ARCHIBALD ALEXANDER
老人が人生の後輩に贈る20の助言 アーチボルド・アレグザンダー
ARCHIBALD ALEXANDER
まことに残念なことに、概して若い人々は老人の忠告に耳を傾けるということがない。この好ましからざる傾向の原因には、老人に対する1つの偏見があるように思われる。若者たちに云わせれば、たいがいの老人はしかつめらしく、厳格なしろもので、若者が喜びを見いだすような様々な状況や物事に対して、新鮮な感受性を失っている。それで、ねたましさのあまり老人は、若者に対してゆがんだ感情を持つのだ、というのである。たしかに一部の老人には、少し厳しすぎると責められても仕方のないところがある。老人の中には、若者に向かって、世間で春秋を経て年を重ねた人にしかふさわしくないような重厚さを求める者がある。だが人生の青年期における気質と老年期における気質は非常に異なっているものだ。青年の気質は快活で陽気で、感受性はみずみずしく、愛に胸をこがし、希望に心おどらせるのが普通である。青年の目には、世界のすべてが新鮮に映る。次々に現われくる人生の局面は、何もかも目新しくて興奮に満ちている。こうした青年期の特質は、道をふみはずしたり行き過ぎたりしない限り、何ら不当なものではない。むしろ愛すべきものですらある。この若々しい感性を犠牲にして、老人的な感性を身につけるにはあたらない。老人の落ち着いた重々しい気質は、年を重ねた当然の結果として、また長く困難な人生経験の末に生まれるものなのだ。しかし、次代をになう若人たちへの訓戒として、先人の経験が教える知恵と教訓を供するのは、大いにほめられてよいことに違いない。そこでここでは、次の世代のために少しばかりの忠告を提供しようと思う。一般的に云って、以下の助言はどれもみな、読者がどんな立場にあろうと非常に重要なものばかりである。ただ、はじめる前に1つだけ約束しておこう。これは決して青年たちの罪のない楽しみを邪魔しようというものではない。また、青年たちの楽しみを取り上げようというものでもない。ただ青年たちの最上の利益を害するようなものに対してだけ警告しよう。著者は、読者である若人に向かって心暖かな友人として語りたいと思っている。頭のかたい鬼教師としてでも、がみがみ叱りとばす雷親父としてでもなく。だから以下に述べる助言は、どうか忍耐をもって、また率直で公正な心をもって聞いてもらいたい。
1. 自分の生活はいくつかの確かな原則の上にうちたてて、一定の規則に従って規律ある行動をすること。
人は理性に支配されるように造られたものであるから、単なる気まぐれや偶然で自分の行動を左右するべきではない。だから早いうちに、生きていく上でどんな方針が自分にとってふさわしいかを考え、未来の生活設計をたてはじめることが大切だ。まわりの人々の行動を見れば、これがどれほど必要なことかは明らかだろう。多くの人々はその場その場の感情に流されて、行動した結果については考えようともしない。確固たる目的は何1つ持たず、何の行動原則も定めていないのだ。そのようにいきあたりばったりな仕方で正しい選択ができたら奇跡だろう。正しい道をゆくためにはそれがどんな道か知らねばならず、それを知るためには考えなしの軽はずみな行ないをやめ、時間をかけて真剣に考えるべきである。自分でよく考えもせずに周囲の人々の意見を取り上げても何にもならない。人は悪意をもって欺くかもしれない。誤りや偏見によって目がくもっているかもしれない。すでに遊び暮らすことを覚えてしまった人や、過誤に陥って目の見えない人々は、自分の云うとおりにしている人はたくさんいるぞといって威張るものだ。しかし実は多くの人をそそのかして悪の道に引き込んでいるにすぎない。だから理性をそなえた人間らしく、生きる道として何が正しく、何がふさわしいことなのか自分自身で判断することだ。自分自身の理性を自主的に、また公平に用いて、単なる気まぐれや、世間の流行や、他人の意見に右ならえしてはならない。
2. 若いうちにあらゆる機会を用いて有益な知識を身につけること。
理性はわれわれを導くべきものだと云ったが、その理性も正しい知識に基づいていなければ何の役にも立たない。たとえば、どんなに目が良くても暗闇では物が見えないのと同じだ。人はみな生れつき知識に対して飢え渇きを持っている。われわれは単にそれを啓発し、正しく導いてやればよいのである。もちろん、すべての人が同等の機会を持っているわけではない。だれもが平等に重要な知識を手に入れることができるわけではない。しかし知識という目標をめざすことには、単なる知的進歩にまさる大きな利益があるのである。ではわれわれはどこから知識を得ればいいのか。そのための手段をここで逐一あげるにはページ数が足りない。だが主なものだけあげよう。それは本と生きた人々である。本について云えば、史上これほど書物に恵まれた時代はなかった。書店に積まれたこの膨大な本の量、多様に分化した種類と傾向が、読書をこころざしながら賢明なガイドを持たない者にとって最大の妨げとなっていることは事実だ。手当たりしだい何でもかんでも乱読しろというのは、あまり当を得た助言ではないだろう。たとえば新聞に載っているのは有益な知識ばかりではない。本当らしくみせかけた嘘っぱちがまことしやかに飾りたてられていることも多い。多くの本は無益なもの、でなければ概して有害なものである。致命的な害毒を秘めたものさえある。だから下らない小説などに時間を浪費してはならない。悪徳を体裁よくみせかけたような本にふれてはならない。本を選ぶには、良識ある友人のアドバイスを求めるのがいい。
しかし、人は自分より賢く善良な人々と会話することからも多くを学ぶことができる。世間で少しは春秋を経たような人なら、何かしら若者のためになる助言を与えることができるものだ。だから若者はあらゆる機会に自分の知らないことを学ぶようにするとよい。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥という。いつどこで自分の無知をさらけだすことになるかもしれない。知識欲を胸にいだき、注意を怠らず、いつどこで出会うかしれない教訓に向けて心をひらいていることである。
しかし特に勧めたいのは、自分を知る努力をすることだ。「なんじ自身を知れ」、というのはギリシヤの有名な金言だが、古代ギリシヤ人はこれほど素晴らしい教えはないと云い、これを考え出した偉人はギリシヤでも指おりの聖人、先哲のだれかれに違いないと信じていたという。それどころか、これがあまりの名言であるため、これをデルフォイのアポロ神の神託であると信じる人すら少なくなかった。プリニウスによれば、デルフォイのアポロ神殿の門扉にはこのことばが黄金の文字で麗々しく書かれてあったそうだ。
自分を知るというこの知識は、聖書の中でもやはり最も有益かつ必要な知識として説かれている。パウロは云う。「あなたがたは、……自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうち……を、自分で認めないのですか(自分を知らないのですか)」[IIコリ13:5]。また旧約でも、この知識の価値は十分に認められていて、人は「自分の心に語り」、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」、と訓戒されている[詩4:4; 箴4:23]。そして自分自身について知りたいと熱烈な祈りが捧げられている。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください」。「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください」[詩139:23; 26:2]。
この知識はどんな人にも必要である。同時にこの知識は、だれでも手に入れることのできるものでもある。だがそれは、倦むことなく自分を吟味していなければならないという条件つきである。人間本性の中にはこの自己吟味、自己批判ということに対して、生理的、心情的に根強い嫌悪感が存在しており、多くの人はこれに全く手を染めようとしない。これは非常に惜しいことだ。しかし、もし自分を吟味することにしたとしても、それだけでは不十分である。うぬぼれと偏見によってだまかされる危険がある。われわれは、よほど自分に対して正直で公平でなければ、自分がどういう人間か正しい認識を得ることはできない。正直さと公平さ、それが絶対に必要である。ただし、誠実に真実を見きわめようと努力することだけでも足りない。さらに必要なのは、一体どれほど誠実でなくてはならないのか、その基準について心の目が開かれていなければならない。「みことばの戸が開くと、光が差し込み……ます」[詩119:130]。神のみことばを心の中に豊かに住まわせ、聖書の主義原則によって自分自身の状態を判断する。これでなくてはならない。これこそ人の内奥の道をさぐる主の灯である。この燈火を持たずに真の自己認識を得ようとするのは、明かりのない暗い部屋で物のかたちを見分けようとするのに等しい。できるものではない。しかし聖書を日々精読しつつ自分を吟味するならば、われわれは日ごとに自分という人間がどういう人間かよくわかってくるだろう。
