくようなことはありえなかった。それは、こう云っているも同然であった。「自分は信仰を知っているし、イエスもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。おまえたちには信仰がないではないか」。もし彼らにからし種ほどの信仰があったとしたら、彼らは悪魔を追い出していただろうが、彼らの信仰は失せていた。それで彼らには何もできなかったのである。あわれなペテロの場合も眺めてみよう。信仰を持っている間、ペテロは湖の波の上を歩いていた。それは素晴らしい歩みであった。私は、波浪の上を踏みしめた彼をほとんどねたましく思う。そう、もしペテロの信仰が続いていたとしたら、彼は大西洋を越えて米国までも歩き越えていったであろう。しかし、たちまち1つの大波が彼の後ろから押し寄せてきた。そして彼は云った。「あれは私を押し流してしまうだろう」。そして、そのとき前からも大波がやって来て、彼は叫んだ。「あれは私に覆いかぶさってくるぞ」。そして彼は思った。――こんな波の頭を歩くなど、なぜこれほど私は増上慢になれたのだろうか? ペテロは沈んでいった。信仰こそペテロの救命浮標であった。信仰こそペテロの護符であった。――それが彼を浮かばせていた。だが不信仰は、彼を引きずり落とした。あなたは、あなたや私が一生の間、海の上を歩かなくてはならないことを知っているだろうか? キリスト者の人生は常に海の上を歩くことである。――私の人生はそうである。――そして、あらゆる波は、信仰がキリスト者を立たせていない限り、彼をがぶりと呑み込んでしまうであろう。信ずるのをやめた途端に、困惑がやって来て、あなたは沈んでいく。おゝ! ならば、なにゆえにあなたは疑うのか?

 信仰はあらゆる美徳を養う。不信仰はあらゆる美徳を殺す。おびただしい数の祈りは、幼児期の段階で不信仰により絞め殺されてしまう。不信仰は、幼児殺しの罪を犯してきた。不信仰は多くの幼い祈りを殺し、天に響きわたる合唱となるべき多くの賛美の歌が、不信仰なつぶやきによって息の根を止められ、心で想像された多くの気高い事業が、表に出てくる前から、不信仰によってくじかれてきた。多くの人が宣教師となっていたであろう。大胆に立って、自分の《主人》の福音を宣べ伝えていたであろう。だが、その人には不信仰があった。ひとたび巨人を不信仰にしてしまえば、彼は小人となってしまう。信仰は、キリスト者にとってサムソンの髪の毛の房である。それがそり落とされると、キリスト者の目をえぐることができ、――彼は何もできなくなる。

 4. 私が次に述べたいのは、――不信仰は厳しく罰されてきた、ということである。聖書に目を向けてみるがいい! そこには全く清らかで美しい世界が見える。その山々は陽光の中で笑いに満ち、その野原は黄金色の光の中で喜んでいる。おとめたちは踊っており、青年たちは歌っている。しかし、見よ! ひとりの謹厳で尊ぶべき父親がその手を上げて、大声を上げる。「洪水が起こって地上を水没させるぞ! 巨大な大いなる水の源が張り裂け、何もかもが覆われるぞ。あの箱舟を見よ! 百二十年の間、わしはこの手で骨折って、あれを造ってきた。あそこに逃れるがいい、そうすれば安全だ」。「あはは。じいさんよ。下らない予言をしてんじゃねえ! あはは。こちとらの楽しい気分を台無しにすんなよ! 洪水がやって来たら、そんときゃ俺らも箱舟を造らあ。――だが、洪水なぞやって来やしねえ。そんなことは阿呆ども相手に云ってやんな。俺らはそんなこと信じねえからな」。この不信者たちが、その陽気な踊りを続ける姿を見よ。だが聞くがいい! 不信者たち。あなたはあのゴロゴロいう音が聞こえないだろうか? 大地の内部が動き出し、そのごつごつした肋骨が、内側からのものすごい痙攣によって、たわめられていないだろうか? 見よ! それらが途方もない緊張とともに破裂すると、そのの間から、見たことも聞いたこともないような奔流が噴出する。神はそれを私たちの世界の奥深くに隠しておられたのである。天がめりめりと引き裂かれる! 雨が降ってくる。雨粒がではなく、雲が落ちてくる。かのナイアガラ瀑布のごとき大豪雨が、轟音とともに天から降り注いでくる。天空と海洋の双方が、2つの淵――地の淵と天の淵――の双方ががっちりと手を握り合う。さて不信者たち。あなたがたは今どこにいるのか? そこにあなたがたの最後のひとりがいる。ひとりの人が――その腰にしがみついている妻とともに――水面上に残った最後の頂に立っている。そこにその人が見えるだろうか? 今しも大水は、その人の腰まで来ている。その人の最期の悲鳴を聞くがいい! しばし浮かんでいるが――やがて水中に没する。ノアが箱舟から眺めてみると何も見えない。何も! ただ茫漠たる無が広がっている。「王たちの宮殿は、海の巨獣らが子を産むねぐらとなれり」。すべてが転覆し、覆われ、水没してしまった。何がそうしたのだろうか? 何がこの洪水を地にもたらしたのだろうか? 不信仰である。信仰によってノアはこの洪水から逃れた。不信仰によってその他の者らは溺死した。

