John Wycliffe                    目次 | NEXT

ジョン・ウィクリフ

 古くから伝わる名言に、国々は、その最大の恩人の何人かについてほとんど知らないことがある、という。この格言にあてはまる人物がだれかひとりいるとしたら、それはジョン・ウィクリフである。彼こそは、この国におけるプロテスタント宗教改革の先駆者にして、創始者であった。ウィクリフに、英国は途方もない恩恵をこうむっている。だがウィクリフのことを大部分の英国人はほとんど、あるいは全く何も知らない。

 この善良なる偉人について書こうとするにあたり、私の脳裏に浮かぶのは使徒聖ペテロの言葉である。彼は云う。「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています」(IIペテ1:13)。これこそ、まさに私がこの論考で行ないたいと願っていることである。私は、これによって読者たちを奮い立たせ、この、「英国の宗教改革者たちの明けの明星」、と正しくも呼ばれてきた人物のことを覚えて、二度と忘れないでほしいと思う。

 I. まず第一に私があなたに願いたいのは、ウィクリフが生きていた時代の英国が、宗教的にいかなる状態にあったか思い起こすことである。

 この点について、私は何の弁解もせず手短に述べておこう。それを正しく理解することこそ、私の主題全体のまさに根幹に関わっている。このことなしには、これから私が書き起こそうとしている人物について正しく評価することはできない。このことなしには、彼がいかに途方もない困難と戦わなくてはならなかったか、また、彼が行なった働きがいかに大きなものであったかを、正しく評価することは不可能である。

 ジョン・ウィクリフが、ヨークシア北部にあるティーズ川の河岸に生まれたのは、およそ1324年頃、エドワード二世の治下であり、彼が死んだのは、1384年、リチャード二世の治下であって、今から五百年以上も前のことである。このように、思い起こせばわかる通り、彼が生まれたのは、少なくとも印刷術が発明される百年以上前のことであり、彼が死んだのは、かの偉大なドイツの宗教改革者マルチン・ルターが生まれる約百年前であった。この2つの事実だけは、決して忘れられるべきではない。

 わが英国の宗教改革に先立つ三世紀、すなわち、ウィクリフの生涯を間にはさむ三世紀は、おそらく英国のキリスト教史の中でも最暗黒の時期であった。その時期に、この国の教会は徹底的に、全く、完全にローマカトリック教であった。----ローマの司教[教皇]は教会の霊的首長であった。----ローマカトリック主義が、南はワイト島から北はベリッカポンツイードまで、また、西はランズエンド岬から東はノース岬まで、至高の権威を振るい、教役者も民衆も、押しなべてローマカトリック教徒であった。宗教改革に先立つこの三世紀の間、英国におけるキリスト教は、膨大な量の無知と、迷信と、策謀に満ちた聖職者階級と、不道徳との下に埋没していたと云っても過言ではない。この時期のキリスト教信仰と、使徒時代のそれとの間には類似する点がほとんどなく、もし聖パウロが死者の中からよみがえったとしても、到底彼は、それをキリスト教とは呼ばなかったに違いない!

 このような時代が、ウィクリフの生きた時代であった。このような困難が、彼の立ち向かわなくてはならない困難であった。私はこの論考を読んでいる人々に、これらを忘れないように命ずる。ウィクリフのような働きを行ない、ウィクリフのような足跡をその世代に残すことができた人物は、確かに非凡な人物であったに違いない。それ以上のことを云おう。彼は類いまれな恵みと賜物を有するキリストのしもべであり、異様なほど聖霊に満ちた人物であったに違いない。私は云う。彼はあらゆる栄誉を受けてしかるべき人物であり、私たちは彼を記憶にとどめておくのが当然である、と

 II. さてウィクリフの時代から、ウィクリフの働きへと目を転じてみよう。

 ウィクリフが非常な暗黒の時代に大きな働きをなしたこと、----彼がその世代に深い印象を残したこと、----彼が、約二十五年もの間、教会と議会の双方から、「1つの勢力」であると感ぜられ、認められていたこと、これは純然たる歴史的事実であって、それなりの造詣のあるいかなる人も否定できない。