自分がどういう人間か知ろうとするとき、周囲の耳あたりのよい意見をたよりにする愚かな人がよくいる。気をつけることだ。他人には、われわれの行動の陰にあったら動機を知ることはできない。また人はおせじやおだてを云うものだ。
さらに、良い機会をとらえて、内心の隠れた気質について知っておくことを勧めたい。状況が急変して、ふいに自分の感情がむき出しになるそのときまで、われわれは自分の内面の真実について ひとさま同様なにも知らないのだ。
また自分の体質をわきまえておくこと、ある特定のものごと状況に対してどのような反応を示すのかよく心得ておくことである。多くの場合われわれは、自分の敵や自分を中傷する人々からさえ学ぶことができる。彼らはわれわれの性格上の弱点を実によく察知してくれる。われわれの欠点は決して見逃さず、毛ほどの傷も口実にして非難してくる。だから実は、友人連中のおせじなどよりも、好かない連中のいやみの方が有益なものとなるのである。
さらに自分の才能について正しい評価を下しておくことを勧める。何かの仕事を引き受けるかどうかというときに、そういう自己判断が必要になるのである。
3. 努力して良い習慣を身につけること。
永続的な習慣は、そのほとんどが若いころに身につく。そしてそうした習慣が、人の一生にわたる性格の土台を形成するのである。ある人は(確かパーレイだったと思うが)こう云っている。われわれは、熟慮して1回行動する間に、習慣から9つの行動をするものだ、と。若い人々は、自分が常習的にくりかえす行動の多くがやがてどれほど重大な結果をもたらすか、ほとんどまるでわかっていないようだ。習慣の中には、不便ではあるが道徳的には無害なものもある。しかし、ある種の習慣はわれわれの行動原理に深い影響を及ぼし、はかりしれぬほどの善または悪の原因となる。もちろん前者にあたる習慣も避けた方がよい。つまらない習慣によって行動を不自由にされると、結局は有益な仕事ができなくなるからだ。しかし後者に属する習慣は、徹底的に取り除かなければならない。こうした習慣はわれわれの性格をねじまげ、われわれの精神的、道徳的進歩を大いに妨げるのである。
4. 自分のつきあう仲間や友だちは注意して選ぶこと。
ことわざにも云われることだが、「ある人の人柄を知るには、その友人を知ることだ。」。「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれる」[Iコリ15:33]。不道徳な連中と仲間づきあいをするのは、何にもまさって悪徳を蔓延させるものである。一頭の羊が伝染病にかかると、群れ全体が感染してしまう。それと同じように、ひとりの悪人が、その生き方にかぶれた若者全員を堕落させ、多くの徳を台なしにしてしまうことは決してまれではない。特に、その不道徳な人間が才気と魅力的な物腰を身につけている場合、彼とかわす会話は青年にとって致命的なものとなりうる。親愛なる青年諸君! 道徳的に疑問のあるような人間とは、決して親しく交わってはならない。自堕落な人間と友だちになるのは非常に危険である。たとえ彼らが言葉たくみに語りかけても聞いてはならない。心からなる親愛の思いを口にしても耳を貸してはならない。彼らは伝染病患者と同じなのだ。近づいてはならない。断じてそのような人間と同調してはならない。そういう連中と親友になるのは、まむしを友とするようなものだ。うわべや見かけで人を判断してはならない。さもないと物腰や態度の優美さでまんまとだまくらかされてしまうだろう。もっともらしい外見の下には恐るべき猛毒がひそんでいるのだ。
「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」[IIコリ6:14]と聖書は命じている。心の優しい真面目な女性が、浮わついた遊び人と結婚することほど、不つりあいなことがあるだろうか。神を信ずる敬虔な男性が、未信者の軽薄な女と結ばれることほど不似合いなことがあるだろうか。だから、そうした人間とはつきあわないよう特に注意することである。むしろ、賢くて善良な人々との交際を求めるがいい。そうすれば、そうした人々の会話によって今よりもずっと賢く、善良になるだろう。
5. 良い評判を得て、努力してそれを守ること。
「名声は多くの富よりも望ましい」[箴22:1]。人はたとえ破産したとしても失った財産は取り戻すことができる。しかし、失った評判は取り返しがつかない。若い人は、自分では思いもよらぬうちに、つまらぬ評判のもとを作っていることがよくある。今は夢にも思わないかもしれないが、人が小中学校、高校、そして大学で得た評判は、まず一生の間ついてまわるのである。若いうちから嘘や悪さやペテン行為を常に繰り返していると、成人したとき疑いの目で見られることになる。自分の名前についた汚点は、容易なことでは洗い落とせない。過ぎた日の若気の過ちが、忘れたころに露見したため、狼狽し、評判を落とす人は少なくない。しかし、中でも特に、女性の評判は非常に微妙でもろいものだ。ほんのちょっとした軽率さが、派手好きな若い娘にしばしば恥辱の焼き印を負わせることになる。後になってからどんなに慎み深くふるまってみせても、それを全く拭い去ることはできない。
もちろんわれわれが勧めているのは、戦場の栄誉を求めて人を戦さへとかりたてるような間違った名誉精神ではない。いまだかつて人間の生き血を流した人で、良い評判を確保したり高めたりした者はいないのだ。われわれの勧めたい評判は、裏表のない、常にゆるがぬ徳行から生ずるものだけである。このような評判を勝ち取るのだ。これは心の平安にとってはかり知れぬ価値を持っている。またわれわれの最も有効な武器となる。人間にとって、最も役に立つ最も実際的な武器は、他人に対する影響力であり、これは全く評判1つにかかっているからだ。
6. 世事にあたっては倹約をこころがけ、思慮分別をもってふるまうこと。
借金はわれわれにたいへんな厄介と、難儀と、心痛の種をもたらす。借金は避けなくてはならない。商売をするときには注意深く勤勉に働くこと。収支の計算を怠りなく行ない、どこをどうつっつかれても現在の営業状態がどうなっているのかはっきりした答えが出せるようにしておくことである。だらしなくいいかげんに取引をしている人は、ただそれだけのことで、そのつもりもないのに他人に迷惑をかけ、損害を与えることがある。こういう人は、そのうちに自分の収支を確定することに対してどうしようもない嫌悪を覚えるようになる。そして自ら招き寄せようとしている破滅に目を閉ざし、それまでの習慣からか、あるいは見栄のために、好ましいと思われる道を後先考えずに突き進む。そしてついに、差し迫った困難から逃れるため、やむにやまれず何らかの手を打たなくてはならなくなると、厳密にいうとあまりかんばしくない手段にたよるように強く誘惑される。現在の信用を保つことができれば、運も向いてくるだろうし、真面目に働いてすべて元通りにすることができるだろう、友だちにも迷惑をかけずにすむはずだ、と自分をごまかすのだ。しかし失地回復のためのこうした努力はたいてい役に立たない。状況は日ましにのっぴきならないものとなっていくのが普通である。そしてとうとう、自分が没落しつつあることに気づいた人は、しばしばやけを起こし、やぶれかぶれになって借金に借金を重ねては、自らの家族のみならず、自分を無条件に(あまりにも無条件に)信頼してくれた誠実な友人たちもろとも破滅させることになるのである。
これと同じくらいよくあるのが、事業で失敗した人が、家族を路頭に迷わせまいとして、健全な道徳観念からすると決して是認できないようなあこぎな手段に訴える場合である。妻子の幸福を願うやさしい心から生ずる誘惑は非常に強力なものであるが、抵抗不可能なものではない。商取引の世界では、称賛に値する多くの美談、名誉心と潔癖な廉恥心の実例がたくさんある。そういう人たちは、しようと思えば自分に投資してくれた人々をだましたり、信頼してくれた友人たちを巻き添えにすることもできたのに、不名誉な行為で手を汚すくらいなら、むしろ自分ひとりで無一文の恐怖に直面し、また何不自由ない身分にあった愛する家族が微賎の谷間に没落していくのを見る方を選んだのだった。しかし長い目でみると、それはかえって有益である。ごまかしたり、嘘をついたりして、曇りない良心と誠実を失ってまでしてどんな便宜を得たとしても、到底かなわぬほど有益だったと後でわかるのである。事業に失敗したとき、一時しのぎのために自分の評判を犠牲にしてかえりみない事業主は、世間の同情をほとんど得ることができないし、当然再起することなどおぼつかない。しかし、たとえ不運にみまわれたとしても、正直さを失わず、人格の廉潔さに汚点を残さなかった人には、しばしば好意のこもった援助が寄せられ、再び事業に乗り出すこともできる。富も地位もある人々から励ましと支援を受け、生計を立てる道を得ることもできるようになる。こういう人はしばしば成功をおさめて、災厄の荒れ狂った時期に恩恵を施してくれた人たちにやがて十分お返しができるようになる。
