青銅の蛇 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」 ニコデモは、ユダヤ人知識階級の典型的な一員であった。彼は聖書を信じていた。敬虔な信仰者であり、人生に対して真面目な態度を持っていた。また、真理の知識に達することを熱心に求めていた。彼は自分の罪を率直に認めており、パリサイ人につきものの自己義認と高慢心から免れていた。しかし、彼は暗闇の中にあった。彼はユダヤ教の中で育てられていた。当時のユダヤ教の教義によると、救いはユダヤ人にしか属していないとされていた。もし他の民族で救われたいと願う者がいるなら、その者は生まれ変わってユダヤ人にならなくてはならない。肉によるアブラハムの子孫には、新生する必要はない。まさにこのようなことを彼は信じていた。信じていながら、しかし明らかに彼は、それだけでは十分でないことがよくわかっていた。ユダヤ人であるというだけでは十分ではない。モーセ律法をかたちだけ遵守するのでは十分ではない。彼は単なる形式主義者ではなかった。このような思いをいだいて彼はキリストを訪れた。そのようにキリストを訪れたこと自体、彼が自分の無知を自覚しており、教えを受けたいと熱心に願っていたこと、また彼が心から誠実であったことを証ししている。またこれは彼がキリストを深く敬っていたという証明でもある。彼が夜来たのは、おそらく小心であったためと、キリストが神から来た方であるということをそれほど深くは信じていなかったためであろう。われらの主は優しく彼と会われ、彼の心の状態にあわせて会話をなされた。ユダヤ教には、2つの根本的な誤りがあった。すなわちユダヤ教では、1. 肉によるアブラハムの子孫でありさえすれば、つまり選ばれた民と少なくとも外的につながっていさえすれば、それだけで救われると考えた。2. 行ない----つまり、その人の行為、人格、心の状態----こそ神に受け入れられるための土台だと考えた。しかし、われらの主は次のように教えられた。1. 救われるためには、内側で霊的に変えられなくてはならず、それは異邦人だけでなくユダヤ人にとっても同様に不可欠である。2. 神に受け入れられるための真の方法、すなわち義と認められるための真の方法は、行ないによるものではない。人が救われるためには、たとえるならば、あのヘブル人たちが蛇の噛み傷から癒されたときと同じような方法によらなくてはならない。
キリストが用いられたこの類比において重要なのは以下の点である。1. あの青銅の蛇は、さおの上につけられて、民の目の前に上げられた。それと同様に、キリストも十字架につけられて、すべての人々の前に上げられなくてはならなかった。「上げられる」ということを、ある人々が解釈するように、キリストが復活後、天の栄光の座に上げられたこと、すなわちキリストの高挙と解すべきではない。(彼らは単にキリストの犠牲の死という考えを排除したいがためにそうするのある)。その理由は以下の通りである。(a)「上げられる」という云い廻しは、アラム語においては(そしておそらくギリシャ語においても)、ほとんど完全に、現代の「絞首刑にされる」または「十字架にかけられる」という表現と同じ意味を示すものであった。ユダヤ人の間では、犯罪者は木にかけられた。たとえ生きたまま木にかけられなかったとしても、刑殺後は必ず木にかけられたのである。(b)この類比そのものが、そうした解釈を禁じている。あの蛇は、栄誉を与えられるという意味で高く掲げられたのではなかった。(c)キリストはこの言葉を他の箇所で同じ意味に使っておられる。「わたしが地上から上げられるなら」、これは、ご自分がどのような死に方で死ぬかを示して言われたのである[ヨハ12:32]。人々は、これをすぐ理解したので、「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか」と云った。これは、公衆の面前で十字架にかけられ、刑殺されることなのである。キリストはニコデモに、自分は十字架にかけられる。蛇が上げられたように、この自分も公に処刑されると語られたのである。
2. 蛇が上げられた目的は、民が肉体の死から救われて、健康とあらゆる人生の喜びとの中に再び回復されることであった。そのように、キリストが上げられる目的は、ご自分の民を永遠の滅びから救い出し、彼らのために永遠のいのちを確保するためであった。
3. どちらの場合も、手段は目的のために不可欠であった。民が癒されるには、蛇を高く上げる以外に手段はなかった。これは神が定められたことである。何物も代わりにすることはできなかった。これを拒否したり無視したりすることは、すなわち癒されるための唯一の手段を退けることであった。そのように、キリストの死は救いのための唯一の手段である。これをもし知らなかったり、無視したり、拒絶したりするならば、その人は滅びるのである。人はキリストの死にかわるものを見つけ出そうとして、数限りない試みをしてきたが、すべて無駄であった。彼らは、キリストの死が救いという目的を達成する手段としてはふさわしくないと思って、それを抱くのを拒み、滅びるのである。しかし、もしあのヘブル人たちが、一体どうして青銅の蛇が生きている蛇に噛まれた傷を癒すなどということがあるのか、自分はこの2つの間にある因果関係を突きとめるまでは、この助けの手段は拒否する、納得するまで受け入れたくない、などと云っていたら死んでいたであろう。キリストの死により頼まなくてはならない罪人も、これと全く同じである。
4. 癒されるための条件は、単に見ること----この世で最も単純なこと----であった。これはすべての人に可能なことである。老人にも若者にも、無学な者にも知識人にも、善人にも悪人にも、富者にも貧者にも可能なことである。必要なものは、この条件だけであった。後追い条項は何もなかった。将来どういう歩みをするかなどという誓いや約束はまったく要らなかった。キリストの救いの場合も同様である。私たちは、ただ見上げれば----肉体の目ではなく、魂の目で見上げれば----いいのである。見上げるということにふくまれるのは、(a)見上げるものについての知識、すなわち理解。(b)それが、神によって定められた癒しの手段であるという確信。(c)その救いの効力に対する信頼。従ってこの救いの手段は、あらゆる階層の、あらゆる人に可能なものである。
5. この癒しの性格について。あの蛇に噛まれたヘブル人は、蛇の毒液から解放され、死から解放され、再び人生の活動といのちへと回復された。そのように私たちも、罪の毒液から解放され、罪の有罪宣告から自由にされ、新しい、滅びることのない永遠のいのちを受けたのである。
ここから私たちは以下のようなことを教えられる。
1. 福音が告げる救いの方法は完全に無代価である。功徳だの功績だのという考えはすべて取り除かれる。
2. 私たちが救われるべき理由、私たちの救いの根拠は、私たちのうちにはない。私たちの外側からくる。
3. 人間が神と協力して自分を新しく生まれさせたり、神との最初の和解をなしとげたりすることはできない。新生や最初の和解は、ある部分は人間が行ない、ある部分は神が行なうなどというものではない。
4. 癒されるために自分で何かを準備するなどということは不可能であり、不必要である。私たちは、ありのままの自分で行くしかない。
5. あのヘブル人たちの癒しは一瞬にして成し遂げられ、最終的なものであった。私たちの救いにも、ある意味ではそのような面がある。しかし、別な意味においては、私たちの救いは漸進的なものである。私たちは、何度も何度もイエスを見上げる必要があり、絶えずイエスを見上げつづけなければならない。そして、イエスだけを見上げなければならない。
6. 私たちはここから、罪人をどのようにして導けばよいかを学ぶであろう。