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キリストを告白する


 I. 告白する (omologein) とはどういうことか。 1. 他の人々と同じことを云うこと。同意すること。2. 約束すること。3. ある人物(または、ある物)を、その人物(または物)が本当にそうであるところのものと認めること。宣言すること。

 II. したがって、キリストを告白するとは、彼を本当にそうであるところのお方と認め、そのように宣言することである。すなわち、それは

 1. キリストが神の御子であることを認め、宣言することである。
 2. キリストが、肉体をとって現われた神であると認め、宣言することである。
 3. キリストが世の救い主であることを認め、宣言することである。
 4. キリストを主と認め、宣言することである。

 III. この告白は、具体的にはどのようになされるべきか。

 1. キリストがそのようなお方であるという確信を、単に自分の心の中で抱いているだけでは不十分である。また、単にそれを自分自身に対して告げるとか、それを神に対して告げるとか、自分に賛成してくれる友人に告げるだけでは足りない。

 2. この告白は、公になされなくてはならない。すなわち、友人であるか敵であるかに関係なく、どんな人の前でも、なされなくてはならない。そのことによって良く云われようと悪く云われようと、また、たとえそれが人の非難を浴びたり、身に苦難をまねいたりするとしても、何の危険もないときと同じように告白しなければならない。

 3. この告白は、自分の口を使ってなされなくてはならない。ただ単に、人に私たちの行動を見せて、自分がキリスト者だということを察してもらおうというようなことだけでは足りない。私たちは口に出して、相手に聞こえるように告白しなければならない。

 4. この告白は、(a)私たちの日常の会話の中でなされなくてはならない。(b)また、神が定められた手段、すなわちバプテスマと主の晩餐にあずかることによって、なされなくてはならない。

 5. この告白は、心からのものでなければならない。『主よ、主よ』と云う者がみな天の御国にはいるのではない[マタ7:21]。外に表わされた行為によって内側の思いが証しされていなければ、何の値打ちもない。

 IV. キリストを告白することによってもたらされる益。

 1. 信仰が強められる。だから私たちは使徒信条を唱えるのである。

 2. この告白は、私たちが新しく生まれた者であるという証拠である。なぜならこの告白は、私たちが、イエス・キリストの御顔のうちに輝く神の栄光を理解しているという証しだからである。

 3. これは、救われるために欠かせない条件の一つである。なぜならば、(a)神がそれを求めておられる。(b)告白しないということは、すなわち否定することである。(c)否定するということは、信仰の欠け、または身を捨てて従っていこうという思いに欠けがあることを示している。

 4. キリストは、御自分を認める者たちを認めてくださる。彼はそれを公になしてくださる。神の御使いの前で、御自身の口をもって、私たちが永遠の救いにはいる者であると認めてくださるのである。

 V. キリストを告白することは、私たちの義務である。

 1. これは単なる命令ではない。
 2. 人の顔色を恐れずに真理を真理と認めることは、最も重要な道徳的義務である。特に、人前で神を神として認めることほど大きな道徳的義務はない。
 3. これは、私たちがキリストに栄光を帰し、他の人々にもキリストを認めさせるための、最も直接的な手段である。

 「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」(マタ10:32)

 「だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。」(ルカ12:8)

 「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」(マコ8:38)

 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ロマ10:9、10)

 「もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。」(IIテモ2:12)

 「人となって来たイエスを告白する霊はみな、神からのものです。」(Iヨハ4:2)

 「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」(Iヨハ4:15)


キリストを告白する[了]

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