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『来なさい。子たちよ』――詩篇作者の招き

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 奇妙なことに、善良な人々が自分の義務を見いだすのは、しばしば最も屈辱的な状況に置かれるときである。ダビデの生涯の中でも、最大最悪の窮地となったのは、この詩篇[詩34]で示唆されている状況であった。序言にはこう記されている。「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気違いを装い、彼に追われて去ったとき」。この詩は、その事件を記念するためのものであり、その事件によって着想されたものであった。ダビデはペリシテのアビメレク、王アキシュのもとに連れて行かれ、その場を逃れるために狂人の真似をし、その装いとして、まぎれもなく気違いだと思わせるような非常に陋劣な行為をいくつも行なった。彼は王宮から追い出され、おそらくは、その手の人間が通りを行くとき通常そうであるように、何人もの子どもたちに取り囲まれたであろう。この悲しい物語は第一サムエル21:10-15で語られている。後日、ダビデがエホバへの賛歌を歌って、自分がいかに幼子たちの笑い草となったかを思い出したとき、彼はこう云ったように思われる。「あゝ! あの町通りにいた子どもたちの前で行なった愚行によって、私は、後に続く世代から不面目と思われるようなしかたでに自分を卑しめてしまった。いま私はこの悪影響をできるだけ取り消すようにしよう。――『来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう』[詩34:11]」。

 おそらく、もしダビデがこのような状況に陥ったことがなかったとしたら、彼は決してこうした義務を思いつかなかったであろう。というのも私は、彼が他の詩篇で、「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい」、と語った例を1つも発見していないからである。彼には、自分の町々、自分の属州、自分の国に対する押し迫るような心遣いがあり、こうした時でなければ、年少者の教育などにはほとんど関心を寄せなかったかもしれない。しかしここでは、人間として身を落とせる限り最も卑しい立場に陥り、理性を奪われた者のふりをした彼は、自分の義務を思い起こしている。順境にあって威風堂々たるキリスト者は、必ずしも「小羊たち」のことを心に留めはしない。通常、そうした義務は、自分の高慢と自信を打ち砕かれたペテロたちに譲られるものである[ヨハ21:15]。そうした者らは、この使徒がイエスから「あなたはわたしを愛しますか」[ヨハ21:16]と云われたときにしたように、実際的なしかたで、自分の主に問いに答えることを喜ぶのである。

 「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう」。ここから学ぶ教理はこうである。子どもたちは、主を恐れるように教えられることができる。

 人々は普通、最も愚かになった後で最も賢くなる。ダビデはきわめて愚かしくなったが、今や真に賢くなった。そうとあらば、彼が愚かな意見を口にしたり、愚鈍な精神から発した指針を与えたりすることはありそうもなかった。一部の人々の発言を聞くと、子どもたちはキリスト教信仰の偉大な奥義を理解できないという。《日曜学校》の教師の中には、福音の偉大な諸教理に言及することを注意深く避ける人々すらいることを私たちは知っている。子どもたちには、そうした教理を受け入れる準備ができていないと考えるからである。悲しいかな! 同じ間違いは講壇にももぐり込んでいる。というのも、現在、ある種の説教者たちは、神のことばの教理の多くを、確かに真理ではあるものの、人々に教えるには適してはいないと信じているからである。人は、それを曲解し、自分自身に滅びを招く[IIペテ3:16]からだという。そのような坊主どもの世迷い言は失せ去るがいい! 神が啓示されたものはみな説教されるべきである。《神が》啓示されたことは何であれ、たとい私には理解できなくとも、それでも私はそれを信じ、それを説教するであろう。私は堅く信じている。ある子が救われることができるとしたら、神のことばのいかなる教理といえども、その子に受け入れられないことはない、と。私は、ただ1つの例外もなしに真理の偉大な諸教理がすべて子どもたちに教えられてほしいと願う。彼らが後になってからも、それらを堅く保つようになるためである。