 しかし、彼の前半生については、つまびらかでない点が多々ある。彼が最初に通った学校や、その教師たちについては何1つわかっておらず、彼がその初等教育を受けたのはティーズ川河岸のエグルストン小修道院においてであったかもしれないことも、推測の域を出ない。しかし、彼が1335年から1340年の間にオックスフォードに行ったことは確かである。彼は、そこで非常に優秀な成績を修め、当時の最も学識ある人々のひとりであるという、非常に高い評判を得た。1361年に彼は、ベイリャルの修士に任ぜられ、その後、クイーンズ、マートン、カンタベリー・ホールといった学寮に所属することになった。その時期から数えて、ほぼ二十年後に彼がラッタワースに隠遁するまで、オックスフォードが彼の活動拠点であったように思われる。とはいえ、彼はロンドンにも明らかにしばしば足を運んではいたが。講義と、説教と、学識者と庶民の双方に向けた執筆と、議論と、論争とが、彼の日常を織りなしていたように見える。しかし、彼の同時代人の筆による詳細な、筋道だった伝記は一冊も存在していない。いかにして彼が最初にその健全な神学的見解を身につけたのか、----果たして彼が自分の上席者であったブラッドワディーン大司教から何か学ぶところがあったのか、----果たして彼がオックスフォードの大学付司祭フィッツラルフや、かの有名なリンカンの司教グローステストと親密な関係にあったのか、----つまり、だれが彼の助力者であり、同労者であったのか、あるいは、彼はだれからの助けも受けずに独力で立っていたのか、----こうしたすべての点について私たちはほとんど、あるいは全くわかっていない。しかしながら、文句を云うのはお門違いであろう。ウィクリフの時代には印刷術がなく、読み書きのできる者がほとんどいなかったからである。私は推測することで時間を浪費したりせずに、反駁の余地ない4つの事実に言及し、ウィクリフの名前がなぜ常に英国で尊ばれるべきかという4つの理由を指摘するだけでよしとしたいと思う。

 (a) 1つのこととして、私たちが感謝をもって覚えておきたいのは、ウィクリフが、信仰と行為との唯一の基準としての聖書の十全性と至高の地位とを主張した最初の英国人のひとりであった、ということである。このことの証明は、彼の著作の中にあまりに頻繁に見てとることができるため、私はあえてその引用をしようとは思わない。聖書が、彼の遺稿のすべてにおいて、その前面に打ち出されている。

 この大原則の重要性は、いかに高く評価しても決して十分ではない。それは、プロテスタント主義に立つキリスト教の土台そのものである。それは、英国国教会の《信仰箇条》の基幹であり、キリスト教界のあらゆる健全な教会の基盤である。真のキリスト者は、キリストから、すべてのことを神のことばによって見分けるよう求められている。いかなる教会、いかなる教役者、いかなる教え、いかなる説教、いかなる教理、いかなる講話、いかなる著作、いかなる意見、いかなる行動についても同様である。これこそ、キリストの進軍命令である。神のことばによってすべてのことを見分けよ。すべてを聖書の物差しによって測れ。すべてを聖書の基準と比較せよ。すべてを聖書のはかりによって計量せよ。すべてを聖書の光によって吟味せよ。すべてを聖書のるつぼによって試せ。聖書の火に耐え抜けるものであれば、それを受け入れ、奉じ、信じ、従うがいい。聖書の火に耐えられないものは拒否し、退け、否認し、捨て去るがいい。これこそ、ウィクリフが英国において掲げた旗印であった。これこそ彼が帆柱に釘づけた旗幟であった。願わくは、それが決して引き下ろされることのないように!