 そして、おゝ! あなたは、不信仰によってモーセとアロンがカナンに入れなかったことを知っているだろうか? 彼らは神を尊ばなかった。――彼らは、岩に向かって語りかけるべきときに、岩を打った。彼らは信じなかった。それゆえ罰が下された。さんざん骨を折り苦労をしてきた目的たる良き地を受け継げないという罰が。

 ここであなたを、モーセとアロンが住んでいた場所に連れて行かせてほしい。――広大にして寂寥たる荒野である。そこをしばらく歩き回ってみよう。のろのろと歩を進め、流浪の遊牧民のようになり、その砂漠をしばし踏みしめてみよう。そこには太陽によってひからびた屍体がある。――あそこに、もう1つある。そこにも、また1つある。これらの白骨は何を意味しているのだろうか? これらの死体は――そこにある男の、また、あちらにある女の死体は――何を意味しているのだろうか? これらはみな何だろうか? いかにしてこうした死骸がここに来たのだろうか? 確かにここでは、何らかの大陣営が災厄にあったか、流血の惨事に遭遇したかして、一夜のうちに滅亡したに違いない。あゝ、否、否。これらの骨はイスラエルの骨なのである。これらの骸骨はヤコブの古の諸部族なのである。彼らは不信仰のゆえに入ることができなかった。神を信頼しなかった。斥候たちは、かの地を征服できないと云った。不信仰こそ彼らの死の原因であった。アナク人がイスラエルを滅ぼしたわけではない。寂寥たる荒野が彼らをむさぼり喰らったわけではない。ヨルダン川がカナンに渡る障壁となったわけでも、ヒビ人やエブス人が彼らを根絶したわけでもない。ただ不信仰によってこそ、彼らはカナンに入れなかった。四十年の旅路の後で、何という破滅がイスラエルに宣告されたことか。彼らが入れなかったのは、不信仰のゆえであった!

 例を増やすためではないが、ザカリヤのことを思い出すがいい。彼は疑った。それで御使いは彼を打っておしにした。彼の口は不信仰のために閉ざされた。しかし、おゝ! もしあなたが不信仰がもらした最悪の絵図を見たければ、――もし神がそれをいかに罰されたかを見てとりたければ、私はあなたをエルサレムの包囲戦に連れて行かなくてはならない。それは歴史始まって以来、最悪の大虐殺であった。ローマ人は地上に城塁を築き、全住民を剣にかけて殺すか、奴隷にして市場で売り飛ばした。あなたはティトゥスによるエルサレムの破壊について一度も読んだことがないだろうか? マサダの悲劇に目を向けたことが一度もないだろうか? そこでユダヤ人たちは、ローマ人の手に陥るよりは互いに自刃し合ったのである。あなたは今日に至るまでユダヤ人が、故郷もなく、国もなしに、地上をさまよい歩いていることを知らないだろうか? ユダヤ人は、葡萄の木から枝が切り落とされたかのように切り落とされている。――なぜ? 不信仰のためである。悲しげで陰鬱な顔つきのユダヤ人を見るたびに、――彼が異国の居留者のようにしていること、亡命者であるかのようにこの国を歩んでいることに気づくたびに、――彼を見るたびに、立ち止まって云うがいい。「あゝ! 不信仰こそあなたにキリストを殺させたものなのだ。そして今は、それがあなたを放浪者として突き動かしているのだ。そして信仰だけが――十字架につけられたナザレ人を信ずる信仰が――あなたをあなたの国に連れ戻し、それを古の壮麗さに回復させることができるのだ」。おわかりであろう。不信仰は、その額にカインのしるしをつけている。神はそれを憎んでおられる。――神はそれを激しく打ってこられた。そして究極的にはそれを打ち砕きなさるであろう。不信仰は神に恥辱を与える。他のあらゆる犯罪は神の領分を侵すものである。だが不信仰は神の神性に襲いかかろうとし、神の誠実さに異議を申し立て、神の善を否定し、神の種々の属性を冒涜し、神のご性格を中傷する。それゆえ、神は他の何にもまさって、いずこにおいても不信仰を、特に真っ先にお憎みになるのである。

