HOME | TOP | 目次 | BACK

第28章――奮い立ち、勝利を確信して朗らかに前進せよ。

 ここまで語られてきたことすべての結論、また一般的な適用として、こう云おう。私たちが目にしているのは、争闘しつつあるが、それでも確かな、末頼もしい状態にある神の民である。勝利は私たちにではなく、キリストの双肩にかかっている。キリストがご自分のものとしておられる使命は、私たちのために勝利を得るだけでなく、私たちの内側で勝利を得ることでもある。その勝利は、それを得る私たち自身の力や、それをくじこうとする私たちの敵どもによって左右されはしない。もしそれが私たち次第だとしたら、私たちは恐れて当然である。しかしキリストは、私たちのうちにおけるご自分の支配を保ち続け、私たちに味方し、私たちの種々の腐敗と戦ってくださる。そうした腐敗は、私たちの敵であるのと同じくらい、キリストの敵だからである。「それゆえ、主にあって、その大能の力によって強められようではないか」*(エペ6:10)。いかなる者らが私たちの敵であるかに目を向けるよりは、いかなるお方が私たちのさばきつかさであり、指揮官であるかに目を向け、彼らがいかなる脅かしを口にするかに目を向けるよりは、このお方がいかなる約束をしてくださったかに目を向けるようにしようではないか。私たちには不利な条件よりも有利な条件の方がはるかに多いのである。勝利を確信していさえすれば、どんな臆病者も戦おうとするであろう。この世で敗北を喫するのは、戦おうとしない者だけである。それゆえ、何らかの卑しい気おくれに襲われるときには、その責めは、非難されてしかるべきところに帰そうではないか。

 不信仰から、また、斥候たちが良き地についてもたらした悪い報告から民に生じた落胆によって、神は怒りをもってお誓いになった。彼らは決してわたしの安息に入ることはない、と[ヘブ3:11]。私たちは、いかなる困難や不名誉が神の良い道に投げかけられているように見えても、そのため臆病風に吹かれたり、神を怒らせて天国から閉め出されたりしないように用心しよう。いま私たちは、天から何が期待できるかを見てとっているのである。おゝ、愛する兄弟たち。何という慰めであろう。キリストについて正しい考えをいだき、キリストのみ胸にいかなる愛と、あわれみと、力が私たちのためにたくわえられているかを知りうるとは。ことわざに、医者に良い評判があれば病は半ば治ったも同然、という。私たちは、日々の戦闘において、主のこのあわれみと力を活用しようではないか。主イエスよ。あなたは、くすぶる燈心を消さず、いたんだ葦を折らないと約束しておられます。私のうちにあるあなたご自身の恵みをいつくしんでください。私をひとりきりにしないでください。栄光はあなたのものです、と。私たちに対してキリストを、真にご自分の民に対してそうあられるのとは異なる姿に変貌させようとするサタンを許さないようにしよう。キリストは、私たちをご自分に似た者になさり、「内も外もすべて輝かしくし、御父の前に非難されるところのない者として立たせる」*(ユダ24)ときまで、私たちから離れ去ることはない。何という慰めであろう! 私たちが荒れ狂う自分の心と争闘する際にも、それがいつまでも続きはしないということは。もうほんの少し苦闘すれば、私たちは永遠に幸福になるのである。自分のもろもろの罪に悩まされるときには、こう考えるようにしよう。キリストに与えられている務めは、万物を従わせるときまで、「くすぶる燈心を消さない」ことなのだ、と。これによって私たちは、「サタンが放つ火矢」*(エペ6:16)をみな撃退できる大盾を手にすることになる。彼は反論するであろう。(1.) おまえは大罪人だ、と。私たちは、キリストは力強い救い主である、と答えることができる。だが彼は反論するであろう。(2.) おまえには何の信仰も何の愛もない、と。否、火花1つほどの信仰と愛はある。だが、(3.) キリストはそのようなものを評価するまい。否、「彼はくすぶる燈心も消すことはありません」。だが、(4.) それは、あまりにも小さく弱いために、あとかたもなく消え去ってしまうであろう。否、むしろキリストは、公義を勝利に導くときまで、それをいとおしんでくださる。そして、すでに私たちには、自分の慰めにとって確実に云えることがあるのである。すなわち、私たちは、自分の一切の罪が赦されることを信じることによって、いわば、神ご自身にさえ打ち勝っているのである。私たち自身の良心の咎目や、神の絶対的な正義が事実であろうと、何の問題もない。さて、神に対してすら打ち勝っている以上、もし自分の信仰を活用できるようになるとしたら、何が私たちに刃向かえるだろうか?

