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天 国

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読者の方々、

 信仰を有する御民には、イエス・キリストによって栄光に富む住まいが備えられている。今の世は、彼らの安息ではない。彼らは旅人であり、寄留者なのである。天国こそ彼らの故郷にほかならない。

 天国には、信仰によってキリストのもとに逃れ来て、キリストに信頼を置いた、すべての罪人たちのための場所があるであろう。最も小さな者にも、最も大きな者と同じように、その場所があるであろう。アブラハムは自分の子どもたち全員に十分なものが行き渡るように気を配ったが、神もご自分の子どもたちに十分なものが与えられるように気を配っておられる。彼らのうちひとりとして廃嫡される者はない。ひとりとして放逐される者はない。ひとりとして勘当される者はない。主が多くの子たちを栄光に導く日には、ひとりひとりが間違いなく自分の分け前にあずかり、分与を受ける。私たちの父の家には、住まいがたくさんあるのである。

 読者の方々。私はあなたが、この世の生を終えた後には、天国に行ってほしいと思う。私は天国が人々で満ちあふれてほしいし、あなたもその住民のひとりとなってほしいと思う。しばし私の話に耳を傾けていただきたい。私はあなたに、それがいかなる場所であるかを告げようと思う。

 私が天国の祝福について告げられることは、ごく僅かであって、そのすべてではない。いかなる定命の人間が、光の中にある、聖徒の相続分の完全な性質を云い表わせようか? やがて啓示されて神の子らに与えられる栄光を、だれに描写できようか? それは云い知れないものである。言葉に尽くせないものである。心で十分に思い描けず、舌先で完全には表現できないものこそ、全能の主の息子たち、娘たちの上にやがて臨むべき栄光に含まれたものなのである。おゝ、まさに使徒ヨハネの言葉は至言である。「後の状態はまだ明らかにされていません」(Iヨハ3:2)。

 聖書そのものでさえ、この主題を包み隠している覆いをほんの少ししか上に掲げてはいない。いかにしてそれ以上のことが云えるだろうか? たとえそれ以上のことが語られていたとしても、私たちは完全にはそれ以上の理解は得られなかったであろう。より多くのことを知らされていたとしても、より多くを理解するには、私たちの精神はまだあまりにも地上的な成り立ちをしている。私たちの理性はまだあまりにも肉的である。聖書は一般にこの主題を、打ち消し的な言葉で扱っており、肯定的な主張を打ち出して扱うことは少ない。聖書は、その栄光の相続分の中に何がないかを描写することによって、そこにあるものをかすかにでも思い浮かべられるようにしてくれている。それは、特定の事がらの欠如を描き出して、私たちがそこにあるものの祝福を少しでも身にしみて実感させようとしているのである。それが私たちに告げるところ、その相続財産は、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない。それが私たちに告げるところ、悪魔は縛られ、――そこには夜も、のろわれるものも何もなく、――死は、火の池に投げ込まれ、――目の涙はすっかりぬぐい取られ、そこに住む者は、もはやだれも「私は病気だ」とは云わない。そしてこれらは、まさに栄光に富む事がらである! 全く朽ちることがない!――全く消えて行くことがない!――全くしぼむことがない!――全く悪魔がいない!――全く罪の呪いがない!――全く悲しみがない!――全く涙がない!――全く病がない!――全く死がない! 確かに神の子どもたちの杯は、まさにあふれている!

 しかし、読者の方々。神の相続人たちの上にやがて臨むべき栄光については、肯定的な事がらも私たちに語られている。それを云い落とすわけにはいかない。彼らの未来の相続財産の中には多くの甘やかで、快く、云い尽くしがたい慰めがある。それはすべての真のキリスト者が考えておいてよいものである。聖書の多くの言葉や表現の中には、気を落としがちな巡礼たちのための強壮剤がある。あなたや私は、必要なときのためにそれを蓄えておかなくてはならない。

 知識は今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちが神とキリストについて知っているなけなしのこと、また聖書の中にあることは、私たちの魂にとって尊いものだろうか? そして私たちはより多くを切望しているだろうか? 栄光において私たちはそれを完璧に得ることになる。聖書は何と云っているだろうか? 「その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」(Iコリ13:12)。神はほむべきかな、もはや信仰者の間には何の不一致もなくなるであろう! 監督派と長老派、カルヴァン主義者とアルミニウス主義者、千年王国主義者と反千年王国主義者、国立教会支持者と任意寄付主義者、幼児洗礼を主張する者と成人洗礼を主張する者、――すべての者たちがとうとう見解を全く一致させるようになるであろう。先の無知は過ぎ去ってしまうであろう。私たちは自分たちが何と幼稚で、盲目であったかを知って、驚くことになるのである。