実業界に身を置く者は、野心に支配されないよう警戒しなくてはならない。手広く商売を行ない、業界の首位に立つ者として自他ともに認められたい。そうした高慢な心は、抱負に満ちた多くの若い商人をそそのかす。また利得を求める貪欲な心は、それ以上に多くの人々を誘惑し、危険きわまりない投機や、手持ちの資本で到底まかないきれないような取引に手を出させる。こうして破産者がちまたにあふれたので、破産などありきたりのニュースになってしまった。ぜいたくと安楽な暮らしになれた家族、蝶よ花よと育てられた子どもたちが貧乏のどん底につき落とされているのである。わが国の大都市はこうした家族であふれている。お恵みをお恵みをとやかましく騒ぎ立てるそこいらの厚かましい乞食などよりも、実はこうした人々の方がずっと憐れみを受けるに値する人々だ。こうした人々がどれほど困窮しており、どれほどの苦しみに遭っているかは、なかなか実状がわからない。無遠慮で無神経な世間の蔑みや憐れみなど受けたくないというプライドが彼らにはある。自分たちの窮状を世間さまに訴えて助けを求めるくらいなら、貧窮をつつみかくし、ひそかに痩せ衰える方を選ぶのだ。しかしながら、キリスト者の慈善家はこうした苦しみに会っている人々を探し出し、必要な助けを与えてなおかつ、その気持ちを傷つけたり逆なでしたりしないですませる方法を見つけだすであろう。
以上の助言は特に実業界で働く人々に適している。しかしその他の人々にも全くあてはまらないというわけではない。正直さ、誠実さは商人のいのちである。だがこれはあらゆる人がめざすべき非常にすぐれた特質である。そしてどんな人でも、多くの不運がたてつづけにふりかかれば、困窮しないでいるわけにはいかない。したがってここで私は忠告したい。商売を始めるとき、また商売に従事するときには、思慮と分別を持つことだ。不運な事態にみまわれたなら、誠実さを失わず、他人の信用を失わないような行動を取ること。決して苦しまぎれにやましい手段に訴えたりしないこと。正義を守り、最後まで名誉ある原則にのっとった行動を取ることである。
7. キリスト者として首尾一貫した人格をめざすこと。
道徳的に首尾一貫した心は、均整の取れた優美な建築物にも似て美しいものだ。そこには何1つ欠けたものがなく、何1つ余計なものが見えない。首尾一貫した心を自分のものとし、その心を保ちつづけるには、ただキリスト者としてふさわしい性格をあらゆる部分で錬磨するしかない。徳は、どんな隙間もゆがみもない完全な球体としなくてはならない。すべての面でバランスの取れている調和した人にはごくまれにしかお目にかかることがない。ある面では活発で力にみちあふれている人が、別の面では弱々しく、貧弱なようすをしていることがある。ある特定の種類の徳において傑出している人は、そのほかの徳には欠けた者となりがちである。これは非常によくあることで、人間があらゆる徳において卓越した者となることはできないのだと多くの人は考える。だから、並外れて意志の強い大胆不敵な人が、心の柔和さと優しさという点ではたいして目立たなくても全く異とされないのである。しかし、生まれつきの気質の違いがあることは重々認めたうえで、われわれは声を大にして云わなくてはならない。キリスト者生活の1つ1つの徳は、あちらを立てればこちらが立たずなどというちぐはぐなものではない。いや、そのようなことはありえないのだ。キリスト者の徳はみな同じ1つの根から生え出た枝であり、その1つに栄養分を与える原理は、すべてにその恵みをわかち与えるのである。どんな真理もうわべだけ、しかも一面しか見なければ、互いに矛盾して見えるだろう。しかし、真理はみな互いに調和している。それと同じように、すべての徳行は互いに完全に調和しあっていて矛盾がない。それだけでなく、他を支えあい、引き立てあうものなのだ。嘘ではない。何人かの著名な決議論者の著述家などは、キリスト者はバランスの取れた人格を持っていなければ、その信仰は純粋なものではないとさえ述べている。その主張によると、1つの徳だけが非常にすぐれていて、その他の徳がいちじるしく欠けているのは、にせの信仰のしるしだという。確かにありそうなことである。
こう考えるべき理由は多々ある。というのも、激しい烈々たる情熱を燃やしてはいるが、その情熱のため他の徳がほとんどかき消されてしまい、へりくだった心や、柔和さ、兄弟愛など、キリスト者の本質的部分であるものを全く持っていないという人がしばしば見受けられるからだ。ある人々は、神を礼拝することにかけては、どんな儀式も厳密に守り、どんな外面的義務をもゆるがせにしないくせに、人を相手にするとあまり正直でも誠実でもない。その一方で、自分は徳の高い人間だと鼻にかけていながら、信仰的に不熱心なことでは名うてな者がたくさんいる。キリスト者であることが間違いない人たちも、道徳に関する原則を、個々の状況にどう適用したらよいか洞察力に欠けているために、やはり行動のちぐはぐさという点で責められることが多い。何をなすべきかという大原則ははっきりとしたもので、だれにでも簡単にわかるのだが、多くの複雑な状況に面したときに、何が正しくて何がよくないことか峻別できるだけの力を備えた人はごくまれである。善悪を見分ける微妙で鋭敏な感覚は、本人のたゆみない努力に加えて、上よりの恵みを受けてはじめて身につけることができるものなのだ。キリスト者の徳など何も深く考える必要はない、ごく簡単なものだ、などという人々はあまりにもこれらのことを軽く考えすぎている。これは非常に間違った考え方である。多くのキリスト者が不完全で不安定きわまりない状態にあるのは、もとをただせば、道徳上の行動原則について正確なところをはっきり、正しく理解していないことに由来しているのである。ある特定の行動が正しいか正しくないかという問題ほど意見の分裂を招くものはない。善良な意図を持つ人々でさえも、何が最もふさわしい道かという点に関しては、疑問と困惑に満ちた立場にしばしば追い込まれることがあるのである。
しかし、たしかにキリスト者に首尾一貫性のなさをもたらすのが、正しさに関する厳密な基準への無知であることが多いとはいえ、ほとんどの場合それは単なる不注意と忘れっぽさである。人が純粋に自分の主義原則から行動することはほとんどなく、慣習から、流行から、性癖から行動することがあまりにも多い。このようにして、人は自分の行動にどんな道徳的性質があるかよく考えもしないで多くの行動をしているのである。悪を行なって良心に何のとがめも覚えないというのは、道徳的な感受性がにぶいのである。またよく認められるもう1つの原因は、誘惑に遭ったときに心の中を占めている情動または欲望である。内側にある悪の原理の力は、悪を行なうのに好都合な物事や情況があらわれないうちは感じ取れないものだ。寒さで冷えている間は無害に見えるまむしが、火のそばに近づけられると牙をむくように、われわれの罪もふだんは死んでいるかのように胸の奥でじっとしている。しかしそれは、何か興奮をさそうものが行動にかりたてるまでのことである。そしてその人は自分でも思いもかけなかった情動の力に驚くことになるのだ。
このように、人はある特定の状況に置かれると、普段とは全く逆の行動を取ることがしばしばである。だからある人が一度だけ道にはずれた行ないをしたからといって、その人がそれまで人前でしてきた行動が偽善だったと思ってはならない。それは、その人が何か油断したひょうしに、またはある強い誘惑を受けたために、それまでよく制御し、抑制してきたような本能が、その人の善い方の行動基準よりも強大になってしまったというだけである。こういうわけで、普段は品行方正で規律正しい人が、時として思わぬ過ちを犯してしまう。この弱さはどんな人も免れえないものであるから、もし罪を犯した兄弟が誠心誠意悔い改めているというあかしを立てたなら、彼を受け入れて、以前と同じようにつきあっていくのでなくてはならない。人間というもの、この世にある間は、たとえ最善の状態にあったとしてもなお不完全な被造物なのである。こうした欠点が全く見られないという人がいるとしたら、それはただ恵みによって神の近くに生きている人、常に目をさまして熱心に自分自身を見張っている人以外にない。しかしこういう人でも、信仰が弱まって不安定になると、やはり節を捨ててキリスト者としての性格に傷をつけてしまう。従って若い人は早いうちから目をさましていることを覚え、すべての守るべきものにまさって自分の心を守ることを始めるべきである。さもないと、自分の情欲によって罠にかかり、誘惑の力によって打ち負かされることになろう。だからこそ若者諸君には首尾一貫した心をめざしていただきたいのである。キリスト者にふさわしい性格をあらゆる部分で開発錬磨し、心の徳が美しい均整をあらわすようにすることである。
キリスト者としてふさわしい首尾一貫した性格について述べてきたが、つまるところ自分の情動を支配するということにつきる。自分の情動を制御できない人は、舵の制御もなく、羅針盤の進路指示もない船が、海の上で荒れ狂う風に吹き回されているようなものだ。甘やかせば情動はあっというまに力をつける。そしてそういう甘えの習慣をつけた罪人は、道徳性が非常に低下し、ほとんど回復しがたくなってしまう。堅く立って動かされないためには、自分の性格的弱点をよくわきまえ、自分の情動の力を少しでも理解し、キリスト者としての信仰告白にもとるような行動にかりたてるおそれのある機会や誘惑に対しては、前もって身を守るのでなくてはならない。自分の情動と戦って勝利を得た人は多い。生来は短期で怒りっぽい気質の人も、不断の訓練によって常に平静を保っている。だから、たとえ内心では生まれつきの情動がもがいていようとも、表面では完全に制圧されているので、他人の目にはまるでそのようなものがないかのように映るのだ。
