The Ruler of the Waves   目次 | BACK | NEXT

12. 波浪をつかさどる方


「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』」(マコ4:37-40)

 もしも現代、信仰を告白するキリスト者たちが、四福音書を今以上によく学ぶとしたら、どんなによいことかと思う。疑いもなく、聖書はすべて有益である。聖書の一部分を、他の部分を犠牲にしてまで持ち上げるのは賢いことではない。しかし、新約書簡に精通している人々の中には、もう少しマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネについてよく知っていればいいのにと思う人々がいる。

 なぜそのようなことを云うのか? それは、信仰を告白するキリスト者に、キリストについてより多く知ってほしいからである。キリスト教のあらゆる教理や原理原則に親しむのはよい。だがキリストご自身に親しむことの方が、まさっている。信仰や恵み、義認や聖潔についてよく知るのはよい。それらはみな、「王に関する事がら」である。しかしイエスご自身を親しく知り、王ご自身の御顔を拝し、その麗しさを目の当たりにすることの方が、はるかにまさっている。これは抜きんでた聖潔に達する秘訣の1つである。キリストのかたちと同じ姿になろうとする者、キリストに似た人になろうとする者は、常にキリストご自身のことを学んでいなくてはならない。

 さて、福音書が書かれたのは私たちをキリストに親しませるためである。聖霊はキリストのご生涯と死、キリストのおことばと行ないの物語を、四度私たちに語っておられる。霊感された4つの異なる手が、救い主の容貌を描き出している。そのご様子、その物腰、その感じ方、その知恵深さ、そのいつくみ深さ、その忍耐強さ、その愛、その力が、幸いにも四人の証人によって記述されている。羊はその羊飼いと親しむのが当然ではなかろうか? 患者は医師と親しむのが当然ではなかろうか? 花嫁は花婿と親しむのが当然ではなかろうか? 罪人は救い主と親しむのが当然ではなかろうか? 云うまでもなく、それが当然である。福音書は人をキリストと親しませるために書かれた。それゆえ私は人に福音書を学んでほしいのである。

 私たちが神に受け入れられたければ、どなたの上に自分の魂を建て上げなくてはならないだろうか? 岩なるキリストの上に建て上げなくてはならない。実を結ぶ者となるため日々必要な御霊の恵みを、どなたから引き出さなくてはならないだろうか? ぶどうの木なるキリストから引き出さなくてはならない。俗世の友から見捨てられたり、先立たれたりしたとき、どなたに同情を求めなくてはならないだろうか? 私たちの長兄なるキリストに求めなくてはならない。私たちの祈りがいと高き所で聞かれるには、どなたを通してささげられなくてはならないだろうか? 私たちを弁護してくださる方、キリストを通してささげられなくてはならない。私たちは栄光の千年を、そしてその後の永遠を、どなたとともに過ごすことを望んでいるだろうか? 王の王なるキリストとともにである。確かに、このキリストを知りすぎて困ることはない! 確かに、キリストのご生涯の記録中の一言たりとも、一動作たりとも、一日たりとも、一挙手一投足たりとも、一思想たりとも、私たちにとって尊くないものがあるべきではない。私たちは、イエスについて書かれた一行一行に親しむよう励み努めるべきである。

 それではここで、私たちの師のご生涯の1ページを学ぼうではないか。この論考の冒頭に掲げた聖書箇所から何が学べるか考察しようではないか。そこに描かれているのは、弟子たちとともに小舟でガリラヤ湖を渡っていくイエスの姿である。そこには、主が眠っている間に突然の嵐が起こったとある。波浪が小舟に打ちつけ、舟が水で一杯になる。慌てふためいた弟子たちは師をゆり起こし、助けを求めて叫んでいる。彼が起き上がり、風と湖をしかりつけると、たちまち凪ぎになる。彼がもの柔らかに同行者らの不信仰な恐れを叱責なさって、大団円を迎える。これが事のあらましである。これは深い教えに満ちた事件の1つである。では、ここから学びとれることを今から吟味していこう。

1. キリストに従っているからといって、地上での悲しみや困難から免除されるわけではない。

 まず第一に学びたいのは、キリストに従っているからといって、地上での悲しみや困難から免除されるわけではない、ということである。

 この箇所では、キリストのえり抜きの弟子たちが、たいへんな不安と懸念を味わっている。この忠実な小さな群れ――祭司らや律法学者らやパリサイ人らがおしなべて不信仰を続けているときも信じていた者たち――が大いに心乱されるのを、大牧者は見過ごしにしておられる。死の恐怖が、武装した者のように彼らに襲いかかっている。深い湖水が彼らの魂を今にも呑み込みそうに見える。ペテロ、ヤコブ、ヨハネという、まもなく世に創設されようとしている教会の柱たるべき者たちが惑乱させられている。

 ことによると彼らは、こうしたことを全く勘定に入れていなかったかもしれない。何はともあれキリストに奉仕していさえすれば、どんな地上的な試練も自分たちには指一本ふれられまいと期待していたかもしれない。死人をよみがえらせ、病人をいやし、数切れのパンで大群衆を養い、一言で悪霊どもを追い出すお方は、ご自分のしもべらを決して地上で苦しむような目には遭わせなさるまいと考えていたかもしれない。主とともにいれば、常に旅路は安泰で、天候は崩れず、道行きは安楽で、困難や心配事など全く起こらないだろうと思っていたかもしれない。

 もし弟子たちがそのように考えていたとしたら、考え違いもはなはだしかった。主イエスが彼らに教えられたのは、たとい人は主のえりぬきのしもべのひとりであっても、多くの不安を味わい、多くの痛みを耐え忍ばなくてはならない、ということであった。

 このことを明確に理解しておくのはよいことである。キリストに仕えている人が、肉体の定めたる世のあらゆる病から隔離されることなど、これまで決してなかったし、これからも決してないと理解しておくことはよいことである。たとえ信仰者であっても、肉体のうちにとどまっている限り、病や痛み、悲しみや涙、損失や苦難、死や死別、別れや離別、心痛や失望の受くべき分があることを勘定に入れておかなくてはならない。こうしたことなしに天国に行き着けるなどとは、決してキリストは約束しておられない。キリストは、ご自分のもとに来るすべての者に、いのちと敬虔に関するすべてのことを与えると約束なさったが、決して彼らを裕福にするとも、金持ちにするとも、健康にするとも、死や悲しみが絶対に家族に訪れないようにするとも約束したことはなかった。

 私はキリストの大使の一人たる特権にあずかる者である。キリストの御名によって私は、永遠のいのちをだれにでも――男にも、女にも、子どもにも、求める者にはだれにでも――差し出すことができる。御名によって私は、赦しと平安、恵みと栄光を、この論考を読むいかなるアダムの息子、娘に対しても真実差し出すものである。しかし私はその人に、この世的な繁栄を福音の眼目として差し出すなどということはできない。長命や商売繁盛、家内安全などを差し出すことはできない。十字架を負ってキリストに従えば、決して嵐に遭うことはない、などと約束することはできない。

 このような条件を多くの人が好まないことは承知している。彼らはキリストと健康を持つことの方を好む。キリストとたっぷりのお金、キリストと家族のだれも死なないこと、キリストと雲1つない永遠の朝の方を好む。しかし彼らはキリストと十字架は好まない。キリストと患難、キリストと争闘、キリストと吹きすさぶ風、キリストと嵐は好まない。