 こうしたことはみな、私たちの耳になじみすぎて、その価値がよくわからないほどである。だが五百年前に、この立場をとった人物は勇敢きわまりない人物であり、孤立していた。私たちは決して忘れないようにしよう。この原則に最初に足を踏みしめた人々のひとりが、ジョン・ウィクリフであったことを

 (b) もう1つのこととして、私たちが感謝をもって覚えておきたいのは、ウィクリフが、ローマの教会の過誤を攻撃し、非難した最初の英国人のひとりであった、ということである。ミサと実体変化によるいけにえや、司祭職の無知と不道徳さ、教皇庁の横暴さ、キリスト以外の仲保者に頼ることの無益さ、懺悔に伴う危険な傾向、----彼の著作を見れば、こうした、またこれに類する教義が、舌鋒鋭く暴き出されているであろう。こうした点のすべてにおいて彼は、宗教改革の始まる一世紀半も前から、徹底的にプロテスタント的な改革者であった。

 もし今日の人々が、ウィクリフと同じくらい明確にこの主題を見てとるならば、英国にとってどんなによいことであろうか。不幸にして近年の英国では、プロテスタント主義に対する昔ながらの国民感情が鈍らされ、沈下しているように思われる。一部の人々は、宗教論争など一切飽き飽きだと公言し、和を乱さないためなら神の真理を喜んで犠牲にしようとしている。一部の人々は、ローマカトリック教を、英国内の数あるキリスト教信仰の一形式にすぎないとみなし、他の教派よりも良くも悪くもないと考えている。一部の人々は、私たちを云いくるめて、ローマカトリック教は変わったのだ、かつてほど悪いものではなくなっているのだ、と思わせようとしている。一部の人々は、大胆にもプロテスタント側の過ちを指摘し、ローマカトリック教徒も私たちと同じくらい善良な人々であると声を大にして訴えている。ある人々の考えによると、いかなる人であれ、その人が誠実に自分の信条を信じている限り、私たちにはその人が間違っていると考える権利などないと主張することこそ、立派で、寛大なことである。だがしかし、2つの大いなる歴史的事実、すなわち、(a) 四百年前の英国がローマカトリック教のもとにあったときには、無知と、不道徳と、迷信が蔓延していたこと、(b) 宗教改革が神によってこの国に与えられた最大の祝福であったこと、----この双方の事実は、五十年前には、ローマカトリック教徒以外のだれひとり論駁しようなどとは考えもしなかったことなのである! 悲しいかな、現代には、それらを忘れ去ることこそ適切なこと、当世風のこととなっている! つまり、事態が今のような具合で進んでいくとしたら、たとえ《王位継承法》を廃止し、英国の国王冠をローマカトリック教徒の頭に戴かせることを許そうとするような法案がまもなく上程されたとしても、私は全く驚かないであろう。

 一部の人々が冷ややかに提案しているように、もし私たちが時計を逆に戻して、宗教改革以前へと立ち戻るべきだというなら、私たちは、ヘンリー八世や、七世や、六世で止まるのではなく、ウィクリフの時代までさかのぼって、彼の意見を聞かなくてはならないと思う

 (c) もう1つのこととして、私たちが感謝をもって覚えておきたいのは、ウィクリフが、説教という使徒的な定めをよみがえらせた最初の英国人のひとりであった、----最初の英国人でなかったとしても----ということである。彼が国中に送り出した、当時のいわゆる「貧しい説教者たち」が民衆を教えて回ったことは、彼がその世代に施した最大の恩恵の1つであった。彼らが蒔いた思想の種は、決して完全に忘れ去られることはなく、私の信ずるところ、宗教改革への道を開いたのである。

 たとえウィクリフが、英国のためにこのこと1つしかしなかったとしても、私の信ずるところ、それだけで彼は、私たちの深い感謝を受ける資格がある。私の堅く主張するところ、教役者が何をおいてもまず第一になすべき、主要な働きは、神のことばの説教者となることである。

