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暴風の中のパウロ

NO. 3145

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1909年5月20日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私たちは暴風に激しく翻弄されていたので、翌日、人々は積荷を捨て始め、三日目には、自分の手で船具までも投げ捨てた。太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。だれも長いこと食事をとらなかったが、そのときパウロが彼らの中に立って、こう言った。『皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。」ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています』」。――使27:18-25


 ここに見られるのは、慰めに満ちた一個の信仰者が、他の人々を励ましている姿である。いま私たちの前にある激励の言葉は、ひとりの人間から出たものである。だが、そうしている彼は、先に自分が主から語られたことを繰り返しているにすぎないので、これは、やはりなお、尊いものである。そして、それがいよいよ有益なものとなるのは、私たちが、この言葉の模範によって動かされて、他の人々を励ます言葉を語らされる場合であろう。

 信仰者は確実に頭角を現わすものである。その人は群衆の中に隠されているかもしれない。その種々の状況や環境によって、しばらくの間は後列に押し込められているかもしれない。だが、その人の光は、とかくするうちに薄暗がりの中から射し出てくる。パウロは、この船が平穏無事に航海している間はずっと一個の囚人でしかない。丁重な扱いを受けてはいても、審理のためにローマに護送されつつある他の者らと同じ身分にある。だが、嵐がやって来て、船が暴風のため流されてしまうと、一介の囚人でしかなかった彼が、実質的に船内で第一の人物となるのである。船長や、隊長や、彼らの百人隊長、――これらは、この場面の中では、取るに足らない小人物でしかない。この難航している帆船内に群がっている集団の中で、彼らはほとんど目につかない。パウロこそ、一同の中心であり、全員の注目を集めている。彼は、かの暴風の中にいたカエサルと同じくらい、この船の主人である。そのときカエサルは水夫たちを励ましてこう云ったのであった。「恐れるな。お前らはカエサルと、そのすべての幸運をかかえているのだぞ」。パウロはカエサルよりも偉大である。というのも、彼は自分のことよりも、《永遠の神》について多くを語っているからである。彼は明らかに、自分を監督している人々からさえも尊敬され、重んじられていた。

 その船に乗っていたパウロは、ガリラヤ湖であの小舟に乗り込まれた際の主イエスに著しく似ていた。あらゆる真の信仰者とその主との間には多くの類似点がある。主は大いなる方であり、主にまつわる一切のことは途方もなく偉大であるにもかかわらず、私たちも、イエスに従う者であるなら、主に似た者となり、この世にあって主と同じような者[Iヨハ4:17]なのである。私たちは、等身大の主の肖像の小模型である。主の栄光に富む実質の影である。この船上のパウロが、身の回りにいる者たちの恐れを見て、愛に満ちた声を上げ、「元気を出しなさい」、と云ったとき、彼の声は、彼の《主人》から借りてきた、慰藉に満ちた響きを帯びていた。愛する方々。もしあなたが徹頭徹尾、揺るぎなく信仰者だとしたら、あなたは、他の人々に対してあなたの主のご人格を例証する場を見いだすはずである。こう云って良ければ、この船上におけるパウロは預言者であり、祭司であり、王であった。本日の聖句で彼は預言者的に語った。というのも、彼らに向かって、彼らが完璧に無事であると宣言したからである。彼はその祈りにおいて彼ら全員のための祭司のように行動した。そして私は、ほとんどこう云い足しても良いかもしれない。彼はこのパンを裂くことにおいて、メルキデゼクめいたところさえあった、と。彼は人々を祝福し、パンと葡萄酒で彼らを元気づけたからである[創14:18]。王的な職務について云えば、パウロは真に王者のようではなかっただろうか? 定命の人間のうち、これほど王冠を戴くにふさわしい額はなかった。その混み合った船中にあって、彼はカエサルよりも帝王らしく、船上の全員がそれを認めていた。彼らは、この人物には従わざるをえないと感じた。彼は、彼ら全員をはるかに越えた高みに立っていたからである。でしゃばらず、慎み深く、優しく、自己否定的で、同情深く、それでいながら、明らかに彼は優越した存在であった。もし私たちにもっと信仰があったとしたら、私たちは自分自身の評価においては沈むが、他の人々に対する私たちの影響力においては大いに高く上るはずである。というのも、私たちもまた、人々の間に預言者、祭司、王として宿るべきだからである。聖徒たちは二度生まれた者であり、より気高い家系と高貴な家柄に生まれた者、また、地にあって威厳があり、聖なる人々の喜び[詩16:3]ではないだろうか?