 5. そして今、この点のしめくくりとして――というのも、すでに長くなりすぎているからだが――述べさせてほしいのは、不信仰の憎むべき性質は、このことによってはっきりわかるということである。――すなわち、それは人を罪に定める罪である。キリストが身代わりとなって死ななかった罪が1つある。それは聖霊に逆らう罪である。キリストが決して贖いをなさらなかった罪がもう1つある。たといあなたが、悪の一覧表の中のあらゆる犯罪を1つ1つ挙げてみても、私は、いずれの悪を犯した人も赦しを見いだしてきたことを示せるであろう。しかし、もしあなたが、不信仰の中で死んだ人が救われうるかどうか尋ねるとしたら、その人のためにはいかなる贖いもない、と私は答える。キリスト者の不信仰のためになされた贖いはある。なぜならそれは一時的なものだからである。だが、最終的な不信仰――人々が死んでいくときにいだいている不信仰――は、決して贖われたことがない。この聖書全巻をめくってみても、不信仰の中で死んだ人のための贖いは全く見いだせないであろう。そうした人のためには、いかなるあわれみもない。たといだれかが、他のあらゆる罪を犯してきたとしても、信じさえするなら赦されるであろう。だが、人を罪に定める例外がある。――信仰を持たないことである。悪霊ども、彼を捕えるがいい! おゝ! かの穴の悪鬼ども、彼を引きずり落として破滅させるがいい! 彼は信仰がなく、信じていないのである。そして、そのような者を住人とすべく地獄は築かれたのである。それこそ彼らの受ける分であり、彼らの牢獄であり、彼らこそその主たる囚人であり、その足枷には彼らの名が記されており、永遠に彼らはこう知ることになるのである。「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。

 II. さて、ここから引き続いて私たちは、結論として、その《罰》に目を向けよう。「あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」。聞くがいい、未信者たち! あなたがたは今朝、自分の罪を聞いてきた。いま自分の破滅を聞くがいい。「あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」。これと同じことが、神ご自身の聖徒たちにもしばしば起こる。彼らは、信じていないときには、そのあわれみを自分の目で見ていても、それを食べることはない。さて、エジプトの地には穀物がある。だが、神の聖徒たちの中には、安息日にここにやって来て、こう云う人々がいる。「私は主が私とともにおられるかどうかがわかりません」。彼らのある人々は云う。「ええ、福音は宣べ伝えられています。でも私は、それで何も問題がないかどうか、わからないのです」。彼らは常に疑いと恐れを感じている。会堂から出てきた彼らに聞いてみるがいい。「さあ、あなたは今朝、良い糧をいただきましたか?」 「私としては何も」。もちろんそうであろう。あなたはそれを自分の目で見ることはできたが、それを食べはしなかった。信仰がなかったからである。信仰をもってやって来ていたとしたら、ご馳走を口にしていたであろう。私の見るところ、キリスト者の中には、やたらと難癖をつけたがるようになってしまった人々がいる。彼らは、しかるべき時期に食べる食事が、真四角に切られても、えりすぐりの磁器の皿で供されもしないと、それを食べることができない。その場合、彼らは外へ出て行くべきである。そして、食欲を覚えるまで、外に出ているべきである。彼らが何らかの患難に遭えば、それが解熱薬のように働くであろう。彼らは自分の口にある苦みという手段によって食べられるようにされるであろう。一日か二日投獄されれば、その食欲が戻ってくるであろう。そのときには、ごく普通の食物も、喜んで食べるようになるであろう。それがごくありふれた大皿に盛りつけられていようと、皿などなかろうと、関係ない。しかし、福音が宣べ伝えられていても神の民が満たされない真の理由は、彼らに信仰がないからである。信じていさえするなら、1つでも約束を聞ければ十分のはずである。講壇から1つでも良いことを聞いたなら、ここにはあなたの魂の糧があるであろう。というのも、私たちに善を施すのは、私たちが耳にする量ではなく、私たちが信ずる質にあるからである。――私たちが真の生きた信仰によって心に受け入れるものこそ、私たちの益となるのである。