 私がこのことを強調して云うのは、私たちの生きている時代と、わが国におけるキリスト者の戦いに伴う特有の危険のためである。私の信ずるところ、教役者たちの云い立てる「聖職者権尊重」こそ、キリスト教界に蔓延している、最も古く、最も有害な過誤の1つである。部分的には、キリストの死とともに過ぎ去ったモーセ経綸の祭司制度に対する無知なあこがれのため、また部分的には、他のどんな人間とも同様、教役者たちにも普通に権力欲や名声欲が存在するため、また部分的には、未回心の礼拝者たちが、天におられる目に見えない仲保者よりも、自分たちの目に見える祭司(と考えられる者)や仲保者の方を好んだため、また部分的には、聖書が印刷されて配布される前の人類全体をおおっていた無知のため、部分的には1つの理由から、また部分的には他の理由のため、過去十八世紀の間、教役者たちは、絶え間なく非聖書的な立場に高められ、神と人の間に立つ祭司だとか仲保者だとかみなされる傾向があり、彼らが神のことばの説教者であるとみなされることはまれであった。

 私はこのことを忘れないよう読者に命ずる。古い原則にしっかり足を踏みしめるがいい。昔からの通り道を捨ててはならない。何物によっても、うかうかと誤りを信じ込まされてはならない。決して形式や儀式を増やしたり、絶え間なく典礼式文を読み上げたり、頻繁に聖餐式に出席したりすることが、神のことばの力強い、炎のように熱烈な説教に相当するような善を魂に施すことはないのである。説教のなされない礼拝に毎日出席することで満足し、徳を立て上げられる人もままいるかもしれないが、そうしたものは決して人類の大多数に対しては、心を打ちも、引き寄せも、魅了しも、とらえもしない。もし人が多数の人々に善を施したいと願うのなら、またもしその人が人々の心と良心とに達したいと願うのなら、その人はウィクリフや、ラティマーや、ルターや、クリュソストモスや、聖パウロの歩みをたどらなくてはならない。その人は、相手の耳を通して攻撃しなくてはならない。永遠の福音のラッパを高らかに、長く吹き鳴らさなくてはならない。みことばを宣べ伝えなくてはならない

 (d) 最後になったが、重要さとしては第一のこととして、私たちが常に感謝をもって覚えておきたいのは、ウィクリフが、聖書を英語に翻訳した最初の英国人であったこと、そして、そのことにより彼が、聖書を民衆に理解できるようにしたということである。

 この働きの困難さは、おそらく今日の私たちには到底はかり知ることができないであろう。何らかの形でこの翻訳者の手助けとなったようなものは、おそらくほとんどなかった、否、皆無に近かったであろう。何の印刷技術もなかった当時にあっては、聖書全巻の内容を、惨憺たる苦心を払って稿本に書き記し、それを人手で筆写していくしかなかった。ブラックフライアーズにある私たちのほむべき聖書協会の印刷機や製本機を検分した後で、ウィクリフが経なくてはならなかったはずの途方もない辛苦に思いを馳せれば、息もとまるように感じて当然である。しかし、神の助けがあれば何事も不可能ではない。この仕事は完成し、数百部の聖書が配布された。この翻訳書を発禁しようとするあらゆる努力が払われたにもかかわらず、また、時の経過や、火災や、反対者たちによって失われた冊本があったにもかかわらず、四十年ほど前にオックスフォードでこの聖書が復刻されたときには、完全に揃った170部のウィクリフ版聖書が失われずに残っていることが確認され、疑いもなく、それ以上の部数が今も存在しているに違いない。

 この聖書の翻訳によっていかなる善が施されたかは、おそらく最後の審判の日まで決して知られることがないであろう。私も、この点についてはいかなる推測もたくましくしようとは思わない。しかし、私は決してためらうことなく主張するものである。すなわち、もしもいかなる論駁の余地もなく証明されている事実が何か1つあるとしたら、それは、民衆に自国語の聖書を所有させることこそ、考えられる限り最大の国民的祝福である、ということである。