 おゝ、これはサタンにとって何という困惑であろうか。ちっぽけな火花1つに、いくら轟々と息を吹きかけても消すことができないのである。1粒のからし種が、ハデスの門よりも力強いのである。サタンと私たちの反抗的な心が、神と私たちの間に積み上げた山ほどの反論や誘惑を軽々と取り除くことができるのである。アビメレクは、「女が殺したのだ」、と云われることに耐えられなかった(士9:54)。そしてサタンにとっても、かよわい子どもや、女や、老いさらばえた老人が、信仰の霊によって、自分を敗走させるなどということは、1つの責め苦であるに違いない。

 小さな恵みの真理が1つありさえすれば、これほど大きな勝利を得られるという慰めがあるのだから、私たちはしばしば、神が何を自分たちのうちに作り出しておられるかを吟味し、自分の良くない部分と同じように良い部分をも探り、いかに小さな恵みについても、いかなる外的な物事にもまさって神に感謝しよう。そこには、流転しては無に帰す全世界よりも大きな益と慰めがあるであろう。しかり。その約束された確実な勝利のゆえに、感謝にあふれようではないか。その勝利について私たちは、聖パウロと同様、増上慢になることなく、より頼むことができる。「神に感謝すべきです。神は……イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(Iコリ15:57)。火花の中に炎を見るようにし、種の中に木を見るようにするがいい。小さな始まりの中に大きな事がらを見るようにするがいい。始まりよりは、完成の方に目を向けるがいい。そうするとき、私たちは、いささかなりとも自分自身のことを喜びとし、キリストへの感謝にあふれるようになるであろう。

 また私たちは、大量の恵みが与えられていないからといって、自分のうちに何の恵みも全く与えられていないと推論してはならない。というのも、信仰と恵みは、これこれの程度のものがなければ、無であるといえるような、不可分の点に立脚してはいないからである。むしろ、火花と炎の間には大きな隔たりがあるように、最小の程度の恵みと最大の程度のそれとの間にも大きな広がりがあると思うべきである。そして、最小の程度のものでも有している者は、神の永遠のいつくしみの中に包み込まれているのである。たとえその人が燃えて輝くともしびでなく、くすぶる燈心であっても、キリストの優しい心遣いによって、消えるままに放置されることはないであろう。

 さて、まだ恵みの状態に至っていない人々には、ここまで語られてきたすべてによって、キリストの甘やかで、勝利に至るご支配のもとへ来る気持ちを起こしてほしいと思う。というのも、たとえ私たちに反抗するものがいかに多くあろうと、もし私たちが力を尽くすならば、キリストは私たちを助けてくださるからである。もし私たちが失敗しても、キリストは私たちをいつくしんでくださるであろう。もし私たちがキリストによって導かれるなら、私たちは勝利を得るであろう。もし私たちが勝利を得るなら、私たちは確実に王冠をいただくはずである。また、教会の現在の状態について、私たちの見るところがいかに頼りなく思えようとも、キリストの御国は必ず勝ちを得るのだと励まされようではないか。「キリストのご支配は、その敵をご自分の足台とするまで続くであろう」*(詩110:1)。それは、単に敵どもを蹂躙するためだけでなく、キリストをより高い栄光の座につかせるためである。「バビロンは倒れる。彼女をさばく主は力の強い方だからです」*(黙18:8)。キリストの公義(さばき)は、単にその子どもたちのうちにおいてばかりでなく、その敵どもに対しても勝利に至る。というのも主は、「王の王、主の主」だからである(黙19:16)。神はいつまでも反キリストと、その一味が、今しているように教会の中で浮かれ騒ぎ、大きな顔をしておくのを許してはおかれない。

 もしも私たちがキリスト教会の現在の状態に目を向けるならば、それは獅子の穴の中にいるダニエルのようであり、いばらの中のゆりの花のようであり、波にもまれるばかりか大いに水をかぶっている船のようである。それは、あまりにも低い状態にあるため、敵どもがキリストを、その福音に関する限り、墓に葬ったと考えるほどである。そして、よみがえることなどないように閉じ込めておけると考えるほどである。だがキリストは、ご自身よみがえられたのと同じように、その教会においても、あらゆる石を転がして取り除き、再びよみがえるのである。今日、キリストとその御国の働きには、いかに僅かな支持しか寄せられていないことか! いかに強大な陰謀が、それに対して巡らされていることか! 反キリストの霊は、勇んで、また精力的に練り歩いている。教会の命運は、目に見えない細糸一本で吊り下がっているかのように見える。しかし、私たちの慰めは、キリストが生きておられ、統治しておられ、シオンの山の上に立っておられて、ご自分のために立つ者らを守っておられる、ということである(黙14:1)。そして、サタンと諸国が互いにぶつかり合うときにも、キリストはご自分の子らとご自分の御国の進展を心にかけてくださるであろう。この世の中に、それほど主が大いに尊ぶものは何もないからである。まさにこの瞬間にも、主の教会の解放と、主の敵どもの破滅は、近づきつつある。私たちは、キリストがそのみわざをなされるまで何も動いていないように見えるが、そのときには、主が支配しておられることを見てとるのである。

 キリストとその教会は、最も低くなるときこそ、最もよみがえりに近づいている。主の敵たちは、最も高くなるときこそ、最も没落に近い。

 ユダヤ人たちは、まだキリストの旗印のもとにやって来てはいない。だがヤペテを説得してセムの天幕のもとに来させた神は(創9:27)、セムを説得してヤペテの天幕のもとに来させなさるであろう。「異邦人の完成のなる時はまだ来ていない」*(ロマ11:25)が、「地の果て果てまで、所有として与えられている」(詩2:8)キリストは、御父から与えられている羊たちをみな集めて、1つの囲いに入れなさるであろう。そして、そこで彼らは1つの群れ、ひとりの牧者となるであろう(ヨハ10:16)。

 信実なユダヤ人たちは、異邦人たちの召しのことを考えて喜んだ。では、なぜ私たちは、ユダヤ人たちの召しのことを考えて喜んでいけないことがあるだろうか?

