詩篇1篇
---- この詩篇が教えているのは、不敬虔な人はだれひとり幸いではなく、敬虔な人だけが幸いである、ということである(1、2節)。このことは3つの理由から証明される。第一に、神は、現世においてすら敬虔な人々を祝福し、自分にも他人にも有益な良い行ないをもたらすという恵みを与えてくださるからである(3節)。だが、不敬虔な人が自分を幸せにしようとして何を行なおうと、それはやがて打ち砕かれ、まるで無駄であったことがわかる(4節)。もう1つの理由は、来世において、よこしまな人は、最後の審判の日に、神の御前および敬虔な人々との交わりから追放されるからである。第三の理由は、先の2つの理由の念押しになるが、神は敬虔な人の道を是としておられ、不敬虔な人の道の最後を滅びとなさるからである。
1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。敬虔な人が幸いであると宣言され、悪者[不敬虔な人 <英欽定訳>]がそうされていないことから学びたいのは、 1. 人々の間には罪と悲惨さがあふれているとはいえ、幸いに達することもできる、ということである。というのも、神はここで、ある人々を幸いであると宣言しておられるからである。 2. 幸いを追い求めることに関して、すべての人は、目に見える教会の内外を問わず、神の道によって幸いになることを求める敬虔な人々と、幸いを求めていても神の道によってそうしようとしない不敬虔な人々とに二分される。というのも、ここでは、あらゆる人が、その2つに分けられているからである。 3. だれが幸いな人かという問題を決するのは、神にだけ可能であり、神の御手だけが人を幸いにできる。というのも、ここで神は、敬虔な人を、「幸いなことよ」、と自らあえて宣言しておられるからである。 4. 不敬虔な人々は、自分の心の、また自分と似たような人々のはかりごとに従って幸いになろうとし、その自分たちを賢いと考えている。だが、これは幸いな人の道ではない。幸いな人は、「悪者のはかりごとに歩ま」ない。 5. 不敬虔な人は、罪を犯す行き方を執拗に続けるが、幸いな人は、たとえ罪に惑わされることがあっても、自分の罪を弁解したり、罪を犯し続けることはない。その人は、「罪人の道に立た」ない。 6. 不敬虔な人は、ついにはそのきわみに達して、敬虔さを愚劣なものでしかないとあなどり、戒めと叱責を軽蔑するような状態に成り果てることがある。だが敬虔な人は決して、他人のうちにある敬神の心や、自分に差し出された教えをあなどったりするほど心をかたくなにすることはない。その人は、「あざける者の座に着か」ない。 7. 幸いな人は、聖書に記された神のことばを、罪と悲惨さとを治癒するための助言者とし、自分の幸いさが完成するまで自分がのっとって歩むべき基準とする。というのも、その人にとって聖書は、信仰の従順は、おきてであり、至高の権威で囲いをめぐらされた法律だからである。それは、「主のおしえ」なのである。 8. 人は、敬虔で幸いであればあるほど、メシヤなるキリストを介して神と和解させられる道、またキリストを介しての神と交わりにおいて成長する道を差し出している神のことばを、何にもまさって喜び、満足するようになる。「その人は主のおしえを喜びと」する。 9. 人は、主のおしえを喜びとすればするほど、寸暇を惜しんで、その教えに通じようとする。その人は、「昼も夜もそのおしえを口ずさむ」。
3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。これは、なぜ敬虔な人だけが幸いな人であり、不敬虔な人はそうではないかという、第一の理由である。ここから学びたいのは、 1. 人は、みことばを喜びとし、瞑想することによって、神との聖い交わりを深めれば深めるだけ、確立した者となり、キリストから《恵み》の影響を受け、キリストにある霊的いのちを豊かにいだくものとなる、ということである。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ」。 2. 神のことばを喜びとする人は、差し出される機会に応じて、あらゆる良いわざの実を豊かに結ぶものとなる。その人は、「時が来ると実がな」る木のようである。 3. この人は、順境のときのみならず、逆境においても、神に対する信仰と従順という聖い告白を証しできるようになる。その人の「葉は枯れない」。 4. この人は、いかなる義務、あるいは神への奉仕に取り組むときも、必ずや神からの助けを受け、良い結果に至らされ、確実に神に受け入れていただくことができる。「その人は、何をしても栄える」。 5. 不敬虔な人は、世の前ではいかなる者に見えていようと、霊的いのちを全く有しておらず、神の恵みと交わることが皆無で、どんな良いわざにも不適格で、強く誘惑されるとすぐ屈し、その偽りの信仰告白をかなぐり捨て、その行なうことすべてにおいて呪われている。というのも、ここで幸いな、敬虔な人について云われているあらゆることと、悪人は正反対だからである。「悪者は、それとは違」う。 6. 不敬虔な人は、見かけはいかに敬虔でも、あるいは物質的に富んで見えようとも、あるいは幸いの希望を有しているように思えても、やがてそれは、まがいものにほかならないこと、その人が最も困窮するときには何の役にも立たないものであることを露呈する。不敬虔な人は、「まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ」。
5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
なぜ敬虔な人が幸いな人であり、不敬虔な人がそうではないかを証明している第二の理由は、第一の理由となった事がらの帰結である。ここから学びたいのは、 1. 不敬虔な人の不幸は、肉的な幸福のために蒔いたものが、みなもみがらであるばかりでなく、その人が、散々苦労したあげくに、審きの日には神に弁明することとなり、そこで罪に定められる、ということである。ここには、「悪者は、さばきの中に立ちおおせ」ない、と書かれている。 2. 敬虔な人々は、現世では様々な理由により、互いに交わりを楽しめないとしても、最後には、すべての聖徒が一堂に会することとなり、ともに神との完全な交わりを持つことになる。というのも、最後の審判の日に彼らは、捨てられることも、罪に定められることもなく、完全に罪を赦された者として、「正しい者のつどいに立」つことになるからである。 3. いかに現在は、不敬虔な人々と敬虔な人々が生活をともにし、1つの王国や、町や、仕事場や、目に見える教会や、家族や、ことによると寝床の中に混在しているとしても、最後には、両者が完璧に分離されるときがやって来る。というのも、罪人たち(あるいは罪のしもべたち)は、「正しい者のつどいに立てない」からである。
6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。
第三の理由は、先の2つの理由の念押しである。ここから学びたいのは、 1. 確かに生ある人間のうち、罪を犯さない者はだれひとりいないとはいえ、信仰によって義と認められ、努めて信仰の実を結ぼうする敬虔な人は、神の評価においては罪人ではない、ということである。というのも、その人はここで正しい者と呼ばれているからである。 2. たとえ敬虔な人の行動に、いかに多くの不完全さや失敗が伴っていようと、その人が守ろうとしている道筋、その人が歩もうとこころがけている道は、聖く、神に受け入れられるものである。というのも、「主は、正しい者の道を知っておられる」、すなわち、それを是認しておられるからである。 3. この世の人々は、神を認めないその態度で自分を喜ばせ、互いにほめそやしあってはいても、彼らの道筋の最後は、永遠の滅びにほかならない。というのも、「悪者の道は滅びうせる」からである。
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