 英語聖書の最初の翻訳者が死んで墓に葬られてから、五百年が過ぎ去った。この日、私はいかなる人にも、世界地図を眺めて、そこに見てとってほしいと思う。何の制限も受けずに広く普及している聖書の価値について、そこでいかなる物語が告げられているかを。

 今この瞬間に、どこよりも無知と、迷信と、不道徳と、圧制がのさばっていると思われるのは、いかなる国々だろうか? 聖書を読むことが禁じられているか、ないがしろにされている国々である。----イタリアや、スペインや、南米諸国である。では、自由と、個人かつ公共の道徳性が最も高い程度に達しているのは、いかなる国々だろうか? 聖書が万人に開かれている国々、英国や、スコットランドや、米国である。しかり! ある国が聖書をどう扱っているかがわかれば、概してその国のようすは知られるものである。おゝ、ある種の国々の支配者たちが、自由な聖書こそ国家に繁栄をもたらす大きな秘訣であること、被支配者たちをして秩序を守る、従順な者とならせる最も確実な方法は神のことばという生ける水への無料通行であることを知っているならどんなによいことか! おゝ、ある種の国々の民衆が、自由な聖書こそ、真の自由すべての端緒であること、彼らが求めるべき第一の自由は使徒および預言者たちの自由、----あらゆる家庭に、またあらゆる人の手に聖書を持たせることであることを知っているなら、どんなによいことか! いみじくもフーパー主教は云う。「天の神と地の王が有する最大の友は聖書である」。驚くべき事実だが、英国の君主が戴冠するとき、彼らは公に聖書を贈呈され、こう告げられるのである。「この書こそ世界で最も価値あるものである」、と

 この書こそ、常に国家の興亡を左右してきた書であり、この書こそ現時点におけるキリスト教世界のあらゆる国民の利益が分かちがたく結びついている書である。聖書がいかに尊ばれているかに正確に比例して、光か闇か、道徳か不道徳か、真のキリスト教信仰か迷信か、自由か専制か、良法か悪法か、が一国の中に見いだされるであろう。私とともに来て、歴史の頁を開いてみるがいい。あなたは、こうした主張の証明を過去の時代の中に読みとるであろう。列王の時代のイスラエル史にそれを読みとるがいい。当時はびこっていた悪の何と大きかったことか! しかし、どこに不思議があろうか? 主の律法は完全に見失われており、ヨシアの時代になって初めて、神殿の片隅で発見されたのである。----私たちの主イエス・キリストの時代のユダヤ人たちの歴史にそれを読みとるがいい。いかにすさまじい姿を、その律法学者やパリサイ人たち、また彼らの信仰は示していることか! しかし、どこに不思議があろうか? 聖書は人間の言い伝えによって「無効」にされていたのである。----中世のキリストの教会の歴史にそれを読みとるがいい。その無知と迷信の記述ほど忌まわしいものがどこにあるだろうか? しかし、どこに不思議があろう? 時代は当然暗黒であってしかるべきであった。人々が聖書の光を有していなかった以上は。

 あからさまな真実を云うと、聖書こそは自由な思想と精神活動の母胎にほかならない。奇しくも、英国内外聖書協会と英国の『タイムズ』紙の出版社は隣接しているのである!

