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信仰と確信

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読者の方々、

 もしあなたが自分の魂について無思慮、無頓着な人間であるとしたら、あなたはこの小冊子の主題に何の興味も湧かないであろう。信仰と確信など、あなたにとっては単なることばや名称でしかない。それらは土地でも、金銭でも、馬でも、衣装でも、食べ物でも、飲み物でもない。ガリオのようにあなたは、そのようなことは少しも気にしない[使18:17]。悲しいかな! あわれな魂よ! 私はあなたのことを悲しむ。やがてあなたが今とは違った考え方をする日がやって来るであろう。

 読者の方々。もしあなたが本当に天国に行きたければ、それも、聖書の道によってそこに行きたければ、あなたはこの小冊子の主題が、何にもまして深い重要性を有するものであることに気づくであろう。嘘ではない。あなた自身のキリスト教信仰における慰めと、あなたの良心の平安とは、私がこれから語ろうとしていることをどう理解するかに、この上もなくかかっているのである。

 それでは私は云う。キリストを信ずる信仰と、キリストによって救われているという完全な確信とは、2つの異なった事がらである。

 人は、救いに至るキリストへの信仰を持ってはいても、使徒パウロが享受していたような確固たる希望を一度も享受したことがない、ということはありうる。信じて、自分が受け入れられたという、ほのかに光る希望を持つことと、そのように信ずることにおいて喜びと平安を有し、希望に満ちあふれることとは全くの別物である。神の子どもたちはみな信仰を持っている。しかし、その全員が確信を持っているわけではない。このことは決して忘れてはならないと思う。

 何人かの偉大で善良な人々が、これとは異なる意見を持っていることは承知している。傑出した教役者たちの多くは、私が今述べたような区別を許していないと思う。しかし私は、いかなる人をも師とは呼びたくない。私は、良心の傷を手軽に癒すことを、だれにも劣らぬほど恐れている。しかし、私が今主張したのとは異なる考え方は、宣べ伝えるのに最も不快な福音であり、魂をいのちの門から長いこと追い払うようなものであると考える。

 私は、神が悲しませてもおられない、悔いた魂を1つでも悲しませたくはないし、今にも気を失いそうな神の子らのひとりも落胆させたくはない。また、人は確信を感じるまではキリストと何の関係もないし、キリストにあずかることもできないのだ、などという印象を与えたいとも思わない。

 私は怖じることなくこう云うことができる。すなわち、恵みによって人は、キリストのもとへ逃れて来るに足るだけの信仰を持つことができる。――真実にキリストをつかみとり、――真実に彼に信頼し、――真実に神の子どもとなり、――真実に救われることができるだけの信仰を十分持つことができる。だがしかし、その人が一生の間、多くの不安と、疑いと、恐れから、決して自由になれないこともありうる、と。

 古の著述家は云う。「手紙には、封印を押されずに書かれた手紙もある。同様に、恵みは心の中に書かれても、御霊がそれに確信の証印を押さないこともありうる」。

 莫大な財産の跡継ぎとして生まれた子どもがいたとしても、その子が決して自分の富について悟ることがないことはありえる。――子どもじみたまま生き、子どもじみたまま死に、決して自分の所有物の大きさを知らないこともありえる。

 それと同様に、キリストの家族に生まれた人が、ずっと赤子のままで、赤子として考え、赤子として語り、たとえ救われていたとしても、決して生ける望みを享受することも、自分の相続財産の十分な特権を知ることもないということもありえる。

 人は救われたければ、主イエス・キリストを信ずる信仰を絶対に持たなくてはならない。私は、御父に近づく道をそれ以外に知らない。私の見るところ、キリストを通してでなければ、いかなるあわれみがあるとも示されていない。人は自分の罪と失われた状態を絶対に感じなくてはならない。――赦しと救いを求めてイエスのもとに来なくてはならない。――絶対に彼に自分の望みをかけ、彼だけにしかかけてはならない。しかし、もしその人に、こうしたことを行なうだけの信仰がありさえするなら、それがどれほど弱く微かな信仰だったとしても、聖書の数々の保証から、その人が天国へ入れないことはありえないと私は請け合う。