 ここでしばし私たちは、この激励の演説に示された使徒の人格について考え、3つの面から彼を眺めてみよう。第一に、彼を自ら公然と認める信仰者として見てみたい。第二に、彼を大胆な預言者として考察したい。第三に、同情深い慰め手として考察したい。願わくは私たちが、神のいとも良き御霊によって、こうしたそれぞれの人格を帯びる者とされるように!

 I. 第一に、本日の聖句を読むとき、使徒は《自ら公然と認める信仰者》と見られるであろう。彼がこう云うのを聞くがいい。「すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています」[25節]。彼は、自分の信仰の言明を、自分は神によって信じています、と云うことで始めている。私たちは肝に銘じておくべきである。神がおられること、また、神のことばが真実に違いなく、絶対的に無謬であり、いかなる疑問の余地もないものであることを。「私は神を信じています」<英欽定訳>。――ある人が、いかに淡い意味においてであっても、少なくともこう云えさえするなら、その人は信仰に至る途上にある。だが、使徒が意図したのと同じような意味で、「私は神を信じています」、と云える人は、信仰のこの上もない高みへと達しており、霊的な強さの諸要素を獲得しているのである。

 「私は神を信じています」。時として私が全く愕然とさせられるのは、私たちにとって神を信じるのが困難だということである。愛する方々。あなたは、私の驚嘆に共感するだろうか? もし私たちの心と精神がしかるべき状態にあるとしたら、神に対する信仰は当然のことのはずである。そして、今でさえ、いかに私たちが不完全な者であるとはいえ、神に対する疑念のかけらすら私たちにいだかせるためは、破砕的な議論が必要とされるべきである。何にもまして驚くべきは、神の子どもたちが神を疑うということである。特に私たちの中のある者らほどの際立ったいつくしみを受けてきた者たちの場合そうである。説教者も聴衆も、私たちがあえて、神を信じることが難しいと感じるなどということに驚くがいい。信仰を困難なものとして語るとき、それは神をひどくそしることである。

 もし私たちがある隣人について、「あの人はなかなか信じられないよね」、と云うとしたらどうであろう。その人についてこれ以上ひどいことを云えるとは思えない。もしある子どもが自分の父親について、「父のことは知っているでしょう。世間の評判は大したものですが、私はどうしても父のことを信じられないのです」、と云うとしたらどうであろう。いかなる噂が広まることか! いかなる風説が流れることか! 「彼は、実の子からさえ、どうしても信じられないと云われているんだとさ!」 私たちが自分の父なる神について一度でもそのように語ったかと思うと、私たちは恥辱で赤面させられるではないだろうか? 悔い改めの涙を浮かばされるではないだろうか? これにまさって私たちの堕落を決定的なものとする証拠が何かあるだろうか? 生ける神を疑うほどに、私たちが常軌を逸しているという、このことほど私たちの心の生来の堕落性をあからさまに示すしるしが何かあるだろうか? なぜ私たちは神を完全に、また、絶対的に信頼しないのだろうか? いかなるわけで私たちは、何か大きな約束を受けると、「だが、これは本当だろうか?」、と云い出すのだろうか? 私たちは、大きな苦難に陥るとき、いかにして神のいつくしみ深さを疑るのだろうか? いかなるわけで、大小を問わず一切のことにおいて神に安らわないのだろうか? ご自分の契約と、ご自分の誓いとに真実であるお方は、ご自分のあらゆる約束の一点一画にまで真実であられるであろう。キリストに対して真実であるお方は、キリストのからだのあらゆる部分[エペ5:20]に対して真実であられるであろう。この方は偽ることがない[テト1:2]。ご自身を否むことが不可能である[IIテモ2:13]。この方を私たちが疑うことは不可能であるべきではないだろうか? 使徒は、この勇敢な言葉、「私は神を信じています」、において、「文章の達人」と称せられる価値がある。愛する方々。この一文を心に銘じ、自分でも何度となく繰り返すがいい。「私は神を信じています」。他の何を疑うにしても、常に神を信じるがいい。

