牧会者の責任 I. 牧会者は、務めをゆだねられている役人である。
1. 彼らは、自分で自分を召したのではない。2. 彼らは、人々から務めを委託されたのでもない。3. 彼らは、神の召しを受けている。このことを証明するのが、第一に、彼らの称号である。第二に、聖書の宣言である。第三に、キリストと使徒たちによる実際の任命である。
II. したがって牧会者の責任は、究極的には神に対して負うべきものである。彼らには個人的責任のみならず、職務上の責任もまた負わせられている。
III. 牧会者は、自分が労苦した結果については責任がない。たとえ神の民が集められなかったとしても、神の目には必ずしも彼らが失敗者として映るわけではない。しかし、彼らは次のような点において責任を問われる。1. その教える教理について。牧会者は、真理を単純かつ明瞭に説き明かさなくてはならない。この点で失敗している牧会者とは、第一に、誤りを教える者である。第二に、真理を明確に伝えはしても、それに人間の知恵、sofia tou logou の混ぜものをしたり、水増ししたりする者である。第三に、何らかの理由によって教えることができない者である。あれをしろ、これをしろと命じたり、人を感激させたりすることはできるかもしれない。しかし、もし教えることができないなら、その牧会者はこの偉大な職務に不忠実な者である。真理は聖潔に達するために不可欠なものであるから、真理に関する牧会者の責任は非常に重い。
2. 牧会者は、その忠実さ・厳密さ・正確さに対して責任を問われる。第一に、神のご計画のすべてをはっきりと宣言することにおいて。人の顔色を恐れたり、人の受けをよくしたりするために、真理を引っ込める者は責任を問われる。第二に、罪を叱責することにおいて。第三に、誤りをただすことにおいて。第四に、信仰の試問を導くことにおいて。
3. 牧会者は、その勤勉さに対して責任を問われる。第一に、学びにおいて。第二に、そのすべての職務上の義務を果たすことにおいて。
4. 牧会者は、自分の霊性と人々に対する模範について責任を問われる。
IV. これらの責任をいやがうえにも重大なものとしていること、それは、1. 真理の重要さである。彼らは神の奥義を取り扱うのである。
2. ここには、キリストの栄誉、その御国の利益、魂の救いが、かかっているからである。
3. 牧会者自身の魂にもたらされる結果という点である。したがって、牧会の務めは恐るべき職務といえる。明確な、そして真実であるとよく吟味された神からの召命を持たずに、おいそれと乗り出してよいものではない。生活費のために、または安逸に暮らすために、あるいは人の尊敬を受けたいがために、牧会の任につこうなどとする者はわざわいである。