第15通
家庭礼拝 拝啓
昨今、信仰者の間では、あまりにも家庭礼拝がなおざりにされているようです。それで、あなたが家拝を義務とも特権ともお考えになり、やがて一家の長として立ったときには家族全員で神を礼拝しようと、恵みによって決心しておられることを私は嬉しく思います。アブラハムの偉かった点は、自分が主に仕えたばかりでなく、子どもらや家の者が同じように主に仕えることを切に願ったことです。信仰深いアブラハムの足跡をたどるようあなたの心を動かしておられるお方は、この企図においてあなたを祝福し、あなたの住まいに平安を与えてくださると私は確信しています。主を呼び求めない家庭にはめったにない、否、まず期待することもできないような神の恵みが、あなたの家にはあることでしょう。
さて私は、あなたのご質問に喜んで答えたいと思いますし、あなたのこの良き志を助け、勇気づけるようなことを少しでもお分かちできれば、これにまさる喜びはないのですが、家庭礼拝を最善に行なうための方法に関して、あなたが細々と質問されたことについては、残念ながらご期待に添うことはできないと思います。個々の家庭の事情はあまりにも多種多様で、決まった規則など定められませんし、神のみことばにも規定されていないのです。なぜなら、これは万人の義務ですから、知恵深く、また恵み深く、神の民ひとりひとりの異なった事情に合うよう、融通のきくものとされているのです。ですから、こまかい点については自分で判断しなくてはなりません。自分と家族にとって一番都合のいいと思われるやり方で行ない、聖霊が自由にまかせておられるところでは、変に良心的に自分を縛ったりしないのがよいでしょう。
公のものであれ私的なものであれ、祈りのための決まった時間とか、何度祈ればいいのか、というようなことを命じている明白な教えはありません。もっとも、「絶えず祈りに励みなさい」、「絶えず祈りなさい」というようなことばは、明らかに私たちがしばしば祈らなくてはならないことを暗示しています。ダニエルは日に三度祈っていました。詩篇作者も同じような習慣であったと語り、ある箇所では日に七度神をほめたたえると云っています。おそらく、この日に七度という表現は、正確に七回ということではなく、非常にしばしばということでしょう。実際、信仰と愛の実践に生き、神のもとに近づくことがどれほど素晴らしいか経験から知っている人にとって、決められた祈りの回数など、自分の友だちと話すべき回数を決めつけられるようなものでしょう。私たちは愛する人々とできるだけ一緒にいたいものです。愛は最高の詭弁家であって、単に強制と恐れの思いだけで神に仕えている人なら惑わされるような気後れや疑問を片っ端からはねつけ、解決してしまいます。そして信仰者は祈りにおいて最も安らぎを得、最も魂の自由さを得た日々を生涯で最も幸福な日々とみなすことでしょう。
しかしながら、家庭礼拝が「定められている」とは云えないと思います。確かなところは、少なくとも毎日、そしてよんどころのない事情がない限り、日に二度行なうべきである、というくらいでしょう。主にとっては、いついかなる時間も時期も同じであり、私たちに主を呼び求める心さえあれば、いつでも耳を傾けてくださるとはいえ、私たちにとっては祈りによって一日を始め、祈りによって一日を閉じることが特にふさわしいのです。朝には、夜の間守ってくださった恵みを覚え、これからの一日、からだにも仕事にもご臨在と祝福があるように願うことができますし、夜には、過ぎ去った一日のあわれみによって主をほめたたえ、犯した過ちについて主の前にへりくだり、赦しと愛を新たに示してくださるよう主をたずね、眠る間も私たち自身と私たちの心配事を主の配慮とみ守りのうちにゆだねることができます。もちろんあなたは最も仕事の邪魔が入らず、家族が集まるのに最も都合のいい時間を選ぶことでしょう。ただ私は、無理のない同じ時間をきちんと守っていくならば、家庭の規律と秩序を守るのに大いに力があるとだけ云っておきます。また同様に、できれば夜の礼拝は遅くまでのばさないにこしたことはありません。さもないと、家族のある者は(そしておそらくは、これを導く者自身)、疲れすぎたり眠すぎたりしていて、この務めにしかるべき注意を払えないでしょう。この点に関する私の忠告は、家庭礼拝を夕食の前に行なうようにすることです。これなら時間を自由に使うことができますから。
あなたの云われる通り、家庭礼拝の中でみことばの一部を読むという習慣は、たいへん当を得ており、好ましく思われます。また同様に賛美歌で詩篇を、あるいはその一節を自由に選んで歌うのもよいでしょう。ただしこれは聞き苦しくない程度に合唱を導けるだけの音感と声の持ち主が家族の中にいる場合であって、そうでなければ省いた方がいいかもしれません。祈るだけでなく、みことばの朗読と賛美が組み合わされた礼拝をするのならば、不都合なほど長くならないように注意を払うべきでしょう。
最も気をつけなくてはならないのは、霊的な礼拝であることです。定期的にやってくるあらゆる務めにおいて最も恐るべき、また最も警戒すべき害悪は形骸化ということです。もしも固定化した家庭礼拝のプログラムが、あたかも柱時計が時を打つかのように、同じ時間に同じやり方で守られ続けていくならば、不断に主を仰いで新鮮な思いを保つ努力をしないかぎり、そのうちほとんど機械的に行なわれるようになってしまうでしょう。これは家族の中にひとりでも回心していない人がいる場合、実によく起こることです。
そうした人がいるときには、その人たちに対して非常な配慮がなされるべきであり、すべてが彼らを啓発するために行なわれなくてはなりません。さもないと彼らは嫌気がさしてうんざりしてしまい、これは一家のしきたりか慣習でしかないのだと考えるようになるでしょう。一家の長がこの務めを行なうにあたって、だれていたり不熱心だったりするとき、またその他の場合でも自分のあらゆる行動について用心深く首尾一貫した態度をとっていないとき、確実にそういうことになるのです。