 パウロの確固たる信仰の根拠は啓示にあった。というのも、彼はこう云っているからである。「すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています」。ということは、彼は神が彼に何かを告げられたと信じていたのである。彼は、彼に告げられた、ある「何か」を信じていた。ひとりの御使いがそれを彼に告げていたが、そうした連絡の経路を得たことで、彼をねたむ必要はない。書かれた神のことばは、他の何物にもまして、さらに確かな証しのことばだからである。ペテロとヤコブとヨハネが栄光のキリストを見た、あの聖なる変貌山に臨んだことばでさえ、真実の、純粋な、輝かしいみことばではあったが、ペテロによれば聖書に次ぐものなのである。「私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています」[IIペテ1:19]。――耳に聞こえたことばにさえまさる、確かなみことばである。何にもまして確実なのは、この霊感された《書》の啓示である。神のことばの霊感に難癖をつける人は、信仰の根拠そのものを放棄しているのである。優しい心をした方々。いずれにせよ、あなたや私は、神が私たちに何事かを告げられたと信じていると云える。というのも、私たちは聖書を、自分たちに対する――私たち自身に対する――神のことばとして受け入れているからである。私たちは、ある特定の章について、「これはユダヤ人のためのものだ」、と云うような輩ではない。というのも、キリスト・イエスにあっては、ユダヤ人も異邦人もなく[ガラ3:28]、約束はことごとく、キリスト・イエスにおいて「しかり」となり、「アーメン」となっているからである。それで私たちは、神に栄光を帰すのである[IIコリ1:20]。神の御霊によって礼拝をし、人間的なものを頼みにしない私たちこそ[ピリ3:3]、真のイスラエルである。私たちは霊感と啓示を信じており、それを自分の信仰の根拠としている。パウロと全く同様に、「私は、それが私に告げられたと信じています」、これこそ私たちのまぎれもない公言である。

 注意深く認めるべきことは、神と啓示の事実とに根拠を置いたパウロの信仰が、さらに先へ進んで、その啓示の絶対的な確実さを確信しているということである。「すべて私に告げられたとおりになる」。「すべて……なる」。あなたはこれを、神があなたに告げられた一切のことに当てはめて良い。神がいかなる約束をしておられても、また、その聖なるみことばでいかなる宣言を述べておられても、それはあなたに告げられた通りになる。さながら印刷機が紙を挟み込むと、活字がそれぞれの行と文字に自らの刻印を残していくように、神の永遠の目的と約束は、あなたと私の人生にその刻印を残し、主なる神が約束されたことを実際の事実で成就していくのである。私たちはみことばを試せば、それが真実であると証明する。私たちは約束が真実であると期待し、それがその通りであることを見いだす。「すべて私に告げられたとおりになる」。その章の終わりには、何の正誤表もない。何の校訂語句も、何の削除もない。神の書かれたことは神が書かれたのであり、その通りにならざるをえない。アウグスティヌスはその生涯の最後に数々の告白と撤回文を書いたが、アウグスティヌスの神はそうなさらない。最後の日に、歴史の巻き物が完結し、「―― 完 ――」と書き記されるとき、それはあらゆる点で神のことばの予測と一致しているであろう。神は云われたことを、なさらないだろうか? 約束されたことが成就しないだろうか?[民23:19] この天地は滅び去る。しかし、神のことばは決して滅びることがない[マタ24:35]。ここに信仰者の喜びがある。信仰者はこう云えるのである。「すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています」。

 パウロの信仰は、最もほむべきしかたで広々としたものであった。私は、あなたがた全員にこの事実を注意してもらいたいと思う。というのも、神のお告げによると、神は、パウロと同船している人々をみな彼にお与えになり、彼はそれを信じて彼らを慰めたからである。信仰が、神のことばと同じ程度の広さまで行きわたるというのは大きなことである。私の知っているある人々は、神から、「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」[使16:31 <英欽定訳>]、と云われて、「あなたも……救われます」、までしか達することがなく、それは彼らの信仰の通りになされた。だがしかし、彼らは他の二語、「あなたの家族も」を信ずることがなかった。では、彼らの子どもたちが成長し、その悪い素行によって彼らを嘆かせるとき、その原因は両親の不信仰以外のどこにあるだろうか? もし私たちが信じる思いをもってわが子のために祈っていないとしたら、彼らが救われなくとも何の不思議があるだろうか?