これは、ソクラテスと人相見についての話がよい例であろう。ある人相見がかの大哲人の人相を観じて、あなたは気難しくてたいそう短気な方でありましょうと見立てたところ、ソクラテスの弟子たちは師の気質をまるで取り違えたこの人相見の浅学をあざ笑ったという。ところがソクラテスは弟子たちの笑い声をさえぎって云った。自分のもともとの気質は、まさしくこの人相見の看破したとおりのものであった、と。彼はただ哲学の訓練によって、自分の情動を全く表面にあらわれないほど支配することができていたのである。このような勝利をかちとるのは、戦場の勝利をおさめることより偉大な名誉である。賢人は云う。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」[箴16:32]。また「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」[箴25:28]と。だから若者諸君、若いうちから自分の情動を制御し、自分の気性を支配するようにしていただきたい。
8. 摂理によって置かれた自分の立場、状況に満足すること。
神のおはからいに文句を云ったり、この世で自分より上の立場にいる者をうらやんだりしてはならない。自分の持っていない物のことよりも、いま持っている物のことを考え、自分にまさる境遇にある人のことよりも、自分より劣った境遇にある人のことを考えること。暗い面よりも明るい面に目を留めるようにするのだ。確かな根拠もない不安におびえたり、落ち込んだ気分に身をまかせてはならない。堅忍不抜の心を養い、絶えず平静を保つこと。日常のちょっとした不幸にいらだったり、うろたえたりしないようにすること。他人はいつ辛辣な言葉を投げかけ、無礼な仕打ちをするかもしれない。だから人間を自分の幸福のよりどころとしてはならない。物事が最も暗く最も沈んで見えるときには、喜ばしき日の夜明けがそれだけ近づいていることを信じて、魂に忍耐を教えることである。
9. 人と交わる際には、心からの真実、名誉、正義、親切、礼節を心がけ、これを行動の規範とすること。
「慇懃」さは、社会生活を円滑にし、話をする相手の人を喜ばせるという点で、大いにほめられてよいものだと思う。なのに人はこの言葉にとかく悪いイメージをくっつけがちである。しかし純粋な意味での慇懃さは、確かにそれ自体は徳でないにせよ、高潔な行動にさらに優雅さを添えるということに間違いはない。無作法で下品な様子をしていて何の得になるというのか。だがここで特に問題としたいのは、世間一般で常識になっている美徳はきちんと守るようにせよ、ということだ。正直であること。公正な判断を下すこと。誠実であること。約束を守ること。信頼を裏切らないこと。どんな人にも優しくすること。敬うべきものを敬うこと。分相応に気前よくふるまうこと。恩を受けたら感謝すること。他人に恩を施すときはデリカシーのある態度を取ること。そして、邪念のない誠実さをもって行動することなどである。卑しむべき手段や、陰険な手段には決して訴えてはならない。むしろ公明正大な率直さ、ねばり強い忍耐強さ、寛大な広い心をもって生きることである。つまり、「自分にしてもらいたいことはほかの人にもそのようにしなさい」[マタ7:12]。
10. 単に自分ひとりのためだけでなく、他人の幸福のためにも生きること。
利己心は心を狭くし、魂を硬くしてしまう。利己的な目的追求に狂奔しているだけの人間は、この世の最も甘美で、最も高貴な喜びを味わうことができない。われわれをお造りになった創造の主は、われわれが、自分自身の幸福を直接追求するときにではなく、他人の益を思って働くときにこそ、最も激しい喜びを感じるような法則をお定めになった。この法則があればこそ、他者のために自分をささげつくし、あたかも自分を忘れたかのようにして生きる人の方が、むしろ自分だけしか愛さず、自分ひとりのためにあらゆる努力を行なう人よりも、はるかに幸福なのである。この原理に立って、われわれの主は、「受けるよりも与える方が幸いである」、と云われたのである[使徒20:35]。人々のためになることに対して無関心であってはならない。他人のために幸福をはかってやることで、自分の幸福が少なくなるのではないかなどと恐れてはならない。気前よく持ち物をわかち与えること。必要ある人に対して、強欲な心から手を閉ざさないこと。与えて、敬虔と人間愛において成長することである。
11. 人間関係におけるすべての義務を忠実に、また良心的に果たすこと。
対人関係から生ずる義務は、他のどんな義務にもましておびただしいものである。われわれは四六時中、この種の義務を果たしていなくてはならない。親としての義務、子としての義務、兄弟、姉妹としての義務、隣人としての義務、主人としての義務、従僕としての義務、教師としての義務、生徒としての義務、公職につく者としての義務、市民としての義務、知的職業人としての義務、実業家としての義務、富める者としての義務、貧しき者としての義務などなど、こうしたものには、どんな人も多大な時間と注意を傾注しないでいることはできない。そしてこれは、われわれの人格をはかる適切なテストとなる。「小さな事に忠実な人は、大きい事にも忠実です」[ルカ16:10]。日ごろから、自分の持ち場で生ずる日常的な義務を満足に果たそうともしない人間が、ただ徳が高いとか、敬虔だとかいう評判を得たいがために、何か公共の福祉のためになるようなとてつもない善行を行なったとしても、無駄なだけである。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与えて……も、愛がなければ、何の役にも立ちません」[Iコリ13:3]。
12. われわれを取り巻く危険と誘惑に対して、油断することなく警戒すること。
われわれは絶えずこうした危険や誘惑の攻撃にさらされている。そうした危険の数はあまりにも膨大で、いちいち詳述するわけにはいかないが、二三を挙げておこう。まず、不信仰な思いをそそのかすようなどんな誘惑からも、真剣に身を守ること。信仰をぐらつかせるような考えや、信仰の否定につながるような疑いは、端からぴしゃりと締め出すことだ。たとえ万が一、そうした不信仰な思想体系が正しかったとしても、そこには何の慰めもないし、人生に何の助けももたらさない。それより最も安全な道は、キリスト教信仰を確かにするような証拠を勤勉に学んで、あらをさがしたり、けちをつけてくる不信仰な議論に対して、あらゆる点で万全の備えをしておくことである。こうした問題を専門に扱っている著書に親しみ、自分の信仰をしっかりとした根拠に基づかせることだ。
警戒を要するもう1つの危険は、快楽、すなわち官能の欲である。世的な楽しみは、たとえどれほど無邪気なものに見えても、隠れた危険に満ちている。こうしたものはわれわれの気分を浮き立たせ、想像を刺戟し、ついには理性と良心を黙らせて、人生の真の目的を忘却の彼方へ押しやってしまう。肉欲のためには、すべての大切なもの、聖いものがないがしろにされ、人生で最も貴重な部分が無駄に費やされてしまう。だから、放蕩無頼な生き方という渦巻に巻き込まれないよう用心しなくてはならない。特に、暴飲深酒につながるような誘いに対しては、それがどんなに些細なものであっても、警戒しなくてはならない。この、飲酒という泥沼へつながる坂道では、これまでも幾多の勇士が倒れ伏し、二度と立ち上がることがなかった。この陰険で破滅的な悪徳の戦勝記念碑は、至るところに立っている。そこで、賢明かつ善良なわれわれの先輩たちは、この敵に対抗するための手だては、断固として徹底的に禁酒をつらぬく以外にないという結論に達したのである。親愛なる若者諸君。人生の幸福は、有益な目標と、自分の義務を果たすことにある。そうした幸福を追求することだ。そうすれば危険は何もないし、官能の欲を賛美する者らを羨む必要もない。
13. 舌を制すること。
この助言は、今述べたばかりの助言によく似ている。舌という小さな器官は、他のどんなものよりも多くの罪、多くの害をもたらしていると云えるかもしれない。言語の能力はわれわれにとって最も有用な賜物の1つではあるが、あまりにもしばしば悪用されがちである。だからこそ聖書では、自分の舌にくつわを掛けることのできる人を「完全な人」と呼ぶのであり、「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけない」者については、「そのような人の宗教はむなしい」と宣告しているのである[ヤコ3:2; 1:26]。われわれが口にする言葉は、われわれの心の道徳的状態がどんなものであるかを、相当の程度示すものである。「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです」と、われらの主は云われる[マタ12:37]。言葉による罪は何ものよりもおびただしいばかりでなく、人間の犯しうる最も極悪な罪をふくんでいる----あの赦されることがないと云われた罪でさえ、言葉の罪なのである[マタ12:32]。