 しかし、このことは主として回心していない人々にあてはめさせてほしい。彼らはしばしば、神の大いなるわざがなされるのをその目で見るが、そこから食べることはない。今朝は大勢の群衆がこの場にやって来ており、その目で見てはいるが、その全員が食べているかどうかは疑わしいと思う。人は目で食べることはできない。さもなければ、飢える人などまずいないであろう。そして、霊的にも、人々はその目だけで満たされることはできない。単に説教者を眺めるだけで満たされることはできない。それで私たちは、私たちの会衆の大多数が、単に見るだけのためにやって来るのを見いだすのである。「どれ。このおしゃべりが、この風に揺れる葦が、何を云うつもりなのか聞きに行こうではないか」。しかし彼らには全く信仰がない。彼らは来て、彼らは見て、見て、見るが、決して食べることがない。そこの前の列には回心した人がいる。また、その下の席には主権の恵みによって召されている人がいる。――あわれな罪人が、自分の血の罪を感じて涙している。別の人は、神のあわれみを求めて泣いている。また別の人は、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」、と云っている。この会堂では、大いなるわざがなされつつある。だが、あなたがたの中のある人々は、それについて全く知ることがない。あなたは自分の心の中でいかなるわざもなされていない。なぜ? それが不可能だと考えているからである。神が働いておられないと考えているからである。神はご自分を尊ばないあなたのためにみわざを行なうと約束してはおられない。不信仰によってあなたは、信仰復興のときも、神の恵みが注ぎ出されるときも、感動もせず、召されもせず、救われもしないまま、ここに座っているだけなのである。

 しかし、方々。この破滅の最悪の成就はこれからやって来る! 善良なホイットフィールドはその両手をあげて、こう叫ぶことがよくあった。それだけの大音声は出せないが、私も同じほどに叫べたらと思う。「必ず来る御怒り! 必ず来る御怒り!」 それは、今あなたが恐れなくてはならない御怒りではない。やがて必ず来る御怒りである。――そして、あなたが「自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」とき、必ず破滅はやって来る。私は最後の大いなる日が目に見えるように感ずる。時はその最後の鐘を打う。その弔鐘が鳴るのが聞こえる。――時間はもはやなく、永遠の到来が告げられる。海が沸騰している。その波は神々しい輝きできらめいている。虹が見える。――1つの雲が飛んで来て、その上には御座があり、その御座には《人の子》のようなお方が着いておられる。私はそのお方を知っている。このお方は、その御手に一対の秤を持っておられる。この方の真正面に数々の書物がある。――いのちの書、死の書、記憶の書である。私はこの方の光輝を見て、それを喜ぶ。私はこの方の尊貴な様子を見て、この方が、「ご自分の聖徒たちすべての感嘆の的」*となられることを喜んで微笑む[IIテサ1:10]。しかし、そこには一団のみじめな者どもがいる。恐怖のあまり身を隠そうと縮こまっているが、それでも目は向けている。彼らの目は、自分たちが突き刺したお方を見ざるをえないからである。だが、その目を向けるとき彼らは、「あの御顔から、私たちをかくまってくれ」、と叫ぶ[黙6:16]。だれの御顔か? 「岩よ。あの御顔から、私たちをかくまってくれ」。だれの御顔か? 「かつて死んだが、今は審きのために来られたイエスの御顔」である。しかし、あなたがたがその御顔から隠れることはできない。その御顔を自分の目で見なくてはならない。だが、あなたがたは、壮麗な衣を着て、右手に座ってはいないであろう。――また、雲に乗ったイエスの凱旋行列がやって来るとき、その中で行進してはいないであろう。それを見るが、そこにはいないであろう。おゝ! それが目に浮かぶようである。いま私はそれを見ている。力強い《救い主》がその戦車に乗って天の虹の上に立っておられる。見るがいい。このお方が、その力ある駿馬たちを駆って天の丘を乗り回すとき、いかに天空が響きを立てて揺れるかを。白い衣をまとった供まわりがこの方の後に続き、またこの方は、その戦車の車輪で悪魔と死と地獄を引き具している。聞くがいい。いかに彼らがその手を打ち鳴らしていることか。聞くがいい。いかに彼らが叫んでいることか。「あなたは、いと高き所に上り、捕われた者をとりこにしました」*[詩68:18]。聞くがいい。いかに彼らがこの厳粛な歌を詠唱していることか。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」[黙19:6]。彼らの輝かしいいでたちに注目するがいい。彼らが額に戴いている冠に注目するがいい。彼らの雪のように白い衣を見るがいい。彼らの恍惚たる顔つきに注目するがいい。彼らの歌がいかに天に溢れかえっているか聞くがいい。そして、そこに《永遠者》がこう云って加わるのである。「わたしは喜びをもってあなたのことを楽しみ、高らかに歌ってあなたのことを喜ぶ。わたしは永遠の恵みをもって、あなたをめとろうとしたのだから」[ゼパ3:17参照]。しかし、あなたがたはみな、その間どこにいるだろうか? あなたは彼らをそこに見ることができるが、あなたはどこにいるだろうか? それをあなたの目で見ていながら、あなたはそこから食べることができない。婚宴のご馳走が広げられる。永遠の最良の古葡萄酒が出される。彼らは王の宴会の席に着く。だが、そこにあなたは、みじめな、飢えた者として立ち、そこから食べることができない。おゝ! いかにあなたが手をもみしぼることか。その食卓から一口でも食べることができたなら。――食卓の下の犬にでもなることができたなら。だが、あなたは地獄にいる犬にはなるが、天国にいる犬にはならない。