 これが、今この論考を読んでいる人のひそかな思いだろうか? そうだとすると、実際のところ、それはとんでもない間違いである。よく聞いていただきたい。あなたにはまだまだ知らないことがたくさんある。それをこれから示してみようと思う。

 もしキリストに従うことが困難から解放される道だとしたら、だれが真のキリスト者か、どうすればわかるだろうか? もし試練というふるい分けがなかったとしたら、麦ともみがらの違いをどうやって見分けられるだろうか? もしキリストに仕えれば健康と富が当たり前のように手に入るのだとしたら、どうやって私たちは、人が本当にキリストのためにキリストに仕えているのか、利己的な動機で仕えているのかを区別できるだろうか? どの木が常緑樹で、どの木がそうでないかは、冬になり北風が吹けばすぐはっきりする。患難と心痛という嵐も同じようなしかたで役に立つ。だれの信仰が本物で、だれの信仰が口先だけの見せかけにすぎないかを、それは明らかにするのである。

 聖化の偉大なみわざは、何の試練にも遭わないような人の内側で、どうやって進んでいくというのだろうか? 困難は、私たちの心にこびりつく金滓を焼きつくす唯一の火であることが少なくない。困難は、私たちが良い行ないという実を結ぶようにするため、かの偉大な農夫[御父]がお用いになる剪定刀である。主の畑の実りが陽光だけで色づくことはめったにない。風雨と嵐の日々をくぐり抜けなくてはならない。

 もしあなたがキリストに仕えて救われたいと願うのなら、どうか主の云われる通りの条件で主を受け入れていただきたい。あなたに割り当てられた障害や悲しみに出会う覚悟を堅めるがいい。そうすれば、いざというときあわてることはないであろう。このことを理解していないがために多くの人々は、しばらくの間はよく走っているように見えたのに、その後嫌気がさして後戻りし、難破するのである。

 もしあなたが神の子どもであると告白しているなら、主イエスに、主ご自身のしかたであなたをきよめていただくことをゆだねなさい。主は決して間違いをなさらないということだけで満足するがいい。主がすべてを最善に導いてくださると疑わずに信じるがいい。風はあなたの周囲を吹き猛り、波は逆巻き、うねるかもしれない。しかし恐れてはならない。主はあなたを「まっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられ」る(詩107:7)。

2. 主イエス・キリストは真実まぎれもなく人間である

 二番目のこととして学びたいのは、主イエス・キリストは真実まぎれもなく人間である、ということである。

 福音書の他の多くの箇所と同じく、この小さな出来事の中には、この真理を実に驚くべきしかたで明らかにしている言葉が使われている。波浪が舟に打ち寄せ出したとき、イエスはとものほうで「枕をして眠っておられた」、と書かれているのである。彼はくたくたに疲れていた。マルコ4章の記事を読むなら何の不思議もあるまい。終日人々に善を行なうために労し、野外で大群衆を前に説教した後で、イエスは疲れ切ってしまわれた。確かに労働する者にとって眠りが甘美であるとしたら、私たちのほむべき主の眠りは、いやまさって甘美なものであったに違いない。

 イエス・キリストは真実、まごうことなく人間であった。この偉大な真理を、私たちは深く肝に銘じようではないか。彼はあらゆる点で御父と同等であり、永遠の神であられた。しかし彼は人間でもあり、血と肉をお持ちになり、罪を除きすべての点で私たちと同じようになられたのである。私たちと同じように、彼は女から生まれた。私たちと同じように成長し、背丈が伸びていった。私たちと同じように、しばしば飢えと渇きを覚え、疲れてふらふらになられた。私たちと同じように飲み食いし、休息をとり、眠られた。私たちと同じように悲しみ、涙を流し、感極まられた。世にも不思議なことだが、これらはみな事実である。天をお造りになったお方が、貧しく疲れた人間として地べたを這いずり回られたのだ! 天にある支配と権威をも統率しておられたお方が、私たちと同じようなもろい肉体をまとわれたのだ。御父といっしょにいて持っていたあの栄光のうちに、御使いたちの大軍勢の賛美に包まれて永遠に住んでいることもおできになったはずのお方が、地上に下り、ひとりの人間として罪深い人間どもの間に住まわれたのだ。確かにこの事実1つをとってみても、謙卑と恵みとあわれみと愛の驚くばかりの奇蹟である。

 私は、イエスが完全に神であられると同じくらい完全に人間であったというこの思想に、深い慰めの鉱脈があるのを感ずる。聖書によって私がより頼むよう教えられているお方は、偉大な大祭司であるばかりでなく、思いやり深い大祭司なのである。彼は力強い救い主であるだけでなく、同情心に富んだ救い主である。彼は、救うに力強い神の子であるだけでなく、木石ではない人の子である。

 同情心こそ、この罪深い世で私たちに残された最も甘美な慰めの1つであることを知らない者があろうか。この下界の暗い旅路の中で私たちが味わう最も素晴らしい体験の1つ、それは、思わぬ人が私たちの困難な状況に踏み込んできてくれて、不安の中にいる私たちに同行し、私たちが泣くときにはともに泣き、私たちが喜ぶときにはともに喜んでくれるというときにほかならない。

 同情心は金銭よりもはるかにまさるもの、そしてはるかにまれなものでもある。思いやりの心もなく金銀を与えるような人間ならごまんといる。だが同情心には私たちを引きつけ、心を打ち明けさせる強大な力がある。どれほど健全で正しい助言も、鈍感な心の持ち主から出たものでは、むだで役に立たないことが多い。困難な日に差し出された冷たい忠告はしばしば、私たちの心を閉ざさせ、自分の殻の中に閉じこもらせてしまう。しかしそのような日に示された純粋な同情心は、私たちの胸を打ち、他の何物もできないような影響を私たちに及ぼすことができる。願わくば、金銀という点では貧しくとも、常に同情心に篤い友が与えられんことを。

 私たちの神はこれらすべてをよくご存じである。神は人の心の奥底にある秘密を知っておられる。心に最も容易に近づくことのできる道、心を最もたやすく動かすことのできる発条をご存じである。神は賢くも、福音の救い主が力強いだけでなく情け深い方であるように取りはからわれた。焼きつくす火から燃えさしのように私たちを取り出す強い手ばかりでなく、疲れた者、重荷を負っている者が安きを見いだせるような同情深い心もお持ちのお方を、私たちに与えてくださった。

 キリストのご人格における二性合一のうちには、愛と知恵との素晴らしい証拠を見ることができる。私たちのような不敬虔な反逆者どものために、身をへりくだらせて弱さと卑しさを体験してくださったこと、それは私たちの救い主のうちにある素晴らしい愛であった。人を救うことができるだけでなく、わざわざ人の居場所までやって来るという、まさに友の友としてふさわしいお方になられたこと、それは素晴らしい知恵であった。私が欲しているのは、私の魂を贖うために必要な、すべてのことを成し遂げることのできるお方である。これをイエスはおできになる。彼は神の永遠の御子だからである。また私が欲しているのは、この死の体にしばりつけられている私の弱さと欠陥を理解でき、私の魂を優しく扱うことのできるお方である。これもイエスはおできになる。彼は人の子であり、私自身のものと同じ血肉をお持ちだからである。もし私の救い主が神だけでしかなかったなら、ことによると私はその方により頼むことはできたかもしれないが、決して恐れなしに近づくことはできなかったであろう。もし私の救い主が人間だけでしかなかったなら、私はその方を愛したかもしれないが、決してその方が私のもろもろの罪を取り除けると心から確信することはできなかったであろう。しかし、神はほむべきかな、私の救い主は神であるのと同様に人でもあり、人であるのと同様に神でもあられる。――私を完全に救い出すことのできる神、私に完全に同情することのできる人であられる。全能の力と汲めどつきざる同情心が、1つの栄光あるご人格、私の主イエス・キリストのうちで堅く結び合わされている。確かにキリストを信ずる者には強固な慰めがある。その人はより頼んで、なおかつ恐れおののくことはない。