あらゆる下品な話、みだらな話、不真実な話を捨て去ることはもちろん、自分の会話が他人にとって有益なものとなるように絶えず努力すべきである。いつでも喜んで人に知識を伝える人、ためになる意見を聞かせてくれる人、美徳と宗教を勧め、罪を叱責する人、神に栄光を帰す人となるがいい。他人の悪口を云わないように用心すること。陰口をたたく習慣は、人間にとって最低の習慣の1つであり、その人の心にねたみと悪意が満ちていることを暴露するだけである。この便利で有用な器官を、他人を誹謗したり中傷したりするために用いるのではなく、罪なき人や傷ついた人を弁護するために用いよう。
次に、舌を制するための簡単な規則を述べさせていただきたい。まず多弁を避けることである。「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの」という[箴10:19]。話すに値することがないなら、口を閉ざしていることだ。しゃべる前にまず考えること。人がもしこの単純かつ常識的な金言に従うならば、どれだけ多くの痛ましい心痛が避けられることか。特に、よく考えないでは、何も人と約束しないこと。どんなに小さなことであっても、自分の言葉は必ず守ること。他人の心に悪感情や邪念を抱かせるようなことは決して口にしないこと。適当な機会があり次第、常にすぐれた意見を語れるようにしておくこと。特に、若い人にとって有益な意見を語れるようにしておくこと。他人の意見には尊敬をもって耳を傾けること。だが間違ったことに対しては穏やかに、しかし断固とした態度で自分の意見を表明することである。「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」[コロ4:6; エペ4:29]。
14. くもりなき良心を保つこと。
たとえこの世で悪事の報いとして下される刑罰が、良心の痛みのほか何もなかったとしても、思慮ある人なら、それだけでも、このように激しい苦痛をもたらす行ないに手を出すようなことはしないであろう。人の心に感じられる苦しみの中でも、良心の呵責ほど耐えがたく、また癒しがたいものはないのだ。さらにやっかいなことに、これは自分のした悪をはっきり思い出すごとに疼きだす。もちろん思い違いや、良心に背いて罪を犯し続けることによって良心は、「焼きごてによって無感覚にされた」かのように麻痺してしまうことがある[Iテモ4:2<英欽定訳>]。しかし、こういう人の道徳的感受性は、一見死んでいるように見えて実は眠っているだけなのである。思いもよらぬときに、また、よりによって一番つごうの悪いときに、良心は目覚めて、これまで一度も経験したことがないような強大な圧力をかけてくる。犯した罪のことは、長年まるで思い出しもしなかったのに、突然その「つけ」に対する支払いを催促されるのである。ヨセフの兄たちは、実の弟を奴隷にして異国へ売り飛ばすなどという血も涙もないことをしておきながら、それをきれいさっぱり忘れていたかのように見える。しかし長い年月が過ぎ去ったあと、自分たちがその当の異国で危険と苦難に取り囲まれていることに気づいたとき、彼らは昔犯した罪の記憶に心を激しく責められ、互いに告白せざるをえなかった。「神がしもべどもの咎をあばかれたのだ」。「彼らは互いに言った。『ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ』」[創44:16; 42:21]。
人はよく遠い所へ逃げてゆくことによって、罪に責められる良心の苦痛からのがれようとする。しかし、それは何の助けにもならない。たとえ大洋を押し渡り、雲より高い山々を乗り越え、人跡未踏の砂漠の奥地に身をひそめたとしても、罪人は自分を苦しめるものの手から完全に逃れることはできないのである。時として良心の呵責は、とうてい耐えがたい苦悶にまで達することがあるもので、犯罪者の中には、こんな惨めな人生を送るよりは、いっそ首をつって死んでしまった方がましだと、呼ばれもしないうちから自分の審き主の前に出ていく者がいる。またある場合には、血の罪に責めさいなまれ、その激痛に耐えられなくなった殺人者が、進んで自分を司直の手に引き渡し、ほかに何の証人もいない犯罪を自白して、自分を断罪することがある。しかし、いったい罪を犯したあとで、それを思い出すごとに心に痛みを感じないような者がいるだろうか。自分の過去を振り返ると、しばしばそうした行ないだけがくっきり浮かび上がるものである。どんなに努力しても、記憶から拭い去ることはできない。不愉快なものから目をそらすことはできても、不快な思い出がやってくるのを防ぐことはできない。こうして良心が麻痺していない人々は、もののけにつかれたかのように自分の罪過に悩まされる。何かの危険に脅かされるとき、また災難がふりかかってきたとき、犯した罪がしばしば目の前にあらわれ、眼前にくりひろげられるのだ。なぜ道徳的感受性があるときには非常に鋭敏で、別のときにはそれほどでもないのかはよくわからないが、それが事実であることは確かである。これは、どんな人の心にもよく知られたことだろうと思う。
もちろんこの世には病的に潔癖な人、常識はずれに神経質で、良心が恐怖に満ちた人がいる。このような人々は病院でしかるべき治療を受けないと直らない。憂鬱症は、宗教的な体験から生まれるものではなく、肉体的な変調から起こる不幸な状態である。こういう状態にある人は、極度にばかげた陰鬱な事柄に思いを固着させるようになるものだ。精神病についても同じである。多くの人が、キリスト教にのめりこむことに対して強い偏見を抱いているのは、それが理性を阻害して、意志の弱い人々を熱狂的狂信にかりたてるのではないかと危惧するためである。
さて、もともとそういう病気にかかりやすい素質をもった人々が、何か激しい感情にゆさぶられたときに、正しい理性の働きを乱されるだろうことは、疑いもなく正しい。しかし、キリスト教に熱心な人々が他の人よりも特にこの危険にさらされているというのは、全く根も葉もないことである。狂信主義には人を精神病に追いやる傾向があるとは云ってもよいだろう。実際私は、長いこと狂信主義を、特にそのごく軽度のものを精神病の一種にほかならないのではないかと思っていた。そう考えると、私の知る限りでは、熱狂主義から極端に走った人々の言動にはうまく説明がつくのである。しかし、こうした種類の精神錯乱を最も有効に予防するものは何だろうか。キリスト教を棄て、悪徳におぼれ、不信仰な生き方を続けることだろうか。決してそうではない。こうしたものに逃れる者は、それが「まやかしの避け所」[イザ28:17]であることを知るだろう。悲惨な精神錯乱や良心の呵責に対する最上の治療法は、真のキリスト教である。このような傷には、ギルアデの乳香が唯一の薬である。その効き目は経験によって証明されている。墓の向こうには幸福があると生きた希望を抱くことのできる者、和解のなった父として神をあおぐことのできる者、すべての人に対して善意を持つことのできる者こそ、本当に確かな心の平安といえるものを胸のうちに抱いている人であるにちがいない。
私が若き友人諸君に対して、くもりなき良心を保て、と忠告するとき念頭に置いているのは、まず第一に、この無限に尊い祝福を、「血の注ぎかけ」[Iペテ1:2]により頼むことによって、手中にするよう努力すべきだということである。魂が義と認められ、罪が赦されるまでは、良心に真の平安がやってくることはありえない。律法がわれわれに満足しておらず、われわれの罪に対する報復を宣言している間は、この天地の間に何の平安があるだろう。しかし信仰によって贖罪を理解し、それが律法のあらゆる要求を満たしてあまりあることを知り、十字架において、正義が十分満足させられたばかりか輝かしく顕彰されたことを知るとき、魂はたちまち罪過の苦悩から解き放たれ、すべての思いにまさる神の平安が心にあふれるのである。したがって純粋な平安を得る秘訣は、キリストの血潮に対する生きた信仰を持つことである。しかしもし自分の良心をきよく保ち、平安を楽しんでいたいのであれば、過去犯した罪に対する赦しを手に入れるばかりでなく、これからは罪を犯すことがないように油断せずに注意しなければならない。神の律法ははなはだ奥行きの広いものである。良心の平安を保ちたければ、自分の行ないを熱心に、また聖なる勤勉さをもって律法の戒めに合致させなくてはならない。
