4. 預言からの議論ルーテル教会の有するルター訳聖書とアウグスブルグ信仰告白、英国国教会の有する信仰箇条と典礼と説教集、そしてキリスト教界全体の有する新約聖書、これらはみな、それぞれが伝えられてきた通りの起源に由来するものであると証明された。同じ議論はユダヤ人の有する旧約の書物についてもあてはまる。旧約聖書が古代の預言者らの著作であることは、これまで述べた例と同じくらい強力に証明することができる。現在旧約聖書を有しているのはユダヤ人とキリスト教徒である。両者は今から1世紀前も旧約聖書を有していた。キリストの時代にも有していた。紀元1世紀において旧約聖書の存在は、すでにユダヤのみならず全世界に住むイスラエル人のあまねく認めるところであった。歴史的に旧約聖書は、キリスト降誕の何世紀も前にさかのぼることができる。キリスト降誕に先立つこと300年も前に、旧約聖書はギリシャ語に翻訳され、広く世界に流布していた。ユダヤ民族の歴史的存在と特徴は、世界のどの民族にもおとらず確認されているが、旧約聖書はそのユダヤ民族の歴史、法律、文学をふくんでいる。旧約の書物なしにこの民族の民族的性格として知られているものを説明することはできない。彼らは、これらの聖なる書物のおかげでそのような性格を身につけるに至ったからである。確かに批評家たちは、一部の著作の執筆年代について議論を重ねている。しかし、旧約聖書がキリスト生誕の数世紀前から存在していたことまであえて否定するほど大胆な学者は、いまだかつて出たためしがない。これまでのことを認めるとき、私たちはキリスト教の真実性を示す強力な議論の土台をもう1つ手に入れたことになる。
自他ともにキリストの敵と認める人々の手に握られていたこれら古代の書物の中に、私たちは一人の救世主の出現が明確に予言されているのを見出だす。エデンにおける堕落の直後予告されたのは、「女の子孫は、蛇の頭を踏み砕く」ということであった。この予言は、以後のすべての預言の萌芽である。これ以外の預言は、単にこの予告の多種多様な意味を明らかにするものにすぎない。この子孫とはだれか、どのようにして彼は悪の力を打ち滅ぼすのか。それを後の予言は徐々に明らかにしていったのである。まず最初に示されたのは、この贖い主はセム族に属するということである(創9:26)。つづいて彼はアブラハムの子孫となることが示された。アブラハムに次のような約束が与えられたのである。「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」(創22:18)。それから彼はユダの部族から出ることが示された。ユダについてはこう予告されている。「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う」(創49:10)。さらに彼はダビデの家系から生まれるはずであることが明らかにされた。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」(イザ11:1、2)。
彼の到来に先立って特別な使者が現われることが予言された。「『見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。』と万軍の主は仰せられる」(マラ3:1)。この救い主の誕生する時も、場所も、方法も、みな予言された。時についてはダニエルがこう云っている。「それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間」(ダニ9:25)。彼の奇蹟的な誕生の方法については、イザヤが述べている。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(イザ7:14)。場所については、ミカが云う。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る」(ミカ5:2)。
この救世主は、貧しい人となるはずであった。「見よ。シオンの娘よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は貧しく、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」(ゼカ9:9)。彼は「悲しみの人で病を知っていた。----彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ」るはずであった(イザ53)。にもかかわらず彼は、「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」であり、その名は「主は私たちの正義」、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」、と呼ばれる(エレ23:6; イザ9:6)。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めであった(ミカ5:2)。
このように予告された贖い主は、預言者すなわち神から来た教師としての性格をもって現われるはずであった。モーセは云った。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」(申18:15)。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者、わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす」(イザ42:1)。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ」るために(イザ61:1)。「その日、耳しいた者が書物のことばを聞き、盲人の目が暗黒とやみの中から物を見る。へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ」(イザ29:18、19)。