 もしこの論考を読む人の中に、恵みの御座にあわれみと赦しを求めて行くことがどういうことか知っている人がいるなら、決して忘れないようにしていただきたい。あなたが神に近づくための仲だちをしておられるお方が、人なるキリスト・イエスであるということを。

 あなたの魂のことは、あなたの欠陥を思いやることのできる大祭司の御手のうちにある。あなたが弁明すべき相手は、あなたが逆立ちしても理解できないような高次の、栄光ある性質を帯びた生物ではない。あなたが弁明すべき相手はイエスである。あなたと同じような肉体を持ち、あなたと同じように地上を人間として歩まれたお方である。彼は、あなたが苦労してくぐり抜けつつあるこの世をよく知っておられる。ご自身そこに三十三年間お住まいになったからである。彼は、あなたの心をしばしば挫かせる「罪人たちの反抗」をよくご存知である。ご自分でそれを忍ばれたからである(ヘブ12:3)。あなたの霊的な敵、悪魔の詐略と狡猾さをよくご存知である。ご自身、荒野でそれと戦われたからである。確かにこのような弁護者がおられるなら、あなたが怖じまどう必要は全くないであろう。

 もしあなたが、地上で困難に遭うとき主イエスに霊的な慰めを乞い求めることがどういうことか知っているというのなら、主が肉体をとって地上で過ごされた日々を、また主の人性を、よく覚えているべきである。

 あなたが前にしているのは、あなたの感じていることを、ご自分の経験から知っていて、その苦き杯を飲み干されたお方である。彼は「悲しみの人で病を知っていた」からである(イザ53:3)。イエスは人の心も、肉体的苦痛も、また様々な困難に直面することも、ご存知であった。ご自身が人であり、地上で血肉を持っておられたからである。彼はスカルの井戸のかたわらで、疲れて座っておられた。ベタニヤのラザロの墓の前で涙を流された。ゲツセマネで大粒の血の汗を流された。カルバリでは苦悶のうめきをあげられた。

 彼はあなたが肌身で感じることと無縁の方ではない。彼は人間の性質に属するあらゆることを、罪以外はことごとく親しく知っておられる。

 a. あなたは貧しく困窮しているだろうか? イエスもそうであった。狐には穴があり、空の鳥には巣があったというのに、人の子には枕する所もなかった。彼は人から小馬鹿にされるような町に住んでいた。人は、「ナザレから何の良いものが出るだろう」、と云いならわすのが常であった(ヨハ1:46)。彼は大工の息子と思われていた。彼は人から借りた小舟の中で説教し、借りたろばに乗ってエルサレムに入城し、借りた墓に葬られた。

 b. あなたは世の中でひとりぼっちで、あなたを愛してしかるべき者らからも無視されているだろうか? イエスもそうであった。彼はご自分のくにに来たのに、ご自分の民は彼を受け入れなかった。イスラエルの家の滅びた羊のところへメシヤとなるため来たのに、彼らは彼を退けた。この世の支配者たちは彼を認めようとしなかった。彼につき従ったのは、ひとにぎりの取税人や漁師たちであった。その彼らでさえ、最後の最後には彼を見捨てて、くもの子を散らすように逃げ去っていった。

 c. あなたは誤解され、誹謗中傷を受け、迫害されているだろうか? やはりイエスもそうであった。彼は食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間、サマリヤ人、狂人、悪霊つきだと呼ばれた。彼のご人格は偽り伝えられた。彼に向かって偽りの告発がなされた。彼は無実の罪を着せられて、不正な有罪判決が下された。彼は犯罪者として断罪され、そのような者として十字架上で死んだ。

 d. サタンはあなたを誘惑し、あなたの心に忌まわしい考えをほのめかしたりするだろうか? サタンはイエスをも誘惑したのである。サタンはイエスに、父なる神の摂理など信用しないように勧めた。「この石がパンになるように、命じなさい」。サタンはイエスに、必要もない危険に身をさらし、神を試みるように提案した。神殿の頂から「下に身を投げてみなさい」。サタンはイエスをそそのかして、この世のすべての国々をわがものとするがいい、それには自分を拝みさえすればいいのだ、と云った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」(マタ4:1-10)。

 e. あなたは今、非常に大きな苦悩と心の葛藤を感じているだろうか? 神から見捨てられた暗黒の中にいるように感じているだろうか? イエスもそう感じたのである。あの園で彼がどれほどの心の苦しみを経験したか、だれに知りえよう? 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)、と彼が叫ばれたときの魂の痛みの深さを、だれが測り知りえよう?

 私たちの主イエス・キリスト以上に人の心の求めにうってつけの救い主を思い描くことは不可能である。その御力だけでなく、その同情心によってもうってつけの救い主であり、その神性だけでなく、その人性によってもうってつけの救い主である。私はあなたがたに願いたい。魂の隠れ家たるキリストが、神であるだけでなく人でもあられるということを堅く肝に銘じておくよう努力していただきたい。もちろんキリストには、王の王、主の主として栄誉を帰すがいい。しかしそうするときにも、決して彼が肉体を持たれ、人であられたことを忘れてはならない。この真理を堅くつかみ、決して手放してはならない。あの不幸なソッツィーニ主義者らの犯した恐るべき誤りは、キリストが人でしかなく神ではなかったと断じたことにあった。しかし、その誤りへの反動で、キリストがまことに神であられたのと同様、まことに人でもあられたことを忘れてはならない。

 処女マリヤや諸聖人の方がキリストよりもずっと同情心に富んでいるなどと論ずるローマカトリック教徒のたわごとには一瞬たりとも耳を貸してはならない。彼らには答えてやるがいい。そんな議論は、聖書にもキリストの真のご性質にもまるで無知なため生じているのだ、と。キリストを厳格な裁判官、恐れられるべき存在としてしかみなさないなどというふうには、自分はキリストについて学んでこなかった、と。4つの福音書の教えによって自分は彼を、最も力強く最も強大な救い主であると同様、最もいつくしみと同情心に満ちた友とみなしているのだ、と。人なるキリスト・イエスの上に自分の疲れた魂を安らわせることができる限り、自分は諸聖人や御使いたちからの慰めはもちろん、処女マリヤやガブリエルからの慰めさえほしくない、と答えてやるがいい。

3. 真のキリスト者でさえ、内側には多くの弱さと欠陥をかかえていることがある

 三番目に学びたいのは、真のキリスト者でさえ、内側には多くの弱さと欠陥をかかえていることがある、ということである。

 このことの驚くべき証拠が、ここに記された、波浪が舟にかぶりはじめたときの弟子たちの行動である。彼らはあわててイエスを起こした。恐れ、おびえながら彼らは云った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」。

 ここには忍耐のなさが見られる。彼らは、主がご自分から目覚めるのをよしとなさるまで、待っていることもできたはずであった。

 ここには不信仰が見られる。彼らは、あらゆる力を御手におさめておられるお方の保護下にあることを忘れていた。私たちは、「おぼれて死にそうで……」す。

 ここには疑いの心が見られる。彼らの口調はまるで、自分たちの安全と幸福について主が何の配慮も思慮もしていないのか、と云わんばかりである。「何とも思われないのですか」。

