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第13通

神の導き

拝啓、

 私たちのように自分の弱さ、愚かさ、そして人生の困難をつねづね感じている者にとっては、まことに感謝なことに、主は御自分の民を絶えず導いてくださると約束してくださいました。右へ行くにも左へ行くにも、道をはずれそうなときには、背後から「これが道だ。これに歩め」というおことばを聞かせてくださるというのです[イザ30:21]。そのため主は、私たちの足のともしびとして、みことばを書物にしてくださいました。またそのみことばを正しく理解し正しく適用するため、聖霊によるさとしを祈り求めよ、と励ましてくださいました。ところが多くの人々は、正しい道を大きくふみはずし、首をかしげたくなるようなとんでもない間違いを犯していながら、云い分を聞くと、いや自分は心から神のみこころを求め、みことばによる確信と確証を得たのだ、と断言してはばからない、そういうことが多すぎます。みことばという判断の基準そのものには誤りがなく、神の御約束は確かなはずですから、これは確かに、この基準を適用する仕方の方に問題があるにちがいありません。聖書は正しく理解しさえするなら、決して私たちを裏切ることはありません。けれども一旦ゆがめられたりねじまげたりするなら、この聖書が、間違った考えを正当化するように見えることがあります。御聖霊は、決して御自分の影響下にある人を間違った道へ導くようなことはなさいません。けれども私たちは、御聖霊の影響下にあると思いながら、実はそうでないということがあるのです。ですから、私たちの心の平安と、私たちの聖なる信仰の名誉とを守る上で非常に重大な主題の1つを、ここで少しばかり考察するのもあながち的はずれではないと思います。

 目の前に進むべき道が2つ以上あり、すぐにはどちらと決めかねるような場合、ある人々は、祈ってその問題を主にゆだねてから、くじを引くというやり方を取りました。本当に真剣に懇願したあとなら、くじを引いて出た結果は、当然神のお答えとして受け取ってかまわないはずだ、というのです。確かに、聖書の教えや理性の判断するところからして、主がくじのゆくえを決定されることに間違いはありません[箴16:33]。さらに旧約聖書のいくつかの箇所では、くじを用いることが神御自身によって命ぜられています。しかし、そうした記事や、くじで使徒に選ばれたマッテヤの話[使1:26]は、私たちの見習うべき模範ではないと思います。カナンの土地分割やアカン事件、またサウルの王位選出においてくじという手段が用いられたのは、いずれも明白な神の命令に基づいてのことでした。同様に、マッテヤの選出も二度と起こりえない特殊な出来事でした。主の昇天後に使徒を選んで、主から直接選ばれた他の使徒たちと同等に扱うなどということは、主ご自身が尋常でない仕方で介入されなかったなら決してありえなかったでしょう。しかも、こうした事件はいずれも聖書の正典が簡潔する以前の出来事でした。聖霊があらゆる信者に下って、神の知識を伝えてくださる以前のことでした。けれどもいまやこの聖霊は、世の終わりまで教会とともにおられると約束されているのです。新約の時代に私たちは、恵みの御座に大胆に近づき[ヘブ4:16]、自分の願いを主に告げ[ピリ4:6]、かかえている問題を主にゆだねるよう求められています[Iペテ5:7]。しかし、くじを用いるようにという教えや約束は、一言も与えられていません。定められてもいないのにくじ引きにたよるというのは、神を敬う行ないというよりも、神を試みているように思えます。神に信頼しているというよりも、あつかましい図々しさのように見えます。同様に、この手段を用いた効果についても、不幸で痛ましい結果が数多く起こっています。くじ引きが行動の指針としていかにたよりないものであるか、これだけでも十分な証明というものです。

 他の人々は、決心がつかなくなると、行き当たりばったりに聖書をひらいて、一番最初に目にとまった聖句に自分の導きとなるものがあると考えました。このやりかたには相当うさんくさいところがあります。それは、聖書を知らない異教徒も、やはり自分の好みの本を同じような具合に用いていたという点です。異教徒たちも、たまたま真っ先にひらいた箇所のことばをもとにして、自分のなすべきこと、自分にふりかかるであろう出来事を決めていたのでした。ローマ人の間では、こうした場合よくヴェルギリウスの詩歌集が使われていましたから、ここから、Sortes Virgilianae(ヴェルギリウスのみくじ)という、よく知られた云い廻しが生まれたということです。そしてまた実際のところ、こういう求め方をする人には、ヴェルギリウスであろうと聖書であろうと同じように役に立つのでしょう。なぜなら、もし人がぱっと出てきたある一節だけを目に留めて、まわりの文脈は全く無視し、みことば全体の趣旨や、自分の今の状況とよく考え合わせもせず、ただその一句だけをたよりに自分の行動を決めることになるなら、たとえどんなにキテレツなふるまいに及んでも、どんなにありそうもないことを夢見ても、どんなに明々白々な理性の声に反しても、みことばに立っているつもりでいられるのです。もし誰かが第二サムエル記7:3をひらき、「あなたの心にあることをみな行ないなさい。主があなたとともにおられるのですからら」、という、ダビデに対してナタンが述べたことばを読んだとしてと、それで今後の行動がみな正当なもの、妥当なものになると云えるでしょうか。カナンの女に向かって主が云われた、「あなたの願いどおりになるように」(マタ15:28 <口語訳>)ということばがちらっと目にはいったというだけで、いま抱いている熱心な願いが(どんな種類の願いだとしても)絶対にかなうという証拠になるでしょうか。にもかかわらず、みことばのある一節を単に(よくいう)<ひと読みした>という以上の理由は何もなしに、重大な結果をはらんだ数多くの決定が下され、馬鹿がつくほど楽観的な夢まぼろしがいくつも抱かれてきたに違いありません。