また、きよい良心というのは、例外なく啓発された良心のことである。思い違いをしている人は、神への奉仕をしていると思い込みながら、神の民を迫害していることがある。しかしそのような良心は正しい良心ではない。人は良心的に行動しながら、とんでもない悪事を行なっているかもしれない。おそらく、どんなに奇怪で不敬虔な迷信に身をささげている人々も、みな良心の声に従って行動しているのだろう。たとえ人間のいけにえをささげ、自分の子供たちや自分自身のいのちを引き渡しているようなときも、彼らは良心の声に従っているのだと思う。しかし、どうしてこのような良心が正しいといえるだろう。したがって真理の正しい知識こそ、きよい良心の根本にある土台である。人間にとって真理ほど大切なものはない。だからこそ、「真理を買え。それを売ってはならない」[箴23:23]。しかし、なすべきことと避けるべきことについて、せっかく良心が正しいことを告げてくれても、われわれは耳を傾けないことがあまりにも多い。欲望の渇仰と、激情の嵐、またこの世のたえまない喧噪のさなかにあって、良心の囁きに注意を払う人はいない。数かぎりない場合、人は悪を行なうときにこれは悪いことなのではないかという予感がするものである。少なくとも、自分の義務が何か探りわきまえた方がよいぞという気がするはずである。ある人々は大きなことには良心的だが、比較的小さな事柄には、まるで道徳的識別力の持ち合わせがないように見える。どんなことについても自分の道徳的感覚に問いただしてみる習慣は、とても重要である。行動する前に考えること。そして自分の感情や利益によって誤った色眼鏡をかけることのないよう警戒すること。安全な側に立つこと。ある行動が疑わしい性格のものであったなら、あえて試みてはならない。自分の心の中でしっかり確信すること。なぜなら「信仰から出ていないことは、みな罪です」[ロマ14:23]。ある人々は、些細な事柄には良心的で几帳面だが、律法のもっと重大な部分については気をつかおうとしない。これは偽善者の良心である。他の者は常に落ち着かない良心の持ち主である。罪の傷が膿みただれているのに、一度もその膿をえぐり出して清めたことがなく、単に表の皮だけ癒されているためである。そういう人たちの悔改めは深みがなく、通り一遍のものである。まだ何かの秘密の罪にふけり続けているのである。こういう状態をつづける限り、きよい良心など夢のまた夢である。真摯な悔改め、へりくだりの心、罪の告白、これこそ神が定められた治療法であって、これらが欠ければ、良心は平安を得ることがない。
さてわれわれにこびりついている弱さや道徳的欠陥は、どんなものであっても神の目に忌まわしく、聖霊を悲しませるものである。だから、われわれが暗やみと不毛と悲惨さの中に取り残されるとしても当然である。われわれは罪からの解放を本当には願ってはおらず、むなしい言い訳で自分の過ちを弁護しているのだ。そこで私は特に忠告したい。聖なる助け主[聖霊]のうながしを大事にすることだ。われわれはその聖なる影響力によってのみ、きよい良心を保つことができるのである。そしてもし御霊を悲しませてしまったために慰めがないように感じたならば、御霊の内住の実である平安と喜びを再び経験するまで安心してはならない。
15. 平和をつくること。
神との平和、良心の平安を得た後にくる祝福は、われわれの隣人たちとの間の平和である。「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」。「すべての人との平和を追い求めなさい」[ロマ12:18; ヘブ12:14]。世の中に戦争や、争いや、ゴタゴタが絶えないのは、実は、人間の内側に高慢や、ねたみや、貪欲や、その他もろもろの邪悪な情動があるからである[ヤコ4:1]。こうした思いをきれいさっぱり断ち切り、そのかわりに、清い親切な愛の心を植えつけるならば、われわれは内なる平和と外なる平和という二重の平和を味わうことができるであろう。キリスト者にふさわしい性格は、どこを取っても平和にくみするものである。たしかにキリストは平和ではなく剣をもたらすために来たと語られた。しかし、それはキリストの教えの本質をさして云われたのではなく、これから先に起こることを見こして、よこしまな人間が善なるものに対して反対を企てるだろうと云われたのである。福音の真の目的、真の精神は、われらの救い主の誕生のおりに天使たちが歌った賛歌のうちに美しく、力強く示されている----「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が……あるように」[ルカ2:14]。神の子とされた者はみな平和の子であり、平和をつくる者である。パウロは云う。「平和を保ちなさい。そうすれば、……平和の神はあなたがたとともにいてくださいます」[IIコリ13:11]。さて平和をつくり、平和を保つためには、事の性質からいって、謙遜や、柔和や、慈愛を身につけることが重要である。なぜなら使徒ペテロが論ずるように、「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」[Iペテ3:13]。いまだかつてキリスト教ほど世界の平和に貢献した思想はない。キリスト教を受け入れた地域に必ずしもその効果が見られないのは、単に真のキリスト教精神が浸透していないためにほかならない。この喜ばしき教えを心から受け入れるならば、争いの原因はみな断ち切られるであろう(もちろん罪と過誤に対する戦いは別である)。キリスト教は友人や兄弟を愛するように教えるだけではなく、不倶戴天の仇敵をも愛するように教え、呪いには祝福を、虐待には親切を返すように教える。だから、こうした親切な感情をいつも心にいだくように努めることだ。そうすればそこに平和がくる。自分の魂の平和を追い求めつつ、なおかつ世の中にも平和をもたらすことをめざしてほしい。そして平和をつくる者に与えられるといわれた祝福、すなわち、ほかならぬ「神の子」と呼ばれる特権を熱心に慕い求めてほしい[マタ5:9]。
16. 苦難に屈することなく忍耐をもって耐えること。
「人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように」[ヨブ5:7]。人は、どのような境遇にあっても、しょせん逆境の矢から逃れることはできない。だからやはりこの助言は必要である。すべての人間に課せられている道から、自分だけは逃れようなどと夢見るのは、自分から進んで恐ろしい妄想におちいるようなものである。誰もみな多くの点で傷つきやすいものだから、一生奇跡で守られるのでもない限り、不幸が起こるのを避けることはできない。たとえこの世で最も敬虔な人であっても、苦難や迫害から安全であるということはない。ほかならぬキリストですら、この世では苦しみをお受けになり、聖なる忍耐と、子として神のみこころに服従することとを、後に続く者たちへの完全な模範として残された[Iペテ2:21]。全人類の罪という信じがたいほどの重荷を負い、神性の助けがなければ、人としての魂が張り裂けてしまっただろうようなときでさえ、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」と云われた[マタ26:39]。神の民にあてがわれる苦難は、各人にとって必要な有益な訓練であり、彼らを罪の残滓からきよめ、この世では神に奉仕し、来たるべき世では神を喜ぶ、その備えをさせるためのものである。したがって、神の民にとって苦しみの1つ1つは刑罰として下される審きではなく、父なる神の懲らしめなのである。それはたしかに、その時には「喜ばしいものではなく、……悲しく思われる」ものだが、「後になると、……平安な義の実を結ばせ」るのである[ヘブ12:11]。しかし、道徳的に霊的にどのような状態にあっても、また神の友であっても敵であっても、われわれはさまざまな苦しみを受けなくてはならない。この世は死にゆく世界である。どれほど近しく、どれほど親しい友人にも、必ず別離のときがやってくる。死は最も親密な絆をも切り裂き、愛する伴侶や愛児に死の打撃を加えて、感じやすい心を苦悩で引き裂く。それは、自分に死がのぞむよりも痛切な苦しみである。人々が、欺瞞に満ちたこの世のひろげてみせる楽観的な希望や、輝かしい未来を喜んでいるのを見るとき、私は素直に喜んでやることができない。この世のすべての楽しみは、どれほど速やかに終わりを告げることか。彼らの笑いは嘆きとなるであろう。彼らの輝く日はかげり、悲しみの暗黒におおわれてしまうであろう。
もちろん、困難が起こるかもしれないという憶測だけで、いたずらに脅えて心を責め苦しめるなどというのは、まったく愚かなことである。多くの人は、災いを予想するだけで悩み苦しんでいる。それが現実に起きたなら、それほど悩まないであろうに。想像によって思い描く苦しみは、いざ現実となった場合よりも、はるかに暗く見える。こうした悪習に対してわれらの主が教えられたのは、将来についての無益な思い煩いに屈してはならない、神の摂理に信頼せよということであった。「あすのことはあすが心配します」[マタ6:34]。
しかし私がこの書の若い読者に望んでいるのは、いかなる苦難に対しても心備えをしていてほしい、いざ艱難がふりかかってきたときには、あわてふためかないだけ腰をすえていてほしいということである。そして、苦しく暗い日々が本当にやって来たときに、恐れすくむのではなく、主に信頼して、どのような重荷も耐え忍ぶことのできる力を主に求めてほしいのである。神の摂理がどのように働いても、決して神を非難するような思いを抱いてはならない。神の定めは不可解で、はかりしれないものだが、すべてのことには理由があり、目的にかなうものなのだ。たとえ現在は理解できなくとも、やがて知らされるときがくるであろう。摂理によって起こった物事を受け入れる中で、神のみこころに従うことを学ぶこと。あらゆる出来事は知恵と善意によって導かれていると堅く信じることである。たとえどのような苦しみに耐えねばならないとしても、それは自分の罪ゆえに受けるはずだった苦悶にくらべれば取るに足らないものであることを思い起こしてほしい。そして、この苦しい天の定めのうちに、豊かな霊的祝福が満ちていることを思うことである。これはわれわれにとって有益であるばかりか、必要なことでもある。恵み深い御父が鞭をふるって呼び戻してくださらなければ、さまよいがちなわれわれは、邪悪なこの世とともに滅んでしまうに違いない。それに、苦難という試練の中にいるときほど、神の栄光をあらわすことのできるときはない。艱難の重圧にもかかわらず、忍耐と剛毅さをもって、へりくだりつつ耐え忍び、信仰を貫き通すことは、最も神をたたえることである。神を信ずる者は、困難のさなかにあっても気力をふるい起こすことができ、陽気にすらなれる、ここにキリスト教の卓越性が明らかにされるのである。だから、課せられた重荷を喜んで負い、苦難の中にあっても喜ぶことをパウロから学んでほしい。また自分の十字架を喜んで負うだけでなく、その悲しみの中から豊かな霊的祝福を引き出すように努めることだ。このように有益な恵みの手段を楽しみ、かつ十分に利用して、霊的に成長することである。あらゆる苦難は、より自分を聖めてくれるのだから、喜んで忍んでほしい。もちろん、生来われわれは何1つ困難のない幸せな日々を望むものだが、自分の願いがすべてかなえられるようなことになったら、それはむしろわれわれの破滅となるであろう。