 あわれな、信仰薄き者たち! 一体どこに恐れる理由があっただろうか? 彼らは、花婿とともにいる限り万事順調だという証拠を幾度も幾度も見てきた。彼らに対する彼の愛と親切との、何度となく繰り返された実例を目撃してきた。彼は決して彼らに真の危害が加えられるような目には遭わせなさらない、そう確信するに十分なほど目撃してきた。しかし現在の危機の中ですべては忘れ去られた。間近に迫る危険を感ずると、人はしばしば記憶力が鈍くなる。恐れる人はしばしば、過去の経験から論理的に考えることができなくなる。彼らは風の音を聞いた。波を見た。冷たい水が叩きつけてくるのを感じた。自分たちはもう死の寸前だと思い込んだ。これ以上気をもみながら待っていることはできなかった。それで彼らは云ったのである。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」、と。

 しかし、つまるところ、私たちは理解しようではないか。これは、あらゆる時代の信者たちの間で絶えず起こっていることの一情景にすぎないのだ、ということを。今日のこの日にも、ここに描写されている者らに似た弟子たちが、あまりにも多数いるのではないかと私は疑うものである。

 神の子らの多くは、何の試練も受けないうちは非常に快調である。彼らは好天のときには、それなりに努力してキリストに従う。自分は完全にキリストに信頼しているのだと思い込む。あらゆる心労をキリストの上に投げかけたものと自負する。彼らには、非常に優秀なキリスト者であるとの評判が立つ。

 しかし突如として、思いもかけぬ試練が彼らを襲う。彼らの財産には羽根が生えて飛んでいってしまう。からだをこわす。死が彼らの家庭に侵入してくる。みことばゆえの患難や迫害が起こる。だが今彼らの信仰はどこにあるのか? 自分たちにあると思っていた強い確信はどこにあるのか? 彼らの平安は、希望は、忍従の心はどこにあるのか? 悲しいかな、それらはどこにも見つからない。それらははかりで量られて、目方の足りないことがわかったのである。恐れと疑い、悩みと不安が洪水のように彼らの上に押し寄せ、彼らは何をどうしてよいか途方に暮れているように見える。これが悲しい描写であることは承知している。私はただ、あらゆる真のキリスト者の良心に、これが正しく真実なものかそうでないかを判断していただきたいと思う。

 平明な真理を云えば、真のキリスト者の間ですら、彼らが肉体のうちにある限りは、文字通りの絶対的な完全などない、ということである。神の聖徒らの最上の者、最も輝かしい者でさえ、あわれな混合体でしかない。回心し、新しい者とされ、きよめられはいても、彼はまだ欠陥で取り巻かれている。この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいない。私たちはみな、多くの点で失敗をするものである。人は救いに至る真の信仰を持ってはいても、それを常に手近に持ってはおらず、いつでもすぐ応用できるようにはなってはいないことがある(伝7:20; ヤコ3:2)。

 アブラハムは信仰者の父であった。信仰によって彼は自分の国と親族を捨て、神の命令に従って、見たこともない土地に向かって出て行った。信仰によって彼は、神がその土地を相続財産として彼に与えてくださることを信じて、そこに他国人のようにして住むことで満足していた。しかしながら、そのアブラハムですら、不信仰に圧倒され、人を恐れて、サラを彼の妻ではなく妹だと呼ばせることにした。ここには大きな欠陥がある。にもかかわらず、アブラハムにまさるほど偉大な聖徒はいまだかつてほとんどいないのである。

 ダビデは神の心にかなった人物だった。彼はほんの若年のころに巨人ゴリアテとの戦いに出ていく信仰があった。彼は、獅子や熊の爪から自分を救い出してくださった主が、このペリシテ人からも自分を救い出してくださるとの信仰を公に宣言した。たとえ自分につき従う者は少なく、山で追われるしゃこのようにサウルから追い立てられ、しばしば死との間にはただ一歩の隔たりしかないように思われても、自分がいつの日かイスラエルの王になるとの神の約束を信ずる信仰が彼にはあった。しかしながらこのダビデですら、あるとき圧倒的な恐れと不信仰に襲われてこう云った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう」(Iサム27:1)。彼は、神の御手によって多くの素晴らしい救出を経験したことを忘れた。彼は現在の危険のことしか考えられず、異教徒のペリシテ人のもとに身を寄せた。にもかかわらず、ダビデほど強い信仰を持った者はいまだかつてほとんどいないのである。

 もちろん、人によっては、次のように答えることもたやすいであろう。「仰ることはいちいちごもっともだが、それでもこの弟子たちの恐れは正当化できない。彼らはイエスとともにいたではないか。彼らは恐れてはならなかったのだ。私だったら絶対に、彼らのように臆病で不信仰になったりはしない」、と。このように論ずる人に私が云いたいのは、あなたは自分の心をほとんど知らないのだ、ということである。だれも誘惑を受けるまでは自分の欠陥の広さ深さを知ってはいない。自分のうちにどれほどの弱さが立ち現われるものか、それを生じさせるような状況に置かれるまで、だれにもわからない。

 この論考の読者の中に、自分はキリストを信じていると考えている方がいるだろうか? あなたは、いかなる事情があろうと信仰が動揺する人がいるなど理解できない、と云えるほど、キリストへの愛と信頼を強く感じているだろうか? それは非常によいことである。そう聞いて私は嬉しく思う。しかしこの信仰は試されたものだろうか? その信頼は試験を通ったものだろうか? そうでないとしたら、この弟子たちを性急に断罪しないよう注意するがいい。高ぶらないで、かえって恐れているがいい。あなたの心が今活気づいているからといって、いつまでもそうあり続けるとは考えないようにするがいい。あなたの感情がきょう暖かで燃えているからといって、「あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない」、と云ってはならない。あなたの心が今、キリストのあわれみをひしひしと感じて昂揚しているからといって、「私は生きている限り決して彼のことを忘れない」、と云ってはならない。おゝ、このうぬぼれきった自画像から割り引いて考えることを学ぶがいい。あなたは自分の裏も表も知りつくしてはいない。あなたの内なる人には、あなたが現在気づいているよりも奥深いものがある。主は、ヒゼキヤに対してそうされたように、あなたの心にあることをことごとく知るためにあなたを捨て置かれるかもしれない(II歴32:31)。幸いなのは、「謙遜を身に着け」た者である。「幸いなことよ。いつも恐れている人は」。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Iペテ5:5; 箴28:14 <英欽定訳>; Iコリ10:12)。

 なぜ私はこれほどこのことにこだわっているのだろうか? 信仰を告白するキリスト者たちの腐敗を弁解し、彼らの罪を大目に見てやりたいのだろうか? 決してそんなことはない! 私は聖潔の基準を引き下げ、キリストの兵士が無為で怠惰を続けるのを目こぼししてやりたいのだろうか? 決してそんなことはない! 私は回心者と非回心者の間にあるくっきりとした区別の線を一掃し、裏表のある行動を黙認してやりたいのだろうか? もう一度云うが、決してそんなことはない! 私は強硬に主張するものである。真のキリスト者と偽りのキリスト者、信者と未信者、神の子らとこの世の子らの間には重大な違いがある、と。私は強硬に主張するものである。この違いは、単に信仰の違いというだけでなく生活の違いであり、告白の違いというだけでなく、実践の違いである、と。私は強硬に主張するものである。信者の生き方と未信者の生き方の違いは、苦みと甘み、光と暗闇、熱と冷たさと同じように区別されているべきである、と。

