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6. 新生
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 新生という主題は、いかなる時代においても、最も重要なものである。私たちの主イエス・キリストのニコデモに対するこのことばには、非常に厳粛きわまりないものがある。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハ3:3)。このことばが語られて以来、この世は、幾多の変遷を経てきた。千八百年が過ぎ去った。数々の帝国や王国が勃興しては没落していった。幾多の偉人や賢人たちが生まれ、働き、著述し、死んでいった。しかし主イエスのこの規則は、全く変わることなく、不変のものとして立ち続けている。そしてそれは、天と地が過ぎ去るときまで立ち続けるであろう。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。

 しかし、この主題は現在、英国国教会に属する者にとって、ことのほか重要なものである。近年は、この主題に格別な関心を引きつける事がらが起こってきている。人々の精神はこのことに没頭し、人々の目はこのことに釘づけにされている。新生は、各紙で論じられている。新生は、種々の民営団体で話題の的となっている。新生は、諸処の法廷で議論されている。確かに、今や真の国教徒ひとりひとりが、この主題について自分自身を吟味し、自分の見解が健全なものであるかどうかを確かめるべきときである。いいかげんに私たちは、どっちつかずによろめいているのをやめるべきである。私たちは、自分が何を信奉しているのか知ろうと努めるべきである。自分の信仰内容について説明できる用意をしているべきである。真理が攻撃されるとき、真理を愛する者たちは、今まで以上にそれを堅くにぎるべきである。

 この論考で私は3つのことを行なおうと思う。

 I. 第一に、新生とは何か、すなわち、新しく生まれるとはいかなることかを説明すること。
 II. 第二に、新生が必要であると示すこと。
 III. 第三に、新生の目印と証拠を指摘すること。

 もし私がこの3つの点を明確にできるとしたら、それは読者の方々に資するところ大であると信ずるものである。

 I. それでは、まず第一に、新生とは何か、すなわち、新しく生まれるとはいかなることかを説明しよう。

 新生とは、人が真のキリスト者となるときに経験する、心と性質の変化を意味する。

 キリスト者であると告白し、自称する人々の間に、途方もない違いがあることには、何の疑いもありえないと思う。議論の余地なく、外的な教会の中には、常に2つの種別の人々がいる。名ばかり形ばかりのキリスト者である種別の人々と、真実まことにキリスト者である種別の人々である。イスラエルと呼ばれる者がみな、イスラエルなのではなく、キリスト者と呼ばれる者がみな、キリスト者なのではない。英国国教会の信仰箇条の1つはこう云っている。「目に見える教会には、常に悪人が善人と入り混じって」いる、と[第二十六箇条]。

 三十九信仰箇条が云うように、ある者らは、「邪悪な者や、生きた信仰の欠けた者」であり、他の者らは、別の箇条が云うように、「神のひとり子なる御子イエス・キリストのかたちに似たものとされ、信仰深く良い行ないのうちを歩」んでいる[第二十九箇条および第十七箇条]。ある者らは単に形式的に神を礼拝し、ある者らは霊とまことによって礼拝する。ある者らは自分の心を神にささげるが、ある者らは世にささげている。ある者らは聖書を信じ、聖書を信じているかのような生き方をするが、別の者らはそうしない。ある者らは自分の罪を感じ、それらについて嘆くが、別の者らはそうしない。ある者らはキリストを愛し、キリストに信頼し、キリストに仕えるが、別の者らはそうしない。つまり、聖書が云うように、ある者らは狭い道を歩んでおり、ある者らは広い道を歩んでいるのである。ある者らは福音の網の中の良い魚であり、ある者らは悪い魚である。ある者らはキリストの畑の麦であり、ある者らは毒麦である*1

 目の見える人ならだれしも、こうしたすべてのことを、聖書の中にも、自分の身の回りにも、見てとれないことはないであろう。人が、私の書こうとしている主題について何と考えようと、こうした違いが存在していることは到底否定できないはずである

 さて、この違いの理由は何だろうか? 私はためらうことなく答えたい。新生、すなわち、新しく生まれることである、と。私は答えたい。真のキリスト者がそのような者らであるのは、彼らが新生しているからであり、形式的なキリスト者がそのような者らであるのは、彼らが新生していないからである、と。まことのキリスト者の心は変えられている。名ばかりのキリスト者の心は変えられていない。心の変化があらゆる違いをもたらしているのである*2

 心のこの変化は、多種多様な象徴や比喩によって、聖書の中で絶えず語られている。

 エゼキエルの呼ぶところ、これは、「石の心を取り除き、肉の心を与える」*こと、――「新しい心を与え、新しい霊を授ける」*ことである(エゼ11:19; 36:26)。

 使徒ヨハネは、時としてこれを「神によって生まれる」*ことと呼び、時として「新しく生まれる」*ことと呼び、時として「御霊によって生まれる」*ことと呼ぶ(ヨハ1:13; 3:3、6)。

 使徒ペテロは、『使徒の働き』でこれを、「悔い改めて、神に立ち返る」*ことと呼んでいる(使3:19)。

 ローマ人への手紙はこれを、「死者の中から生かされる」*ことと語っている(ロマ6:13)。

 コリント人への第二の手紙はこれを、「新しく造られ、古いものが過ぎ去り、すべてが新しくなる」*ことと呼んでいる(IIコリ5:17)。

 エペソ人への手紙はこれを、キリストとともによみがえらされることと語っている。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、……神はあなたがたを生かしたのです」*(エペ2:1-5)。また、「滅びて行く古い人を脱ぎ捨て……心の霊において新しくされ……義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと」ことと語っている(エペ4:22-24)。

 コロサイ人への手紙はこれを、「古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る新しい人を着る」*ことと呼んでいる(コロ3:9、10)。

 テトスへの手紙はこれを、「聖霊による、新生と更新との洗い」と呼んでいる(テト3:5)。

 ペテロの第一の手紙はこれを、「やみの中から、神の驚くべき光の中に招かれる」*ことと語っている(Iペテ2:9)。また、その第二の手紙では、「神のご性質にあずかる」ことと語っている(IIペテ1:4)。

 ヨハネの第一の手紙はこれを、「死からいのちに移ったこと」と呼んでいる(Iヨハ3:14)。

 こうしたすべての表現は、結局同じことを指している。それらはみな、同じ真理を異なる面から眺めたものにすぎない。そして、すべては同一の同じ意味なのである。それらは、心と性質の大きな根本的な変化、内なる人全体の徹底的な改変と変革、キリストの復活のいのちにあずかることについて述べている。あるいは、英国国教会の《教会教理問答》の言葉を借りれば、「罪に対して死に、義に対して新しく生まれること」である*3