 これはしばしば起こることだが、ある約束を刈り込むことによって、私たちは、もしも私たちの信仰が《聖なるみことば》を完全に受け入れていたなら受けることができたはずの祝福を刈り取ってしまう。おゝ、恵み深い契約の中にある一切のことについて、広々とした信仰があればどんなに良いことか! あなたは、ある約束を長いこと眺めて、その中にあるすべてのことを見てとったことがあるだろうか? 単一の約束の中には、たといそれがほんの十数語の約束でしかなくとも、いかなる祝福の山が束にされていることか! 私は、自分の数々の苦難を一括りにしておくのを好む。あなたはそうしたことがあるだろうか? もしある人が九つや、十や、十二個や、十四個もの包みを持ち運ばなくてはならないとしたら、それはみな小さなものであろう。だが、それがその人にとって何の値打ちになるだろう! このかくしの中にはある包みがあり、あのかくしの中には別の包みがある。そして、それらはその人の手に負えない。至る所で転げ落ちるからである。もしその人が賢い人であれば、袋を見つけ、個々の品物を一緒にするであろう。確かに、それで少しも軽くなるわけではないが、ずっと持ち運びが容易になる。あなたの数々の苦難を1つの荷物にし、それからそれを主の上に転がし負わせるがいい。だが、あなたに対する数々のあわれみについては、正反対のことを行なうことである。その紐を切って、その包みを開くがいい。それで数が増えるわけではないが、それを数え上げ、1つずつ吟味するとき、あなたはより多くの喜びを感じるであろう。あなたの信仰が、約束の中に蓄えられている祝福の塊すべてをつかむように注意するがいい。そして、すべてあなたに告げられた通りになると信ずるがいい。

 さらに注意すべきことに、パウロがこのことを信じたのは、うわべを見れば、「私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」[20節]ときであった。パウロの信仰は、望みえないときに望みを抱いた[ロマ4:18]。《希望》が嘆き悲しみ、「私には足を休める場所[創8:9]も見あたらない」、というとき、《信仰》は大喝するのである。「あなたの翼を使うがいい」、と。信仰は、神のむき出しのことば以外に何もよりかかるものがないように思われるとき、喜ぶ。というのも、今や信仰は、外的な手段や助けによって邪魔されることなく、自らの《創造主》と交わることができるからである。主は世界を、ご自分のみことば以外の何によってもお吊り下げにならなかったではないだろうか? では、私たちは、自分の魂もそこに吊り下げて良いではないだろうか? 天の蒼穹のように、何の柱もなく、しかし全く動かされることなく、ただ見えない神だけに安んじて立っているのは壮大なことである。「だけ」、と私は云っただろうか? だがそれは、信頼に値する一切のものに安んじることではないだろうか? というのも、神はすべてのすべてだからである。

 この点を離れる前に、もう1つだけ注意したいのは、パウロが、このように、すべて自分に告げられた通りになると神を信じていながら、この信仰を非常に平明に、また、大胆に云い表わしたということである。彼は自分の確信を隠さず、自分と信仰内容をともにしていない人々の前でさえ、それをはっきりと公言した。彼らの共感を得られると得られまいとにかかわらず、彼ははっきりと大胆に語った。彼は、必要もなく自分の信仰を見せびらかすことによって、豚の前に真珠を投げはしなかった[マタ7:6]。だが、他の人々を慰めるために、それについて語ることが必要であったときには、一瞬もためらうことなく、むしろ、兵士たちや水夫たちの聞いている前で、「私は神を信じています」、と告白した。