 しかし私が若いキリスト者たちに願っているのは、やがて自分のうちに何を見いだすことになるか予期しておいてほしいということである。私は、彼らが自分の弱さと欠陥を発見してつまづいたり、思い惑ったりしないようにしてやりたい。どれほど多くの疑いや恐れを内側に感じる人でも、真の信仰と恵みを持っていることはありうるのだということを、たとえそれと反対のことをいかに悪魔がささやこうとも、彼らにわかってほしい。ペテロやヤコブやヨハネや彼らの兄弟たちが真の弟子であったにもかかわらず、恐れの感情と無縁になるほど霊的ではなかったのだということを彼らには理解してほしい。弟子たちの不信仰を自分の云い訳にせよとは云わない。しかし、この肉体のうちにある限り、恐れが指一本手出しできないほど高い信仰を持つことを期待してはならない、と私は云っているのである。

 何よりも私はすべてのキリスト者に、他の信仰者たちのうちに何を期待すべきか知っていてほしいと思う。ある人のうちに何らかの腐敗が見えるからといって、その人には何の恵みもないのだ、などと性急に結論してはならない。太陽の表面にはいくつも黒点があるが、それでも太陽は明るく輝き、全世界を照らしている。オーストラリアからやってくる金塊の多くには石英や金滓が混じり込んでいるが、だからといってだれがその黄金には何の価値もないなどと考えるだろうか? 世界でも最高級のダイアモンドの中には傷のついたものもあるが、だからといって値もつけられないほどの価値があると格付けされることに変わりはない。二三欠点があるというだけで、人をたちまち交わりから放逐するような病的な神経質さは捨て去るがいい! 私たちは、恵みを見るにもっと敏になり、欠陥を見るにもっと遅くなろうではないか! 腐敗のあるところに恵みがあるとは思えないなどというのなら、世界中のどこにも恵みは見あたらないはずだということをわきまえようではないか。悪魔は死んではいない。私たちはまだ御使いのようになってはいない。天国はまだ到来していない。らい病は家の壁から払拭されてはおらず、どんなに強くこすり取ろうとしても、家そのものを取り壊すまで決して完全に消滅させることはできない。私たちのからだは確かに聖霊の宮ではあるが、復活し、変えられるまでは、完璧な宮ではない。恵みは確かに宝ではあるが、土の器に入っている。人はキリストのためすべてを捨てることは可能だが、にもかかわらず時おり疑いと恐れに襲われることもありうる。

 この論考を読むすべての読者に私は、このことを忘れないように懇願したい。これは注意に値する教訓である。使徒たちはキリストを信じ、キリストを愛し、キリストに従うためすべてをなげうった者たちだった。それにもかわらず、ここで目にするのは、この嵐の中で使徒たちが恐れている姿である。彼らを判断する際には、思いやり深くあるようにするがいい。自分の心がつむぎだす期待を穏当なものにするがいい。回心しておらず、聖くないという人は決して真のキリスト者ではない。この真理は死んでも譲ってはならない。しかし、人は回心し、新しい心を持ち、聖い人ではあっても、にもかかわらず弱さと疑いと恐れに屈しがちなものだということをも見込んでいるがいい。

4. 主イエス・キリストの力

 四番目に学びたいのは、主イエス・キリストの力である。

 私が今論じている物語の中には、主の御力の著しい実例が記されている。イエスの乗っておられた小舟は波をかぶり、水で一杯になりつつあった。恐慌状態の弟子たちは彼を起こして助けを叫び求めた。すると、「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった」。これは驚倒すべき奇蹟である。全能の力を持つお方以外にこのような真似はできない。

 一言で風を吹きやませる! 周知のように、「風に話すようなものだ」、ということわざは不可能を云い表わすものである。しかしイエスが風をしかりつけると、たちどころにそれはやんだ! これは力であった。

 一声で波を鎮める! 歴史をかじった者ならだれでも知るように、とある強大な英国王が水岸で上げ潮をくいとめようとしたことがあるが、それは無駄であった。しかしここには、嵐の中で猛り狂う波浪に向かって、「黙れ、静まれ」、と云うお方がいて、そのとたんに大なぎになったというのである。これこそ力であった。

 主イエス・キリストの力について明確な観念を持っておくことはどんな人にとっても良いことである。罪人はこのことを知っておくがいい。あなたが、助けを求めて逃げていくよう促され、より頼むよう招かれているあわれみ深い救い主は、まさに全能者にほかならず、あらゆる人に永遠のいのちを与える権威を持っておられる(黙1:8; ヨハ17:2)。恐れと不安に満ちた求道者はこのことを理解しておくがいい。もしあなたがイエスに自分の人生を賭けて、十字架を負いさえするなら、それは、天と地のあらゆる権威を握っておられるお方に賭けるということである(マタ28:18)。信仰者はこの荒野を通って旅する間、このことを覚えておくがいい。自分の仲保者にして弁護者、医師にして羊飼いにして贖い主なるお方は主の主であり、王の王であり、この方によってすべてがなるのだ、と(黙17:4; ピリ4:13)。すべての人はこの主題をよく学ががいい。学ぶに足る価値はある。

 a. これを主の創造のみわざのうちに学ぶがいい。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(ヨハ1:3)。天とその中に住む栄光に満ちた全軍勢、また地とその中にあるすべての被造物、海とその中にいるすべてのもの――高きは天にある太陽から、低きは地面の小さな虫けらに至るまで、全被造物はキリストの御手のわざであった。彼がお語りになると、それらは存在するようになった。彼がお命じになると、それらは存在を始めた。ベツレヘムで貧しい女から生まれ、ナザレの大工の家に住んでいたそのイエスは、万物の形成者だったのである。これが力ではなかろうか?

 b. これを彼の摂理のみわざと、世界の万物が整然と存続していることの中に学ぶがいい。「万物は御子にあって成り立っています」(コロ1:17)。太陽も月も星も、完璧な軌道を描いて回転している。春夏秋冬は規則正しく巡り来る。それらは、カルバリで死なれたお方の定めにしたがって、きょうも堅く立っており、調子を乱すことはない(詩119:91)。世の国々は栄枯盛衰を続ける。地上の支配者たちは、計画を立て予定を立て、法律を作り法律を変更し、戦争し、一国を倒したかと思うと、別の国を創建する。しかし、彼らは、自分たちがイエスのみこころによってのみ支配しているのだということをほとんど考えない。神の子羊のみ許しなしには何1つ起こらないということをほとんど考えない。彼らも彼らの臣下もみな、十字架にかけられたお方の御手の中にある、ひとしずくの水滴であることを、彼らは知らない。彼がそのみこころの通りに国々を富ませ、また、没落させることを彼らは知らない。これが力ではなかろうか?