この方は、祭司でもあられるはずであった。「主は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。』」(詩110:4)。「彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がい……る」(ゼカ6:13)。
この贖い主が王としての性格を持つこともまた、預言者の書の多くの箇所で述べられている。メシヤについて神は云われた。「わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに」(詩2:6)。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた」(詩45:6、7)。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあ……る。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで」(イザ9:6、7)。
このメシヤ王国の性格もまた明らかに予告されていた。それは、それ以前の時代の外的、儀式的な性格とはうってかわり、霊的な性格の王国となるはずであった。「見よ。その日が来る。----主の御告げ。----その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖……と結んだ契約のようではない。……わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレ31:31-33)。だからこそ聖書は、あれほど何度もくりかえして、約束の贖い主が到来されるとき聖霊が注がれると語っているのである。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し……」(ヨエ2:28)。
またこの王国はユダヤ人だけに限定されないものとなるはずであった。早くも創世記において、すべての国々がシロに従うということ、またアブラハムとその子孫によって地のすべての国々が祝福を受けるということが宣言されていた。神はメシヤに向かって、国々をゆずりとして与え、地をその果て果てまでもあなたの所有として与えようと約束された(詩2:8)。イザヤは云った。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る」(イザ2:2)。神は云われた。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の光とし、地の果て果てまでわたしの救いをもたらす者とする」(イザ49:6)。「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め」る(イザ11:10)。ダニエルは云った。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(ダニ7:13、14)。しかし、この王国は徐々に進展するはずであった。人手によらず山から切り出されたその石は、鉄と青銅と粘土と銀と金、すなわち他のすべての王国をこなごなに打ち砕き、大きな山となって全地に満ちることになっていた(ダニ2:45)。
預言者たちはこのように高らかに、この贖い主の気高さと栄光と勝利を書き記してはいたが、それに劣らぬほど明確に、この方が排斥されること、苦しみを受けて死に渡されることをも予言した。「私たちの聞いたことをだれが信じたか。主の御腕はだれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。人が顔をそむけるほど彼はさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザ53)。「人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かって……王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す」(イザ49:7)。予告によれば、彼が贖おうとしてやってきた民は、彼を排斥するばかりか、彼を裏切り、銀貨30枚で彼を売り渡すはずであった。「『あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。』すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。主は私に仰せられた。『彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ』」(ゼカ11:12、13)。彼はむごたらしい迫害を受けて殺されるはずであった。預言者は云う。「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた」(暴虐な裁判で抹殺された)。「彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた」(イザ53:8:9)。彼の死に方とそのようすさえ、ことこまかに予告されていた。「悪者どもの群れが私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」(詩22:16、18)。しかし、彼はいつまでも死の力に屈してはいないはずであった。「まことに、あなたは私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません」(詩16:10)。