 真のキリスト者の心におけるこの変化は、徹底的で、完全なものである。まさに、「新生」あるいは「新しく生まれる」といった言葉を選ぶ以外に、到底適切に云い表わしようのないほど完全なものである。疑いもなくそれは、何ら外的な、肉体的な改変ではないが、疑問の余地なく、内なる人の全的な改変である。それは、人の精神に何も新しい機能をつけ足しはしないが、確かに、元からあった精神機能すべてに、全く新しい傾向と偏向を加えるに違いない。その人は、意志が全く新しくなり、嗜好が全く新しくなり、意見が全く新しくなり、罪や世や世界や聖書やキリストに関する見方が全く新しくなったために、どの点から見ても新しい人となっているのである。あたかも、その変化によって、1つの新しい実在が存在するようになったようである。まさにこれは、「新しく生まれる」と呼ばれてしかるべきであろう。

 この変化は、必ずしも信仰者たちの生涯の同じ時期に与えられるものではない。ある者らは、幼児のときに新しく生まれるように思われ、人によっては、エレミヤやバプテスマのヨハネのように、母の胎の中にいるときからさえ聖霊に満たされているように見える。ごく僅かな者らは、老年になってから新しく生まれる。だが、おそらく真のキリスト者の大多数は、成年に達してから新しく生まれる。そして残念ながらおびただしい数の人々は、全く新しく生まれることなく墓に下っていくのではないかと思う。

 心のこの変化は、成年に達してからそれを経験する人々においても、必ずしも同じしかたで始まるものではない。ある者らの場合、使徒パウロやピリピの看守のように、それは突然の、急激な変化であって、大きな心の苦悩を伴っている。別の者らの場合、テアテラ市のルデヤのように、それはずっと穏やかで、緩やかなものである。彼らの冬は、いかにしてかほとんど自分でも気づかないうちに春になっている。ある者らの場合、その変化は、患難か、摂理的な訪れを通して働かれる御霊によってもたらされる。他の者らの場合、そして、おそらく真のキリスト者の大きな数を占める者らの場合、説教されたか、書物で説き明かされた神のことばが、それを生じさせる手段である*4

 この変化は、その効果によってのみ知られ、見分けがつくものである。その始まりは、ひそかな、隠れたものである。私たちはそれを見ることができない。私たちの主イエス・キリストは、このことをきわめてはっきり告げておられる。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハ3:8)。私たちは、自分が新生した者かどうか知りたいだろうか? この問題は、新生の効果についてわかっている点を吟味することで、判断しなくてはならない。そうした効果は常に変わらない。確かに真のキリスト者たちが、その大いなる変化を経ていく筋道は、多種多様なものである。しかし、彼らが最終的に至らされる心と魂の状態は、常に同じである。彼らに向かって尋ねてみるがいい。罪について、キリストについて、聖潔について、世について、聖書について、祈りについて何と考えているか、と。そのとき、あなたは、彼らが全く同じ精神をしていることに気づくであろう。

 この変化は、いかなる人も、自分で自分にもたらすことができず、他人にもたらすこともできないものである。それは、死人が自分をよみがえらせるのを期待したり、芸術家が大理石の彫像にいのちを吹き込むのを求めたりするのと同じくらい理にかなわないことに違いない。神の子らは、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって」生まれる(ヨハ1:13)。時としてこの変化は、父なる神に帰されている。「私たちの主イエス・キリストの父なる神……は、……私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」(Iペテ1:3)。時としてそれは、御子なる神に帰されている。「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(ヨハ3:21)。「もしあなたがたが、彼は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな彼から生まれたこともわかるはずです」(Iヨハ2:29 <英欽定訳>)。時としてそれは、御霊に帰されている。――そして御霊こそ、実際、それを常にもたらす大いなる作用主にほかならない。「御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハ3:6)。しかし、人間には、この変化を作り出す何の力もない。それは、人間の手がはるかに遠く届かないものなのである。英国国教会の第十箇条はこう云っている。「アダムの堕落以後の人間は、自分自身の生まれながらの力や良い行ないによっては、神を信じ呼び求める態度に自分を立ち返らせることも、備えさせることもできない状態にある」。地上のいかなる教役者も、自分の会衆のうちのだれかに、自由自在に恵みを伝えることなどできない。その人は、パウロやアポロと同じくらい真実に、また忠実に説教できるかもしれない。だが、神だけが「成長させる」お方である(Iコリ3:6)。その人は、三位一体の名によって、水でバプテスマを授けることはできるかもしれない。だが、聖霊がその儀式に伴われ、祝福してくださらない限り、そこには何の罪に対する死も、義に対する新しい生もない。イエスだけが、教会の偉大な《かしら》だけが、聖霊によってバプテスマを授けることがおできになるのである。祝福された幸いなことよ。外的なバプテスマのみならず、内的なバプテスマも有する人は*5

 私の信ずるところ、以上述べた新生の説明は、聖書的な、正しいものである。そうした心の変化こそ、真にキリスト者である人をまぎれもなく示す目印であり、人を義と認めさせるキリストへの信仰に例外なく伴うものであり、キリストとの生きた結び合いから分かちがたく生ずる結果であり、内なる聖化の根幹であり端緒である。私は読者の方々に、先へ読み進む前に、このことを熟考してくれるように願いたい。この点――新生とは実際いかなることか――について、私たちの見解を明確なものにしておくのは、きわめて重要である。

 多くの人々は、新生が私の述べてきたようなものであるとは認めないであろう。それは私もよく承知している。彼らは、私が定義の形で行なった言明を強烈すぎると考えるであろう。ある人々の信ずるところ、新生とは、教会の一員とされることによって、教会の種々の特権状態に認め入れられることだけを意味しており、心の変化は意味していない。ある人々の告げるところ、新生した人の内側には、もしその人がふさわしく考えさえするなら、その人を悔い改めさせ、信じさせるに足るだけの、特定の力があるが、それでもその人は、真のキリスト者になるためには、それ以上の変化をまだ必要としている。ある人々の云うところ、新生と、新しく生まれることには違いがある。他の人々の云うところ、新しく生まれることと、回心とには違いがある。

 こうしたすべてに対して、私には、1つの単純な答えがある。それは、私は聖書のどこを見ても、そのような新生が語られているのを見つけることができない、ということである。教会の特権に認め入れられることしか意味しないような新生は、古来からある考え、私の知るいかなるものより由緒ある考えかもしれない。しかし、それだけでは少々足りない。聖書のはっきりとした聖句がもう少し必要である。そして、そのような聖句はまだ見つけ出されていない。