 c. 私たちの主イエス・キリストがその三年間の地上での公生涯の間になされた数々の奇跡の中に、この主題を学ぶがいい。彼がなした力あるみわざから、人には不可能なこともキリストには可能であることを学ぶがいい。彼の奇跡の1つ1つを、霊的な事柄の表象であり象徴であるとみなすがいい。それらの中に、彼があなたの魂にどのようなことをできるかを示す、愛すべき象徴を見てとるがいい。一言で死人をよみがえらせることがおできになったお方は、同じように簡単に、人を罪の死からよみがえらせることがおできになる。盲人に視力を与え、耳しいに聴力を与え、おしに話す力を与えることがおできになったお方は、罪人に神の国を見させることも、福音の喜ばしい調べを耳にさせることも、贖いの愛の賛美を口からほとばしらさせることもおできになる。手でふれただけでらい病人をいやすことがおできになったお方は、心のいかなる病もいやすことがおできになる。悪霊どもを追い出すことがおできになったお方は、まつわりつくいかなる罪をもご自分の恵みに従わせることがおできになる。おゝ、このような視点から、キリストのあらゆる奇跡について読み始めるがいい! 自分がどれほどよこしまで邪悪で腐敗しているように感じられても、キリストのいやしの力も及ばないほど病んではいないことを考えて慰めを得るがいい。キリストのうちには、恵みが満ちあふれているばかりでなく、力も満ちあふれていることを常に覚えているがいい。

 d. この主題を、特にこの日学ぶがいい。あえて云うが、あなたの心は時として、嵐に遭遇した波間のように右往左往し、翻弄されたことがあったに違いない。波立ち騒ぐ湖水のようにかき乱され、静まることができないことがあったに違いない。この日、来て聴くがいい。あなたに平安を与えることのできるお方がおられるのである。イエスはあなたの心に向かって、それがいかなる病にかかっているとしても、こう云うことがおできになる。「黙れ、静まれ」、と。

 あなたの内なる良心が無数の背きの罪の記憶によって打ちのめされ、突如起こり来る誘惑の1つ1つによって激しく惑わされたとしたらどうであろうか? 過去の忌まわしい不品行の思い出があなたに重くのしかかり、その重荷が耐え難いとしたらどうであろうか? あなたの心が邪悪に満ちているように思え、罪があなたを奴隷のようにほしいままに引きずり回しているように感じられるとしたらどうであろうか? 悪魔があなたの魂を征服者のごとく縦横無尽に踏みにじり、逆らっても無駄だ、お前に望みなどないのだ、と云うとしたらどうであろうか? 私はあなたに告げよう。そのあなたにすら、赦しと平安を与えることのおできになるお方がいるのだ、と。私の主であり主人であるイエス・キリストは、荒れ狂う悪魔をしかりつけることができ、あなたの魂のみじめさをすら静めることができ、あなたにすらこう云うことがおできになる。「黙れ、静まれ」、と。彼はあなたに今のしかかる罪の咎目の暗雲を蹴散らすことがおできになる。絶望を追い払うことがおできになる。恐れを追い散らすことがおできになる。奴隷の霊を取り除き、子とされる霊であなたを満たすことがおできになる。サタンはあなたの魂を、十分に武装した強い人のように守っているかもしれないが、イエスはサタンよりも強く、イエスが命令を下されるとき、虜囚となっていた者たちは釈放されずにはいられない。おゝ、もし魂に悩みのある読者が、内なる平安を欲しているのなら、きょうのこの日イエス・キリストのみもとに行くがいい。そうすれば、何にもまさる幸いがやって来よう!

 しかしもしあなたの心が神との正しい関係にあるにもかかわらず、あなたが地上の困難の重荷にのしかかられているとしたらどうであろう? 貧困の恐れがあなたを翻弄し、このままではあなたを圧倒しそうだとしたら、どうであろう? 肉体の痛みがあなたを苛み、毎日あなたを悩ませているとしたらどうであろう? もしあなたが突然働けなくなり、活発に用いられる生活から、肉体的な弱さにより、ただじっと何もしないでいるような状態を強いられたとしたらどうであろう? 死があなたの家庭に入り込み、あなたのラケルやヨセフやベニヤミンを取り去り、悲しみで骨の髄まで砕かれたあなたをひとりぼっちにしてしまったとしたらどうであろう? これらすべてのことが起こったとしたらどうであろう? それでもキリストのうちには慰めがある。彼は波立つ湖水を鎮めるのと同じくらい容易に、傷ついた心に黙れと語ることがおできになる。荒れ狂う突風に対するのと同じくらい力強く、逆らい立つ意志を叱りつけることがおできになる。ガリラヤ湖の嵐をやませたのと同じくらい確かに悲しみの嵐を和らげ、騒ぎ立つ激情を沈黙させることがおできになる。これ以上ないほどの不安に対しても、「黙れ、静まれ」、と云うことがおできになる。心痛と悲痛の氾濫は膨大かもしれないが、イエスはその大水を抑えつけ、海の波にまさって力強くあられる(詩93:4)。困難の風はあなたのまわりでほえ猛るかもしれないが、イエスはそれらを御手におさめておられ、思いのままにそれを鎮めることがおできになる。おゝ、もしもこの論考の読者の中に今心傷つき、心労にやつれ果て、悲しみに沈んだ人がいるなら、イエス・キリストのもとに行き、彼に向かって叫ぶがいい。そうすれば心を清新にしていただけるであろう。イエスは云われる。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)。

5. 主イエスがいかに弱い信者らを優しく忍耐強く扱われるか

 最後に学びたいのは、主イエスがいかに弱い信者らを優しく忍耐強く扱われるか、ということである。

 風がやみ、大なぎになったとき弟子たちにおかけになった彼のことばのうちに、この真理が明らかにされているのを見ることができる。彼は厳しく彼らを叱責してもよかったはずである。それまで彼らのためになしてきた力あるわざのすべてを思い起こさせ、彼らの臆病さと疑いの心を非難してもよかったはずなのに、主のおことばには何の怒りも見られない。彼はただ2つの問いをなさっただけである。「どうしてそんなにこわがるのです」? 「信仰がないのは、どうしたことです」?

 地上でにおける私たちの主の、弟子たちに対するふるまいは、いずれも熟読玩味すべき価値がある。それは主のうちにあるあわれみ深さと寛容さとに美しい光を投じてくれる。いまだかつて、いかなる学者といえども、イエスがその使徒たちのうちに持っておられたほど飲み込みの悪い学生たちを持ったことはなかったに違いない。いまだかつていかなる学生たちも、使徒たちがキリストのうちに持っていたほど忍耐強くがまん強い教師を持ったことはなかったに違いない。福音書中にちりばめられた、この主題に関するすべての証拠を集めてみれば、私の云うことが正しいとわかるであろう。

 私たちの主の公生涯のいかなる時点においても弟子たちは、彼が世に来られた目的を完全に把握することはなかったように思える。謙卑、贖い、十字架刑は、彼らには隠された事柄であった。これからご自分にふりかかる最期について師が、これ以上ないほど明白なおことばによって語り、はっきりと警告しておいたにもかかわらず、それは彼らの心に何の影響も及ぼさなかったように見える。彼らは理解しなかった。受け入れなかった。彼らの目は節穴であった。ペテロなど、私たちの主が苦しむことを思いとどまらせようとしたことすらあった。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」(マタ16:22; ルカ18:34; 9:45)。

 彼らには、しばしば全くほめられたものではない精神や態度が見られる。ある日彼らは、自分たちの中でだれが一番偉いかと論じ合っていた(マコ9:34)。別の日には、彼らは主の奇蹟から悟るところがなく、その心は堅く閉じていた(マコ6:52)。一度、彼らのうちの二人は、彼らを受け入れなかったという理由から、天から火を呼び下し、ある村を焼き滅ぼしたいと願った(ルカ9:54)。ゲツセマネの園で、彼らのうちの最上の三人は、油断せず祈っているべきときに眠りこけていた。主が裏切られたとき、彼らはみな主を捨てて逃げ去り、あろうことか十二人のうち最も熱心だったペテロは、のろいをかけて三度も自分の師を否定した。

