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信仰の挫折

 聖書には、2種類の信仰の挫折が述べられている。1. 信仰者だと自称している人々の挫折。2. 真の神の民が味わう挫折。
 I. 第一のものとしては、古のイスラエルの民の例が挙げられるであろう。神の礼拝を捨て、神の律法を守ることをやめ、偶像を礼拝し、異教徒の風習に従うようになったときのことである。
 このような信仰の挫折は、一般的に個々人についてのみ(民族としてのイスラエルについてではなく)限定して云えば、決定的な挫折であり、永遠の滅びに終わるものであった。
 それと同じ範疇に入れるべきものとして、キリスト教会の諸教会や諸集会の堕落がある。東方教会(ギリシャ正教会)も、ローマカトリック教会も、英国国教会も、スコットランドの教会も、オランダの改革派教会も、ドイツのルーテル派教会も、スイスのカルヴァン派教会も、みなこの種の堕落を経験している。ある場合、これは連綿とつづく背教の歴史であり、ある場合は一時的な後退であった。同じようなことが、キリスト者と自称する人々の信仰の挫折についてもいえる。信仰の力、霊的なものの息吹を多少なりとも味わい、自分でもまた他人からも本当に回心したキリスト者だとみなされ、教会員としての交わりと特権に余すところなくあずかっていた人々が、結局は再び世にかえり、信仰を捨てて、多くの場合、不道徳な生き方をするようになるか、信仰の教えをはっきり否定するようになるのである。ここで、不道徳になるよりは、信仰を否定する方が性質が悪い。このような人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることは、不可能な場合がある。ヘブル人への手紙6:6-10は、どれほど立派な信仰生活を送っているように見えた人、またどれほど深く、どれほどさまざまな霊的経験を味わった人でも、このように挫折することがありうるということ、そしてどれほどその堕落が恐ろしく、絶望的なものであるかということを示している。
 II. 神の民が経験する信仰の挫折。
 これは、しばらくの間は、先のものと区別することができないかもしれない。たとえ本当に神の子どもとされた者であっても、時にはひどく退歩して、自分が真のキリスト者であるという内面的な証拠をすべて失い、他の人に対してもそのような証拠を全く示すことができなくなってしまうことがありうる。しかし、この2つには天地ほどの差がある。失神して横たわる人と、死体となった亡きがらは、見かけはよく似ている。しかし、1. 失神した人の場合、表にはあらわれていなくとも、いのちが脈打っていることに変わりはない。2. 失神した人が失神したままでいることはない。必ず意識を回復する。ところが死人の場合、生きているという証拠は全くなく、息を吹き返す見込みなど論外である。
 神の民が信仰において後退する場合、まず第一に、霊的生命の内的原理の力が著しく弱まる。そして第二に、霊的生命のあらゆる徴候が非常に微弱になってしまう。こうして、次のような症状が増進していく。a. 神との交わりをないがしろにするようになる。b. キリスト者としての個人的な義務を怠るようになる。c. 心と、思いと、言葉に注意を払わなくなる。d. 外的な義務を果たすことも怠るようになる。e. この世的な生き方にならうようになる。f. 公然と罪を犯すようになる。
 単に、悔い改めに激しさがなくなったとか、喜びの思いが薄くなったとかいう感情的な起伏は、信仰の挫折の証拠にはならない。私たちの感情はさまざまな環境の変化によって絶えず移り変わるものである。感情というものは、たとえば一日のうちのどの時間かとか、天候とか、体調とか、人生のどの時期にあるか、などによって変わる。青年は、感情的にも起伏に富み、はつらつとしている。老人は、落ち着いていて穏やかなものである。信仰を失ったのではないか、と必要もなく悩む人がよくいるが、信仰の挫折をためす真の基準は、私たちの信仰や習慣や行動を規定する、心の敬虔が衰えたかどうかを判断するところになくてはならない。
 III. 信仰の挫折はなぜ危険なのか。1. これは、潜伏期間をおいて知らぬ間に進行するからである。2. これは、悪化に悪化を重ねる傾向を持っている。3. これは、神に対する非常に重い罪である。4. これは、進行を途中で止めなければ、最終的には確実に地獄の刑罰へと至るものである。この進行を止める力は私たちのうちにはない。私たちのまわりにも、他のキリスト者のうちにも、牧師や教役者のうちにも、恵みの手段(祈りや聖書や教会など)のうちにもない。ただ神のみこころににのみかかっている。5. これは、必然的に非常な苦しみと損失を伴い、さらにはキリスト教信仰に非常な不名誉をもたらす。
 IV. 信仰の挫折から回復するための手段。自分で信仰の挫折を自覚している者は、1. 悔い改めなければならない。2. 初めの行ないをしなければならない[黙2:5]。
 悔い改めるというのは、
 1. まず自分の真の状態を正しく認識すること。そしてこのような状態に陥った自分の罪をはっきり認めること。
 2. 堅い決意のもとに、聖い生活と折り合わないすべてのものとすっぱり縁を切ること。
 3. 自分の犯した罪と邪悪な生活を悲しみ、へりくだることである。
 初めの行ないをするというのは、まだキリスト者でなかったとき、最初に神の恵みを受けるために用いたのと同じ手段、同じ方法によって、神に立ち返ることである。
 1. 最初のとき私たちは、涙と願いをもって、熱心に神を求めた。長い間、絶えず、うむことなく続けた。それと同じことをしなくてはならない。
 2. 私たちは、キリストによって神に立ち返ろうとした。キリストの血潮を信じ、受け入れ、より頼むことによって、すなわちキリストに対する信仰を働かせることによって、神のもとへ帰ろうとした。それと同じことをしなくてはならない。
 3. 私たちは、備えられた恵みの手段をすべて勤勉に用いることによって神に帰ろうとした。勤勉に祈りをささげ、聖書を読み、熱心に教会に通ったものである。それと同じことをしなくてはならない。
 4. 私たちは、へりくだって聖霊の助けにより頼まなくてはならない。私たちは御霊の助けを受けるに値しない者となり、御聖霊の助けを取り上げられてしまった。だから、へりくだってもう一度その助けによりすがらなくてはならない。


信仰の挫折[了]

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