 そうした新生の概念は、聖ヨハネがその第一の手紙で私たちに与えている考え方とは全く首尾一貫しないものである。それは、新生には2つあるのだ、という、ぎこちない理論を発明せざるをえなくし、そのようにして、無知な人々の心を何にもまして混乱させ、偽りの教理を導入することになるであろう。そうした概念は、私たちの主がこの主題をニコデモに対して持ち出した際の厳粛さにそぐわないように思われる。主が、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」、と云われたとき、主は単に、人が教会の特権状態に認め入れられなければ、ということしか意味していなかったのだろうか? 確かに主はそれ以上のことを意味していたに違いない。人は、魔術師シモンのように、そのような新生を有してはいても、決して救われないことがありえるであろう。人は、あの悔い改めた強盗のように、そのような新生を有していなくとも、神の国を見ることができるであろう。確かに主は、心の変化を意味していたに違いない。また、新生することと、新しく生まれることとに区別があるという概念は、吟味に耐えられないものである。ギリシャ語に通じたあらゆる人の一般的意見によると、この2つの表現は、全く同一のことを意味している。

 実際、私の見るところ、この単純な点――新生とは実際いかなることか――について、人々の間には、多くの観念の混乱があり、理解の不明瞭さがあるように思われる。そして、それらはみな、素朴に神のことばを固守しないことから生じているように思われる。人が純粋なキリスト教会の一員とされたとき、大きな特権の状態に認め入れられることは、私も、一瞬たりとも否定しはしない。その人が、教会に属していない場合にくらべて、自分の魂のために、はるかに良い、はるかに優利な立場にあることには、何の異論もない。あわれな異教徒の前には開かれていない広い扉が、その人の魂の前に開かれていることを、私は何にもまして明確に見てとることができる。しかし、聖書のどこを見ても、それが新生と呼ばれているような箇所はない。そして私は、それがそうであるという仮説を裏づける聖句を1つたりとも見いだせない。教会の種々の特権と、新生とは、全くの別物である。私としては、それらをあえて混同する気にはなれない*6

 私は、偉大で善良な人々が、ここまで言及されたような、新生に関する低い見解を固守していることを百も承知している*7。しかし、永遠の福音の教理の浮沈がかかっているとき、私はいかなる人をも先生と呼ぶことはできない。古の哲学者のこの言葉は、決して忘れられるべきではない。「私はプラトンを愛する。ソクラテスを愛する。しかし、そのどちらよりも真理を愛する」[アリストテレス]。ためらうことなく云うが、新生には2つあるという見解をいだく人々は、その証拠としてはっきりした聖句を何1つ提示できない。私の堅く信ずるところ、聖書だけを率直に読む人のうちひとりとして、自分ひとりでこの見解を見いだすことはないはずである。そして、それは私に、これが人間のこしらえあげた観念であるとの、非常に大きな疑いをいだかせるものである。私が聖書の中に見てとれる唯一の新生は、状態の変化ではなく、の変化である。もう一度主張するが、それこそ《教会教理問答》が、「罪に対して死に、義に対して新しく生まれること」について語るときに採っている見解であり、その見解に、私は立つものである。

 私たちの前にある教理は、きわめて重要なものである。私がいま書き記していることは、ことばや名称や形式の問題ではない。これは、救われたいと思うなら、私たちがひとりひとり、自分の経験によって感じなくてはならず、知らなくてはならないことである。努めてこれに親しむようにしようではないか。論争の騒音や硝煙によって、自分の心から注意をそらされないようにしようではないか。私たちの心は変えられているだろうか? 悲しいかな、もしも結局のところ私たちが、自分の内側で新生について何も知るところがないとしたら、新生について口論し、いさかい、争論するのは、あわれな働きである。

 II. 第二のこととして、私たちには新生する、あるいは、新しく生まれる必要があるということを示そう。

 そのような必要があることは、聖ヨハネの福音書3章に記された、私たちの主イエス・キリストのことばから、何にもまして明白である。ニコデモに対する主の言葉遣いにまして明瞭なもの、はっきりしたものはありえない。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません」(ヨハ3:3、7)。

 この必要の理由は、私たちの生まれながらの心の、はなはだしい罪深さと腐敗にある。聖パウロがコリント人たちに告げた言葉は文字通り正確である。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです」(Iコリ2:14)。川が低い所へ流れ、火花が上にあがり、石が地面に落ちるのと全く同じように、人の心は生まれながらに悪いことに傾く。私たちは、自分の魂の敵どもを愛している。――自分の魂の友たちを嫌っている。私たちは、悪を善、善を悪と云っている。不敬虔を喜びとし、キリストを喜びとしない。私たちは、罪を犯すだけでなく、罪を愛してもいる。私たちは、罪の咎からきよめられる必要があるだけでなく、罪の力からも解放される必要がある。私たちの精神の生まれながらの基調、偏向、傾向は、完全に改変されなくてはならない。罪が抹消してしまった神のかたちが、回復されなくてはならない。私たちの内側で支配している無秩序と混乱が鎮められなくてはならない。第一のことが最後のこととされ、最後のことが最初のことにされるようなことは、もはやなくならなくてはならない。御霊が私たちの心に光を射し込ませ、あらゆることをしかるべき位置につかせ、すべてを新しく造り変えなくてはならない。

 私たちが常に覚えておくべきこと、それは、私たちの主イエス・キリストが、2つの明確なことを、ご自分が救いをお引き受けになるあらゆる罪人のために行なわれる、ということである。主は、その人をそのもろもろの罪からご自分の血で洗い、その人に無代価の赦しをお与えになる。――これが、その人の義認である。主は聖霊をその人の心に入れて、その人を全く新しい人になさる。――これが、その人の新生である

 この2つは、両方とも、救われるためには絶対に必要である。心の変化は、赦しと同じくらい必要である。そして、赦しは変化と同じくらい必要である。赦しがなければ、私たちには天国に入る何の権利も資格もない。変化がなければ、私たちは、たとえ天国に行き着けたとしても、そこで楽しむふさわしさや備えがないであろう。

 この2つのは、決して分離してはいない。それらは、決して別れることがない。義と認められたあらゆる人は、新生した人でもあり、新生したあらゆる人は、義と認められた人でもある。主イエス・キリストは、ある人に罪の赦しをお与えになるとき、その人に悔い改めもお与えになる。神との平和をお授けになるとき、「神の子どもとされる特権」もお授けになる[ヨハ1:12]。栄光の福音には、いつまでも立ち続ける2つの偉大な原理があり、そのどちらも決して忘れられてはならない。1つは、「信じない者は罪に定められます」、である(マコ16:16)。もう1つは、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」、である(ロマ8:9)。

 新生が万人に必要であることを否定する人は、心の腐敗について、ほとんど全く知っていないに違いない。赦しさえ得られれば天国へ行けると夢想したり、心の変化を伴わない赦しを与えられても何の役にも立たないことがわからないという人は、まことに目の見えない人である。神をほむべきことに、この2つともが、キリストの福音において、無代価で私たちに差し出されており、イエスは一方のみならずもう一方をも与えることがおできになり、喜んで与えようとしておられるのである!