 復活の後ですら、同じ不信仰と心のかたくなさが彼らにこびりついていたことがわかる。彼らは、主をその目で見、その手でふれたにもかかわらず、それでもなおある者は疑った。それほど彼らの信仰は弱かった! それほど彼らは、「預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い」者らであった(ルカ24:25)。それほど彼らは、私たちの主のことばと行ない、生涯と死との意味を理解するのにうとかった。

 しかし、その弟子たちに対する私たちの主のふるまいは、その公生涯を通してどのようなものであったろうか? そこに見られるのは、変わることのないあわれみ、憐憫、親切、優しさ、忍耐、寛容、愛、にほかならない。彼は、彼らをその愚昧さゆえに見捨てたりしない。不信仰のゆえに打ち捨てたりしない。臆病さのゆえに永遠に放逐したりしない。彼は、彼らに耐えられるだけのことを教えられた。乳母がよちよち歩きの幼児に対してするように、彼らを一歩一歩導かれた。死者の中からよみがえられるやいなや彼は、彼らに親切なことづてを送られた。彼は女たちに云った。「行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです」(マタ28:10)。彼は再び彼らをご自分のまわりに集められた。ペテロをもとの立場に回復させ、彼に、「わたしの羊を飼いなさい」、と命ぜられた(ヨハ21:17)。彼は、最終的に昇天なさる前に、わざわざ四十日間彼らのもとにとどまってくださった。彼らにご自分の使者として出て行き、異邦人に福音を宣べ伝える任務を与えられた。別れ際に彼らを祝福し、あの恵み深い約束で彼らを励まされた。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタ28:20)。まことにこれは人知を越えた愛であった。これは人間にできることではなかった。

 世のすべての人は知るがいい。主キリストは非常に慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということを。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。母に慰められる者のように、彼はその民を慰めてくださる(ヤコ5:11; マタ12:20; 詩103:13; イザ66:13)。彼はご自分の群れの子羊たちをも、おとなの羊と同様に気づかってくださる。ご自分の囲いの中の病む者、弱い者をも、強い者と同様に気づかってくださる。その一匹をも失うまいと、彼らをふところに抱いて連れていく、と書かれている(イザ40:11)。彼は、ご自分のからだの最も小さな器官をも、最も重要な器官と同様に気づかってくださる。ご自分の家族の赤子たちをも、成人たちと同様に気づかってくださる。ご自分の庭園の最もかよわく小さな草花をも、レバノン杉と同様に気づかってくださる。すべての者が彼のいのちの書に記されており、すべての者が彼の保護下にある。すべての者が、永遠の契約において彼に与えられており、そのあらゆる弱さにもかかわらず、彼は全員を無事に家へ連れ帰ると約束しておられる。罪人が信仰によってキリストにすがりつきさえするなら、どれほど弱かろうと、キリストのことばの保証が与えられている。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」[ヘブ13:5]。時には彼は、愛によってその人を懲らしめられる。時には優しく叱責なさる。しかし彼は決して、決して、その人を見離しはしない。悪魔は絶対にその人をキリストの御手からもぎとることはできない。

 世のすべての人は知るがいい。主イエスはご自分を信ずる人々を、その短所や欠陥のゆえに捨て去るようなことはない、と。夫は妻に欠点があるからといって離縁するようなことはない。母はその幼子がかよわく、発育が悪く、無知だからといって、その子を捨てたりしない。そして主キリストも、自分の魂を御手にゆだねた、あわれな罪人たちを、彼らのうちに傷や欠けがあるからといって、見捨てたりなさらない。そのようなことは断じてない! ご自分の民の弱さを見過ごし、彼らの退歩をいやし、その弱い恵みを最大限に生かし、その多くの欠陥を赦すこと、それこそ主の栄光なのである。ヘブル書11章は素晴らしい章である。聖霊がその章に名前の記されている勇者らについてどのように語っているかに着目するとき、ここには驚くべきものがある。そこでは主の民の信仰が前面に押し出され、記憶にとどめられている。しかし多くの者らの欠陥は、同じくらいたやすく持ち出すこともできたにもかかわらず、沈黙が守られ、一切言及されていないのである。

 今この論考を読んでいる人のうち、救いを求めていながら、長続きしないことを恐れて、はっきり一歩を踏み出せないでいる人がいるだろうか? 私はあなたに願いたい。キリストの優しさと忍耐強さを考えて、もう恐れないでいただきたい。十字架を負うことを恐れず、雄々しく世から出て来てほしい。弟子たちを堪忍なされた同じ主なる救い主は、あなたをも喜んで堪忍しようと待っておられる。もしあなたがつまづくなら、彼が支え起こしてくださる。誤りに陥るなら、彼が優しくあなたを引き戻してくださる。生気を失ったなら、彼があなたの元気を回復してくださる。彼はあなたをエジプトから導き出しておいて、荒野で野垂れ死にさせるようなお方ではない。彼はあなたを無事に約束の地まで送り届けてくださる。ただ彼の導きに身をゆだねさえすれば、誓ってもいい、彼はあなたを安全に家まで連れ帰ってくださる。ただキリストの御声を聞き、彼に従いさえすれば、あなたは決して滅びることがない。

 今この論考を読んでいる人の中には、すでに回心し、自分の主のみこころを行ないたいと願っている人がいるだろうか? 今日のこの日、あなたの主人の優しさと寛容深さを模範として受けとめ、他者に対して心優しく親切になることを学ぶがいい。初信の者らを優しく扱うがいい。彼らに、いきなり何もかもを覚えたり、何もかもを理解するようなことを期待してはならない。手取り足取り教えてやるがいい。一歩ずつ導いてやり、励ましてやるがいい。神が悲しませておられない心を悲しませるよりは、すべてを信じ、すべてを期待するがいい。信仰から離れた者たちを優しく扱うがいい。絶望的な連中だ、というかのような態度で彼らに背を向けないようにするがいい。彼らを以前の立場に回復するための、しかるべき正当な手段を用いるがいい。あなた自身のことを考え、自分の度重なる欠陥を思い、自分がしてほしいように彼らにもしてやるがいい。残念なことにキリストの弟子たちの多くの中には、主人と同じ心が痛ましいほど欠けている。どれほどの長年月の後でも、自分の主を否定したペテロをもう一度交わりに受け入れるような教会は、現在ほとんどないのではないかと思う。未熟な回心者の手を取り、信仰生活の最初期にある彼らを励ましてやるというバルナバのわざを喜んで行なおうという信者はほとんどいない。まことに私たちには御霊の注ぎが必要である。この世に注がれるばかりでなく、信者らに注がれることもほぼ同じくらい必要である。

 さて、私が今、読者に望みたいのは、ここまで示してきた教訓を実際に適用してほしいということだけである。あなたは今日、5つのことについて聞いてきた。

 1. キリストに従っているからといって、地上での悲しみや困難から免除されるわけではない。
 2. キリストは神であるだけでなく真に人である。
 3. 信仰者には多くの弱さと欠陥が伴っていることがあるが、それでも真の信仰者でなくなるわけではない。
 4. キリストはすべての権威と力を持っておられる。
 5. キリストはご自分の民に対する忍耐と親切に満ちておられる。

この5つの教訓を忘れずにいれば、間違いはない。

 もう少しだけ語らせてほしい。ここまで読んできた事柄を、より深くあなたの心に印象づけさせていただきたい。

 1. 今この論考を読んでいるのは、キリストに仕えるということがどういうことか実感としては全く知らず、キリストご自身を全く知らないという人かもしれない。

 私が書いてきたようなことに毛ほどの関心もないという人はあまりにも多い。彼らの宝は地上にしかない。彼らの関心は全くこの世のことだけに限られている。彼らは信仰者の戦いや苦闘、弱さや疑いや恐れなどについては一顧だにしない。

 彼らはキリストが人だろうが神だろうがどうでもいい。彼が奇蹟を行なったとしても行なわなかったとしてもどうでもいい。そうしたことはみな、彼らには全く関心がない言葉や名辞や形式にかかわるものである。彼らは世にあって神を持たない人々である。

 もしあなたがそのような人だとしたら、私にはただ厳粛な警告をすることしかできない。あなたの現在のような生き方はいつまでも続くものではない。あなたは永遠に生きるわけではない。終わりが必ずやってくる。白髪、老齢、病、老衰、死――これらすべてが、あなたを待ちかまえており、いつの日か向き合うときがやってくる。その日が来たとき、あなたはどうするのだろうか?