メシヤを拒絶した結果ユダヤの民に起こることも、きわめて明確に予告されていた。イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、テラフィムもなく過ごす。その後イスラエル人は帰って来て、終わりの日に、主とその恵みに来る、と云われる(ホセ3:4、5)。たとい イスラエル人が海辺の砂のように多くても、残りの者が立ち返る(イザ10:22、23)。国民の反抗的な部分については、こう云われる。「主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。……これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。……主があなたを追い入れるすべての国々の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう」(申28:64-66、37)。それほど散らされ苦しめられてもなお彼らは、断ち滅ぼされないはずであった。神は約束された。「彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを断ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない」(レビ26:44)。さらに予告されたのは、長い離散の年月の果てに、彼らは自分たちの十字架につけた王を認めるようにさせられるということである。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民のうえに、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く」(ゼカ12:10)。やはり同じ預言者が予告しているのは、この民が、良き「牧者」を拒絶し裏切った後で、その敵たちに引き渡され、しいたげられるということ、彼らの大部分が滅ぼされること、しかし残った者が長い苦しみを経たのち回復されるということである(ゼカ13:7-9)。
ユダヤ教の聖書から、このようにキリストとその王国に関する預言を部分的に拾い出してくるやり方は、非常に不適切なものである。この問題を十二分に示すには、旧約聖書をことごとくひもとかなくてはならない。旧約の時代が預言的であるというのは、単に所々で予言がなされているということではない。旧約時代の第一の目的は、あるものの予表、備えとなることであった。確かに旧約時代にも、直接果たさなくてはならない目的はあった。イスラエル人を特別な民族として保ち、真の宗教を保存し、神が教会を治める聖なる完全性を明らかに示すことである。しかしすべてはこの大目的に従属するものである。旧約時代の真の目的は、キリストの民とこの世をキリストの来臨のため備えること、新約時代の栄光をおぼろげに示すことにあった。すなわち、当時の人々に信じ待ち望むべき対象を与えつつ、来たるべき新しい啓示がよりよく理解され、より堅く信じられ、より多くの場所で受け入れられるように備えるという二重の目的を果たすことにあった。歴史と預言を織りなすこのような計画の前では、いくら聖句を寄せ集めてみても、それは古代遺跡に散らばる破片のようなものである。神のご計画を正しく判断するには、個々の細部だけでなく全体を見なくてはならない。そのとき初めて私たちは、ユダヤ人の歴史はキリストの血統の歴史であったこと、すべての犠牲律法は世の罪を取り除く神の子羊の予表であったこと、幕屋・神殿・複雑な供儀祭式はみな天にある霊的本体の予型であったこと、民を教え矯正する者として預言者らが遣わされたのは、単に一時的な解放を予告するだけのためでも、主として一時的解放を予告するためでもなく、むしろ何よりも民の目をかの偉大な大解放者と最終的贖いの待つ上へ、先へ向けさせるためであったことがわかる。切れ切れの聖句からでは、この途方もない大計画の全容をつかむことはできない。これは数千年にわたって準備され、預言されてきた大計画であり、何千もの章句が唯一の中心----キリストの十字架に向かって集約されているのである。
それゆえ、いかに預言からの議論によってキリスト教の真実を裏づけようとしても、その真価は、旧約聖書の全体系を偏見なしに研究する人にしかわからない。にもかかわらず、旧約聖書の数々の預言と、新約聖書に記録された一連の出来事は、神の霊感によると考えなければ説明のつかないほど一致している。そう云えるだけのことは十分示されたはずである。私たちは、キリスト降誕の何世紀も前から偉大な救い主が出現すると預言されていたことを見てきた。彼はユダ族のダビデの家系から、ベツレヘムの村で生まれるはずであった。彼は貧しく、卑しい生まれにもかかわらず、神だけが受けるべき崇拝にふさわしい方であった。彼は教師、祭司、王となるはずであった。ご自分の民から退けられ、迫害され、殺されるが、死者の中からよみがえるとされていた。神の御霊は彼の弟子たちに注がれ、彼らに、聖さと知恵と勇気を与えるはずであった。そして真の宗教は、もはやユダヤ人の独占物ではなく、異邦人にまで広がり、いかなる反対を受けても絶えることなく、勝利をおさめ、ついには地をおおうようになるはずであった。メシヤを退けたユダヤ民族は打ち捨てられ、散り散りになるが、それでも消えうせることはない----さながら大洋に注ぎ込んだ河のように、散らされても消散しない----はずであった(これは現代も続く奇蹟であり、まさに比類なき、常識を超えた事実である)。さてここには、キリストとその王国の全歴史が、キリスト降誕の数世紀以上も前から書き記されている。1つ1つの箇所を取り上げてみれば矛盾きわまりない歴史である。特定の時代、特定の個人によって書かれた歴史ではなく、異なる時代、異なる人々によって、少しずつ新しい事実や新しい特徴が書き加えられていった歴史である。にもかかわらず、すべてを統合するとき、これは一見矛盾しているように見えながら、実は首尾一貫した全体像をかたちづくっているのである。