 地上に数ある教会の中でも、人類に最も大きな影響を及ぼしつつあるのはいかなる教会だろうか? そうした教会の中では、聖書が高く上げられている。英国やスコットランドの数ある教区の中でも、キリスト教信仰と道徳が最も強い支配力を及ぼしているのは、いかなる教区だろうか? そうした教区の中では、聖書が最も広汎に行き渡り、かつ読まれている。英国中の数ある教役者たちの中でも、民衆の精神に最も本物の影響を及ぼしているのは、いかなる教役者だろうか? 「教会だ! 教会だ!」、と四六時中叫び立てている者らではなく、忠実にみことばを宣べ伝えている者らである。聖書を尊重していない教会は、いのちを持たない肉体か、火の消えた蒸気機関と同じくらい役立たずである。聖書を尊重しない教役者は、武器を持たない兵士か、道具を持たない家造りか、羅針盤を持たない水先案内か、知らせを持っていない使者と同じくらい役立たずである。ローマカトリック教徒や、新解釈主義者や、世俗的教育の支持者たちが、聖書を愛する人々をあざけり笑うのは安直で、たやすい。だが、ローマカトリック教徒や、新解釈主義者や、単なる世俗的教育の支持者たちは、まだ一度も、彼らの原理の成果としての、いかなるニュージーランドも、いかなるティルネルヴェリも、いかなるシエラレオーネも私たちに向かって示したことはない。それができるのは、聖書を尊重する人々だけである。それらはみことばのわざであり、その力の証明にほかならない

 この書こそ、文明世界が、その最上にして最も賞賛に値する制度の多くについて、恩義をこうむっている書である。おそらく気づいている人はほとんどあるまいが、人々が公共の利益のために採用している多くの良き事がらは、その起源をたどれば、明らかに聖書に行き着くのである。聖書は、それを受け入れたいかなる地域にも、永続的な足跡を残してきた。聖書の中から、社会の秩序を保つ最上の法律の多くが引き出されてきた。聖書の中から、真理と、誠実と、夫婦関係とに関する、キリスト教国の間で普及している道徳規準が得られてきた。それらこそ、----多くの場合、いかに微弱にしか尊重されていなくとも、----キリスト者と異教徒との間に大きな差異となっているのである。聖書にこそ私たちは、貧者に対する最もあわれみ深い定め、すなわち、安息日という恩恵をこうむっている。聖書の影響のおかげで、この社会のほとんどあらゆる人道的で、慈善的な制度は存在するようになったのである。病人や、老人や、孤児や、精神異常者や、白痴者は、聖書が世界を変容させる前にはほとんど、あるいは全く顧みられることがなかった。アテネやローマの史実をいくら調べても、こうした人々を扶助するための制度は全く記録されていないであろう。悲しいかな、多くの人は聖書をあざ笑い、聖書などなくても世界は十分うまくやって行けると云い、自分がいかに大きな恩義を聖書にこうむっているかほとんど考えもしない。不信心者は、自分が病気にかかってわが国の大病院の寝台に伏しているとき、そこで受けている慰安のすべてが、自分が軽蔑しているつもりの当の《書物》のおかげであることをほとんど考えない。聖書がなかったとしたら、彼はだれからも顧みられることなく、人知れず、孤独で惨めに死んでいたであろう。まことに、私たちの生きている世界は、その恩義を恐ろしいほどに悟っていない。私の信ずるところ、最後の審判の日になるまで、世界が聖書によってどれほど大きな恩恵を与えられたか、完全にはわからないであろう。この書こそ、ジョン・ウィクリフが最初に翻訳し、英国人にその母国語で与えた書物なのである。私は繰り返して云う。もし彼がこのこと1つしかしなかったとしても、このことだけで彼は、英国人キリスト者のすべてと、英国を愛する者すべてと、英国国教徒すべてによって感謝の思いとともに記念される資格があるであろう。