 決して、決して、栄光の福音の自由さを切り詰めたり、その悠然たる広がりを削り取ったりしないようにしよう。決して私たちは、すでに高慢と罪への愛によって狭くなっている門や道を、これ以上狭くしたり、細くしたりしないようにしよう。主イエスは非常にあわれみ深く、優しい慈愛に富んでおられる。主は信仰の量ではなく、質をごらんになる。――その程度ではなく、その真実さを測られる。主はいかなるいたんだ葦をも折ることがなく、いかなるくすぶる燈心をも消すことがない。主には決して、十字架の下までやって来た者の中に滅びた者がいるなどと云わせるおつもりはない。主は云う。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハ6:37)*1

 しかり、読者の方々! たとえある人の信仰がからし種一粒ほどの大きさしかないとしても、それが彼をキリストのもとに至らせ、彼をキリストの衣のふさにさわらせることができるなら、その人は救われるであろう。パラダイスにいる最長老の聖徒に劣らないほど確実に、またペテロやヨハネやパウロに劣らないほど完全に、永遠に、救われるであろう。私たちの聖潔には程度の差がある。だが私たちの義認には、何もそのようなものはない。書かれたことは書かれたことであり、決して破られることはない。「彼に信頼する者」――何にもびくともしない強い信仰を持つ者ではなく――「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(ロマ10:11)。

 しかし、こうしたすべての間にも忘れてならないのは、その哀れな信じる魂は、自分が赦され、神に受け入れられていることについて、完全な確信を全く持たないことがありえる、ということである。彼は恐れにつぐ恐れ、疑いにつぐ疑いに悩まされることがありえる。内心に多くの疑念を抱き、多くの不安、――多くの葛藤、――多くの心もとなさ、――暗雲と暗闇、――嵐とを、生涯最後まで持ち続けることがありえる。

 もう一度云うが、キリストに対するむき出しの単純な信仰さえあれば、たとえ決して確信に到達することがなくとも、人は救われる。そう私は請け合う。だが、その人が強く満ちあふれる慰めとともに天国に至るだろうとは請け合えない。そうした信仰が人を無事に停泊地に入港させることは請け合ってもいいが、その人がその停泊地に、満帆の状態で、力強い確信と喜びを持って入港するというようなことは請け合えない。もし彼が、その望んでいた港に、波にもまれ、暴風雨に翻弄され、わが身の安全などほとんど感じられないまま至って、目を開いたときにそこが栄光であった、ということになるとしても、私は何も驚かない。

 読者の方々。この、信仰と確信との区別を心に留めておくことは非常に重要であると思う。それは、求道者にとって時々理解困難と思われることを説明している。

 忘れないようにしよう。信仰は根であり、確信は花なのである。疑いもなく、根のないところに花はありえない。――しかし、それと同じくらい確かなことは、根があっても花がないことはありえる、ということである。

 信仰は、あの押し合いへしあいする群衆の中で、おののきつつ背後からイエスに近づき、その衣のふさにさわった哀れな女である(マコ5:25)。――確信は、今にも自分を殺そうとする者らの真ん中に平然と立ち、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」、と云っているステパノである(使7:56)。

 信仰は、「イエスさま。私を思い出してください」と叫ぶ、悔い改めた強盗である(ルカ23:42)。――確信は、ちりの中に座り、できものだらけの体で、「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」、「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望もう」、と云うヨブである(ヨブ19:25; 13:15)。

 信仰は、沈みかけ、おぼれそうになったペテロの挙げた叫びである。「主よ。助けてください!」(マタ14;30)。――確信は、同じペテロが後になって議会の前で宣言している姿である。「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使4:11、12)。

 信仰は不安とおののきに満ちた声である。「信じます。不信仰な私をお助けください」(マコ9:24)。――確信は力強い信念に満ちた挑戦である。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。罪に定めようとするのはだれですか」(ロマ8:33、34)。