 確かに私たちが悟らざるをえないように、この世の大多数の人々は、キリスト教信仰のうちに、当然そうすべきほどには、何も見ておらず、何も感じておらず、何も知っていない。そのような状態のゆえんや理由を、いま問おうとは思わない。私はただ、本書を読んでいるあらゆる方々の良心にこう云いたいのである。それが事実ではないだろうか、と。

 彼らに、彼らが絶え間なく行なっている多くの事がらの罪深さについて告げてみるがいい。普通はどのような答えが返されるだろうか? 「何も悪いことはないでしょう」、である。

 彼らに、彼らの魂が陥っているすさまじい危険について告げてみるがいい。――時が縮まっていること、永遠が間近に迫っていること、人生が不確かであること、審きが現実にあることを告げてみるがいい。彼らは何の危険も感じないのである。

 彼らに、彼らが《救い主》を必要としていること――力強く、愛に満ちた、天来の《救い主》を必要としていること――、また、そのお方を信ずる信仰によらない限り、地獄から救い出されるのは不可能であることを告げてみるがいい。それらはみな、彼らの耳を素通りし、何の感興も呼び起こさない。彼らは、自分たちと天国の間にそれほど大きな障壁があるとはわからないのである。

 彼らに、聖書が求めている聖さと、高い基準の生き方について告げてみるがいい。彼らはそのような厳格さがなぜ必要なのか理解できない。彼らは、それほど際立った善人になることが何の役に立つのかわからない。

 私たちの周囲には、おびただしい数のそうした人々がいる。彼らはこうした事がらを一生の間聞き続けるかもしれない。最も印象的な説教者たちが牧会する教会に集い、自分たちの良心に対する、この上もなく力強い訴えを聞きさえするかもしれない。だがしかし、彼らの臨終の床を訪れると、彼らはこうした事がらを全く一度も聞いたことがない人々と変わらない。彼らは、福音の主要な教理の数々を自分の体験としては全く知っていない。彼らは、自分たちのいだいているいかなる希望についても説明を与えることができない。

 では、こうしたことすべては、なぜ、なにゆえに生じているのだろうか? 何がその説明なのだろうか? こうした物事のありかたは、何に帰因しているのだろうか? それらの大本はみなここにある。――人は生来、霊的な事がらには何の感覚も有していないのである。義の太陽がその人の前で輝いてもむだである。その人の魂の目は盲目で見ることができない。キリストの招きの快い調べがその人のまわりで鳴り響いてもむだである。その人の魂の耳は耳しいていて、聞くことができない。罪に対する神の御怒りが提示されてもむだである。その人の魂の感受性はふさがれている。――眠り込んでいる旅人のように、その人は近づきつつある嵐に気づけない。いのちの水といのちのパンがその人に差し出されてもむだである。その人の魂は一方を求めて飢えてもおらず、もう一方を求めて渇いてもいない。その人がいくら《偉大な医者》のもとに逃れ行くように助言されてもむだである。その人の魂はその病について無感覚である。――なぜ行く必要があるだろうか? あなたがその人の手に代価を握らせて知恵を買うように云ってもむだである。その人の魂の思いはさまよい歩いている――その人は麦わらを王冠と呼び、ちりくずを金剛石と呼ぶ精神異常者に似ている。その人は、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」、と云う[黙3:17]。悲しいかな、私たちの性質の全き腐敗ほど悲しいものは何もない! 死んだ魂の綿密な分析ほど痛ましいものはない。

 さて、そのような人は何を必要としているだろうか? その人が必要なのは、新しく生まれ、新しく造られた者となることである。その人に必要なのは、古い人を完全に脱ぎ捨て、新しい人を完全に身に着ることである。私たちは、この世に生まれ出るまで、肉体的な生活を送ることはない。そして私たちは、御霊によって生まれるまで、霊的な生活を送ることはない。

 しかし、私たちがさらに悟らざるをえないのは、大多数の人々は、いま現在の状態のままでは、天国を楽しむふさわしさに全く達していない、ということである。私はこれを、まぎれもない事実として言明するものである。そうではないだろうか?

 私たちの都市や町々に集まっている大勢の人々の姿を眺め、その様子をよく観察してみるがいい。彼らはみな死につつある被造物である。みな定命の存在である。みな神のさばきの座に立とうとしている。みな確実に、天国か地獄で永遠に生きようとしている。しかし、彼らの大半の場合、ほんの少しでも天国に入るにふさわしい備えができているという証拠が、ごく僅かでも、どこにあるだろうか?

 国中のあらゆる地域で、キリスト者と呼ばれている人々の大多数を眺めてみるがいい。町でも農村部でもいいから、好きな教区を取り上げてみるがいい。あなたが最もよく知っている場所を取り上げてみるがいい。そこに住んでいる人々の大部分は、何を好み、何を喜びとしているだろうか? 自由に選べる場合、彼らは何を最も好んでいるだろうか? 好きにしてよいと云われた場合、彼らは何も最も楽しみとするだろうか? 彼らが日曜日を過ごすしかたを観察してみるがいい。聖書を読むことや祈ることについて彼らがいかに僅かな喜びしか感じていないか注意してみるがいい。いずこにおいても、若者や老人たち――富者や貧者の間で、その楽しみや幸福について、いかに低俗で地上的な考え方がはびこっているか注目するがいい。こうした事がらによく注意してみるがいい。――そして、そのとき、この問いを静かに考えてみるがいい。「こうした人々が天国で何をしようというのだろうか?」

 あなたや私は、天国についてほとんど知らない、と云われるかもしれない。私たちの天国の観念は非常に薄暗く、ぼんやりしたものかもしれない。しかし、何がどうあろうと、天国が非常に聖い場所であると考えることに異論はないと思う。神がそこにおられ、キリストがそこにおられ、聖徒たちや御使いたちがそこにいる。罪はいかなる形でもそこにはない。そして、神の好まれないいかなることも語られず、考えられず、行なわれない。ただこのことだけを認めるならば、疑いもなく私たちの回りにいる大多数の人々が天国にふさわしくないことは、鳥が海の底で泳ぐのにふさわしくなく、魚が乾いた地面の上で生きるのにふさわしくないのと同様であると思う*8

 では、彼らが天国を楽しむのにふさわしくなるために何が必要だろうか? 彼らには、新生し、新しく生まれることが必要である。彼らが要しているのは、微々たる変化や、外的なとりつくろいではない。単に荒れ狂う情動にくつわをかけ、手に負えない感情を静めるだけではない。こうしたすべては十分ではない。老年や、放縦にふける機会の欠如や、人々への恐れによって、こうしたすべてのことは生み出されるかもしれない。だが鎖につながれていても、虎は虎である。ぴくりとも動かず、とぐろを巻いていても、蛇は蛇である。必要とされている改変は、はるかに大きく、はるかに深い。あらゆる人が新しい性質を内側に入れてもらわなくてはならない。あらゆる人が新しく造られた者とされなくてはならない。水源がきよめられなくてはならない。根が正されなくてはならない。だれもが新しい心と新しい意志を要している。求められる変化は、脱皮しても爬虫類のままであるような、蛇の変化ではない。死ねば地をはいまわる生き方もやむが、その身中から――新しい性質をもった新しい動物として――蝶が起き上がるような、芋虫の変化である。