 聖さは今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 罪は私たちの生活の中で重荷となり苦痛となっているだろうか? 私たちは神のかたちに完全に一致することを切望しているだろうか? 栄光において私たちはそれを完璧に得ることになる。聖書は何と云っているだろうか? 「キリストが……教会のためにご自身をささげられた」のは、地上において教会をきよめるためばかりでなく、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない……栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため」であった(エペ5:27)。おゝ、罪に永久に暇を告げるほむべき瞬間よ! おゝ、現在においては、私たちのうちの最良の者といえども何と小さな者であることか! おゝ、何と言葉にも出せない腐敗が、鳥もちのように私たちのすべての動機、私たちのすべての考え、私たちのすべての言葉、私たちのすべての行動にへばりついていることか! おゝ、私たちのうちのいかに多くの者が、ナフタリのように美しいことばを出しつつも、ルベンのように奔放な行ないをすることか! 神に感謝すべきかな、これらはみな変えられることになるのである[創49:4 <新改訳欄外訳>、21])。

 安息は今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちはしばしば「疲れつつ追撃している」*ように感ずるだろうか[士8:4]? 私たちは、常に油断せず戦い続けるという必要のなくなる世界を切望しているだろうか? 栄光において私たちはそれを完璧に得ることになる。聖書は何と云っているだろうか? 「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」(ヘブ4:9)。世と、肉と、悪魔との日ごとの、時々刻々たる争闘は、とうとう終結を迎える。敵は縛り上げられることになる。戦いは終わる。悪人はついに厄介をもたらさなくなる。疲れ切った者はようやく安息を得る。大いなる静穏が訪れるのである。

 奉仕は今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちはキリストのために働くことを甘やかだと思いつつも、か弱い肉体によって課せられている重荷にうめいているだろうか? 私たちはしばしば、霊においては意欲があるのに、哀れな弱い肉によって妨げられ、足を引っ張られているだろうか? 私たちの心は、キリストのゆえに水一杯を差し出すことを許されたとき、内側で燃やされることがあっただろうか? また、何と自分が役に立たないしもべかを考えて溜め息をつくことがあっただろうか? 元気を出そうではないか。栄光において私たちは完璧に、何の疲れもなしに奉仕することができるようになる。聖書は何と云っているだろうか? 「彼らは……聖所で昼も夜も、神に仕えているのです」(黙7:15)。

 満足は今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちは世のむなしさがわかっているだろうか? 自分の心のあらゆる空洞と隙間が埋められることを切望しているだろうか? 栄光において私たちはそれを完璧に得ることになる。私たちはもはや自分の土の器のひび割れや、私たちのあらゆる薔薇のとげ、また私たちのあらゆる甘い杯の苦い澱を悲しまなくてもよくなる。私たちはもはや、ヨナとともに枯れたとうごまのことを嘆かなくともよくなる。私たちはもはや、ソロモンとともに、「すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ」、と云わなくてもよくなる。私たちはもはや、老いたダビデとともに、「私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見ました」、と云わなくてもよくなる。聖書は何と云っているだろうか? 「私は……目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」(詩17:15)。

 聖徒たちとの交わりは今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちは、地にある威厳のある者たち*[詩16:3]とともにあるときほど幸福なことはないと感じているだろうか? 彼らほど気の置けない人々はないだろうか? 栄光において私たちはそれを完璧に得ることになる。聖書は何と云っているだろうか? 「人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集め……ます」。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、……四方からその選びの民を集めます」(マタ13:41; 24:31)。神は賛美されるべきかな! 私たちは聖書の中で読んできたすべての聖徒たち、自分がその足どりをたどろうとしてきたすべての聖徒たちと会うことになる。

 私たちは、この世がふさわしい所ではなかった使徒たち、預言者たち、族長たち、殉教者たち、改革者たち、宣教師たち、教職者たちと会うことになる。私たちは地上でキリストにあって知り愛していた人々、その死にのぞんで苦い涙を流した人々の顔を見ることになる。

 私たちは彼らが以前は決してなかったような輝きと栄光に包まれているのを見ることになる。そして、何にもまして良いことに、私たちは彼らと会うとき、何にもせき立てられず、何の懸念もなく、別れの時が間近に迫っているなどとは全く感じることがない。来たるべき栄光には、何の死も、何の別れも、何の暇乞いもない!