 近頃の人々はすさまじいほどに慎み深く、神を誇りとすることを恐れている。神が私たちをそのような臆病さから救ってくださるように! 不信心はあらゆる街角で怒鳴り声を上げている。信仰が黙っていて良いだろうか? もしあなたが信仰者だとしたら、今のこの時には、あなたの信仰をはっきり宣言すべき重大な必要がある。不信仰が蔓延しているからである。高級紙の数々の書評を見るがいい。幾多の大衆文学を見るがいい。それらは最悪の種類の不信仰にまみれている。まことに悲しいことながら、――キリスト者と自称する人々が、不信心な諸原則を示唆し、広めるために自らの洋筆を貸し、講壇にすら立って、数々の真理に対する不信を吹き込んでいるのである。彼らが叙任されたのは、そうした真理を宣べ伝えるためであったが関係ない! 誠実は地から逃げ去ったかと思われ、人々は一切の良心を失っている。神を信ずる私たちは、すぐさまはっきりと語ろうではないか。たとい人々から了見が狭いとか、文化を持っていないとか、幅広い見解をいだくことができない連中だとか、他の結構な呼び名で呼ばれようとも関係ない。彼らが何と云おうと大した問題だろうか? 彼らが何と云ったり、あてこすったりしようと、私たちはいやが上にも強硬に、「私は神を信じています」、と宣言するようになるべきである。何と、今や何かを信じている人に出会うことはまれになっている。というのも、時代の高名な賢人は、こう云う人だからである。「私は特に何も信じていません。私は特定の見解をいだいていますが、喜んでその立場を変える用意がありますというのも、もう一方の側にもすぐれた点が多々あるからです」。これはキリストの行なわれたしかたではないし、古の時代の真実な人々のあり方に即してもいない。彼らは健全なことばを手本に[IIテモ1:13]、ひとたび自分の魂をとらえた真理のためには死をも辞さなかった。世界の歴史の中でも今こそ、いいかげんに、信仰者である者たちが全き確信をもって語るべき時である。何も恐れてはならない。神を信じることに、何か恐れるべきことがありえるだろうか? 真理の神に対する絶対的な信仰を認めることに、何か恥じることがありえるだろうか? 私自身としては、頑迷偏狭と嘲られる方が、「進歩的で自由主義的な見解」の持ち主として賞賛されるよりもましである。私が望むのは、むしろ正統信仰によって蔑まれることであって、「知識人」たちとともに王になることではない。

 II. このように私たちは、自ら公然と認める信仰者としてのパウロの言葉を熟考してきた。さて、今からは彼を、《大胆な預言者として》眺めてみることにしよう。

 私たちの中のいかなる者も、自らを預言者として立てようなどとすべきではない。というのも、そうしたものに私たちは召されていないからである。だが、真に教えを受けたキリスト者はみな、ある意味で預言者であり、真の方式に従おうとするならば、その信仰に応じて預言して良い[ロマ12:6]。パウロは自分の預言において性急ではなかった。彼は自分を啓示に限定した。彼は、「こうなる」、と云った。しかし、何がなるのだろうか? 「すべて私に告げられたとおりになる」。あなたは常にそこまでは行って良い。そうすれば、あなたは多くの人々にとって、不思議な人物となるであろう。たといあなたがそこまでしか行かなくとも、彼らはあなたがあえて、「すべて私に告げられたとおりになる」、と云うことに驚嘆するであろう。私たちは、彼らが推測するか夢見るしかないようなことを、はっきり云い切る。私たちは未来を隠している垂れ幕の背後を見ることはできない。だが、ある事がらについては何が到来するか知っている。神が私たちにすでに告げておられるからである。それゆえ、私たちは、神の宣言通りになると預言できるのである。パウロから学ぶがいい。増上慢な夢見る者となるのではなく、思慮深い話し手となることを。

 彼が予言したことに、彼は神の名誉を賭けた。というのも、彼は、「すべて私に告げられたとおりになる」、と云ったからである。しかし、なぜか。「私は神によって信じて」いるからである。もし神が信ずるに値しないものだとしたら、告げられた通りにはならないかもしれない。しかし、神のみことばは成就し、神の約束は守られるに違いない。神は真実な神だからである。決して、あなた自信の性急な主張によって、神の栄誉を汚してはならない。だが、あなたは常に、神ご自身の数々の約束や脅かしについては、神の信憑性を厳密に調べてかまわないし、神がご自分をも、ご自分のしもべをも正しいと示すために、すべてあなたに告げられた通りになるようにしてくださることは全く確信してかまわない。

 使徒が彼のこの預言を口にしたのは、その船の全員を前にしてのことだった。彼らのほとんどは不信者であったが、彼は彼らに向かって大胆に云った。「すべて私に告げられたとおりになる」、と。彼らの中のある人々は、身分において彼よりもまさっていた。――ローマ軍の将校たちだった。だが、彼は彼らに対して、「すべて私に告げられたとおりになる」、と云った。時として、上流社会では、自分より身分が上と考えられる人々の前でキリストを告白するのが難しいことがある。だが、主を信ずるいかなる人も恐れに屈してはならない。ダビデとともに云うがいい。――