 これらが、ジョン・ウィクリフの事跡に敬意を表さなくてはならない4つの主要な理由である。

 この偉大な人が何の欠点も持っていなかったとは、私も云わない。彼が異論の余地ない意見しかいだいていなかったとか、神学的なあらゆる教理において健全であったとかいうわけではない。そうした類のことは決して云わない。彼が生きていたのは黎明の時代であり、彼は、人間によるいかなる助けも得られないまま、多くの神学的問題を解明しなくてはならなかった。彼は大量の文書を執筆した。それも、ことによると、あわただしく書き飛ばしたのかもしれない。そして私は、彼が書いた内容のすべてを是認するつもりはない。ルターやクランマーのように、初期のうち彼は、必ずしもすべての点について明確に理解してはいなかった。しかし、彼の孤独な、孤立した、困難な立場を思うとき私は、彼があれほど過誤を犯すことが少なかったことに驚嘆するほかはない。1つの事実は、彼にあったとされるすべての欠陥を補ってはるかに余りある。その事実とは、彼が聖書を英語に翻訳した人物であった、ということである。いかにして彼が暴力的な死を免れたか、また、いかにして彼が最終的にはラッタワースの自宅の寝台で静かに死を迎えることができたかは、まさに奇蹟というほかはない。しかし、私には明白に、神が奇跡的なしかたで彼を守ってくださったと思われる。「地は女を助け」た[黙12:16]。神こそは、ゴーントのジョンや、皇太子妃を起こして、彼に恩顧を与えさせたお方にほかならない。神こそは、地震を送って、彼を断罪することになっていたロンドン教会会議を散会させたお方にほかならない。神こそは、オックスフォード大学をして彼を支持する意向に傾けたお方にほかならない

 コンスタンツ総会議[1414-18]は、まだ異端者を火刑に処すという手本を示していなかった。トリエント公会議[1545-63]は、まだローマカトリック教の全教義を具体的に定式化していなかった。しかし、何にもまして私は、ウィクリフの上にかざされた神の手を感ずる。----「主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる」、と語ったお方の手を感ずる[箴16:7]。しかり! ウィクリフの上にかざされていたのは、使徒たちに向かって、「わたしは……いつも、あなたがたとともにいます」、と語ったお方の御手であり、コリントでパウロに向かって、「語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない」、と語ったお方の御手であった。彼は、自分の務めをなし終えるまでは、不死身であった。

 さて、この論考のしめくくりにあたり、この主題全体から導き出されると思われる、いくつかの実際的な結論を指摘することにしたい。

 (1) まず私たちは、ウィクリフが第一とした原則のもとに結集し、それらを、近年の私たちがしているよりも堅く握りしめる決意を固めよう。聖書の至高性と十全性、ローマの教会の危険な主張に警戒し抵抗すべき絶対の必要性、神のことばを説教することの途方もない重要性、----こうしたものを基盤としてこそ、あらゆるプロテスタント英国人は一致し、心から働かなくてはならない。

 (2) 私たちは、ひとりの人がキリストのために大胆に進み行き、自分の意見を表明する勇気を有するときに、その人が手にする驚嘆すべき力と影響力を学びとろう。ひとりのモーセが、ひとりのエリヤが、ひとりのバプテスマのヨハネが、コリントにおけるひとりのパウロが、フィレンツェにおけるひとりのサヴォナローラが、ドイツにおけるひとりのルターが、ひとりのツヴィングリが、ひとりのウェスレーが、ひとりのホイットフィールドが、ロンドンにおけるひとりのロウメインが、幾万もの人々を考え込ませ、眠り込んでいた世界を揺り起こした。いま必要なのは、真理を支持する人々の間で、より大きな大胆さが発揮されることである。あまりにも多くの場合、よく見られるのは、人々が手をこまねいて何もせず、委員会が開かれるのを待ち、自分の支持者の数を数えているだけという成り行きである。だが私たちに必要なのは、ウィクリフがそうしたように、孤立化することを恐れない、より多くの人々である。

 (3) 最後に私たちは、ジョン・ウィクリフの神であった主は、死んだわけではなく、今も生きておられる、ということを忘れないようにしよう。人々は変わっていく。何につけ現代は新しいものが好まれる。聖書のより自由な解釈! よりだだっ広く、より締まりのない神学! これこそ、多くの人々が見たいと願っていることである。しかし、もし善を施したいと願うのなら、私たちは、あの昔ながらの福音以上の何物も必要としてはいない。イエス・キリストは決して変わらない。五百年経っても、キリストはまだ同じお方である。キリストはラッタワースの教区牧師を裏切ることはなさらなかった。そして、私たちが御足の跡を歩むなら、私たちをも裏切ることはなさらないであろう。

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