最後に、苦難の中で学んだ人は、何の困難も知らなかった頃にくらべると、ずっと悲しみの中にいる人々に対して深く同情することができ、より時宜にかなった慰めを与えることができるのである。
17. 次の助言は、時間を重んずること、である。
時は短く、たちまち過ぎ去るものだ。すみやかな時の流れの疾さは、あらゆる国語でことわざの種になっている。聖書においても、人間の一生は、現われたかと思うとあっという間に消え去る多くのものにたとえられている。(例えば、飛脚であるとか、織の抒とか、霧や影などというふうに)[ヨブ9:25; 7:6; ヤコ4:14; ヨブ8:9; 14:2; I歴29:15; 伝道6:12]。人がどんな仕事をするにせよ、それはみな時間の中で行なうしかない。またどんな利益を手に入れるにせよ、みな時間の中で獲得するしかない。だから時間は短いばかりでなく、貴重なものである。すべては時間をどう活用するかにかかっている。そして活用できる時間は現在しかない。ところがその現在とは、今あったかと思うと、すでに消え去ってしまっているものだ。だから、われわれはあらゆることを手早く行なう必要がある。この貴重な贈り物は、瞬間という小さな包みに区切られて送られてくる。しかし、それが送られてくるテンポは急速で、さえぎられることがない。何物をもってしても時間の流れを妨げたり、遅らせたりすることはできない。たとえ目覚めていようと眠っていようと、また忙しくしていようと怠けていようと、そして気づいていようと気づいていまいと、われわれは静かな、しかし抗しがたい力によって押し流されているのだ。時間の中で徐々に進んでいくわれわれの動きは、たとえるならば、足元にありながらわれわれには全く察知できない地球の運動と同じである。あるいは、あたかもわれわれだけが止まっていて、まわりのすべてが動いているかのような錯覚に陥らせる、快速船の旅と同じである。そのように、われわれはこの人生の旅路を段階を追って進んでいく。幼児期から少年期、少年期から青年期、青年期から壮年期、そして最後に、思いもかけずわれわれは、自分がこの世の生の終わりの段階への下り坂を歩んでいるのに気づく。青年のころの新鮮さと陽気さはまたたくまに過ぎ去る。人生の秋が、その「枯れ葉」とともにたちまちやって来る。そしてその後で(病気や事故によって寿命を縮められない限り)、最後に老年が、白髪と、皺のよった顔と、衰弱と痛みを伴って急速にやって来る。かの賢人[ソロモン]は、この時期のことを、人が愚痴っぽくなりやすくなる時期、何の喜びもないことを思い知らされる時期だと云う。「家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。……人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。彼らは……道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩く」[伝道12:3-5]。
無駄に費やした時間は決して取り返すことができない。そっくり同じ瞬間を二度手にできた者はかつて一人もいない。確かにわれわれは「時を贖う」よう命じられてはいるが[エペ5:16 <英欽定訳>]、これは、これから先の時間を正しく利用することを云っているのである。そうすることだけが、すでに手の届かぬ彼方へ去った時間を贖い出せる唯一の方法だからだ。そこで、この主題に関する助言として私が若い諸君に勧めたいのは、時間の測り知れない価値について、しばしば真剣に考えよということである。すべて価値あるもの、すべて追求の努力に値するものは、今われわれに割り当てられている短い時間枠の中で手に入れなければならない。これは決して忘れてはならない。また、時間の流れがいかにすみやかなものであるかについても、深く思いを潜め、しばしば思い巡らすようにすることだ。今は、諸君は青春の真っ盛りにある。しかし、やがてすぐにこの季節は遠い記憶のぼんやりとした片すみの中にしかなくなってしまう。それだけでなく、もし今を賢く用いなければ、その思い出は、苦い後悔の種となるのである。
自分の時間を賢く利用しようという人は、機敏でなければならない。指の間からこぼれおちていくような、この束の間の一瞬一瞬をとらえるのだ。そうしないと、その一瞬一瞬ごとに割り当てられている仕事に手をつけもしないうちに、そのときは去ってしまう。
勤勉と継続こそ、時間の正しい使い方に欠かせないものである。「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい」。「『きょう。』と言われている間に……しなさい」。あなたがたは、光がある間に歩きなさい。誰も働くことのできない夜が、急速に近づきつつあるからである。[伝道9:10; ヘブ3:13; ヨハ12:35; 9:4]
あらゆることは時にかなって行なうようにしなくてはならない。すべてのことには時がある。また、すべてのことを順序正しく行なわなければならない。物事の正しい順序は、その相対的な重要度と緊急性によって決まる。重要度と緊急性というのは、もしそれをしなければ、どれだけ損害をこうむるかということである。
さらに、自分の時間を最大限に活用しようという人は、1つのことを一度にするようにし、すべてのことを最後まで成し遂げるようにしなければならない。またそれと同様に、それを最善のしかたで成し遂げるようにしなければならない。われわれはみな一度に一瞬しか与えられていないのだから、一度に1つ以上のことをしようとしても無駄である。またもし何かの仕事が諸君の注意に値するのであれば、それは最善になされる価うちがあるのである。混乱、性急、不注意、こういうものがしばしば仕事をだいなしにしてしまい、いっそ初めから全然手をつけない方がよかったということにしてしまうのだ。
今日の義務を明日までのばそうという誘惑を警戒すること。これは愚図愚図と呼ばれるものだが、それは正しくも「時間の盗人」と云われている。忘れないでほしい。あらゆる日、あらゆる時間には、そのときにふさわしい仕事がある。しかしもし今日しなくてはならないことを将来まで後回しにするなら、将来それは、(よほど控え目に云っても)、厄介な義務の堆積となるに違いない。明日のことを確実に予測できる人はいないのだから、自分のものとしなくてはならない重要なことを、そんなでたらめな仕方で先送りにするのは、それを受け取る機会を永遠に逸することになりかねない。健全な思慮分別の命ずるところに従うなら、今日なさねばならないことは、決して明日に延ばさないことである。
18. 神をおそれる純粋な敬虔心を大事にし、これを熱心に養うこと。「主を恐れることは知識の初めである」[箴1:7]。
若い時代に持つ信仰は、この世で最も美しいものである。敬虔な心がなければ、道徳は何の役にも立たない。たとえ人づきあいの上でどれほど良いものだとしても、敬虔心のない道徳はただの影であり、根のない枝にすぎない。真の信仰は、他のあらゆる貴いものにまして人間の心を豊かにし、美しくする。そしてこれは特に、青年が持つ自然な感受性にそぐわしいものである。青春期の活発さ、また柔軟さ、そして優しさ、情熱の激しさにまして敬虔心の本質を示すものはない。青年たちの胸にあふれる、きよい献身の情熱を見るのは何と喜ばしいことであろう! 罪を悔いて、また聖なる喜びに満たされて、青年たちがほほをぬらす涙は何と美しいことであろう! 親愛なる若人の諸君。真の信仰が人生の楽しみを奪うものだなどとは決して考えてはならない。そのような考えをもてあそぶのは、諸君の造り主に対する侮辱である。決してそのようなことはないのだ。善なる神は、御自分の被造物を本当に幸せにするものを何1つ取り上げたりはしない。確かに敬虔になろうとする人は、劇場の楽しみやダンスホールの楽しみを、教会に通う喜び、また祈祷会の喜びという、よりきよらかな楽しみと取り替えることになるかもしれない。それまで夢中になって読んでいた三文小説やフィクションを捨てて、神のみことばを読むことに熱中するようになるかもしれない。(みことばは、新生した魂にとって蜂蜜よりも甘く、純金よりも慕わしいものなのだ)。しかし、こうしたことはむしろ、諸君の幸福を増し加えることであって、諸君の幸福を減じるものではないのである。だからわれわれは心から熱心に勧めたい。