   「われ告ぐ、汝言(みこと)を、王ら聞くとも。
    罪(あ)しき恥辱に 屈せじな」。

 パウロは、非常にがさつな人々の前で自分の信仰を公然と認めた。――利己的な水夫たち、残虐な兵士たち、犯罪的な囚人たちである。だが、それが何だろうか? 神に対する信仰を公然と認めることは、地獄のあらゆる悪鬼の前で行なってもかまわない。そして、天の御使いたちの前でも、それ以上のことは云えないであろう。いかなる場所であろうと、いかなる人々が回りにいようと、生ける神と、その御子イエス・キリストに対する信仰の証しが場違いになることはありえない。それゆえ、その証しをするのを恐れてはならない。愛する方々。神は信ずるべきである、というあなたの厳粛な確信を、この世に意識させるがいい。抗議し、そうすることで真のプロテスタント教徒として行動するがいい。キリストを告白し、そうすることで真のキリストの弟子となるがいい。預言者のように主の御名によって、主がそのみことばにおいてあなたに告げられたことを語るがいい。何者も恐れてはならない。神への恐れによって、他の一切の恐れを禁じられるがいい。

 パウロは、きわめて真実に、また、きわめて実際的に神を信じていた。そのため、彼の信仰の力は、彼の回りにいた全員に影響を与えた。たとい彼らが自分では信じなかったとしたにも、それでもこの嵐の中におけるこの平静な顔、また、パンを取って食べるよう彼らに命ずるその実際的な行動、また、小舟を切り離して水夫たちを船にとどまらせておき、船を操らせようとした常識的な処置、――これらすべてによって彼らは見てとらされたのである。彼が単に信仰について語るだけでなく、信じることを自分の人生の本質的な部分――指導者たるにふさわしいその常識の泉――としている人物であるということを。彼は、事務的にてきぱきと神を信ずる人のように行動していた。多くのキリスト者たちは、自分のキリスト教信仰を敬虔な虚構として奉じているかのように見える。神の種々の約束を、もてあそぶのに好都合な感傷癖とみなし、神の摂理を詩的な一観念とみなしているように見受けられる。私たちは、こうした悪しき流行から手を引かなくてはならない。神を私たちの日常の種々の計算式における最大の要因としなくてはならない。――私たちの人生の主要な力また事実としなくてはならない。私たちはみな、この確信に立って大胆に行動しなくてはならない。「すべて私に告げられたとおりになる」、と。

 パウロは、この間ずっと彼自らが苦難の中にいた。というのも、彼は、自分が慰めた人々とともにその船の中におり、同じ不快さに苦しんでいたからである。だが彼は云った。「私は神を信じています」、と。良い収入があり、良い健康に恵まれ、上機嫌にしている人が、どこかのあわれな、半ば飢えきった、病気だらけで今にも死にそうな婦人の傍らに腰を下ろし、「善良な婦人よ。あなたは神を信ずるべきですよ」、と云うのは全く非常に結構なことである。あなたは、陸者が、水夫たちに向かって、船乗りの心得を教えてやるなどという話を聞いたことがあるだろうか? 真の信仰とは沈没しつつある船の中にあって神を信じ、他の人々と同じ危険や苦難の中にあっても、彼らが恐慌に満たされているときに動かされずにいることである。いかに私は、あなたがたひとりひとりがこのことを信じられるようになるよう願っていることか!

 願わくは神があなたを、いくつかの点で預言的になれるほどに預言者としてくださるように。第一のこととして、神が信仰による祈りを聞いてくださると常に宣言することである。次に、誤った行ないは、その上に天来の祝福をとどめていることができないと宣言することである。この2つの事がらを云えるほどには預言者であるがいい。そして、これらをまぎれもない事実問題として、それに立って行動するがいい。あなたは、こうも予言できよう。すなわち、もし福音が真実に、また、単純に宣べ伝えられ、天から聖霊が送られているとしたら、それは魂を獲得するに違いない、と。あなたはそう預言して、決して外れることはないであろう。また、あなたは、世界最大の罪人もキリストのもとに来るなら赦されるし、いかに邪悪な心も《救い主》に自分をゆだねるなら更新されるし、これまで世に生を受けた中で最も反抗的で最もかたくなな人も、神の指に触れられ、悔い改めと信仰に導かれるなら、神の子らの中で最も輝かしい者のひとりになれると預言して良い。もしあなたがこのようなしかたで神のために語るなら、誰もあなたが偽りを語ったと証明してあなたに恥をかかせることはないはずである。ならば、はっきり語るようにし、罪深い沈黙を放逐するがいい。