 信仰は、ダマスコのユダの家で、悲しみつつ盲目のまま孤独で祈っているサウロである(使9:11)。――確信は、平静に墓を見据えてこう云っている老囚徒パウロである。「私は、自分の信じて来た方をよく知っています。栄冠が私のために用意されているのです」(IIテモ1:12; 4:8)。

 信仰はいのちである。何と大きな祝福であろう! いのちと死との間にある広大な隔たりを誰が云い表わしえようか? だがしかし、いのちは一生の間、弱く、病気がちで、不健康で、痛みに満ち、難儀で、疲れやすく、骨の折れる、喜びなく、笑顔ないものでもありえる。

 確信は、いのち以上のものである。それは健康であり強壮さであり、強さ、力、活力、活気、精気、雄々しさ、美しさである。

 読者の方々。私たちの前にあるのは、救われたか救われていないかの問題ではなく、特権を受けているか受けていないかの問題である。――平安があるかないかの問題ではなく、大きな平安があるか小さな平安しかないか、の問題である。――この世をふらついているか、キリストの学び舎に入っているかの問題ではなく、その学び舎に限っての問題である。――幼年生か最上級生かの問題である。

 信仰を持つのは良いことである。もしこの小冊子を読む人全員が信仰を持っているとしたら、私は嬉しく思う。幸いなことよ。大いに幸いなことよ。信ずる人々は。彼は安全である。洗われている。義と認められている。地獄の力の届かないところにいる。サタンのありったけの悪意をもってしても、決してキリストの御手から彼らを奪い取ることはできない。

 しかし、確信を持つ者ははるかに良い。――より多くのことを見、より多くのことを感じ、より多くのことを知り、より多くのことを楽しみ、より多くの日々を持つ、すなわち、申命記で語られている人々のように、「地上における天上の日々」(申11:21 <英欽定訳>)をより多く持つのである*2

 読者の方々。あなたがいかなる人であろうと、私はあなたに勧める。自分の救いについての完全な確信に達さぬ何物をもってしても満足しないようにするがいい。疑いもなく、あなたは信仰によって始めなくてはならない。――単純な、子どものような信仰によって始めなくてはならない。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」。しかし、信仰から確信に進むがいい。「私は、自分の信じて来た方をよく知っています」、と云えるようになるまで安心してはならない。

 嘘ではない。信じてほしい。確信には求める価値があるのである。自分に対するあわれみを捨てたければ、それなしで満足するのもいい。だが私が語っているのは、あなたの平安のためなのである。地上の事がらについて迷いがないのは良いことである。ならば、天の事がらにおいて迷いがないことは何といやまさってすぐれていることであろう!

 それでは、あなたは信仰が増し加わるようになることを、日ごとの祈りとするがいい。あなたの信仰に応じて、あなたの平安も増し加わる。その祝福の根を養えば、遅かれ早かれ、神の祝福によって、花が咲くことを期待できよう。あなたは、ことによると一気に十分な確信に到達することはないかもしれない。時として待たされる方がよいこともある。何の苦労もなしに手に入れたものを私たちは尊ばないものである。しかし、たとえ時間がかかろうと、それを待ち望むがいい。求め続け、見いだすことを期待するがいい。


*1 「イエスを信ずる者は決して失望させられることがない。いかなる者も決してである。あなたも、信じさえすれば、同じである。ここに挙げるのは、ひとりの死にゆく人が発した偉大な信仰の言葉であるが、彼は、その有罪判決と処刑の間に回心するという、異常な経験をした人である。彼の最後の言葉は、次のような大きな叫びであった。――『キリスト・イエスに顔を向けたまま、滅んだ人はひとりもない』」。――トレイル。[本文に戻る]

*2 「私たちに願い求めることのできる最も偉大なことは、神の栄光を除くと、私たち自身の救いである。そして私たちに願い求めることのできる最も甘美なことは、私たちの救いの確信である。この世にあって私たちは、次の世にあって享受することになるものを確証させられることほど高く上がることはできない。すべての聖徒は、地上を去るとき天国を享受することになるが、一部の聖徒は地上にいる間から天国を享受しているのである」。――ジョーゼフ・カーライル、1653。[本文に戻る]

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