 こうしたすべてのことが、最低限、必要とされるのである。いみじくも《良き行ない》に関する《公定説教集》は、こう云っている。「信仰を欠く者らが神に対して死んでいるのは、魂を欠く者らが世に対して死んでいるのと同じである」。

 あからさまな真実を言えば、世の信仰を告白するキリスト者たちのうち、途方もない割合の数の人々は、名目以上のキリスト教を全く有していない。キリスト教の現実感や、種々の恵みや、経験や、信仰や、希望や、いのちや、争闘や、嗜好や、義に対する飢え渇き、――こうしたすべての事がらについて、彼らは全く何1つ知ってはいない。彼らは、パウロが説教した異邦人のだれかれと全く同じくらい真実に回心する必要があり、同じくらい文字通りにとは云わずとも、同じくらい現実に、心の霊において新しくされる必要がある。そして、地上のあらゆる会衆の大多数の人々に向けて常に伝えられるべき使信の主要部分の1つは、「あなたがたは新しく生まれなくてはならない」、ということである。私はこのことを意図的に書き記している。私はこれが、多くの人々にとってひどく不快な、愛のないものに聞こえるであろうことを承知している。しかし、私はあらゆる人に、新約聖書を自分の手にとって、それがキリスト教とは何であると云っているか見てとり、それと信仰を告白しているキリスト者たちの生き方とをくらべてみてほしい。その上で、私が書いてきたことの真実さを、できるものなら否定してみてほしい。

 そして今、このページを読んでいるあらゆる人は、聖書的なキリスト教信仰のこの大原則を思い起こすがいい。「新生なくして救いなく、新しく生まれることなくして霊的いのちなく、新しい心なくして天国なし」。

 私たちは一瞬たりとも、この論考の主題が単なる論争の種であるとか、学識者たちが争論したがる下らない問題であって、自分たちには関わりのないことだなどと考えないようにしよう。それは深く私たちに関わることである。それは私たち自身の永遠の嗣業に関わっており、救われたいと思うなら、私たちが自分自身で知り、自分自身で感じ、自分自身で経験しなくてはならない事がらである。いかなる男性、いかなる女性、いかなる子どもの魂も、新しく生まれることなしに天国に入ることは決してない*9

 また、私たちは一瞬たりとも、この新生のことを、人々が生きているうちには全く経験しなくとも、死んでから経験できるような変化であるなどと考えないようにしよう。そのような考えはばかげている。ほかならぬ今こそ救われるべき唯一の時である。今、この労苦と労働と金稼ぎと仕事との世の中で、――、私たちは、少しでも備えをしようというなら、天国のための備えをしなくてはならない。今こそ義と認められるべき唯一の時であり、今こそ聖なるものとされる唯一の時であり、今こそ「新しく生まれる」べき唯一の時である。聖書が真実であるのと同じくらい確かに、こうした3つを有さないで死ぬ人は、最後の審判の日によみがえっても、ただ永遠に滅びるしかないのである。

 私たちは、人々が非常に重要であるとみなす多くのことを欠いていても――富がなく、学問がなく、書物がなく、世の種々の慰安がなく、健康がなく、持ち家がなく、土地がなく、友がなくとも――、救われ、天国に到達することができる。だが、新生がなくては、私たちは決して救われることがありえない。私たちは、肉体的な誕生がなくては、決して地上で暮らすことも、動くことも、このページを読むこともないはずである。新しい誕生がなくては、私たちは決して天国で暮らすことも動くこともない。神をほむべきことに、栄光のうちにある聖徒たちは、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆であろう。私も、結局は天国には「大群衆」[黙19:1]がいるはずだとの考えで自分を慰めている。しかし私は、このことを知っており、神のことばによって確信している。すなわち、天国に到達するすべての人々のうち、新しく生まれていない人は、ただのひとりたりともいないであろう、と*10

 III. 三番目のこととして、人が新生している、あるいは、新しく生まれている目印を指摘しよう。

 私たちが考察している主題のこの部分について、明確な、はっきりとした見方を有しておくことは、何にもまして重要である。これまで私たちは、新生とはいかなることであるか、また、なぜそれが救いにとって必要であるのかを見てきた。次の段階は、人が果たして自分は新しく生まれているかどうか――自分の心が聖霊によって変えられているのか、それとも自分にはまだ変化が及ぼされていないのか――を見分けることのできる目印や証拠を見つけ出すことである。

 さて、こうした目印や証拠は、聖書の中で私たちのために、はっきり規定されている。神は、この点について私たちを無知のまま放置してはおられない。神は、いかにある人々が疑いや猜疑心で自分をさいなみ、いかに自分の魂の状態が良いものであることを絶対に信じようとしなくなるかを予知しておられた。また、いかに他の人々が、自分は新生した者であると信ずべき何の権利もないくせに、頭からそう思い込むようになるかを予知しておられた。それゆえ神は、恵み深くも、私たちに、自分の霊的状態を評価するための試験と手段を、聖ヨハネの第一の手紙の中で与えておられるのである。そこで神は、私たちを教えるために、新生した人とはいかなる者であるか、また、新生した人はいかなることをするか――そのあり方、その習慣、その生き方、その信仰、その経験――を書き記しておられる。この主題について正しい理解に達する鍵をにぎりたいと願う者はだれでも、聖ヨハネの第一の手紙を徹底的に研究すべきである。

 読者の方々には、こうした新生の目印および証拠に格別の注意を払ってほしい。私は、今からそれらを順々に述べていこうと思う。これから言及する証拠以外の証拠も、たやすく言及することはできる。しかし、そうはすまい。むしろ私は、聖ヨハネの第一の手紙だけに限って語りたい。なぜなら、それが、神によって生まれた人について、ことのほか明確な言明を記しているからである。耳のある者は、愛された使徒が新生の目印について何と告げているかを聞くがいい。

 (1) まず第一に、ヨハネは云う。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません」。また、「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きない」、と(Iヨハ3:9; 5:18)。

