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どうすれば信仰に知識を加えることができるか

ジョナサン・エドワーズ

1. 聖書を熱心に読みなさい。聖書は神に関する知識の泉である。自分の間近にあるこの宝庫を無視してならない。普通の頭を持っており、読むことができる人なら、望みさえすれば聖書によく通ずることができる。そして、これを成し遂げるのは何とすばらしいことだろう!

2. ざっと目を通すだけで満足しないで、何を読んでいるかわきまえなさい。通り一遍に読むだけというのは悪い読み方である。こんな読み方をしている人がたくさんいる。読むときには、何を読んでいるのかわきまえなさい。一体そこで何が起こっているのか考えなさい。会話の流れに注意を払い、聖書の他の箇所とくらべてみなさい。というのは、聖書は異なった箇所と箇所とが調和しているので、比較しあうことにより、より透徹した理解が与えられるからである。キリストは、はっきりと聖書を「探る」ようにお命じになった。これは明らかに、単なる通り一遍の読み方以上のことを云われたのである。また聖書の意味をとる手段を講じなさい。講解説教でみことばが説き明かされたなら、注意を払いなさい。前に分からなかった箇所が満足のいくまで明らかにされたときには、それを書き取って、できるものなら覚えてしまいなさい。

3. 聖書以外にも、あなたを養い、この知識に進ませてくれる書物を手に入れ、それを熟読しなさい。人をこの知識に進ませるすぐれた書物はたくさんある。時間のあるときにそうした書物を読むことは、非常に有益で快い慰めとなるであろう。多くの人が、わずかな出費を惜しんでこの種の助けを手に入れようとしないのはまことに遺憾なことである。人は安息日に読む本は少々持ってはいる。しかしそれを手に入れたのは昔のことであり、毎週毎週くりかえし読んできたために、何の新鮮味もない退屈な物語、単なる義務に成り果てているのである。

4. 他の人との会話を活用しなさい。他の人との会話をしかるべく用いれば、人はどれほど互いに信仰の知識を増すことができようか。もし愚かな人がその無知を恥じることなく他の人々から学ぼうとするならば、----またもし知識のある人が、高ぶりやひけらかしぬきにその知識を人に伝えるならば、----さらにもしすべての人が互いに徳を高めあい、教え合おうと喜んでそうした会話に加わるならば、どれほど有益であろうか。

5. 人の賞賛を得たり、議論に勝つために知識を得ようとしてはならない。信仰の知識は自分の魂の益のため、また実行に移すために求めなさい。人の賞賛を目当てとするならば、真理の知識へ導かれるどころか、自分の知識を誇る輩と同様に破滅へ至る過誤に陥ることになるであろう。人がこのような邪心を持ちながら万が一正しい知識に達することがあったとしても、それは何ら益をもたらさずに、ただ天狗の鼻を高くするだけである。「知識は人を高ぶらせる」(Iコリ8:1)。

6. この知識を求めるにあたっては、神の導きと祝福を求めなさい。これは使徒の命じたところである。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい」(ヤコ1:5)。神はすべての聖い知識の源泉であられる。「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられる」(箴2:6)。真の知識に至るのでなく誤りに陥るということがないように、自分自身の無知と盲目、神の助けの必要を絶えず感じていなさい。「知者になるためには、愚かになりなさい」(Iコリ3:18)。

7. 自分の持てる知識に従って実行しなさい。これがさらに知識を加える道である。詩篇作者は自分自身の経験から、神の真理を求めるこの方法を暖かく勧めている。「私は老人よりもわきまえがあります。それは私があなたの戒めを守っているからです」(詩119:110)。キリストも同じように勧めておられる。「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人にはこの教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」(ヨハ7:17)。

[了]

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