 ふと聖書の一節が心にはっきりと浮かび、しかもそれが現在気がかりなこととどこか似かよっているということがあります。これを多くの人々は自分の思いが間違っていないしるし、自分の願いがかなうまぎれもないあかしだと信じています。そしてそれとは逆に、警告的、禁止的なみことばが思い浮かぶと、おびえたり不安にかられたりして、あとからみると全く根も葉もない無用の心配をするのです。こういう直感的な印象は、先に挙げたような方法よりは人間の力を越えたところにあるので、この方法を信じて、たよりにしている人は少なくありません。けれども、実はこれまた先の方法とかわらず、しばしば間違いのもととなってきたものなのです。確かに、聖書の戒めや約束の中の真理が心に突き刺さるようにはいってきたり、しみとおるように感じとられたりすると、魂が非常にへりくだらされ、燃やされ、慰められます。そういう印象は非常によいことであり喜ばしいものです。また確かに今までも数多くの主の民が(特に試練のとき)おりにかなった恵みの聖句によって教え導かれ、ささえられてきたことは事実です。御霊は、そのときどきの状況にあてはまるみことばを彼らの魂に与え、力強く確信させてくださいました。しかしもし心の印象だの直感だのを天の声ででもあるかのように考える人がいて、普通ならなすべきものとは思えない異常な行動に走るというなら、軽率な真似をして大変な災難にあったり、とんでもない妄想におちいることになるでしょう。そして実際そうなった人は数知れません。疑いもなく魂の敵は、許されれば私たちにこんなふうな聖句をしこたまあてがって、そういう目的のために使うことができるはずです。

 ある人々は、祈っているときにどれだけ自由を味わうかで、自分の計画が良いものかどうか、実現するかどうかを判断できると云います。自分の道を主にゆだね、導きを祈り求めていると魂がのびのびしてくる、だから現在考えていることは主に受け入れられるに違いないというのです。私はこうした主張が絶対間違いだとは思いません。しかしこの他に何か別の証拠がない限り、なぜそうした感じがもたらされたかを決めてよいとは思いません。祈りに自由を感じても、必ずしもそれが霊的なものとは限らないからです。自我は人を欺きます。何かを一心に願いつづけるなら、言葉は口からすらすら出てきますし熱意もこもるでしょう。私たちは初めにひそかに自分で事を決めておいて、その後で神の助言を求めにやってくることが多すぎます。それも自分の気に入った計画に賛成するように見える兆候があれば即座にひっつかまえるつもりで。主は、私たちの偽善(なぜなら、たとえ自分ではほとんど気づいていなくともこれは偽善にほかならないからです)をあばき、懲らしめるために、私たちの偶像に応じて答えられることがあります(エゼ14:3、4)。また祈りの恵みは、祈り手のあずかり知らぬ事情のために間違った祈りがささげられたときも、働くことがあります。たとえば私に遠い国にいるひとりの友人があったとします。私は彼が生きていることを願い、彼のために祈ります。それは私の義務です。主は御霊によって御民を助け、彼らの現在の義務を果たさせてくださる方です。もし私が遠い友人のため非常に自由に祈れたなら、それは主の御霊が私の弱さを助けてくださったというあかしでしょう。しかし、だからといって私が祈っているときに友人が必ず生きているという保証はありません。またもし次に祈るときに自分の霊がぎこちなく感じられたとしても、それで友人が死んでしまったとか、もう主はその友人のための祈りを助けてくださらないとか思うべきではないのです。