 新生した人は、常習的に罪を犯すことがない。その人は、もはや新生していない人のように、心から喜んで、意図的に、一心に罪を犯しはしない。おそらく以前のその人は、自分の行為が罪深いかどうかなどとは全然考えることなく、悪を行なった後も何の悲しみも感じなかったであろう。その人と罪との間には何の争いもなかった。――その人と罪とは友人同士だった。だが、今のその人は罪を憎み、罪から遠ざかり、罪と戦い、罪を自分の最悪の厄介事とみなし、罪の存在という重荷のもとでうめき、罪の影響下に陥ったときは嘆き悲しみ、罪から全く解放されることを切望している。一言で云うと、罪はもはやその人を喜ばせるものでも、無関心で済まされることでもなくなっているのである。罪は、その人の憎む忌まわしいものとなってしまった。その人は、自分の内側に巣くっている罪を追い出すことはできない。「もし、罪はないと言うなら、真理は彼のうちにありません」*(Iヨハ1:8)。しかしその人は、心底から罪を忌み嫌っていると云うことはできる。そして、その人の魂をあげての願いは、罪を全く犯さないようになることである。その人は、自分の内側に悪い思いが起こるのを妨げることはできない。自分の言葉にも行動にも、数々の短所と、怠慢と、欠陥が現われてくる。その人は、聖ヤコブが云っているように、「私たちはみな、多くの点で失敗をするもの」であることを承知している(ヤコブ3:2)。しかしその人は、真心から、神の前であるかのように、こう云うことができる。そうした事がらは、自分にとって日ごとの痛恨と悲しみのもとであり、自分の性質の全体は、新生していない者の性質の全体とは違い、心底からそれらに同意しない、と。

 (2) 第二にヨハネはこう云っている。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」(Iヨハ5:1)。

 新生した人は、イエス・キリストこそ、自分の魂が赦され、義と認められるための唯一の救い主である、と信じている。キリストが父なる神によって、まさにその目的のために任命され、油注がれた天来のお方であること、キリスト以外に、いかなる《救い主》も他にはいないことを信じている。その人は、自分の内側には無価値なもののほか何も見あたらない。だが、キリストのうちには、最も完全な確信をいだくことのできる根拠を見てとっており、キリストにより頼むことによって、自分の罪がことごとく赦され、自分の不義がことごとく取り除かれると信じているのである。十字架上で完成されたキリストのみわざと死のおかげで、自分は神の前で義とみなされており、すくむこともなく死とさばきを待ち望めると信じている。その人も、恐れや疑いを感ずることはあるかもしれない。時として、信仰など何もないかのように感ずると漏らすことはあるかもしれない。しかし、その人に向かって、果たしてキリストの代わりに別の何かを頼りにするつもりがあるかどうか尋ねて、その答えを聞いてみるがいい。果たして、自分自身の善良さや、自分自身の生活改善や、自分の祈りや、自分の教役者や、自分の教会内外での行ないを根拠にして、永遠のいのちを持つ希望をいだけるかどうか尋ねて、その答えを聞いてみるがいい。果たしてキリストを捨て去って、何か他の宗教的な生き方に信を置くつもりがあるかどうか尋ねてみるがいい。請け合ってもいいが、その人は、自分がいかに弱り果て、いかに悪い者であるように感じていようが、全世界と引き替えてもキリストを捨てるつもりはない、と云うであろう。請け合ってもいいが、その人は、キリストを何にもまして尊いお方と思っており、キリストが自分自身の魂にとってうってつけのお方であり、キリスト以外にそのようなお方はないと感じており、キリストにすがりつかないではいられない、と云うであろう。

 (3) 第三にヨハネはこう云っている。「義を行なう者はみな神から生まれている」*(Iヨハ2:29)。

 新生した人は、聖い人である。その人は努めて神のみこころにかなった生き方をし、神を喜ばせることを行ない、神が憎むことを避けようとする。その人が目当てとし、望みとするのは、心と魂と精神と力を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛することである。その人の願いは、キリストを自分の《救い主》としてのみならず、自分の模範として絶えず見上げ、キリストがお命じになることは何でも行なうことによって、自分をキリストの友として明らかにすることである。疑いもなく、その人は完全ではない。その人自身にまさって、そのことを痛感している者はない。その人は、自分の中に巣くい、自分にこびりついている腐敗という重荷のもとでうめく。その人は、自分の内側に悪の原理があること、それが常に恵みに戦いをいどみ、自分を神から引き離そうとしていることを悟っている。しかしその人は、その存在を妨げることはできないにせよ、それに同意することはない。いかなる短所があるにせよ、その人の平均的な心の傾向、偏向は、聖いものである。----その人の行ないは聖く、その人の嗜好は聖く、その人の習慣は聖い。逆風を間切って進む船のように、いかに曲がりくねり、いかに針路をそらされることがあろうと、その人の人生の大筋は1つ――神に近づき、神のために生きる方向である。そして、たとえその人が、時としてあまりにもひどく落ち込み、果たして一体自分はキリスト者なのかと疑わしく思うことがあるとしても、通常は、老ジョン・ニュートンとともにこう云うことができるであろう。「私は自分のあるべき姿にはなく、自分がそうありたいと思う者でもない。私は来世でそうありたいと望む者にはなっていない。だがそれでも私は、かつての自分ではなく、神の恵みにより今の私になっている」、と*11

 (4) 第四にヨハネはこう云っている。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」*(Iヨハ3:14)。

 新生した人は、キリストの真の弟子たちすべてに対する特別な愛を有している。その人は、天におられる自分の御父のように、すべての人々を包む大きな愛で愛しているが、自分と心を1つにしている人々に対しては、特別な愛をいだいている。その人は、自分の主にして《救い主》なるお方のように、最悪の罪人たちをも愛し、彼らのために泣けるはずである。だが、その人は、信仰者である人々に対しては、格別な愛をいだいている。その人にとって、信仰者たちとともにいるときほどくつろげることはない。地にあって威厳ある聖徒たちの中にいるときほど幸いなときはない[詩16:3]。他の人々は、自分たちがつき合っている人々の中に見られる知識や、才知や、人好きの良さや、富や、地位を尊んでいるかもしれない。だが、新生した人は、恵みを尊ぶ。最も多く恵みを有し、最もキリストの似姿に近い人々こそ、その人が最も愛する人々である。その人は、彼らが自分と同じ家族の一員であると感ずる。――自分の兄弟、自分の姉妹、同じ御父の子らであると感ずる。その人は、彼らが同じ指揮官のもとで、同じ敵と戦っている戦友であると感ずる。同じ旅程をたどり、同じ困難に試みられ、同じ永遠の家でまもなく安息を得ることになる旅仲間であると感ずる。その人には彼らが理解でき、彼らはその人のことを理解できる。彼らの間には、一種の霊的な友愛的理解がある。その人と彼らは、多くの点で非常に異なっているかもしれない。----身分も、地位も、財産も。だが、それがどうしたというのか? 彼らはイエス・キリストの民なのである。彼らは、自分の御父の息子たちであり、娘たちなのである。ならばその人は、彼らを愛さずにはいられないはずである。