もしユダヤ教の聖書の古さを認めるのであれば(これを否定する者はいない)、避けることのできない唯一の結論は、旧約聖書は神の霊感によって書かれたということ、そして旧約聖書があれほどはっきり言及しているイエス・キリストは神の御子であり、世の救い主であるということである。こうした過去の預言を知ったキリストが、神からの命令もなく、預言に自分の行動を合わせていった、などと想定することはできない。それはイエス・キリストが悪人だったと考えることであり、新約聖書を読めば、そのようなことは太陽が暗黒色をしていると信ずるのと同じくらい信じがたいことである。またそれは、どんな詐欺師にも不可能な仕方で、キリストが他人の行動を支配していたと考えることである。キリストに関する最も重要な預言の多くは、彼の敵の行動によって成就された。キリストがユダをそそのかして裏切らせたのだろうか? キリストのうながしで祭司らは銀貨30枚を払ったのだろうか? キリストは自分を有罪にするようピラトと共謀したのだろうか? ユダヤ式でなくローマ式の死刑で死ぬよう自分で仕組んだのだろうか? キリストが兵士らに自分の着物を分け合わせ、下着のためにくじを引かせたのだろうか? 自分の骨が1つも砕かれないよう兵士らと取り決めたのだろうか? そして一体どのような策を用いれば、あの2つの大預言----ユダヤ国家が最終的に崩壊しユダヤ民族の離散が起こること、また新宗教が異邦人の間で急速に伝播すること----を実現させることができただろうか? これらの出来事はあらかじめ預言されており、いかに策を巡らそうが到底人力で引き起せるものではなかった。合理主義では、この預言からの議論に答えは出ない。イエス・キリストがメシヤであるとの聖書の証言は神の証言なのである。救い主ご自身がこう述べておられる。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハ5:39)。
それゆえ神は、不信仰への道をここに閉ざしておられる。人が何もかも知りぬいた上で不信者になるには、普通とは違った目で物事をねじまげ、道徳的にありえないことをいくつも信じ、両立するはずないことをいくつも信じなくてはならない。そして何よりも、救い主の完全な気高さに対して心をかたくなにしなくてはならない。
信仰の根拠についてこのように解説してきたのは、不信仰が罪であり、「信じない人は罪に定められます」、とのキリストの恐るべき宣言が正当であると示すためである(マコ16:16)。人は、自分の信仰・不信仰については責任がないと高をくくっている。信心は無意識のうちに生ずるのだから、称賛されたり非難されたりする理由はないと云う。こうした誤った考えが起こるのは、まるで性質の違うものを混同しているためである。信仰は信仰でも、何を、どんな証拠をもとにして信じるかで全く異なる。人は、2足す2が4であるとか、ナポレオンがセント・ヘレナ島で死んだと信じるが、そう信じるからといって道徳的に良くも悪くもならない。そうした事を信じない人は、頭が変だとは云えても道義的に悪とはされない。しかし美徳は悪だ、悪徳こそ美徳だ、などと本気で信ずる人があるとしたら、それは骨の髄まで堕落しきっている人であろう。同様に、人が神を信じない----特に、啓示を与えられているにもかかわらず信じない----という場合、それは、その人に正しい道徳的・宗教的感覚が全く欠けているという証拠である。また神がその御子について与えられた記録を信じられないという人は、そのことによって、自分が神の栄光と救い主の道徳的気高さについて盲目であること、はっきり神の証言であるとわかる形で伝えられた神の証言をそれと認められずに拒否していることを示しているのである。
したがって、神もイエス・キリストも信じないという人が、自分に罪はないなどと思おうとしてもむだである。この外的世界すら神の手の跡をはっきりとどめていて、それを神の作品と認めようとしない人に弁解の余地がないほどであるなら[ロマ1:20]、いわんや神のみことばの気高さ、神の御子の栄光を認めようとしない者が潔白だなどということはありえない。目の前には何億、何千万もの人々を確信させてきた証拠があるのだから、その証拠によって確信すべきである。自分の不信仰について弁解してはならない。故意に無視したり、盲目であったりしない限り証拠は感じられるのである。決定的証拠がないなどと文句を云う前に、自分の不信仰の罪を告白し、神の前でへりくだるべきである。そして自分の目を開き、みことばの気高さを悟らせてくださるよう神に祈るべきである。つまらぬ云いがかりをつけるのはやめて、こう確信すべきである。もし今この穏やかな栄光によって信仰を持てなければ、いつの日か神のみことばは、それが真に神のことばであることを、自分の覚醒した良心に向かって、恐怖によって示すであろう、と。
神のことば・聖書[了]