人は自分の子どもたちや使用人や客人の前で神への礼拝をつかさどることによって、(いわば)自分の行動を縛ることになり、それは他のあらゆる動機とともに、すべての悪いふるまいをつつしませるのです。自分が家族の者とともに祈りをもって一日を始め、家族の者とともに、やはり祈りをもって一日を閉じようとしているのだと思えば、家族の前での言葉づかいや感情を絶えずただすことになるはずです。使徒ペテロはこうした論理をもって、夫婦の互いに対するふるまいに感化を与えようとしています。そして、これは家族のだれに対しても同じようにあてはまることでしょう。「それはあなたがたの祈りが妨げられないためです」[Iペテ3:7]。つまり、罪深い感情に激して祈りが妨げられたり、退けられたり、活力や効力を失ってしまうようなことがあってはならないと云うのです。
一方、しかるべき行ないによって裏打ちされた、正しい家庭礼拝の励行は、子どもたちや使用人たちを信仰の偉大な真理のうちに教え導き、彼らの偏見を和らげ、尊敬と愛情の思いで満たす良い機会となります。そうした思いが生まれれば、彼らは喜んで従うようになり、親や主人を悲しませたり反抗したりすることを好まないようになるのです。
ここでも私たちは、他のどんな事柄でもそうですが、主がご自分の民に与えられた命令はいいかげんに定められたものではなく、良心的に従っていくかぎり、明らかに私たちの益となり、私たちにとって都合のよいものであることがわかるのです。主が私たちに家庭の中で主を認めるよう求められるのは、私たちのためなのです。主が私たちの貧しい礼拝を必要とされるからではありません。私たちが主の祝福を必要としており、主の恵みの力(これは求める者すべてに約束されています)がなくては、私たち自身も、また私たちにつながる者らもみな確実に不幸せになってしまうからなのです。
幸いにも夫婦が信仰をともにしている場合は、それぞれが個人的なデヴォーションを持ったり、家庭礼拝に集ったりする以外に、夫婦ふたりで祈るときを持つのがふさわしく、互いの益になります。夫と妻には、家族の他のだれとも違う、ふたりだけに共通した必要やあわれみ、関心事が数多くあるからです。
わずかな時間の中で、どのように夫婦がこの共なる務めを行なえばよいのかは、第三者があれこれ指示してもうまく行かないでしょう。ただ、あえて一言だけ云えば、夫がそばにいる妻のため祈るだけでなく、妻もそばにいる夫のために祈る。つまり夫婦が交互に祈るようにすれば、ふたりの慰めにとって大いに寄与するところがあると思います。
では夫婦は何度くらい一緒に祈るべきでしょうか。しなくてはならない他の勤めを妨げない限り、多ければ多いほどよいと思います。少なくとも一日に一回、そして時間の選択が許されるなら、他の礼拝の時から少し離れた時間がよいでしょう。しかし前に云ったように、明確な命令が与えられていない事柄においては、思慮と経験の命ずるところに従うべきです。
私はあなたが即席の祈りをなされるものと仮定して書いてきました。しかし、世には敬虔なキリスト者でありながら、まだ人前で準備なしに自由に祈ることのできない家長の方々が多いので、もう一言云わせてもらいます。
たとえそれが本当にできないという方であろうと、あるいはちょっとした気後れや自意識過剰のために自由に祈れないという方であろうと、それで家庭礼拝の祈りを省いていいことにはなりません。私たちにはさまざまな助けがあります。ジェンクス氏の祈祷書は多くの人が持っていますし、私の知らない同種のすぐれた本がたくさんあることも確かです。
人がもし、1つの型から始めて、その1つの型だけに固執することなく、それを恵みの御座の前における隠れた嘆願の一部として、祈りの賜物と祈りの霊をいただこうとするならば、またその型を用いるうちにも、自分独自の願いをところどころに差し挟むようにしていくならば、しだいに自由さと力が増し加わるのを感じ、ついには全く本をわきへやるようになるはずです。というのも、自分の家庭で神を礼拝することはあらゆる信仰者の義務であり、神がその礼拝を求めておられるので、信仰者は、すべてにおいて十分なものを受けるという御約束によりたのんでよいのです。
幸いなのは神への礼拝が絶えず良心的に守られている家庭です。そのような家は神がお住まいになる神殿であり、神の力によって守護された城塞です。
むろん家庭で神を尊んでいさえすれば、現在の不確かな状態につきものの試練を全く味あわずにすむとは私も云いません。そうしたある程度の試練は、あなたが受けている恵みを用いさせ、明らかにするため必要であって、患難の時のための約束がいかに真実で、いかに甘やかなものであるか、より確かな証拠を与えてくれるとともに、罪のからだを殺し、あなたをこの世からより効果的に引き離してくれるものです。
しかしこれだけは確実に云えます。主はこのようにご自分を尊ぶ者たちを尊ばれ、また慰めてくださいます。主はいたずらにご自分を求めるようお命じになったのではないと、あなたも、そしておそらくあなたの隣人も、否応なしに気づくときが来るはずです。あなたが困難に遭うとき、その困難には助けが伴っており、解放が続くことでしょう。そしてあなたは多くの機会に、主があなたの守護者であり、あなたとあなたの家族を、あなたの周囲で人々を襲っている害悪から守っておられることを実感することでしょう。
どうやら私は、はじめに申し上げた限度を超えてしまったようです。そこで最後に1つだけお願いをして終わりましょう。どうかあなたが恵みの御座で口を開くときには、私のことも思い出してください。敬具
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