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」[伝道12:1]。これこそ、青年諸君の前に立ちふさがるあらゆる危険、あらゆる誘惑に対する最良の守りである。これこそ、青年にとって「いのちである神の恩寵、またいのちにもまさる神の恵み」を確かにするものである[詩30:5; 63:3]。回心を遅らせてはならない。神に仕えないで過ごす日々はみな無駄に費やされる時間なのだ。それだけではない。いつまでも決心せずに愚図愚図していたために、これまで多くの人々が滅びることになったのだ。永遠はすぐそこまで来ている。最後の審判の日には、すべての人がさばきの座に出なければならない。もしそのときになって敬虔心を持っていなければどうするというのか。敬虔こそ、天国に対する唯一の備えであり、パスポートである。親愛な若者諸君。賢い考え方をしてほしい。そして光の中にある、聖徒たちの相続分[コロ1:12]を確かに自分のものとしてほしい。神は、和解を受け入れるようにと諸君を招いておられる[IIコリ5:20]。キリストは、あわれみの御腕をひろげて諸君を抱きとめようとしておられる。天使たちは、諸君の回心を喜び祝うことを、また、諸君の昼夜を問わない守護者となることを待ち望んでいる。教会の扉は諸君を迎え入れようと待っている。福音に仕える教役者、また信者の仲間たち全員が、諸君のやって来るのを歓迎し、諸君を神の家の尊い食卓に迎えようとしているのだ。そして最後に、忘れないでいただきたい。「今は恵みの時、今は救いの日」なのである。[IIコリ6:2]
19. 神の導きと助けを求めて、絶えず熱心な祈りをささげること。
私たちは、恵みの助けを日々必要とする者である。自分自身の知恵など愚かさであり、自分自身の力など弱さであり、自分自身の義などまるで取るに足りない。「歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではない」[エレ10:23]。しかし、たとえ知恵はないとしても、知恵を求めることは許されている。そして、求めれさえすれば受けられるという恵み深い約束がある[ヤコ1:5]。私たちは、へりくだりつつ信じて求めるなら、必要なものは何でも与えられるのだ。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」[マタ7:7; ピリ4:6]。
この苦難の世にあって、信仰と祈りは、われわれの主たる対抗手段である。頼りとするものが一切失われてしまったときにも、神はご自分を求める民をその秘密の大天蓋の中に隠し、みつばさの陰にかくまってくださる。祈りは、霊的生活の持続と成長に欠かせない本質的なものである。新しく生まれた人[キリスト者]にとっての呼吸である。この手段によってキリスト者は、無数の邪悪からすみやかに救い出され、思いも及ばぬ豊かで甘い祝福を天から引き出すことができる。だから今、心の中でしかと確信してほしい。信仰をもって執拗に祈りをささげるならば、必要な祝福は必ず与えられるのだ。神は、御自分を「祈りを聞かれる方」として示された[詩65:2]。その通り、神は約束して云われた。神の栄光とわれわれの益のためになるものであれば、何であろうと願って与えられないものはないのである。祈りは、時として非常に重大な結果をもたらす。ひとりの義人は、真剣な祈りを熱心にささげたところ、天を閉ざして日照りを起こし、また天を開いて雨を降らせることができた[ヤコ5:17]。モーセは、その祈りによって、イスラエルの民に向かって燃え上がる神の怒りを何度となくそらした。恵みの御座に近づくことのできる人は、本当に必要なものには決して事欠くことはない。「主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」。「わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう」[詩84:11; エゼ36:37]。
祈りがだるくて憂鬱だなどという考えは、この世で最も非合理的なものとみなして、きっぱり払いのけることだ。そうした感情はサタンのでっちあげにほかならない。なぜなら理性的に考えても、経験から云っても、そのようなことは決してありえないからである。ありとあらゆる存在の中で最も気高く、最も偉大なお方と交わるのだ。それはこの世における最大の喜びを生み出すはずである。天使たちも崇める神ご自身との親密な、また打ち解けあった会話を許されることほど、人間にとって大きな名誉、特権はないに違いない。聖徒たちの経験はみな、「神の近くにいることが、しあわせなのです」。「あなたの大庭にいる一日は千日にまさります」と証ししている[詩73:28; 84:10]。それゆえ私はここに何もはばかることなく助言したい。若い諸君は、祈りの心を養い、絶えず祈りを積むことだ。「絶えず祈りなさい」。「絶えず祈りに励みなさい」[Iテサ5:17; ロマ12:12]。祈りはこの世の楽しみをそこなうものではない。むしろ新たな喜びの泉をひらき、祈りを知らない人の手に入るどんなものよりも、はるかに純粋な、はるかに満ち足りた喜びの源泉となるのである。祈りは、天と地が交わりを保つ唯一の手段である。そしてまた、この務めの最中に天国の前味がしばしば地上にもたらされる。敬虔な礼拝者は、永遠の中にある、あの言葉につくせぬ喜びを、いくぶんか先取りして味わうのである。そしてさらに祈りは、諸君を罪や誘惑の力から防護する最も有効なものなのだ。
サタンを怖じけ震わすもの、そは最も弱き聖徒の膝まづきて祈る姿なり。 20. 最後に、若い諸君への助言のしめくくりとして、もう1つのことを厳粛に、また愛をこめて忠告しよう。私は今このページを読んでいるすべての諸君に云いたい。いますぐ死に対する備えをしなさい。陽気な若い人々が、こんな話題を耳にしたくないと思うだろうことはよくわかっている。どんなに恵まれていても、どんなに豊かな環境にあっても、いつかは必ず死がやってくる。死の餌食とならない者はいないという事実ほど、若い人の心を落ち込ませるものはない。しかし、もしこの恐るべき災厄は避けることができず、自分の人生が明日をも知れないものだと認めるのであれば、なぜ自らこの危険に対して目をつぶるような愚を行なうのか。これは気違い沙汰といっていい。なるほど、もしこの出来事に対して打つ手が何もないというなら、眼前にせまる破滅から目をそむけて他の事を考えるのも、あながちわからないではない。しかし、もし注意を払って努力することによって死に対する備えができるというなら、自分の人生の終末を考えようとしないことほど馬鹿げた行ないはないであろう。夢と楽しみを満喫している真っ最中に、突然死を迎えた若者の葬儀を、われわれは何度目にしたことだろう。そのような光景を一度も見たことがないという人はいないと思う。そばにいた親友や仲間があっというまに取り去られてしまったという人が、われわれの身近にも何人かはいるに違いない。しかし、死んで墓に埋められた多くの人々も、死なずに生き残った人たちと同じくらい長い人生を楽しむ見込みがあったはずなのだ。さあ、親愛なる若人諸君。他の大勢の者たちに起こっていることは、君たち自身の上にふりかかるかもしれない。今年が、諸君の将来や愛する家族に別れを告げる年になるかもしれない。単にそういう可能性があるというだけでも、人生について真剣に考え、今すぐ備えをはじめるべき十分な理由がある。では一体どんな備えをしたらいいのか、と尋ねる人がいるかもしれない。答えよう。それは神と和解すること、天国での務めを果たすためにも、天国を楽しむためにもふさわしい者となることである。また、自分のすべての罪について神の前に悔い改めること、主イエス・キリストに信頼し、その贖いとしての犠牲にたよること、心が新しく生まれかわること、生活を変革することなどもやはり死への備えである。そして最後に、生きた敬虔の行ないを積み、神の恵みを確信して慰めのうちに生きることがある。つまり、生きた行ないの伴う純粋な敬虔こそ、死に対する必要な備えの中核をなすものである。これさえあれば、死ぬことは少しも恐ろしくはない。死後の幸せは揺らぐことはない。しかし、単に死に対する恐れをとりのぞくだけでなく、死を慰めに満ちたものとするには、何よりもまず強い信仰が必要である。自分の罪が赦されているという明確な証拠が必要である。そして、自分がすでに死からいのちへ移っているという確信が必要である。だから、永遠に目を閉じる前に、神へ帰りはじめようではないか。われわれは、もともとこの神のもとから迷子の羊のように迷い出た者なのだ。「あなたは、あなたの神に会う備えをせよ」。「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから」[アモ4:12; ルカ12:40]。
死の恐怖から解放されなさい。それには、この奴隷の絆からわれわれを解放するという、まさにそのことのために来られた方を信じ、受け入れ、たよるしかない。この方がともにおられ、この方が導いてくださる限り、われわれはどんな悪をも恐れる必要はない。暗い死の影の谷間を通るときにも、この方はその杖とむちによってわれわれを慰め、この最後の敵に対しても勝利者としてくださるのである。
老人が人生の後輩に贈る20の助言[了]