 これまで福音の行き筋は、太陽のそれと同じく東から西へと進むものであったが、それでも神の時には、さらに西へと進むかもしれない。いかなる被造物も、太陽の行き巡るのを妨げたり、天の影響をくいとめたり、風が吹くのを妨げたりすることはできないが、それをはるかに越えて、天来の真理の力が勝ちをおさめるのを妨げることはできない。そしてキリストは、やがてすべての者を1つのかしらのもとに連れ来たり、すべての者を御父の前に立たせるであろう。これらは、あなたがわたしに与えてくださった者たちです。これらは、わたしを自分の主また王として受け取り、わたしとともに苦しんだ者たちです。わたしの心は、彼らがわたしのいるところにおり、わたしとともに治めることにあります、と。そしてそのときキリストは、国を御父にお渡しになり、他のあらゆる支配と、権威と、権力を滅ぼしなさるであろう(Iコリ15:24)。

 それでは私たちは、心に聖なる決意を固めようではないか。自分の内側にも他人の内側にも、各自の召しに従って、努めて善なることを行ない、努めてよこしまなことを避けるようにしよう。自分には、キリストの恵みと御力が伴っているのだと考えて、奮い立たせられようではないか。かの宗教改革という、福音に訪れた遅い春の時期に、もし人々が、あらゆる妨害にまさる無敵の勇気で武装していなかったとしたら、あの偉大な働きはどうなっていたことだろうか? 彼らを支えていたのは、この働きの進展がキリストのものであり、キリストがご自分の働きの進展において何も事欠くことはない、という信仰であった。ルターが率直に告白するところ、彼はしばしば無思慮に、かつ情動とないまぜにして事を運んだ。だが、それを認めるとき、神はルターの過ちにつけこむことはなさらなかった。むしろ、その働きの進展が神のものであり、ルターの目的が聖いもの、すなわち、真理を押し進めることにあり、かつ彼が大いに祈る人であり、強い信仰を有していたがために、神は彼によって、全世界も決して消すことのできない火をともされた。私たちは、いかなる義務についても、自分の信仰に応じて奮い立たされるのである。それゆえ信仰を強めようではないか。それが、他のすべての恵みを強めるのである。信仰が勝利に至るというこの信念こそ、実際に勝利に至るための手段なのである。それゆえ、信ずるがいい。恵みは、たとえしばしばくすぶる燈心のようであっても、それでも勝ちをおさめるのだ、と。もしそれが、試練のうちにあるとき神ご自身にすら打ち勝っているとしたら、他のすべての反抗も打ち負かして当然ではないだろうか? 「今しばらく待とうではないか。私たちは主の救いを見るであろう」*(出14:18)。

 主は、その御子イエス・キリストの御顔によって、私たちにご自分のさらなる啓示をお与えになり、私たちの数々の腐敗のさなかにおける、こうした恵みの始まりをいとおしむことによって、ご自分の御力をあがめさせ、私たちが自らの弱さを考えることをよしとして私たちをへりくだらせ、ご自分の優しいあわれみを考えることをよしとして私たちを奮い立たせてくださる。そして、いったん私たちを恵みの契約に引き入れてくださったお方が、そうした腐敗のゆえに私たちを捨て去ることはなさらない、と私たちに確信させてくださる。そうした腐敗は、主の御霊を悲しませるのと同じく、私たち自身の目にも私たちを卑しむべき者と見させる。また、サタンが努めて神のあわれみの栄光をおおい隠そうとし、私たちを落胆させて慰めを妨げようとしているために、主はもう1つのことを、ご自分の数々のあわれみに加えてくださるのである。すなわち、主がご自分のご支配に服する者たちに対してかくも恵み深くあられる以上、私たちは、この恵みを正しく用いることができるのであり、キリストにあって自分たちのためたくわえられている慰めのうち、いかなる部分も失うことはない、と。[願わくは]主が、私たちのうちにおけるご自分の御霊の勝利を得る力を、恵みが真に始まっている証拠、かつ最終的な勝利の保証としてくださるように。その勝利のときに主は、ご自分のすべての民のうちにあって、永遠に、すべてにおけるすべてとなられるのである。 アーメン。

----

いたんだ葦とくすぶる燈心[了]

HOME | TOP | 目次 | BACK