 もう1つ例を挙げましょう。夜見た不思議な夢を熟考すれば、上に述べたどの手段にも劣らず確かに神の意志を知ることができると云われます。夢によって健全で字義にかなった戒めを与えられた人はたくさんいます。私もそれは喜んで認めます。しかし時折そういうことがあるといっても、夢に異常な注意を払うこと、特に夢判断をしたり、夢をもに自分の意見や行動を決めたり期待を抱いたりするのは迷信的で危険なことです。神の約束は夢見る者にではなく目を覚ましている者に与えられているのです。

 つまるところ、確かに主は時おり、ある人々には、常と異なった仕方で忠告や励ましを与えることがあります。しかし、これまで述べたような方法でわざわざ神のお指図を探り求めるのは、非聖書的で、人をわなに陥れるものにほかなりません。こういう思い込みからどんな不都合や害悪が生じたかを逐一書いたなら、私の見聞きした範囲のものに限っても、手紙の一枚や二枚ではおさまりきれないでしょう。ある人々は、自分では確信をもって神に奉仕しているつもりでいながら、神の命令に明白に反することを堂々と行なっています。またある人々はまやかしのとりこになり、それが絶対に間違いないと公言してはばかりません。しかし、結局その確実だということは決して実現しないのです。そしてそういう人々がとうとう失望に沈みこんでしまうとき、サタンの好機が到来します。すなわち、そういう失望した人々に、今度は聖書の最も明らかで最も重要な真理の教えに対する疑惑をも吹き込み、以前の経験が一切まぼろしだったかのように思わせるのです。こうして弱い信者はつまづき、キリスト教の真理のあら捜しをしたり、反感をいだいたり、真理の道をそしったりするようになるのです。

 それでは、主の導きはどのようにすれば得られるのでしょうか。あれでもない、これでもないと述べてきたあとですから、長々と答えることはないでしょう。普通、主は御民を導かれる際、祈りに答えて御聖霊の光をお与えになります。そして御民はその光の力によって聖書を理解し、愛するようになります。もちろん神のみことばはおみくじのように用いられるべきではありません。また、こま切れにしたバラバラの章句から指図を受けるためのものでもありません。もとの場所から個々に抜き出された聖句は、何もはっきりとした意味を伝えないからです。しかし、みことばは私たちに正しい原則、健全な見解を身につけさせてくれます。そして私たちの判断基準、価値観はその原則や見解に従うようになり、それが自分の行動の支配原理、規範となっていくのです。神が自分を教えてくださると信じつつ、へりくだって聖書を学ぶ人は、自分の弱さを確信させられ、周囲のものをすべて正しく評価することを教えられていきます。そして次第に神の意志に従う心がかたちづくられ、どんな状況、どんな人間関係の中にあっても何が中心的問題で、何が自分の義務であるのか、またどんな罠や誘惑に自分が直面しているのかをさとるようになります。信ずる人の心の中で血となり肉となったみことばは、おかすかもしれない誤ちを防ぎ、ゆく道筋を照らし、あふれる力と慰めの源泉となります。聖書の中の教理、戒め、約束、模範、命令などを心の中にたくわえ、日々自分の歩みをこの基準に照らす人は、人格的に次第に成長し、霊的な知恵を豊かに宿すようになります。そして聖い識別力を身につけるようになります。この識別力を得た人は、微妙な音の狂いも聞き逃さない音楽家のように、自分のして良いことと悪いことを、比較的容易に、またかなりの程度正確に見分けることができるのです。そしてこの判断はめったに狂いません。なぜならそのような人は、心がキリストへの愛で支配されており、神の栄光をあらわすことを人生最大の目的として常にこころがけているからです。

 ある特定の状況に関して導きを求める人には、主は扉をひらいたり閉じたりすることによって導きを示されます。すなわち摂理のおはからいによって、前途をとざしていた困難の壁をうちこわしたり、間違った方向へ向かう道をいばらの垣でふさいだりされるのです。彼らは自分たちの関心事が御手のうちにあることを知っています。主が導かれるときに、主が導かれる方向へ、喜んで従いたいと思っています。主を待たずに先走った真似をしたりしないよう細心の注意を払っています。ですから彼らはあせりません。信じているので心せくことがありません。むしろ日々祈りによって主のもとを訪れます。何かに非常に心ひかれるとき、また何かに非常に欲求をおぼえるとき、そういうときこそ彼らは最も警戒します。見かけにだまされているのではないかと用心します。そして主の光が照らす以上先には決して進もうとしません。主の光に照らされるまでは決して先に進もうとしません。少なくともそれが彼らの願いです。現実にはなかなかうまくいかなくとも、それが理想です。時には信仰が弱まり、全く自己中心な思いに支配されるときがあります。しかしこれが普段の心がけです。そして彼らの仕える主は、しもべらの期待を裏切りません。彼らに正しい道をふみ行かせ、何千という罠から守り、御自身が道案内となって常に彼らとともにいて、死に至るまで導いてくださるという安心を与えてくださるのです。

敬具

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