 キリストとの交わりは今の私たちにとって心楽しいことだろうか? 私たちは主の御名が自分にとって尊いものであることを知っているだろうか? 主の死に給う愛を思うとき私たちは、自分の心が内側で燃えるのを感じるだろうか? 栄光において私たちは主との完璧な交わりを得ることになる。「私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Iテサ4:17)。私たちは主とともにパラダイスにいることになる。私たちは御国で主の御顔を見ることになる。私たちの目は、釘で貫かれた御手と御足、またいばらの冠をかぶせられたみかしらを見るであろう。主のいるところにはどこにでも、神の子どもたちがいるであろう。主の行くところにはどこにでも、彼らはついて行くであろう。主がその栄光の座にお着きになるとき、彼らは主のそばに座ることになる。何とほむべき見込みであろう! 私は死につつある世界にいる死につつある人間である。私の前にあるすべては暗い。来たるべき世は未知の港である! しかしキリストがそこにおられる。それで十分である。確かに、もしも地上で信仰によって主に従うことに安息と平安があるなら、顔と顔を合わせて主を見るときには、はるかにいやまさる安息と平安があるであろう。もしも荒野で雲の柱、火の柱に従っていくのが良いとわかっているなら、約束の地にある自分の永遠の相続地に、私たちのヨシュアとともに腰を落ち着けることは一千倍も良いことであることがわかるであろう。

 あゝ、読者の方々。もしあなたがまだ栄光の相続人のひとりとなっていないとしたら、私は衷心からあなたがあわれだと思う! あなたはいかに多くのものを取り逃がしつつあることか! あなたはいかに僅かしか真の慰めを享受していないことか! 今のあなたは、苦闘を続け、火の中であがき、ただの地上的な目的に身も心もすり減らし、――休み場を捜すが、見つからず、――影を追っても決して捕まえられず、――なぜ自分は幸福でないのかと訝しがりながら、しかしその原因は決して直視しようとせず、――飢え、渇き、うつろでいながら、しかし手の届くところにある潤沢な蓄えには全く目をとめない。――あなたの期待はことごとく消滅しつつあり、墓の向こう側には何1つ期待できない。おゝ、願わくは、あなたが賢くなるように! おゝ、あなたがイエスの声を聞き、彼に学ぶように!

 読者の方々。もしあなたが、栄光の相続人のひとりであるなら、あなたは大いに喜び、幸福になってよい。あなたは『天路歴程』の忍耐児のように、待っていてよい。あなたの最良のものはまだ来ていないのである。あなたは、つぶやくことなく様々な十字架を負ってよい。あなたの軽い患難は、一時のものでしかない。今の時のいろいろの苦しみは、将来啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものである。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われる。あなたは、そむく者とその繁栄を見てねたむことはない。あなたこそ真に富んでいるのである。

 いみじくも、私の教区内に住むひとりの信者は、その臨終のとき、こう云った。「私は今、一生のうちで一番富んでいるのです」。あなたは、メフィボシェテがダビデに云ったように云ってよい。「私の王が無事にお戻りになるなら、この世がすべてを取りあげてもよいのです」、と。あなたは、アレグザンダーが自分の富をすべて分け与え、自分には何が残っているのかと問われたとき答えたように云ってよい。「私には希望があります」、と。あなたは病によって打ちひしがれなくともよい。肉体に何が起ころうとも、あなたの永遠の部分は安全であり、十分なものが備えられている。あなたは平静に死を見つめることができる。死こそ、あなたとあなたの相続財産の間の扉を開いてくれるのである。あなたは、この世の事がらについて悲しみすぎなくてよい。――別離や死別について、損失や十字架について悲しみすぎなくてよい。あなたの前には集まりの日が待っている。あなたの宝はいかなる害も及ぼされないところにある。天国は、年ごとにあなたの愛する人々で満たされて行きつつあり、地上は年ごとに空虚になりつつある。あなたの相続財産を大いに喜ぶがいい。もしあなたが神の子どもであるなら、それはみなあなたのものなのである。それはじきに、あなたの実際の所有となるであろう。

     賛美歌

われ行く。悲しみ置き去りて
地をば天とぞ 引き替えるため。
かの地は 安きと楽しみに満ち
きよさと栄え 身に受くるべし。
友よ 涙で嘆くまじ。
喜べ わが旅 終わりしを。
われ行く。悲しみ罪のなき
よき相続の地を 受くるため。
宵の翳りは 逃げ失せて
憂い 光の街を去らん。
この瞬間 昼ぞ射しいでて
永遠は わが目に飛び込めり。
苦より贖われし 初子らも
衆人の中 屠られし小羊も
賛歌の中に 輝き増さん。
なり響かずや 新しき歌。
われ行く。その幸を語り告げ
歓喜の賛美に 入らんがため。
われ行く。栄えの衣着て
彼らが光箭に 声合わすため。
では腐敗の枷よ われを去ね。
罪のからだよ うなだれて死ね。
痛みよ やめよ 吾を嘆かすを。
われ汝らより 永久に翔び立つ。

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