 (5) 第五に、ヨハネはこう云っている。「神によって生まれた者はみな、世に勝つ」(Iヨハ5:4)。

 新生した人は、この世の意見を自分の善悪の基準にしたりしない。その人は、この世の生き方や、考え方や、習慣の流れに背くことを何とも思わない。「人に何と云われるだろうか?」、ということは、もはやその人の行動を左右しない。その人は、この世への愛に打ち勝っている。その人は、周囲にいるほとんどの人が幸福と呼ぶような物事に、何の喜びも感じない。その人は彼らが楽しむものを楽しめない。――むしろ、そうした物事にはうんざりさせられる。その人にとってそれらは、不滅の魂を持つ者にとっては無駄な、役立たずの、無価値なものに見える。また、その人は、この世への恐れに打ち勝っている。その人は、自分の周囲にいるすべての人が、控えめに云っても不必要であると考える多くの事がらを行なうことに満足している。彼らからいかに非難されても動じない。いかに馬鹿にされても屈することはない。その人は、人の栄誉よりも、神からの栄誉を愛している。その人が恐れるのは、人間を怒らせることよりも、神を怒らせることである。その人は、すでに費用を計算している[ルカ14:28]。すでに自分の立場を決めている。その人にとって、非難されたり、称賛されたりすることは、小さなことでしかない。その人は、目に見えないお方に目を据えている。そのお方が行かれるところならどこにでも従っていこうと決意している。このように従うことによって、この世から出て行き、分離することが必要になるかもしれない。新生した人はそのようにすることから尻込みしようとはしない。その人に向かって、あなたは他の人々とは違っている、あなたのような考え方は社会一般の考え方ではない、あなたは周囲からずれた、奇矯な人になっている、と告げてみるがいい。その人は動じないであろう。その人は、もはや流行や慣習のしもべではない。この世を喜ばせることは、その人にとっては二の次、三の次のこととなっている。その人の第一の目当ては、神を喜ばせることである。

 (6) 第六に、ヨハネはこう云っている。「神から生まれた者は自分を守る」(Iヨハ5:18 <英欽定訳>)。

 新生した人は、自分の魂について細心の注意を払う。その人は力を尽くして罪から遠ざかろうとするだけでなく、罪に至らせかねないあらゆるものから遠ざかろうとする。その人は、自分の交際する相手に注意を払う。その人は、友だちが悪ければ心が腐敗すること、病気が健康よりもはるかに伝染性が高いように、悪が善よりもはるかに人にうつりやすいことを感じている[Iコリ15:33]。その人は、自分の時間の使い方に注意を払う。その人が時間について願う最大の思いは、それを有益に費やすことである。その人は自分の読む書物に注意を払う。自分の精神が有害な著作によって毒されることを恐れる。その人は自分がどのような人と友情を結ぶかについて注意を払う。その人にとっては、相手の人々が親切で、愛敬があって、気立てがいいというだけでは十分ではない。――そうした気質は非常に良いものだが、問題は、彼らが自分の魂に善を施すかどうかである。その人は、自分自身の日常的な習慣やふるまいに注意を払う。その人は、自分の心が欺きがちであること、この世が邪悪さで満ちていること、悪魔が常に自分に害を及ぼそうとやっきになっていることを努めて思い起こそうとする。そして、それゆえにこそ、その人は常に守りを固めていようとする。その人が願うのは、敵地に潜入した兵士のように生きること、自分の武具を四六時中身にまとい、いつ誘惑に襲われてもいいようにしておくことである。その人は経験によって、自分の魂が絶えず多くの敵に囲まれていることを悟っている。そして用心深い、謙虚な、祈り心を保つ人になることを学んでいる。

 こうしたことが、私たちに教えるため神が与えてくださった、新生に伴う6つの大きな目印である。ここまで私の語るところを読んできた人はみな、それらを注意深く読み返し、心に銘記するがいい。私の信ずるところ、これらが書かれたのは、今日におけるこの大問題に決着をつけるため、また論争が起こらないようにするためである。では、もう一度私は読者の方々に願う。これらによく注意し、思い巡らすがいい。

 私も、こうした目印の深さや明確さに、新生した人それぞれで非常な違いがあることは承知している。人によっては、それらはかすかで、ぼんやりしていて、微弱で、ほとんど見分けがつかない。それらを判別するには、ほとんど顕微鏡が必要とされる。人によっては、それらはくっきりと際立ち、明確で、鮮明で、取り違えようがなく、だれの目にも明らかである。これらの目印のあるものを目立たせている人がいるかと思えば、別のものを目立たせている人もいる。ひとりの人が、これらをみな同じように明白に現わしていることはめったにない。こうしたすべてを認めるのに私はやぶさかではない。

 しかし、あらゆる譲歩をした上でもなお、ここに私たちは、神から生まれた人に伴う、くっきりと描かれた6つの目印を見いだすのである。ここには、新生した人の性格の各部分として、聖ヨハネによって、特定の、はっきりした事がらが規定されている。それらは人の目鼻立ちのように、くっきりと明確に際立っている。霊感を受けた使徒はここで、キリスト教会に宛てられた最後の公同書簡の1つを書きながら、神から生まれた人が、罪を犯すことなく、イエスをキリストであると信じ、義を行ない、兄弟を愛し、世に打ち勝ち、自分を守る者であると私たちに告げているのである。そして、まさに同じ書簡において、一度ならず使徒は、こうした目印が言及されるとき、これ、またはそれを有していない人は、「神から出た者ではない」、と私たちに告げているのである[Iヨハ3:10; 4:3、6]。私は読者の方々にこうしたすべてのことに注目してほしいと思う。

 さて、私たちはこうした事がらについて何と云うだろうか? 新生とは単に外的な教会の特権に認め入れられることでしかないと信ずる人々に何と云えるか、私には皆目見当もつかない。私としては、ここから引き出せる結論は1つしかないと大胆に云うものである。その結論とは、こうした6つの目印を身に帯びた人々しか新生した人々ではない、ということ。また、こうした目印を有していないあらゆる人は新生しておらず、新しく生まれてはいない、ということである。そして私の堅く信ずるところ、これこそ使徒が私たちに引き出してほしいと願っていた結論にほかならない。

 私は、これまで語ってきたことを真剣に考察するよう、読者の方々すべてに勧めたい。私の信ずるところ、私が語ってきたのは神の真理以外の何物でもない。私たちの生きている時代は、新生という主題がどす黒い暗黒で覆われている時代である。おびただしい数の人々が、バプテスマと新生を混同することによって、神の摂理を暗くしている。こうしたことに用心しようではないか。この2つの主題を思いの中で区別しておこうではないか。何よりもまず新生について明確な見方をしようではないか。そうするとき私たちは、バプテスマについての間違いに陥ることは少なくなるであろう。そして、明確な見方ができるようになったなら、それらを堅くにぎりしめ、決して手放さないようにしようではないか。

新生[了]