 しかし、しめくくりに、私は地獄のどこかにいるあなたが見えると思う。岩につながれ、呵責という禿げ鷹があなたの心臓を食い破っている。そして、上の方にはアブラハムのふところにラザロがいる。あなたは目を上げて、それがだれかを見てとる。「あれは、わが家のごみために横たわっていた貧乏人だ。犬どもがそのできものをなめていた。そいつが天国にいるというのに、私は地獄に落とされている。ラザロ――そうだ、あれはラザロだ。現世にいたとき金持ちだった私は、ここでは地獄にいる。父アブラハムよ。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください」。しかし、否! そうすることはできない。そうすることはできない。そして、あなたがそこに横たわっている間、もしも地獄における何かが他の何かよりも悪いことがあるとしたら、それは天国にいる聖徒たちを見ることであろう。おゝ、自分の兄弟が天国にいるのを見ながら、自分が放逐されているのを考えてもみよ! おゝ、罪人よ。あなたの兄弟が天国にいるのを考えてもみよ。――同じ揺りかごであやされ、同じ屋根の下で遊んだ彼が天国に達したのに、あなたは放逐されているのである。また、夫よ。あなたの妻は天国にいるが、あなたは罪に定められた者らの間にいるのである。そして、見るがいい。父親よ! あなたの子どもは御座の前にいる。だが、あなたは! 神に呪われ、人に呪われた者として地獄にいる。おゝ、地獄の中の地獄とは、私たちの友たちを天国に見ていながら、自分は失われていることであろう。話をお聞きの方々。私はキリストの死によって懇願する。――その御苦しみと血の汗によって、――その十字架と受難によって、――すべての聖いものによって、――天と地の中にあるすべての聖なるものによって、――時間あるいは永遠の中にあるすべての厳粛なものによって、――地獄にあるすべての身の毛もよだつもの、あるいは天国にあるすべての輝かしいものによって、――「永遠」という、すさまじい観念によって、――私はあなたに懇願する。こうしたことを心に銘記し、覚えておくがいい。もしあなたが罪に定められるとしたら、不信仰によって罪に定められるのだ、と。もしあなたが失われるとしたら、あなたがキリストを信じなかったからなのである。そして、もしあなたが滅びるとしたら、その胆汁の最も苦い一滴は、――あなたがこの《救い主》に信を置かなかった、ということであろう。

不信仰の罪[了]

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