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『来なさい。子たちよ』――3つの訓戒

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 第一に、あなたがたがだれを教えているか思い起こすがいい。「来なさい。子たちよ」[詩34:11]。私たちは常に自分の聴き手に関心を持つべきだと思う。それは決して、自分が説教している相手が、誰それ氏であるとか、ウィリアム・何某卿であるとか、誰それ閣下であるとか気にする必要があるということではない。――そのような称号は神の御前で全くどうでもよいことだからである。だが私たちは、自分が魂を宿している男女に説教していることを覚えておき、聞くに値しないようなことで彼らの時間を奪わないようにすべきである。しかし、《日曜学校》で教えている人は、もしそれが可能であるとしたら、教役者が占めているよりもさらに責任ある立場にあるのである。教役者が説教する相手は成人であり、判断力のある人々であり、教役者の話が気にくわなければ、どこか別の所に行ける人々である。だが、あなたが教えている子どもたちに、他の場所に行くという選択肢はない。もしあなたがその子に間違ったこと教えるなら、その子はあなたを信じてしまう。異端を教えるなら、それを受け入れるであろう。あなたが今その子に教えることを、その子は決して忘れないであろう。あなたは、ある人々が云うように処女地に蒔いているのではない。そこは長い間悪魔に占有されていたからである。だが、あなたが蒔いている場所は柔らかく、今後は二度とありえなくなるほど肥沃な土地――今後は二度と生じさせないほど多くの実りをもたらす土壌である。あなたが種を蒔いているのは若い心であり、あなたが蒔くものはほぼ確実にそこにとどまるであろう。特にあなたが悪を教える場合にそうであろう。それは決して忘れ去られないからである。あなたは、子どもを相手に始めているのである。その子に何を行なうか注意するがいい。その子を駄目にしてはならない。多くの子どもたちは、北米土人の子どものように扱われている。彼らの子どもたちは、「決して成長することがない」ようにと、額に銅板が押しつけられているのである。今は間抜けとなっている多くの人々がそうなったのは、幼少期に彼らの世話をしていた者たちから、全く知識を得る機会を与えられず、そのため年をとってからも全くそうしたことに全く関心を持たはなかったがためである。あなたが目指していることに気をつけるがいい。あなたは子どもたちに教えようとしているのである。彼らに何を教えるか気にかけるがいい。水源に毒を入れれば、流れ全体が汚染されるであろう。自分が何をしようとしているかに用心するがいい! 苗木をねじ曲げるなら、生長した樫の木はそれによってねじ曲がったものとなるであろう。気をつけるがいい。あなたは子どもの魂に干渉しようとしているのである。少しでも干渉などしているとしたらだが。もし神があなたともにおられるとしたら、それは子どもの魂を永遠のために整えていることになるのである。私はあらゆる子どもたちのため、厳粛な訓告をあなたに与える。確かに、死にかけた人に毒を投与するのが殺人だとしたら、若いいのちに毒を与えるのは、いやまさって重い犯罪に違いない。白髪の年寄りを誤り導くことがよこしまなことだとしたら、はるかによこしまなのは、幼子の足を脇へそらして、過誤の道へと至らせ、一生そこを歩くようにさせることであろう。

 第二に、あなたが神のために教えていることを思い起こすがいい。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう」。もしあなたがたが教師として集められたのが、ただ単に地理を教えるためだったとしたら、北極点は赤道近くにあると教えても、子どもたちに永遠の害悪を及ぼすことにはならないであろう。南米の先端が欧州沿岸に接していると云おうと、英国はアフリカ中央部にあると請け合おうと同じことであろう。しかしあなたは地理を教えているのでも、天文学を教えているのでも、子どもたちを実業界に入らせる訓練をしているのでもない。あなたは、あなたの能力の限りを尽くして、神のために子どもたちを教えているのである。あなたは彼らに云う。「子たちよ。ここへ来て、神のことばを教えられなさい。ここへ来て、できるものなら、私たちがあなたの魂に救いをもたらす手段となれるようにしなさい」。彼らを神のために教えようとするときには、自分のしようとしていることに気をつけるがいい。そうしたければ、子どもの手を傷つけるがいい。だが、後生だから、子どもの心を傷つけてはならない。現世の事がらについては好きなことを語るがいい。だが、私は切に願う。霊的な事がらについては、子どもたちをいかに導くかに気をつけるがいい。あなたは真理を、真理だけを熱心に説き聞かせるように注意するがいい。このような責任がある場合、あなたの働きは何と厳粛なものとなることか! 自分のために働く人は、好き勝手に働いてもよいかもしれない。だが、他の人のために労する人は、自分の主人を喜ばせようと気を配らなくてはならない。王侯の召使いは、自分の義務の果たし方に用心しなくてはならない。だが、神のために労働する者は、自分の働きをしくじらないように震えおののかなくてはならない。覚えておくがいい。もしあなたがあなたの告白通りの者であるとしたら、あなたは神のために労しているのである。悲しいかな! 残念ながら多くの人々は、《日曜学校》教師の働きについて、これほど真剣な見方をしていないのではないだろうか。

 第三に、あなたの子どもたちには教えが必要であることを覚えておくがいい。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう」。そのため、あなたの働きはいやがうえにも厳粛なものとなる。もし子どもたちが教えを必要としていなかったとしたら、私もあなたがたが正しいことを教えるようにと、これほど極端に心配することはなかったであろう。余分な務め、必要でもない働きだとしたら、人は自分の好きなように行なってもよいであろう。だが、この働きは絶対に必要なのである。あなたの子どもには教えが必要なのである。その子は咎ある者として生まれ、罪ある者して母親はその子をみごもった[詩51:5]。その子には邪悪な心がある。その子は神を知らず、教えられない限り主を知ることは決してないであろう。その子は、私たちが聞かされてきたような、良い種が地中深く埋まっている良い地ではない。むしろ逆に、その心には悪の種が埋まっている。だが神は、そこに良い種を置くことがおできになる。あなたは、子どもの心に種を蒔く神の器であると告白しているのである。覚えておくがいい。もしその種が蒔かれないとしたら、その子は永遠に失われるであろう。その子の人生は神から離れた人生となるであろう。そして、その子が死ねば、永遠の罰を受けるしかないのである。ならば、自分がいかに教えるかに注意し、このことが切迫した必要であると覚えておくがいい。これは、消防用具にあなたの助けを必要とする火事の家ではない。救命艇にあなたの櫂が求められる難破船でもない。不死の霊が、「来て私を助けてください」、と大声で叫んでいるのである。それゆえ、私はあなたがたに願う。主を恐れることを教え、それだけを教えるがいい。この上もなく熱心に、また真心をこめて云うがいい。「主を恐れることを教えよう」、と。

[了]

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