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*1 「世には二種類の人々がいる。ある者らは義と認められてもおらず、新生してもおらず、救いの状態のうちにもおらず、つまり、神のしもべたちではない。彼らには、改新や新生が欠けている。彼らはまだキリストのもとに来ていない」。ラティマー主教の『説教集』、1552年。[本文に戻る]

*2 読者はこうした言明に、新奇な、あるいは現代的なものが何かあると思ってはならない。私が語ってきた違いを叙述するために、英国国教会の標準的な神学者の著作の中から、「新生した者」、「新生していない者」という言葉が使われている箇所を引用し出したら切りがないであろう。国教会に属する篤信の敬虔な人々は「新生した者」と呼ばれている。――世俗的で不敬虔な人々は「新生していない者」と呼ばれている。英国の神学書に通じている人であれば、このことは一瞬たりとも疑問視できないと思う。[本文に戻る]

*3 「こうしたすべての表現は、異なる観念を指すと理解されるかもしれないが、心に及ぼされる同じ恵みのみわざについて説いているのである」。ホプキンズ主教、1670年。[本文に戻る]

*4 「みことばの説教は、神が新生のために定められた大きな手段である。『信仰は聞くことから始まり、聞くことは……みことばによる』(ロマ10:17)。神は、最初に人間を創造されたとき、『その鼻にいのちの息を吹き込まれた』、と云われているが、人間を新しくお造りになるときには、その耳に吹き込まれるのである。みことばこそ、死者をその墓から呼び出し、よみがえらさせるものである。みことばこそ、盲人の目を開き、不従順で反逆を続ける者らの心を立ち返らせるものである。そして、よこしまで俗悪な人々が説教を鼻であしらい、いかなる教役者の言葉も、また神のことばすらも、ただの風音としかみなさなくとも、それでもそれは、まぎれもなく、岩をも引き裂き、山をも真っ二つにする風なのである。もし彼らが救われることがあるとそれば、そのような風が、彼らの肉的な安心と増上慢のすべての土台を揺り動かし、覆さなくてはならない。それゆえ、みことばの説教を今まで以上に尊び、説教の場には今まで以上に集うがいい」。ホプキンズ主教、1670年。[本文に戻る]

*5 「聖書が伝えるところ、子どもが自分で自分を生み出したり、死人が自分を生かしたり、実在しないものが自分を作り出したりすることと全く等しく、肉的な人間が自分自身を新生させたり、真の救いに至る恵みを 自分自身の魂に作り出したりすることはありえない」。ホプキンズ主教、1670年。
 「世には2つの種類のバプテスマがあり、その両方が必要である。1つは内側のものであって、心のきよめと、御父の引き寄せと、聖霊のお働きのことである。そして、このバプテスマは、人が、キリストこそ自分の救いの唯一の方法であると信じ、信頼するときに、その人のうちにあるのである」。フーパー主教、1547年。
 「あらゆる方面で喜ばしく告白されるところ、様々に異なる場合、外的なバプテスマが見いだされないところにも、内的なそれのおかげで、いのちがありえるのである。」。リチャード・フッカー。
 「世には水のバプテスマだけでなく、御霊のバプテスマというものがある」。ジェレミー・テイラー主教、1660年。[本文に戻る]

*6 「性質上分かたれているこうした事がらを、口で混ぜ合わせることこそ、あらゆる過誤の母である」。フッカー、1595年。[本文に戻る]

*7 たとえば、ダヴンポート主教やホプキンズ主教は、しばしば、バプテスマという主題を扱う際に、霊的な新生とは全く区別されるものとしての、「礼典的な新生」について語っている。彼らの著述の一般的な基調は、敬虔な人々のことを新生した者として語り、不敬虔な人々のことを新生していない者として語るというものである。しかし、このように善良な二人の人々に対する敬意の思いは重々感じながらも、問題はやはり残る。――2つの新生があると云えるための、聖書のいかなる裏づけを私たちは有しているだろうか? 私はためらうことなく答えるものである。――全く何1つない、と。[本文に戻る]

*8 「教えてほしい。あなたは、聖なる種々の義務において、語られる一言一言に恨みをいだき、公の礼拝への招きの1つ1つを自分の臨終の鐘のように考え、『いつになったら安息日が終わるのか、この儀式がいつまで続くのか』、と云い云いしているが、そのあなたは天国で何をしようというのか! そのような聖からざる心がそこで何をするのだろうか? そこでは安息日が永遠そのものと同じくらい長く続き、そこでは聖なる義務のほか何もなく、そこではむなしい考えや、むだな言葉のために費やせる時間は一刻たりともない。あなたは天国で何をしようというのか? そこでは、あなたが何を耳にし、何を目にし、何を語り合おうと、すべてが聖いものなのである。そして、天国の聖さが地上の聖徒たちの聖さにまして完全なものであるのと同じくらい、それは悪人たちにとって飽き飽きするような、耐えがたいものとなるであろう。――というのも、もし彼らが星のまたたく光にさえ耐えられないとしたら、太陽そのものの目もくらむような光に、どうして耐えられようか?」 ホプキンズ主教。[本文に戻る]

*9 「この大いなる変化を自分で確かめておくがいい。私が今あなたに説教してきたのは、絵空事ではない。あなたの性質とあなたの生活は変わらなくてはならない。さもないと、嘘ではない、あなたは最後の審判の日に、自分が神の怒りのもとにあることに気づくであろう。というのも神は、ご自分の口から出たことばを変えることも、改めることもないからである。神はこれを語られた。神の真理であり、ことばであられるキリストは、それを宣言された。――新しく生まれること、すなわち、新生なしには、いかなる人も神の国を受け継ぐことはない、と」。ホプキンズ主教、1670年。[本文に戻る]

*10 「新生、あるいは新しく生まれることは、永遠のいのちにとって絶対に必要である。他の変化はまるで必要ない。ただこの変化だけが必要である。もしあなたが貧しく、その状態のままあり続けるとしても、それでも救われることはできる。もしあなたが蔑まれており、その状態のままあり続けるとしても、それでも救われることはできる。もしあなたが無学で、その状態のままあり続けるとしても、それでも救われることはできる。ただ1つの変化だけが必要なのである。もしあなたがよこしまで、不敬虔な者であり、その状態のままあり続けるとしたら、キリストは、天国の鍵をお持ちのキリストは、扉を閉ざせばだれも開けることのできないキリストは、ご自分であなたの運命をお定めになっておられる。すなわち、あなたは、いかにしても、神の国にはいることはない、と」。ホプキンズ主教、1670。[本文に戻る]

*11 「いかなる者も、自分の従順に多くの不完全さがあるからといって、自分には何の恵みもないのだと結論してはならない。あなたの恵みは非常に弱く、不完全なものかもしれないが、それでもあなたは神にとって真に新しく生まれていることがありえるし、正真正銘の子であり、天の世継ぎであることがありえるのである」。ホプキンズ主教、1670年。[本文に戻る]

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