 III. 使徒は第三の人格によって目されることができよう。《同情深い慰め手》としてである。

 彼らはみな苦難に陥っていた。みな溺死する危険にあったからである。この船はばらばらになりかっており、死は真っ向から彼らを睨めつけており、どの顔にも狼狽が書かれていた。だがパウロは彼らに云った。「皆さん。元気を出しなさい」[25節]。疑いもなく、彼の朗らかな調子と男らしい声は、彼らの恐れを追い払い、恐慌を防ぐのに役立った。愛するキリスト者の方々。私たちがどこにいようと、苦難に遭っている人々を幸せにすることに、私たちは努力すべきではないだろうか? 神を愛することに次いで、キリスト者の第一の義務は、地に平和を広め、人々に善意を及ぼすことである。私たちは、苦難のうちにある人に出会うときは常に、――私は、霊的苦難についてだけ語っているのではない。――救援を差し出すべきである。一銭玉をなくした子どもに出会うか、水差しを壊すかした子どもに出会ったときでさえ、喜んでその悲しみを鎮めてやるべきである。その子の母親はその子を叱りつけるであろう。ならば、できるものなら別の水差しを買ってやおり、その小さな心を努めて朗らかにしてやるがいい。ほんの数銭でも、それをあわれな子どもたちのために費やすとしたら、どれほど大きな幸福をあなたは買えるであろう。

 金銭が必要ないところでは、あなたは同情と慰藉を与えることができ、それは大いに尊ばれるであろう。自分は慰め手として働くことができませんなどと答えてはならない。そのすべを学ぶがいい。たとい話すことがうまくなくとも、話し言葉にまさる道がある。ある小さな子が、あるとき母親にこう云った。「母さん。あたし、後家のブラウンさんとこに寄ってきたの。そしたら心が慰められるって仰ったの」。「おや、ならば、そうなんでしょうよ」、と母親は答えた。「けど母さん。あたし、ブラウンさんには、ほとんど何の役にも立ってないと思うわ。だって、あたしは何もお話しできなくて、ほっぺたをブラウンさんのほっぺたに寄せて、ブラウンさんが泣いてるとき、あたしも泣いたの。そしたら、それがブラウンさんを慰めてくれるんですって」。まさにその通りである。この小さな子どもが私たちの指導者となるべきである。ここに知恵がある。「泣く者といっしょに泣きなさい」[ロマ12:15]。それ以上にうまく、そうした人々を慰藉することはできない。他の人々を、あなた自身が神から慰められている慰めで慰めるがいい。パウロはこう云ったからである。「元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています」。彼はすでに主から慰められていた。そして、その慰藉によって他の人々を励ますことができた。願わくは、いかなる種類であれ患難のうちにある人々を見つけ出そうとする恵みが私たちに与えられ、その人たちの心を励ますことができるように。だが、私たちは、霊的な苦悩のうちにある人々がいないか二倍も目を光らせていよう。私たちの近隣にいる人が、誰ひとりとして、「私の魂については、誰も気を遣ってくれない」、と不平を云わないようにするがいい。神の民を慰め、それと同時に罪人たちをイエスにかちとろうと労苦するがいい。そうすれば、あなたの心の愛によって、あなた自身の胸には云うに云われぬ数々の祝福がもたらされるであろう。幸福には伝染性があり、あなたの敬神の念の朗らかさがしごく魅力的なものとなるため、無頓着で無関心な人々も敬神の道へと誘惑されてくるであろう。種々の悪い知らせに走り回ってはならない。むしろ、あなたの会話を喜ばしいものとするため、救いの嬉しい訪れを、あなたの朗らかな日常の話に混ぜ合わせるがいい。そのようにして、あなたは、あなたの主とその使徒にならって、こう云うべきである。「元気を出しなさい」、と。

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暴風の中のパウロ[了]

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