 私は、子どもたちが聖書を理解できると証言することができる。というのも、確かに私は、ほんの子どもでしかなかったときに、論争を招くような多くの神学上の難問を論ずることができたからである。私は、父の友人たちの輪の中で、そうした問題の双方の面が忌憚なく言明されるのを聞いて育ったのである。子どもたちには、ひときわすぐれて単純な信仰がある。そして、単純な信仰は、最高の知識に似たところがある。実際、子どもの単純さと、最も深遠な精神の天才との間には、さほど大きな違いがないのを私たちは知っている。物事を子どものように単純に受け入れる人は、しばしば、あらゆることを三段論法で論じがちな人が決して到達しないような概念をしばしばいだくものである。もし子どもたちが教えを受けられるかどうか知りたければ、私はあなたに、私たちの諸教会の中、また多くの敬虔な家庭の中にいる多くの子どもたちを指摘したい。――神童たちではないが、私たちがしばしば見いだすように、――幼少の頃から《救い主》の愛を知るようになったテモテたちや、サムエルたちや、さらに少女たちである。子どもたちは、失われることが可能になるや否や、救われることも可能になる。罪を犯すことができるようになるや否や、神の恵みの助けさえあれば、みことばを信じて受け入れることができるようになる。悪を学べるようになるや否や、請け合ってもいいが、聖霊の教えのもとにあって、善を学ぶことができるようになる。自分の受け持ちの学級に行く際には、一瞬たりとも決して、子どもには自分の云うことなど理解できないのだ、などとは思ってはならない。というのも、もしあなたが彼らに理解させることがないとしたら、それは恐らく、あなたが自分でもそれを理解していないからなのである。もし子どもたちに学んでほしいことを彼らに教えられないとしたら、それは、あなたの方がこの務めにふさわしくないからであろう。ある子どもが学ばなかった場合、もっと単純な言葉や、幼い能力に適した言葉を使ってみれば、非はその子にではなく、教師の側にあったことが明らかになるであろう。私は、子どもたちは救われることができると信ずる。《天来の》主権によって、白髪の罪人をその誤った生き方から改心させることのできるお方は、小さな幼子をその幼稚な愚かさから立ち返らせることもおできになる。夕方の五時に、市場で仕事もしないで立っている人々を見つけて、葡萄畑にお送りになったお方は[マタ20:6-7]、明け方にご自分のために働く人々を召し出すこともできるし、実際にそうなさる。滔々と流れていた大河の向きを変えることができるお方は、泉から湧き出したばかりの小さな細流を思いのままに変えて、望みの水路に流し込むことがおできになる。神には何でもおできになる。すべては神の支配下にあり、神はお望みのままに子どもたちの心にも働きかけることがおできになる。

 私はこの教理を確立するために多弁を弄するつもりはない。このことを疑うほど愚かな者がいるとは思えないからである。しかし、あなたがこれを信じていると云っても、残念ながら多くの人は子どもたちが救われたと聞くのを期待していないのではないかと思う。諸教会を通じて、私の目につくのは、子どもの敬虔さというようなものに対する、一種の憎悪である。私たちは、幼い男の子がキリストを愛しているというような考えにぎょっとする。また、幼い少女が《救い主》に従っているというのを聞くと、それは幼稚な空想だ、やがて消え失せる幼児期の印象だと云う。だが私は切に願う。決して子どもの敬虔さを疑いの目で見てはならない。それは繊細な植物である。あまり激しく刷毛を当ててはならない。少し前にある話を聞いたが、私はそれをまぎれもない実話だと信じている。ひとりの可愛い少女がいた。年は五歳か六歳で、イエスを心から愛しており、母親に自分も教会に入りたいと願った。母親が、あなたはまだ小さすぎますと云ったために、可哀想なその少女は痛く悲しんだ。しばらくしてから、母親は、敬虔の心がその子のうちにあるのを見てとって、その件を教役者に話した。教役者はその子と話をし、母親に云った。「私は、お子さんの敬虔さを完全に確信します。ですが、教会に加えることはできません。まだ小さすぎます」。その子がそれを聞いたとき、奇妙に憂鬱な表情が浮かんだ。そして翌朝、母親がその子の小さな寝床に行ってみると、その子は真珠のような涙を両目に浮かべたまま、悲しみのあまり死んでいた。その子の心は、自分が自分の《救い主》に従っていけず、主から命ぜられた通りに行なうことができなかったために、引き裂かれてしまったのである。私なら、全世界と引き替えにしてもその子を殺しはしなかったであろう! 幼少期の敬虔さの扱いには注意するがいい。それを扱うには細心の注意を払うがいい。子どもたちも、あなたと全く同じように救われることができると信ずるがいい。私は、子どもたちの救いを何よりも堅く信じている。幼児の心が《救い主》に導かれているのを見るとき、異議を申し立て、厳しい言葉を発し、何もかもを疑うようであってはならない。時にはだまされる方が、イエスを信ずるこうした小さな者たちをつまずかせる手段となるよりもましである。願わくは神が、その民に堅く信じさせてくださるように。恵みの小さな芽生えには、あらゆる優しい配慮を受けるべき値打ちがある、と!

[了]

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