 この日、私の言葉を覚えていただきたい。イエス・キリストがあなたの友でない限り、あなたは病や死に臨んだとき何の慰めも見出せないであろう。やがてあなたは死の床につき、それまで自分がいかに多くのことを語り、いかに多くのことを誇っていたとしても、キリストなしには、それらが全く何の役にも立たないことを発見して悲しみ、混乱するであろう。あなたは牧師を呼びにやり、祈ってもらい、秘跡を授けてもらうことはできるだろう。キリスト教のあらゆる儀式と典礼を執り行なってもらうことはできるだろう。しかしもしあなたが人生の上り坂にあるときに不注意でこの世的な生活を続けることにこだわり、キリストを馬鹿にすることに終始していたのなら、人生の終幕においてキリストがあなたを捨て置かれても驚いてはならない。あゝ、これらは厳粛な言葉であり、しかも悲しむべきことに、しばしば現実となってきたことである。「わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう」(箴1:26)。

 それではこの日、あなたの魂を愛する者の勧めを受けるがいい。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習いなさい[イザ1:16-17]。わきまえのないことを捨てて、悟りのある道を、まっすぐ歩むがいい[箴9:6]。あなたの心にへばりついた高慢を振り捨て、お会いできる間に主イエスを求めるがいい[イザ55:6]。あなたの魂を麻痺させている霊的怠惰を振り捨てて、聖書を読むこと、祈ること、日曜の教会出席を守ることに労を惜しむまいと決心するがいい。あなたを決して本当の意味では満足させられないような世界とは縁を切り、あの真に朽ちることのない唯一の宝を求めるがいい。おゝ、主ご自身のことばがあなたの良心の琴線を打つように! 「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう」(箴1:22、23)。私が思うに、イスカリオテのユダの最大最悪の罪は、彼が赦しを求めようとせず、自分の主に立ち返ろうとしなかったことにあった。あなたも同じ罪に陥らないよう警戒するがいい。

 2. 今この論考を読んでいるのは、主イエスを愛し、信じていながら、さらに主を愛したいと願っている人であるかもしれない。

 もしあなたがそのような人だとしたら、勧めの言葉を受けていただきたい。そして、それをあなたの心に適用していただきたい。

 1つのこととして、主イエスは現実に生きておられるお方である、という真理を、いついかなるときも絶えず心にとめておき、主をそのようなお方として扱っていただきたい。

 私たちの主の人格性は、今日多くの信仰告白者たちから悲しいほど見落とされているのではないか、と私は恐れるものである。信仰者たちは救いについてはよく語るが、救い主についてはあまり語らない。贖いについてはよく語るが、贖い主についてはあまり語らない。義認についてはよく語るがイエスについてはあまり語らない。キリストのみわざについてはよく語るが、キリストの人となりについてはあまり語らない。これは大きな過ちであり、多くの告白者の信仰生活が無味乾燥で気の抜けたものとなっていることの明白な原因である。

 少しでも恵みにおいて成長し、信仰生活に喜びと平安を得たいと願うのなら、この誤りに陥らないよう警戒するがいい。福音を単なるひからびた教理の寄せ集めのようにみなすことをやめなさい。むしろそれは、生きておられる力強いお方の啓示であるとみなし、その方のまなざしのもとで自分は日々生きるべきなのだと思うがいい。福音を抽象的な諸命題だとか、難解な原則と規則の集大成だなどとみなすことをやめなさい。むしろ、素晴らしい個人的な友に紹介されることだと考えなさい。これこそ、使徒たちが説き教えた種類の福音である。彼らが世界中に出て行って人々に告げたのは、何か抽象的な概念としての愛とあわれみと赦しではなかった。彼らのあらゆる説教の主要な主題は、現実に生きておられるキリストの愛情深い心であった。これこそ、何よりも聖潔を促進し、私たちを栄光に入るのにふさわしい者としてくれると思われる種類の福音である。確かに、キリストの個人的臨在がすべてであるあの天国に入れるよう私たちを整え、私たちが顔と顔を合わせてキリストとお会いするあの栄光のために私たちを備えさせるものとして、現実に生きたご人格としてのキリストとの交わりを、この地上にいるうちから実感することにまさるものはないであろう。単なる概念と、ひとりのお方との間には天地ほどの違いがある。

 別のこととして、主イエスが全く変わることのないお方であるという真理を、いついかなるときも絶えず心にとめておくようにするがいい。

 あなたが信頼している救い主は、きのうもきょうも、いつまでも同じである[ヘブ13:8]。彼には移り変わりや、移り行く影はない[ヤコ1:17]。いと高きところで神の右の座に着いておられても、彼は千八百年前に地上におられたときと全く同じ心をしておられる。このことを覚えておきさえすれば、間違いはない。

 彼がパレスチナを行きつ巡りつ旅された全行程をたどってみるがいい。どのように彼が、ご自分のもとに来た何者も拒まず受け入れたかに注目してみるがいい。どのように彼が、あらゆる悲しみの話に耳を傾け、あらゆる悩み苦しむ人々に助けの御手を差しのべ、あらゆる同情を必要とする人を思いやってくださったかに注目してみるがいい。そして自分に云い聞かせるがいい。「この同じイエスが、私の主なる救い主なのだ。時や所の違いは、彼には全く関係がない。彼は、かつてあられたのと今も同じお方であり、永遠に同じ方であられるのだ」、と。

 確かにこのような思いこそ、あなたの日々の信仰生活にいのちと現実味を帯びさせるものである。確かにこのような思いこそ、来たるべき至福に対するあなたの期待を、空疎でない、堅固なものとしてくれるものである。三十三年間地上を歩み、福音書中にその生涯が記されているお方が、救い主そのひとであり、そのお方の前で私たちは永遠を過ごすことになるのである。確かにこのような思いこそ、喜びをもって思い巡らすべき事柄である。

 この論考の最後の言葉は、最初の言葉と同じとなる。私は、人々が今よりももっと四福音書を読んでほしいと思う。よりキリストと親しんでほしいと思う。まだ回心していない人々にはイエスを知って、イエスによって永遠のいのちを手に入れてほしいと思う。信仰者には、イエスをさらによく知って、もっと幸せになり、もっと聖くなり、もっと、光の中にある聖徒の相続分[コロ1:12]にふさわしい者となってほしいと思う。最も聖い人とは、聖パウロとともにこう云えるようになっている人であろう。「私にとっては、生きることはキリスト」、と(ピリ1:21)。

波浪をつかさどる方[了]

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